雛の歌姫 4
朝から家の中は忙しなかった。
いつもなら兄弟の中で一番に起き出して朝食の用意を手伝うのだが、今日は違った。両親も起こしに来ない。
窓の外は薄青く滲んでいて薄暮のようにも思える。
隣で眠っていた妹のエミリーが無邪気な寝顔で寝返りをうった。この子は寂しがり屋で、働く両親に代わって家事をするアリーシャの傍にいつもくっついていた。
エミリーの髪をそっと撫で温かい体温に愛しさが広がる。眠る時も必ず隣に陣取って歌をせがみ、秘密の話をしたりして双子のエリックとケビンにうるさいと怒られていた。兄弟姉妹7人、いつも子犬のようにくっついて体温を分け合って眠ったが、それも今日で見納めだ。今夜からアリーシャはいないのだ。
エミリーは眠れるだろうか。しっかり者のソフィアが面倒を見てくれるだろうけど、とそこまで考えてやめた。アリーシャがいなくても、多分どうにかなる。考えなければならないのは自分のことだ。
何せ前途は閉ざされ絶望しかないのだから。
別れはすぐ傍に迫っている。
※ ※ ※
まだ朝も早い時間だというのに、村の入り口には多くの人が集まっていた。
アリーシャが家族に囲まれるようにしてそこに辿り着くと、簡素ながらも馬車が用意されていた。
行商のおじさんがいち早くアリーシャの元へやってきて、体調はどうだ?と訊ねたがアリーシャは緩く首を振っただけだった。
「これだけ綺麗なんだ。きっと街一番の売れっ子になるぞ。今回は神殿に騎士様を派遣してもらって護衛を頼んだんだ。街まで無事に送り届けるから安心してくれ」
饒舌に両親に話しかけるおじさんの言葉をぼんやりと聞いていた。
護衛を雇うには幾通りかの方法があるという。
面識のない傭兵を仲介してもらうか、神殿へ要請を出すか。あるいは街の自警団か。
自警団は頼りになるとは言い難い。
傭兵は迅速に手配されるが値段相応。
神殿は申請が通るのに時間がかかる。
今回は運よくすんなりと申請が通ったそうだ。
おじさんの言葉に、きらきらとした鋼の鎧をまとった数人の騎士がいることを知り、ここにルイスがいれば喜びそうだなと冷えた思考で思った時だった。
「アリーシャ!!」
カイウス先生が普段からは想像もつかない速さで走ってくるのを集まった村人たちも注視した。傍にはルイスが一緒に走っていて、遅れてビルが続いている。
ルイスが息を切らしているのに先生はそのまま平然と両親に問い詰め始めた。
「これはどういうことです!?」
先生の剣幕に圧されてぼそりと父が答えた。
「売られることになったんだ」
その瞬間の先生の剣幕にはアリーシャも驚いた。鬼の形相とはこのことだ。村人たちも静まり返り、そこは恐ろしいまでの緊張感が漂っていた。
「神殿にあげると決まっていたのではなかったのか!それをこんな・・・!!!」
怒りのあまり先生の言葉が途切れ、びりびりと音がその場を威圧した。
そこへ村長がゆっくりと村の役員を引き連れてやってきた。
「準備は整ったか?」
先生が即座に村長に噛みついた。
「なぜアリーシャ一人がこの村の犠牲にならねばならないのです!?」
「仕方なかったんじゃ。もうこの村にいつ死人が出てもおかしくはないところまで飢餓はきておる」
村長は静かな声で答えた。
「私は神殿からの支援を取り付けるから待ってほしいと以前言ったはずだ」
「それは有難いと思うておる。しかしいつまで待てば支援がくるのか分からん現状ではもはや猶予はない」
そうして村長はアリーシャに向き直り、深々と頭を下げた。村の役員も一緒になって頭を下げていた。
「アリーシャ、すまん。お前も村の現状を理解しておるだろう。どうか聞き分けてくれ」
どよめく周囲に怖じ気づいてエミリーの小さな手が、アリーシャのスカートをぎゅっと握っている。普段は騒々しいエリックとケビンでさえこの場の雰囲気に何も言わず口をつぐみ、ルーシーと一緒にアリーシャの傍にくっついてそれぞれの顔を見回していた。
やがてゆっくりと頭をあげた村長はもう一度、すまんと呟いた。
先生はまだ怖い顔のまま、アリーシャに近づいてきてそっと労わるように優しく抱きしめて耳元で小さく囁いた。
(諦めずに待っていてほしい。必ず助けに行くから)
目を見開いたアリーシャに先生は優しく微笑んで頭を撫で、村長に向き直った。
そして朗々と辺りに聞こえるような声で言ってのけた。
「村長、あなたの判断には言いたいこともありますが今は黙っておきます。私はこれから単独でこの村を離れ、神殿へ向かいアリーシャを救う手筈を整えこの村への支援も至急取り付けてきます。そうなったら、アリーシャを神殿へあげても異論はありませんね?」
村長はあっけにとられ、そんな奇跡みたいなことが出来れば苦労せんわいと憎まれ口を叩き、準備を急がせた。馬車にアリーシャの小さな荷物と水や食料が最低限積み込まれていく。
アリーシャも家族との別れを急かされ、馬車の方へと急き立てられた。
妹たちは目に涙をいっぱい溜めて両親に押しとどめられ、弟たちは唇を噛みしめていた。
何と言えばいいのか分からず、アリーシャはそっと顔を伏せ家族に背を向けた。馬車に乗せられドアを閉められたが、村の様子を見ようと窓を開けた。
先生はルイスとビルを連れて騎士たちへと話しかけていた。
「・・・いきなりその子を連れて行けと言われましても困ります」
少し怒ったような声色で一人の騎士が言った。
「我々に下された任務は少女の護衛であって、その子を神殿へ送り届けることではありません」
先生はいつものように背筋をぴんと伸ばして穏やかな声で彼らを見つめて言った。
「神殿騎士になれる素養のあるの子供を発見保護した場合は、いついかなる時も迅速に確保すべきであり推薦者カイウスの名の元にこれの遂行を命ずる」
「・・・まさかカイウス殿!?教皇補佐の座を蹴って辺境の守護へ行った?」
騎士たちがざわめきひどく驚いている。
先生は変らない姿勢のまま彼らに対峙している。
次の瞬間、六名すべての騎士が一斉に膝をつき頭をさげた。
「失礼をいたしました!ただちに保護し任務を遂行致します!」
「よろしく頼みます。この子は力も体力もあるし馬にも乗れる。足手まといにはなりませんよ」
先生はルイスの背をそっ馬車へと押しやった。ルイスも一緒に行くらしい。
ルイスは騎士たちに向かって勢いよく頭を下げて場違いなほど朗らかに宜しくお願いします!と言って遠慮なく馬車のドアを開けて入ってきた。
「心配すんなって。先生が何とかしてくれる」
ルイスはアリーシャの顔を見るなりそう言って隣に座った。
いつものように端正な顔に自信に溢れた笑顔。
たったそれだけでアリーシャは安心してしまった。ここ数日家に閉じこもったきりだったことが心を不安定にしていたらしい。家族は妙にアリーシャに気を遣っていたしその話は話題に上らないように両親が目を光らせていたせいで、まだ幼い弟妹たちは訳が分からないまま別れを告げることになったのだ。
やっと自由に話して良いのだと分かると涙が溢れ出た。
理不尽に自分が犠牲に選ばれたこと。
誰も、両親ですらかばってくれなかったこと。
村長や行商のおじさんに文句さえ言えなかったこと。
そう、自分は悔しかったのだ。
何も出来ない自分でさえ憎悪の対象になって感情に蓋をしたまま過ごした数日。苦しかった。誰かに慰めてもらいたかった。優しい言葉が欲しかった。
ちょっと困った顔をするルイスに、涙が止まらないままアリーシャは聞いた。
「・・・なんでルイスは一緒に来てくれるの?」
「アリーシャ一人じゃ寂しいだろ」
くれたのは簡潔な答え。
ほんの少し照れ臭そうに。
そこへ扉が開いて、行商のおじさんも乗り込んできた。
「まったく。急にもう一人連れて行くだなんて聞いてないしあの先生にも困ったもんだ。余程アリーシャのことが可愛いんだな」
よっこらせ、と前の席に座りルイスをしげしげと眺め、その口から出たのはお説教。いわゆる邪魔をするなというものだった。
その最中に馬車が動き始め、ルイスはおじさんを無視して窓から村のみんなへ手を振った。
「ほら、アリーシャも家族の顔みとけよ」
そう言って強引に窓へと引き寄せられたアリーシャが見たのは、顔を真っ赤にして泣く幼い弟妹たちだった。
怒ったような大声でアリーシャの名前を叫ぶジョンが見えた。ソフィアが馬車の後を追いかけ始めていた。
引っ込みかけていた涙がまた溢れて、何度も涙をぬぐいながら見えなくなるまでアリーシャは手を振った。
もっと一緒に居たかった。あの家で弟妹たちと過ごした思い出が胸に押し寄せてひとしきり泣いた。
アリーシャが落ち着いた頃合いを見計らって、おじさんが今後の日程を教えてくれた。
同じ馬車の中で鬱々とされるのが嫌だったのだろう。
今日は急ぎ町を二つ越え、野宿になるが明日は宿場町の宿に泊まって名物を食べさせてくれるという。
道中は出来るだけ大きな町に泊まること、どこそこの名物は焼いた鶏だとか酢漬けがひどい匂いだとか面白い話もたくさんしてくれた。
最後に娼館に着くのに一週間かかると言われ、なんとなくほっとしたアリーシャだったが、おじさんが娼館の話を始めたのでその話はしないでほしい、と涙で腫れぼったくなった目で訴えた。
本当にルイスが一緒に来てくれて良かった。
顔見知り程度のおじさんと一週間も同じ馬車で過ごさなくてはならないなんて息がつまる。
護衛をしてくれる騎士だって知らない男の人ばかり。
売られたという現実が重くのしかかり周囲の男性を警戒するストレスになっている。
アリーシャだって年頃だ。恋に憧れてもいた。誰かに恋をしたり、愛を乞われたりしてみたかった。
でも村では難しかった。
ギフトを持って生まれたせいで、同性の女の子たちは皆アリーシャを遠巻きにしていたし、男の子たちは幼い頃はアリーシャをからかったりいじめたりしたがやがて誰もがそっけなくなった。
そんな中で同じギフトを持って生まれたルイスとビルだけが仲良くしてくれた。大きくなってからも変わらなかった。
心を許した友達が彼らだけだったことがアリーシャの恋愛を少し難しい物にしたことに気付かぬままここに至ってしまったのである。
彼らは優しくて強くて賢くて、ギフトを持った者同士の連帯感と苦労を誰より分かってくれる。一緒にいて居心地がいいのは当たり前だ。それを越える恋人など出来ようはずがない。