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誰も動かなかった。
アリーシャは必死に考えていた。この状況からどう抜け出すのかを。
「ずっと考えていました。あなたに嫉妬する気持ちをどうしたらいいのか。でもどうにも出来なかったのです」
強い力で頬にシュティーアの手が添えられ縫い針は眼前にある。
淡々とシュティーアはアリーシャに視線を固定したまま語りかけた。
「あなたの才能が憎いし、カイウス様の十五年を奪ったあげく庇護され今後は開けた未来しかないあなたと、この謹慎を解かれた後は実家に戻され後妻として嫁ぐしかないわたくしと」
不平等ではありませんか。
シュティーアは淡々と訴える。
「教皇様に言われましたの。アリーシャへ危害を加える恐れがあるならば神殿には置いておけないと。わたくしの中の嫉妬の気持ちが消えていないことを悟られておいででしたからそう警告されたのでしょう」
でもね?今更実家に戻されてどうなるとお思い?
婚期も逃している。貴族の令嬢らしい技能は持っていない。そんなわたくしに居場所などありはしませんわ。
きっと、一番高くお金を出して下さる貴族に嫁がされるだけよ。
シュティーアの表情は凪いでいた。
「おかしいでしょう?実家から名誉のためにと神殿へ送られ俗世と縁を切ってまで神殿での修行に邁進したのに。婚期を過ぎてもなおカイウス様を待っていたのに、あなたが来てそれを全部邪魔したのよ」
アリーシャの目を今にも刺してやるという気迫だけが伝わってくる。それほど恨まれていたのだろうか。
こんなことをしでかすくらい嫉妬されていたのだろうか。
「シュティーア殿。そんなことをしても意味などありませんよ。むしろあなたの罪が増えるだけです」
先生の冷静な声がシュティーアへ届く。
「そんなこと、やってみなければ分かりませんでしょう」
うふふ、となぜか微笑むシュティーアはちらと先生の方へ視線を向けた。
「ねえ、カイウス様。あなたの大事な大事なアリーシャを傷つけられたくなければ、わたくしと結婚して下さいな?」
何を言い出すのだと思った。
思ったのはアリーシャだけではなかった。
「シュティーア!あなたそんなことを…」
「キャトルーは黙って。わたくしばかり損をするのはおかしいと思わなくて?わたくしの方が先にカイウス様を好きになったのよ!それをこんな子供がギフトを持っているからと大事にされてわたくしは見向きもされなかった!憎いに決まっているじゃない!」
突如として大声を出したシュティーアは、肩で息をして目をギラギラと光らせていた。
先生が小さくため息をついた。
「シュティーア殿。そこまで私のことを?」
「ずっとずっとお慕いしておりましたわ。もう何年も」
やめて。
私だって何年も先生が好きだった。
自覚したのは最近だけど、誰よりも好きなの。
「…では取引です。アリーシャを今後一切傷つけないと誓えるのならば結婚を承諾しましょう。アリーシャの身も心もですよ」
その瞬間、シュティーアの瞳は歓喜に輝いた。
そしてアリーシャは奈落の底へと落とされたのだった。
どん、と肩を乱暴に押されアリーシャはあっけなく後ろに転ぶ。
キャトルーがすぐさまかけ寄ってきて、大丈夫?と肩に手を添えた。怪我はないかと心配してくれるのに何も答えられなかった。
頭の中が真っ白になって今、聞いたことが信じられなかった。
床に座り込んだまま動けないアリーシャがのろのろとシュティーアを見上げると勝ち誇った顔をして笑っていた。
「子供は子供らしくすることね」
「シュティーア!あなた女神のお膝元で何てことを…。この振る舞いはあなたに災いをもたらすでしょう。許されることではありませんよ」
「正論は聞き飽きたわキャトルー。でも許してあげてよ。だってカイウス様を手にいれたもの!」
笑いだしたシュティーアは儚げな姿ではなくどこか現実的で、血の通った生身の人間らしさをさらけ出していた。