始まりはいつもトレンディ
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ハードボイルドな俺は、いつも朝はコーヒーから始まる。
小鳥のさえずりを聞きながら、コーヒーを入れるために準備をし、ポットを持ってお湯を注ぐ。
ゆっくりと回しながらお湯を入れる。このひと手間で、コクを出すんだ。
グリッドの後ろから女のあくび声が聞こえる。振り返ると、そこには昨日寝た女が居た。俺のコーヒーで起こしちまったようだな。金髪の、名も知らない女が話しかけてくる。
「ねえ、もう起きたの? 早いのね。私、今日も時間あるから、どう?」
「すまないが、今日は予定があるんだ。お前も飲むか、コーヒー」
「私、ミルクがないと飲めないの、ごめんね」
「素直じゃないな」
コーヒーをカップに注ぎ、それを持って机に向かう。コーヒーを置いたところで、金髪の女に抱き着かれる。
「やっぱり、もう一度だけ……いいでしょ?」
「ったく……悪い子だな」
二人で近くのソファに倒れこむ。少しじゃれついた後、いつものやり方に入る。
セックス革命——俺の能力だ。
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「……どんな能力だよ」
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一度俺と絡めば、瞬く間に女になっちまう。どんな強情な女でも、これを使えば一発さ。コーヒーが冷めることは、決して無い。
暫くして、ひと仕事終えた後、コーヒーを飲む。やっぱりキリマンジャロ産はいい。
「はあ、もう十分だわ。最高」
「あいつはそのマンションで間違いないんだな」
「ええ、同業者がそこで出入りしてるもの。この名刺を受付に見せれば通してくれるわ」
金髪の女が名刺を渡してくる。真ん中に不思議なマークが書いてある。
「どうも。俺は名刺は持ってないんだ」
「あなたはこの辺りじゃ有名でしょ? 『コーヒーは不味い』グリッドさん?」
「そいつにあったら教えてやれ。『壊れていないものは直せない』ってな」
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「気持ちわりいな」
何度も見た映画だった。主人公は良く『へま』をするくせにセックスだけは上手い。そんなバカらしさが気に入っていた。秘密結社を突き止めるというメインストーリーはこれでもかというほどつまらないが、出て来る女は毎回かわいかった。
有岡大貴、35歳。
同棲中の彼女はいたが、昨日帰ってきたら机に、
「出て行きます。」
とだけ書かれたメモが置いてあったので、多分逃げた。
給料日前まではパチンコで金を溶かして、カップ麺で乗り切る生活をしていた。それも昨日で終わった。仕事を辞めたから。
現場でひと悶着起こしたら自分から辞めるように言われた。むしゃくしゃして、辞めてしまった。あいつ、仕事辞めたことまだ言ってねえのにいなくなりやがって。
「あーあーあー、つまんねえなこれも」
テレビを消す。現在の預金残高を見るために引き出しの中を確認してみるか。確か今月は勝ってたからまだ余裕あるはずだよな。失業保険も、めんどくさいけどやるしかないよな。
そんなことを思いつつ、通帳を開く。あれ、なんだこれ。全然無いじゃねえか。あいつ、金持ってったのか。
「……ああ、くそ!」
ゴミ箱を蹴り飛ばした。
煙草を買いにいつものコンビニまで歩く。もう寒くなってきたな。ポケットに手を突っ込み、不貞腐れて歩く。窓に映った自分をふと見てみると、ひどい顔をしていた。
「……俺こんなに蟹股だったのかよ」
もう何もかもが面倒になってきたな。きっと俺はこの後煙草を買って、パチンコ行ってヘル呼んで帰るんだろ。良いことねえじゃねえか、俺の人生。これで良かったのかよ。
もっと何かできたんじゃねえのか。世のためになることとか、何か。凄いことは自分には関係のないことだと思ってたけど、もしかしたら俺にも、人一人くらい救えたのかもしれないのに。
35歳。人間引き返せる限界だ。もうやり直せるのは今しかない。嫁も仕事も、何もかもなくなって、自由になった今しか。
だけど結局、やらないんだろうな。何も持ってない。自分には才能がない。時間もない努力もできない。そうやって何か言い訳決め込んで、死んでいくんだ。
あーつまんねえ。これじゃなかっただろ。俺の人生。
コンビニに入って、店員にいつものたばこを頼む。何となく店内を見まわしてみたら、何人かの中学生ほどの少年たちが居た。漫画を見ている。
その時、一人の少年が目に飛び込む。周りの少年が壁を作っていたが、間から少しだけ、腹に漫画を隠す所が見えた。その少年は明らかにそわそわして、お腹を抱えていた。その集団が、そそくさとコンビニを出ようとする。……なんだよ、なんでお前らそんなことするんだよ。
「おい、待てよ」
お腹を抱えた少年の肩に手を置いてつぶやく。
「腹に入れてるもん出せ」
すいませーん。と店員が俺らを呼んでいるが気にしない。先に周りの少年達は逃げ出して、お腹を抱えた子だけが取り残された。その子は怒り気味に、少しうるんだ目で、
「なんだよ、冗談じゃねえかよ」
といって、漫画をこちらに投げて出て行った。
なんでお前らがそんなことすんだよ。違うだろ、それはよ。
そんなことする奴は、人生に嫌気がさしたジジイだけでいいんだよ。もっとやることあんだろ。子供なら。
お腹に漫画を抱えた少年に、なんだか同情している自分が嫌だった。
「わ、大ちゃん? 久しぶりだ」
漫画を棚に戻した時に、一人の女性が入ってきた。
赤いコートに、ブラウンの髪をした女。ミディアムで飾り気がなくて、いまだに冬になるとチェックのマフラーを巻いて、俺のことを大ちゃんと呼ぶのはこいつだけだ。
「ユリ」
「やっぱり大ちゃん、変わってない」
「何が」
「あの子供のこと。注意するところとか、すぐ帰しちゃうところとか、全然変わってない」
「子供がああいうことするのは駄目だろ」
「そういうところも」
コンビニから出て少ししたところで、二人で並んで歩く。二つ買ったホットコーヒーの一つを、ユリに渡して、手を温める。
「正義感が強いところは、昔と変わらないね」
「ユリだって、マフラー。ずっと同じじゃねえか」
ユリがマフラーを触る。なんでそんなことできるのか、俺には分からない。
「だって、大ちゃんのプレゼントだから、そりゃ大切にするよ」
「もっとオシャレなのあるだろ」
「今日はこれの気分だったの」
横で楽しそうに笑っている。こいつといると俺の調子はくるってしまうのに、横で笑っていられると、なぜかどうでもよくなってしまう。ここは、あの頃と変わらない。
右手に指輪をはめていることや、薄い赤をした口紅を塗っているところ以外は。
「なあ、今から家寄らないか」俺は言う。
「え、でもお嫁さんいるんでしょ?」
「ああ、……今日はいないんだ。映画一人で見るの寂しくてよ。久しぶりに見ようぜ、『フルートピア』」
高校生の時一緒に見に行った映画だ。あまり映画を見る趣味はなかったが、どうしてもユリが見たいというから見に行った。
この頃から、映画をちょくちょく見るようになった。
「あー、懐かしかったー! 意外と覚えてたなー、なのに、感動しちゃった」
「確かにな。でもあの俳優、あんなにやせてたか? あの人、年々太っていくからさ」
ユリが笑った。口元に手を寄せながら、カラッと笑う。
その後に、優しい目をしてこう言う。
「ねえ、もう映画は作ってないの?」
「……ああ」
なんで、なんでだよ。作ってるわけねえだろ。現実見てねえのかよ。
「もったいないなー。私好きだったのに、大ちゃんの作る映画」
「俺なんかより、すげえやつたくさんいただろ」
「でも、大ちゃんの映画が、いちばん優しかった。優しくて、綺麗だった」
何がだよ。汚かっただろ、あんなの。ストーリーもめちゃくちゃで、爪も甘かっただろ。
「……なあ、ユリ」思い出したように呟く。
「ん?」
「……ちょっと、見て欲しいんだけど」
ガサゴソと汚く積んであったものから、パソコンを取り出す。
「実は、ちょくちょく作ってたんだ。見てくれよ、短いけど」
ドカっと机に置いて、パソコンを開く。数分の物から、数十分ほどの長さまで、作ったままで放置していたものがある。本当は誰にも見せるつもりはなかった。批判されるのが嫌だった。でもこいつなら、ユリなら、きっとほめてくれる。
いざ再生ボタンを押してみたら、自分でも少し懐かしく思えた。さんざん専門学生に声をかけて回って、やっとのことで作り上げたものだったから。映画というにはおこがましすぎるけど、思い入れはあった。
ユリはじっと、映画を見ていた。こうしてみると、なんだか昔に戻った気がした。映画好きで集まって、ぼろぼろのアパートで借りてきた映画を見ながら、ああでもないこうでもないと話していた時を思い出してしまった。
ああ、あの頃に戻らねえかな。ああ、無理か。
ユリの隣に座って、奥の肩に手をかける。様子を見た後、手を腰まで下げようとしたが、やはりやめた。もうそんな年ごろでもない。子持ちに手をかけるほど、落ちぶれたくはない。
「なあ、どうだ? こいつ、いい声しててよ。本当は2シーンだけだったのに、増やしちまった」
「……うん。やっぱり面白い」
ユリは思ったよりも落ち着いた声で言ってきた。もっとダメ出しでもされると思ったが。
「案外悪くないだろ。もしかしたら、今頃大成功してたかもな」
なんだこの言い方、だっせえ。こんな形でしか見せられないなんて、カッコ悪い。そんなもんだったのかよ、俺の映画って。
「……ねえ、まだ間に合うんじゃない。私、結構本気だよ」
「……やめてくれ」
もう諦めた夢なんだよ、これは。割と時間もかかったけど、諦めたんだよ。情熱だって、昔よりは無くなってる。今更、俺の前にいきなり表れて、なんでそんなこと言うんだよ。
35歳は、人生をやり直す最後のチャンス。そんなことわかってんだよ。
「また見に来るよ。その時に、また新作見せてね」
「……ああ、気が向いたらな」
作る気もないのに、そう答えてしまった。
「じゃあね。私、もう行くから」
「……ああ、またな」
かなり夜も更けてきて、さっきよりも寒くなった。車もそれほど通らなくなってきたし、歩いてる人もそんなにいなくなった。歩道の横にある植えられた木に、イルミネーションが飾られてある。そのイルミネーションが、やけに寂しく見えた。
「……俺も帰るか」
何やってるんだ俺は。最後のチャンスだってのに。もう会えないかもしれないのに。俺が変わるきっかけは、もう来ないかもしれないのに。
昨日とそんなに変わらない日常に、もう帰るしかないのか。
「……こんなもんだよな」
そうだよ。たいていの人間はこんなもんだ。夢半ばで敗れて——あるいは半ばもいかないで、どこかで踏ん切りつけてまた歩いていくもんだろ。ほかの奴とそう変わらない。それなりに。……それなりに、何とかやってこれたじゃねえか。今まで。
とぼとぼと歩きだす。一度歩き出す足はそうは止まらない。一歩、また一歩と勝手に、後悔を感じていながら、前へ進んでいく。手も足も寒くて、ポケットに突っ込んだ手で姿勢は崩れ、薄っぺらな生地から両手は居場所を探していた。
——ああ、前じゃなくて、戻ってんのか、後ろに。
「あの」
誰かが呼んだ。俺のことを。声のしたほうへ振り返ってみると、さっきの漫画を盗もうとした少年が立っていた。その目元は少し腫れていて、手は震えていて、寒そうだ。
「あの……すいません。ありがとうございました」
「……」
やめろよ、お前を救うためにやったんじゃねえよ。どうしてみんな、俺を誤解してるんだよ、俺は、お前ら以上に迷惑かけてきたんだよ。
「あの、俺、あの後凄く後悔して。軽い気持ちだったんだけど、なんかイライラしてて。ほんとに、ありがとうございました」
くそ。なんなんだよ。くそ!
「……素直じゃねえな。……もうやんなよ」
もうやんなよ、俺。
もう言い訳すんなよ。もうやらない後悔をすんなよ。もう、自分のためだけに生きるのは止めろよ。俺の作品で、一人でも喜んでもらえるなら、そいつのためにも必死こいてやれよ。
——なあ俺、救えたじゃん。一人。
走り出した。柄にもなく。こんなに一生懸命走ったのはいつ以来だろう。でたらめで、粗末な映画でも、最後まで見てくれたのはいつ以来だろう。いつも最後まで目を離さないで見てくれたのは、誰だっただろう。
お前だよ、お前。全部お前だったんだよ。あの頃から、映画を見にあったあの日から、ずっとお前のために映画作ってたんだよ。お前なら喜ぶかな、笑ってくれるかなって!
少し遠くに、赤いコートで、チェックのマフラーをした人が立っている。さっき別れたはずのところで。
「ユリ!」
「大ちゃん!? どうして?」
驚いた顔でこちらを振り向く。イルミネーションとともに映るユリは、あの頃と全く変わらない。
「俺、映画作るから! 本気で、もう一回!」
それを聞いたユリは、
「……うん、待ってる! ずっと待ってるから!」
と言った。その声は少し、潤んでいるようだった。
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「グリッドさん、まだですか? もう行きますよ」
「……んん? ああ、そうか。寝てたみたいだ、俺」
「まったく、全然起きないんですから、グリッドさんは」
支度をして、準備を終えて、コーヒーは飲まないまま、外に出る。
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あの映画はこんな終わり方をするんだ。
女もコーヒーもいらなくなって、側に相棒だけが居てくれる。
俺は結局クズ男のままだったよ。
ありがとうございました!
今後書きたい異世界先生ものの、プレストーリーというか回想譚といいますか……
そういったものにしたかったのに、いつの間にかおじさんが更生していました。