兄の追憶
夢島結鶴はペンネームなんて洒落たモノは無かった。彼の書いた童話は誰かに読まれるためのものでなく、己の心の中で整理するものであったから。己を追い詰めるものであったから。今から始まるのは、そんな彼の歩んだ道の物語
結鶴の母親は精神的に狂ってしまった人だった。旦那を愛した為に義理の息子の弟夢島千鶴の首絞めた。その人は取り押さえられたあと幽閉され、ずっと私だけを愛して…愛して……ってと部屋で呟き続けた。ある日結鶴は幽閉された母親の姿を見る。なんでそこまで愛に執着するのかよく分から無い。あんなに苦しんでいるのなら、そんなに重いものを背負ってまで募るのなら、僕は愛は要らないなと幼きながら思ったのだ。別に愛されないのは嫌じゃないし、可愛がって貰えるのは嬉しいけれど、焦がれてまで執着してまで愛するなんて無理だ。自分は気楽に生きよう。そうだ、それがいい。
きっと僕の生きている世界は温かくて優しい世界なんだ。だからこれ以上望まなくていい。今が一番良い。僕は大きなうちの跡取りだし、容姿も母親に似て悪くは無いみたいだ。そのお陰か人が寄ってきて孤独は事など決して無かった。だから、僕は…俺はこれ以上もこれ以下も何も望まない。
そう思って生きてきた。生きてきたんだ。
でも、弟の存在を知ってしまった。彼はとても飢えた目をしている。この世を恨んだような瞳をしていて光が無かった。同じ兄弟なのになんでこんなにも愛に飢えた顔をするのだろう。若かりし結鶴にはそれがわからない。
わからない。いや、わかろうとしなかったのかもしれない。愛に飢えた顔は己の知らない恐怖で満ち溢れていた。嗚呼、弟は今暗い闇の中に漂って居るのだ。そう理解しをしたつもりでいた。だから、弟に話し掛けた。初めまして、と。
弟はうんともすんとも言わなかった。可愛らしく後をちょこちょこと付いてくる妹とは違った。幼くして全てを諦めた様な子供だ。そしてふと、結鶴は気がつく。弟の首に優しく白く巻かれた包帯に。その包帯に触れようとした時彼は豹変する。それはまるで威嚇する獣の様だった。いや、正しく獣だ。弟はこれに触れるな、と言うのだ。結鶴はそんなに真剣な顔してどうしたんだよと薄く笑う。そして、唯の包帯に何を執着しているんだと問いかけた。
執着じゃない。これは、これは僕にとっての愛なんだ。沢山愛された君にはわからないだろう。沢山持っている君にはわからないだろう。これは、これはね、僕にとっての唯一縋れる愛なんだ。そう言われた。嗚呼、弟も執着する側の人間なのかと、幼きながら結鶴は初めて弟という人間を知る。
なぁ、御前愛は良いもんじゃねぇぞ。愛っていうのは人を駄目にしちまうんだ。そう、まさしく俺の母様みたいな奴だな。だから、愛に執着するもんじゃねぇよ。まあ、でも、そんなに愛が恋しいんなら兄ちゃんが相手してやる。そう、伝えて頭を撫でた。そしてゆっくりと抱き締めた。弟は訳がわからないと混乱して思わず涙を流す。頭を撫でられたのも抱き締められたのも記憶の中では初めてだからだ。でも、弟が愛の呪縛から解き放たれる事は無かった。決して無かったのだ。
月日が過ぎて甘えるまでは言っていないが適度に弟と話すようになった。包帯はまだ取れていない。いつまで付けてるんだと聞いたら締め付けられてる方に慣れたらしい。余り関心はしなかったが、御前は御前だもんなと頭を撫でた。頭を撫でられると表情は変わらないが少し嬉しそうに見えるのが嬉しい。
もし、人を愛するのならこれくらいの距離がちょうど良いのだろう。きっと踏み出しては良いものではないのだ。弟がそこまで愛に飢えるのなら生暖かい世界で微温湯に浸らせていれば良い。そうすればいずれか此方にも慣れるのだ。あの、狂ってしまった生き物を野放しにしてはいけない。
あの日から結鶴にとって弟は恐怖の対象となった。だからこそ、彼奴を守らなければいけない。だって僕は兄だから。兄は弟を、そして妹を導き正し守り抜くのが使命だと父から言われた。だから、彼がいつか罪を犯して仕舞わないように僕はこの弟を微温湯に浸せなければいけないのだ。
わからないから怖かった。弟が怖かった。彼という価値観の違う生き物だからこそ、結鶴は彼が怖かった。だから愛した様に見せかけて彼を微温湯に浸らせた。罪悪感は無かった。それよりも愛に飢えた彼の濁った瞳が怖かったのだ。
そして弟が学生に上がり詩を書き始めたことを知った。別に興味は無い。唯愛に飢えた瞳が和らいだのを見ると安心はした。そして結鶴は決心をする。弟がそこに幸せを愛を見いだせるのなら俺は兄として全力で支援しようと。そしてずっと楽しいことをして居れば良いと。
実際詩を書くつづらの瞳は生き生きとしていた。まるで世界が輝かしいものであるかのように思えた表情をしていた。嗚呼、彼奴にも笑うという感情はあるのだな、そう知った。彼の別屋に何度も脚を運んだ。そして、雑誌に彼の詩が掲載された事が分かると全力で支援を始める。弟は趣味だから良い、と遠慮したが、俺は御前の書く詩がすきだ、これはもっと多くの人に見られるべきだと何度も何度も押して1冊の彼の詩集を作り出版した。数年後になると一緒に「宵待月」という同人誌も出した。しかし、結鶴はつづらの詩を見た事なんて1度も無かった。怖くて見れなかったのだ。見なかったけれど支援はし続けたし褒め続けた。彼の土気を高める為だった。そして師が出来たと嬉しそうに話す。嗚呼、此奴のこの瞳は愛をその人に求める目をしている。嫌な予感はしたが、結鶴は楽しんでこいと一言だけ送る。
何処で、何処で間違えたのだろう、嫌な予感は的中した。ある雨の日かれは首に縄の痕を残しびしょ濡れで別屋に帰ってきた。そして一言、破門された。と言うのだ。嗚呼、彼の瞳が昔の恐怖を呼び起こす。また、最初からやり直しだと心の中で1つ、小さな絶望を覚えた。絶望をしていた。またあの恐怖に面と向かわなければならないのかと怖かった。そして結鶴は従兄弟に相談をする。彼は病弱でもう、長くはなかったが相談を受け入れてくれた。とても優しいやつだった。彼もまた書くやつである。病室に行くと白い寝台に横たわった秋(國秋)が居た。彼は移ると行けないから離れていて欲しいと言う。結鶴君は離れた所に腰掛けて相談を持ちかけた。怖いとは流石に口が裂けても言わなかったが、弟の濁った瞳をどうすれば良いかと相談した。従兄弟言う、君は深く考えすぎなんだ。君は弟みたいに愛に執着をしていないが、弟という存在に執着している。これもきっと一種の愛だ。きっとこのままじゃぁ、君も身を滅ぼすよ、と言うのだ。結鶴君は驚いた様に声を上げる。
弟に?執着?まさか、自分はそんなことはないさ、だって僕はそうならないように生きたんだもの。執着してまで人を愛したいとも思わないし、人に執着なんてしていない。結鶴は混乱していた。従兄弟はそんな彼に淡々と問いかける。
じゃあ、何故君は弟にあそこまで関わるんだい?
結鶴君は口を噤んだ。
何も言えなかった。答えることが出来なかった。心の中では分かっていたのだ。弟という存在が怖いから、だと。そして、答えを言えずに従兄弟は息を引き取った。哀しみも後悔も何も無かった。人とは呆気なく居なくなるものだとこの時初めて感じたのだ。それからも沢山沢山弟を支援した。当時夢島家は大きな家であった。支援をするには問題は無い。
しかし、結鶴君はふと思う。嗚呼、この仕事を全て弟に押し付けて跡を継いだら僕はどうなってしまうのだろう。と。
そんな時だった、新聞記者の募集の紙を見つけたのは。そうだ、従兄弟も弟も書く人間であるのなら俺も書く人間になればいい。そうすれば若しかしたら恐怖から抜け出せるかも知れないと。そして、家を弟に譲った。その日から夢島結鶴は弟の前から姿を消す。
新聞記者での仕事は決して簡単なものでは無かった。とても忙しく、厳しいものである。しかし、結鶴君には楽しかった。だって、もう弟の事を考えなくて良いから、恐怖に向き合わなくて良いから。
そして2つの童話を書く。
1つは何も変哲の無い童話であったが、もうひとつは恐怖から足掻いて足掻いて逃げようとする童話だった。救いは無かった。彼の中ではまだ弟という存在は恐怖であったのだ。
ある日の事である。
夢島つづら、と書かれた見覚えのある名前が原稿が新聞社に届いた。思わずその原稿を床に落とす。嗚呼、また出会ってしまったのだ。この時彼の詩を初めて見た。まるで夜空であった。星灯りが散りばめられた悲しい哀しい詩であった。結鶴君は思わず涙を流す。
嗚呼、彼は、彼は哀しい人間であったのだ。決して恐怖を抱えるような奴では無かったのだ。彼は人間だった。化け物でも怪物でも何にでも無かった。唯、部屋の隅で丸まっている小さな子供だったのだ。結鶴は初めて彼を理解した。初めて彼に対して向き合う。沢山の涙を流した。そして弟の元へと行こうと一目散に新聞社を出てるのだ。向かう先は弟の住む家であった。
しかし、そんな結鶴の願いは叶わなかった。新聞社を出た途端一台の車が彼の前に現れる。何かが凹む大きな音がした。身体が宙に浮いた。何が起きたのか分からなかった。意識が朦朧とした中、従兄弟が言っていた事を思い出す。何故君は弟にあそこまで執着するんだい?とその答えが初めてしっかりと出た。
『弟を執着したいくらいに愛して居るからだ』
あれは恐怖じゃなかったのだ。愛したいという気持ちだったのだ。嗚呼、どうして早く気が付かなかったのだろう…もし、もしまた御前に弟に…千鶴に逢えたのなら、今度は君をちゃんと愛したい。向き合いたい。そっと瞳を閉じた彼の顔は見たことの無いくらいに穏やかな顔であった。
愛なんて要らなかったのに、必要いと思っていたのに……自分が一番愛というものに執着をしていた。誰よりもきっと、母親が父親を愛した様に、弟を愛していたのだ。
嗚呼、狂っていたのは______
周囲の雑音が徐々に遠のいて往く……結鶴は手に握り締めた一枚の原稿をそっと胸元に抱え込んだ。
これが夢島結鶴の歩んだ人生である。温かな春風がそっと吹き、路上に横たわる結鶴の頬を優しく撫でた。夢島千鶴が兄の死を知るのはもう少し先のお話




