最愛の弔い
これは夢島つづらという少年についての物語です。彼は孤独な少年でありました。寂しがり屋で死にたがりやな少年でありました。
これはそんな少年が出会った3人の大切な人達の物語です。
ゆっくりとお楽しみください。
「彼は変わった男であった。朝から夜まで、いや、私の知る限り山から出ようとはせず、勤勉に自給自足に励む男である。男の名は___」
原稿用紙へと綴られる文字は生きた蚯蚓のように畝っていた。
まるで、何かに取り憑かれているようだ。彼を止めるものは誰も居ない。 暗く、しっとりとした部屋には蝋燭の灯が一つ。彼が書き記している一枚の紙を光に灯していた。
走る字は原稿用紙を黒い夜に染める。黒を基調とした着物を着た青年の隣には、『夢島つづら』と書かれた分厚い紙の束がそっと寄り添っていた。
星空
置いてかれることが苦手な青年は
見送る度に見えもしない幻影をみる
幻なのだ
幻なのだ
そこに貴方は居ないのだ
空に浮かぶ星空に
そっと願いを添えながら
覚悟の出来ぬ青年は
貴方の元へと逝きたいと
小さな声で
祈るのです
「山鳥草」
彼は随分と変わった男だ。
私の知る限り山から出ようとはせず、勤勉に自給自足に取り組む男である。酒は少々煙草も薬もしない大真面目な男であった。彼の名を山鳥草と言った。
彼は言う「山は人間の一部であり、一つの精神だ」と。
私は彼の語る説が嫌いではなく、寧ろ好ましかった。
人間誰しも同じ考えの者は居ないと私は思うのだが、彼ほど私と正反対な思考を持つ男は居なかった。対象的な存在であった。
言わば空と地と言ったところである。私が空で彼が地だ。私はあの青空に溶け込むように言葉と触れ合うが、彼は地にそうように、這うように、少しづつ言葉で己の身体を刻み込み蝕ませるのだ。
山鳥草と出会ったのは馬柳真炉の講演会の後であった。であった場所は洒落た酒処であった。当時学生だった為酒処に行くのは好まれない私だが、其処は知人の経営している酒処であったので安心して入った。
その時に出会ったのが山鳥草だ。彼は跳ねた寝癖を直すことなく髪を無造作に束ね、だらしなく着物を着崩していた。如何にも煙草を吸っていそうな人であったが、どうやら吸っていないようであった。後から知ったのだが、彼は身体が弱く健康を害するものを余り好まなかったそうだ。私は其処で彼と初めて話した。今でも思うが私の話しかけ方は草だからこそ許された話しかけ方であろう。彼と私は十も歳が離れている。離れているのに親友というのは変な話しであろうが最愛の友であり親友である事は確かなのだ。その親友に出会った時、初対面で彼を叔父さんだと笑った。そんなことが普通は許された事では無いであろう。しかし、彼は怒るところか私を面白い奴だと笑い飛ばしたのである。当時、己のした行いで師に破門され、不貞腐れて居た私は人に対しての態度が決して良い方では無かった。寧ろ悪いくらいだ。そんな私を彼は笑い飛ばしたのである。
私は素っ頓狂な声を思わずあげた。そして落ち着いて彼に自己紹介をした。当時の私の態度に怒ることなく笑って接せれる様な人間に失礼な態度をとってはいけないと感じたからだ。その時私は彼に詩人だと名乗った。草は詩人のような顔をしていると私の顔をまじまじと見た。本当に彼はおかしな人間だ。しかし、そんな所も愛おしく感じさせてくれるのが彼の良いところなのであろう。それから私と彼との友人としての生活が扉を開けた。
山鳥草と文通を始めたのは出会ってすぐ後であった。最初は私からである。昨日の無礼な行為の謝罪文と、今度良かったら酒でも飲まないかという端的な文だった。しかし、文通を始めたが彼からの返事は一向に来なかった。少し悲しく思って居たのだが、矢張り私のあの時の態度が良くなかったのだから仕方が無いと諦めていた。しかし、その数日後にふらり、と彼は私の家に訪ねて来る。私は驚いた。確かに住所を教えたがここまで歩いて来るとは思わなかったからだ。
草は私に逢いたかったと言った。私の心の中に嬉しくも恥ずかしい気持ちが芽生えた。こんな事を言ってもらえたのは初めてだったからである。私も会いたかったと、そして手紙の事を彼に聞いた。彼は「書こうと思ったんだが送られてきたのは謝罪文で、返事するような文では無かった」と言った。確かにそうだな、と私も思った。その後私の家の玄関で少しの間喋り、町の中を二人で他愛のない会話をしながら歩き回ったのである。
次の時も、またその次の時も、何度も彼が私を訪ねて来た。文通はこまめにしていたがこちらの方が沢山話せるとわざわざ一寸ばかり離れた私の家に訪ねて来てくれたのである。君に会うのは嬉しいけれどわざわざ何度も来てもらうのは悪い、と私は言った。しかし、彼は「そんなに気にするようなことじゃあない。俺は歩くのが好きなんだ。だから身体を動かすような事は嫌いじゃない」と私に安心してくれと笑いかけた。そこまで言うのならば、と私も頷く。ふと、彼は「でもそんなに悪いと言うのなら俺の家に来てみるか」と私に問いかける。そう言えば彼の家に行ったことは無かった。ふと、そう思い私は頷く。なら行こうかと彼はこの時の私に手を差し伸べてくれた。
彼の家は山の麓ではなく、もっと奥の林の、森の奥の遠い処にあった。其処に付くまでには私の着物は軽く乱れ息も上がっていた。当時まだ十代いう若さの私でも容易ではない場所に彼の家はあった。正しく山の森の中である。熊が出そうだと私は言った。彼は「嗚呼、出るぞ。しかし、まあ、彼奴の肉は旨いもんでな、御前にも食わせてやる」と言った。最初は冗談かと思って笑い流した私だが、夕飯に熊の鍋料理が出てきた時は流石に笑えなかった。その日を境に今度は私が彼の家へと何度も足を運んだ。息を切らしつつ、何度も諦めそうになりつつも、私は彼の元へと一歩一歩と確実に歩みを進めたのである。彼の元へと付いた頃にはいつも夕日が傾く様な時間であった。彼は飯でも食べていけと私を食卓に誘うのである。彼には妻(私から見たらそうであった女性)がいた。仲睦まじい団欒に私が入るのは申し訳無かったのだが2人とも温かく私を迎え入れてくれたので断る理由は無かった。
それから一年から三年と彼の家に私の家にと向かう、向かわれるの関係が続いた。その頃には私の体力も付いたのか難無く彼の住む家へと向かえるようになった。そんなある日の事である。草の家へと向かった私はいつもと違って彼の家が静かである。草の走らせる筆の音がしない。ふと私は妙な胸騒ぎを覚えた。私は急いで彼の居るであろう書斎に向かったが、彼の姿は無かった。物音を聞き付けた草の嫁さんが私の元へとやって来た。そろそろ来る頃だと思って居ました、と彼女は私を寝室へと連れていくと見覚えのある男の姿があった。彼は寝室に引かれた少し埃の匂いのする布団の上に寝ていた。彼女は席を外してくれた。きっと気を使ってくれたのだろう。起き上がって私の元へと来ようとする草を慌てて止めた。私は彼の隣へと座り込み具合は、と問いかける。彼は「何の心配もない唯の風邪だ。すぐに治る」と言ったが、その瞬間に一つ二つ、いや数え切れない程の力強い咳をする。すると彼の手が紅く、まるで椛のように紅く染まった。私は悟った。彼は唯の風邪では無いのだと。もしかしたらもう草の命は長くは無いのかもしれないと。この先最愛の友を、この男を若くして失ってしまうのでは無いかという恐怖がすぅ、と胸を過ぎる。
開いた窓から招かれる風が冷たく私の頬を過ぎ去るのを感じたのを今でも鮮明に覚えている。
ある夜の事である。私は彼と河原へと脚を運んだ。私は草の体調が心配で余り乗り気では無かったが彼はそういう気遣いが嫌いな男だったので一緒に行く事にした。月が綺麗な夜であった。思わず空に手を伸ばしたくなる程であった。
草は物欲しそうにその月を見詰めていた。そうだ、とある事を思いついた私は川辺りから川へと駆けた。そうしてこぼさぬようにそっと水を掬いあげたのだ。
私はその掬いあげた水を彼へと見せてこう言った。
「白く輝くあの光
僕らを照らすあの顔は
淡く
優しく
美しく
だから僕は掬うのだ
天の恵みを掬うのだ
ほらご覧草、月を捕まえた。綺麗だろう」と。
彼に見せる月は先程水面に映っていたよりも何回りも小さかった。
彼は嬉しそうな。しかし、何処か寂しそうな顔をしてみせる。
私は詠む。彼の為に詩を読む。
この川辺りで、草との大切な思い出を口ずさんで紡ぐのだ。そう、彼が忘れてしまわないように、と。
この時私は一つの決心をする。彼が亡くなってしまいそうなので、沢山の笑顔を彼に届けようと言う決心だ。
出会って四年目を私達は迎えた。草は出会った当初よりも少し窶れていた。もしかしたら普通の人なら分からないかもしれない。彼は人の前で自分を平気がらせるのが得意な人物である。だからこそ窶れていても己にしか分からないであろうとは思った。でもきっと彼の病を悟っている人物は居るだろう。私は毎日の様に彼の家に通う様になった。私は弟子から家を出る事が多すぎて手付かずの原稿が多いと注意を受けたがそれどころでは無かった。少しでも彼の、山鳥草という人間の生をこの目に焼き付けたかったのである。
ある日の事だった。市の大きな講演会に私は呼ばれることとなった。本当は断るつもりで居たのだが、流石にそれはいけないと弟子に叱咤され仕方が無く向かう事にしたのである。講演会が終わった後私はすぐに彼の元へと駆けつけようと思ったのだがその後の宴会や人付き合いで中々其処から抜け出す事は至難の技であった。漸く草の元へと向かえたのは辺りが暗く寝静まり始めた後である。私は急いで彼の元へと向かった。予感と言うだけであって欲しかったのだが、これを逃すと彼に会えない気が私にはしたからだ。
一目散に彼の元へと掛けた。この日は洋服で背広を着ていた為いつもよりは動きやすく早く彼の元へと辿り付くことが出来た。
しかし、私はこの日程後悔をした日は無い。
彼は倒れていたのだ。玄関の入り口で倒れていた。背広を着ていた。彼の血で紅く染まっていたが色とりどりの花が束ねられた花束を大事そうに抱えていた。花束の中には花の他に『夢島つづら様』と書かれた小さな手紙が一つ入っていた。私はすぐさま彼に声を掛ける。返事は無かった。冷たくなった彼の身体は重く重量に委ねられていて、まるで蝋人形のように動かなくなっていた。私は一目散に彼を抱えて山を駆け下りる。彼は私よりも身体が大きかったが、この時は火事場の馬鹿力と言っていいだろう重さは感じず彼を抱えられたのだ。必死に、必死に唯彼を病院へと連れていこうとするのみである。そっと耳元で「つづら、ありがとう。悪くは無い、人生だった。唯、御前の講演会を見に行けなかった事だけは心残りだ」と言う彼の声が微かに聞こえた。私は理解した。彼は今日私の講演会に来ようとしていたのだ。こんなにも脆くなった身体で私の為に、私の言葉を聞くためだけに険しい山を降りようとしたのだと。思わず目から温かい雫が零れ落ちる。彼は私のせいで命を落としたのだ。私が講演会に行かず彼の元へと行き彼の事を止めてやれば、彼は、草はこうならずに済んだかもしれないのに、と心の中で叫ぶ。
病院に付いた頃には手遅れだった。彼は笑いかける様な優しい穏やかな笑顔で目を閉じている。
目から零れる雫が彼の上へと降り注ぐ、草へと降る雨は止まることは無かった。
彼は私にとっての想像力を肥やす為の養分であり、私もまた彼にとっての日々の肥やしになっていた。
私は最愛の友を亡くした。
いつかまた何処かで再び彼と言葉を交わし会える日が来るだろうか。そう、考える。
もし、いつかまた逢えたのなら、時間を忘れてあの頃の様に君と笑いあいたい。
「煙草」
煙草を吸い始めた。親友を弔う為である。
彼が亡くなった日、ふと横切ったたばこ屋で買ったのだ。箱に星の絵柄が描かれた箱だった。光る一等星はまるで彼の様だと心を惹かれ買ったのだ。吸ってみたが決して美味いものではない。だが彼に会えるような気がするのだ。煙はまだ宙を漂っている。
「馬柳真炉」
馬柳真炉はよく笑う男であった。
穏やかで酒に弱く人の心に寄り添うのが上手い男だ。
私が馬柳真炉という人物の名前に出会ったのはまだ幼き学生の頃、私の住む街の小さな書店に置かれた一冊の本を手に取った時だった。
私は彼の世界観に惹かれた。活き活きかつ、瑞々しい生命をもった彼の文章に心惹かれた。生きている、という心地がした。もし、一目惚れがあるというのならこういうものなのではないか、と思う程であった。
当時、まだ学生時代(小学校高等科学生)だったということもあり親の脛を齧っていた私は、貰った小遣いを数ヶ月間貯めて漸く彼の本を家に招く。焦がれ続けて居たものを手に入れた嬉しさをこの時私は初めて知ったのだ。
私が彼と出会え友人となったのはその数年後の事である。当時の私はまさか焦がれ続けて居た彼と出会えるとは勿論思っていなかった。最初の頃は緊張し覚束無い口調で先生、と呼んだものだ。しかし、私が真炉を先生と呼ぶ度に彼は困った顔をする。「自分はそんなに畏まった事を言われる人間じゃない。気軽に呼んでほしい」と言うのだ。最初の頃は矢張り尊敬する貴方を名前で呼ぶなんでと言っていたが、慣れとは恐ろしいもので、気がついた頃には真炉君、と友のように呼んでいた。いや、彼とは友になった。友だったのだ。
まさか、友になる日が来ようとは。私は思わず舞い上がる。
真炉とは友人の親友の経由で知り合った。場所は葬式場だった。親友山鳥草を弔う場所で、紅く腫れぼったい瞳をした彼は私に話し掛けたのだ。嗚呼、彼も泣いていたのだと、夜通し私の様に泣き腫らしたのだと一目でわかる。彼は私に笑いかけてくれた。優しい穏やかな笑顔であった。しかし、その笑顔が無理をしている様にも見える。私は心が痛くなった。貴方にとっての大切な人、山鳥草は私のせいで亡くなったからだ。
私は彼を助けることが出来なかった。向けられた全てを許してくれるような穏やかな笑顔に、彼にだったら草の最期を話していいのだと感じされられた。お時間はございますでしょうか。最初に真炉へと掛けた言葉は吐き出すように、腹の底から湧き出た。私は彼に話さなければならない。私程、山鳥草と親密な関係者は居ない。彼程、山鳥草に近かった人間は居ない。だからこそ馬柳真炉という人間に私はあの男について話さなければならなかった。
「勿論時間はある。良かったら山鳥の家で話さないかい」そう言って手を差し伸べる。頷かない理由は無かった。
彼の家の玄関の床には紅い花がぽつぽつ、と咲き乱れる。「此処に、彼は居たんだね」別れを惜しむ様に真炉はその場へと座り込み手を合わせた。居ます。今でも居ます。居なくなったりなんてしていません。そう心の中で呟いた。声には出さなかった。私はこの人気の無い紅い花畑に彼の幻影を見る。
数時間が経った時であろう、どちらかが中へと入ろうと言う。どちらが言っていたのかは覚えては居ない。もしかしたら言葉を交わさなかったかもしれない。
彼の部屋は彼が生きていた時のままであった。よく、見れば彼の原稿や机の上、床には所々に紅い痕がぽつ、ぽつと点のように残されていた。玄関で見た花のようには大きくは無い。拭いたような痕もあった。目を凝らしてよく見ないとそれらは分からなかった。彼は「山ちゃん(当時の彼の山鳥草の呼び方)は本当に隠すのが上手いんだ。僕は知っていたかもしれないのに、あの時分かっていたかもしれないのに声を掛けては上げられなかった」後悔をしていると唇を噛み締める彼の姿に心臓が締め付けられる感覚を覚えた。刻々と音の無い時間が過ぎる。
この日は二人で一緒に草の書斎に布団を引き眠る事となった。私達は帰ることは出来なかった。真炉もまた、彼にもう少し浸って居たかったのだろうか。そう、考える。会話は無かった。私は彼を弔う為に一つ煙草を吹かす。彼は何も言わずに天に上がる煙を見詰めた。
朝を迎えると小さな卓袱台の上に2つ食事が並んで居た。炊きたての白いご飯に味噌汁、そして漬け物。聞いてみると、真炉は朝早くに目覚めたそうで中々起きない私を思って作ってくれたそうだ。そんなにも気を遣わなくて良かったなんて思ったが、作ってくれた彼に対して失礼なのではないかと思い、頂きます、と手を合わせる。彼が亡くなってから久しぶりの食事だった。
その後は彼と軽い会話をしつつ一緒に草の家の周りを歩く。ふと、真炉は思い付いた様に私に葉を一枚差し出した。何のことか理解出来なかった私に「ほら、綺麗だろう。この葉も生きている。こんなにも良い事はない」とその葉を私に握らせて、綺麗だから貰って欲しいと笑いながら言うのだ。頷くしか無かった。これから彼は私に沢山の葉を、花を、実を贈ってくれるのだが、一番思い出が詰まったのは葉である。
私はそっと手帖にその葉を挟み込んだ。
彼と別れたその日から文通が始まった。真炉は筆まめな人間で三日に一通は必ず手紙を寄越す。私はあまり筆まめな方では無いのだがそれに応じ、応えるようにして送った。
彼とは草以上によく出掛けもした。山々を散歩するかのように登ったり、温泉へと足を運んだり沢山の思い出を一緒に作る。私の弟子兎都桜風を紹介したりもした。彼は沢山私に思い出をくれた。彼から貰った葉は消えてしまわぬよう手帖に挟み込み、貰った年月、思い出などをそこに綴った。
真炉と温泉に行った時の事である。季節は秋だった。風が吹き私を迎え入れるように降り注ぐ葉を見て真炉は「山ちゃんの様だ」と小さな声で呟く。私は聞き逃さなかった。「確かに、赤く染まる紅葉は彼の様だけれど、彼は碧色だ。若々しい碧い葉を生い茂らせて、枯れたところを彩つく処を私達には決して見せはしない。彼奴の瞳に映るのはきっと天を仰ぐ空の色。彼奴には自由に手を伸ばせる空が似合う」と私は彼の方を向く、「それに、どちらかと言うと紅葉は君の様だ。君には紅が似合うよ」と笑いつつも二人で他愛も無い話をしながら散策をした。
紅葉
色付くは
秋の空
伸ばす隻手
空仰ぎ
届かぬ幻影
追い掛ける
これが真炉との最後の旅行であった。
数日が経ったある日の事である。私は彼と草の家で酒を飲んだ。真炉からの誘いだった。私は勿論と急いで仕度をして山へと向かう。
私がその家へと着いた頃には既に彼は出来上がっていた。酒瓶が幾つか転がっていた。そこまで酔う彼を初めて見た。酒は呑むがそこまで人前で呑まない私も羽目を外して一緒に呑んだ。この当時の記憶は余り無いのだが、矢張り話題は山鳥草だった。私達は思っていた以上に彼に心を奪われて居たようだと思うと心底悔しい。でも、それだけ大切な友でありかけがえのない人物出会った。唯一、山鳥草は随分と人垂らしだと言う会話をした事を私は覚えている。
彼と待ち合わせて出会う事は良くあった。真炉は誰よりも早くに待ち合わせ場所に来る人物である。しかし、この日は待てども待てども彼の姿を見る事は無かった。流石におかしいと私はクビを捻る。日でも間違えただろうか。場所にでも間違えただろうか。そう考えつつも日の暮れるまで彼の事を待ち続けた。
家に帰ってきた頃には日が暮れ随分と遅い帰宅をする。玄関を開けた時だった、蒼白な顔をした弟子が出迎える。何かあったのかと私は首を傾げると、それは衝撃的なものであった。
馬柳真炉が亡くなった。
そう、彼は唇を震わせて呟く。信じられなかった。しかし、桜風の顔を見る限り嘘とは言えず私は走って彼の元へと向かった。随分と遅い時間であったが、出迎えてくれたのは彼の妻であった。お待ちしておりました、と彼女は言う。案内されたのは家の奥にある寝室だった。彼は眠っていた。安らかに、まるで寝ているかのように。この時不思議と涙は出なかった、きっとこの穏やかに目を閉じている彼が亡くなったということを認めたくは無かったからだ。そっと彼の元に寄る。冷たい頬をしていた。知っていた冷たさであった。嗚呼、本当に亡くなったのだと、彼は居なくなってしまったのだと実感した。
それは彼と真炉と出会って一年と、少しの時だった。
最期の手紙を彼の奥さんから貰った。読んだのは彼の葬儀の前日、己の書斎で読んだ。そこには私への謝礼の言葉が書かれていた。そして己の身体が長くは無いことが綴られていた。何故私は彼の身体がそれ程持たないという事に気が付かなかったのだろうと後悔がつのる。
礼を言うのはこちらだと手紙に向かって呟いた。封筒の中には手紙の他に紅い紅葉が一つ入っている。
一筋の涙が頬から流れ落ちた。
「尾有遥斗」
尾有遥斗と出会ったのは友、馬柳真炉の葬儀の後であった。彼は友から聞いていたとおり小柄な少年である。彼の風貌は可愛らしくあどけなさが残っていて、何処か友に似ていた。彼と私は十も歳が離れている。正確には十一歳もの差があった。その歳の差を聞いて私の事を親友と読んでくれた友人を思い出す。
私も彼のようにこの幼い少年を親友と呼べる日が来るのだろうか。
しかし、彼は私に心を開いてくれるような人間では無かった。
遥斗を引き取る事になったきっかけは友の死から一ヶ月程過ぎた後だった。ある雨の日、私は弟子の兎都心花(のちの兎都桜風)と夕飯の献立を掛けて麻雀をしていた。麻雀を彼に教えたのは私である。強いかどうかはわからないが良い勝負を出来たと思いたい。そんな時であった。扉を叩く音が聞こえた。私ははじめの風が扉に当たる音かと思ったのだが客が来ていたら悪いと思い玄関へと向かう。扉の奥には葬儀の時に出会ったあの少年が雨に降られてきたであろう姿で突っ立って居た。私は驚いてどうしたんだいと声をかける。彼は何も喋ろうとはしない。沈黙が続いた。私は少年を家に招き入れる。身体を拭いてやり、煮立ったお茶を淹れ遥斗に差し出す。彼は軽く会釈をした。私はもう一度彼にどうしたんだいと訊く。彼は言う、「貴方が頼れって言ったから」今にも消え入りそうな声だった。聞き取ることは出来た。そうだ、私は亡き友と約束をした。彼は私に此処に置いてほしいと頼む。私は驚いて思わず瞬きをした。まさかこのような頼み事をされるとは夢にも思わなかったからである。しかし、断る理由は無く、私は頷いて彼に、遥斗こと、『おあっちゃん』に手を差し伸べる。
彼を私の家に招き入れてから数年の月日が過ぎた。余り笑うような青年では無かったが最初に私の家に来た時よりも随分と表情は穏やかになった。前よりも心を開いてくれたのだろう。彼は私の事を師と呼ぶようになった。
元々は彼の師になるつもりは無かったので最初に師匠と呼ばれた時は照れくさく驚いたのだが、彼は彼なりに私に歩み寄ってくれたのだと思いそれを受け入れた。桜風の時の様に師匠らしく詩の講評をする訳でもなく、他の作品に筆を入れることもしなかった。唯一文字絡みで私が遥斗とした事と言えば一日一通の文通をしていたくらいである。白い便箋に詩や言葉を綴り合い交換をする。それを互いの部屋の扉の隙間に挟み込み交換し合った。時折柄物の便箋を見つけてはそれを彼に贈った事は今でも良い思いである。始めたきっかけは覚えていない。私は彼の手紙を読むと丁寧に小さな木造りの箱に入れていく。それは何通、何百通にもなった。二人合わせれば何千通なんて数字になるのだろうか。数え切れないくらいのやり取りをした事を覚えている。進展と言えば遥斗と桜風と私、三人でよく出かけるようになった。出掛けようと誘う度に彼は渋ったような顔をするが断るような事はなくなった。それがなによりも嬉しい事である。一度三人で海へと出掛けた。きっかけはふとしたことである。
とある日、私は担当の人に海に付いての詩を書いてほしいという依頼を受けた。その時は桜風も一緒に生きたいと言ったので、彼が休みの日に三人で出掛けようという計画を立てた。計画を彼に話すと初めて嬉しそうに首を縦に振ってくれたのが印象に残っている。季節は春であったので海へと入る事は出来なかったが二人とも楽しそうに砂浜を駆け回っていた。
私は海沿いに寂しそうに一本聳え立つ枝垂桜の木を見つける。それはまるで遥斗のようであった。
私は彼に「君はあの桜に似ているね。沢山の木々の中で一つだけ色鮮やかに辺りを彩っている。一見寂しそうで、孤独に見えるが、周りの木々があの桜を支えている。あの木は君に似ている」と言った。彼がこの時どのような表情をしているのか私は見ていなかった。
海桜
海に桜が一本たってゐた
潮の辛さは木々を包む
儚く散る花弁は波にのり
何処か遠く彼方へと
彼方へと
楽しかったと彼は笑う。特に何かした訳では無かったが楽しかったと笑う。穏やか時間がゆっくりと過ぎる。私はあの一時が今でも恋しい。
また一緒に海を、あの桜を見たいと彼は言った。
神は私には甘くは無かった。
ある日の晴れた日のこと、それは起こった。何でもない日だった。いつものように手紙を交換して一緒に夕ご飯を掛けて麻雀をする予定であった。遥斗は麻雀卓の置いてある部屋へとは来なかった。桜風と私でどうかしたのかと首を傾げる。もしかしたら寝ているのかもしれない。そう、単純に考えていた。
私の考えは甘かった。遥斗を起こしに行くと、彼は机に突っ伏している。どうやら寝ているようだ。
おあっちゃん、もう夕ご飯の時間だよ。早く起きなさい。反応は無かった。よほど疲れて居るのだろうかと私は彼の華奢な肩に手をかける。小さな彼の身体は妙に冷たかった。
私はこの感覚を知っている。血の気が引いた。お腹から叫ぶように桜風を呼ぶ。「桜風君、電話を、お医者様に今すぐ電話を」彼は瞬間きょとん、としたが状況を把握出来たのか一目散に電話をしに向かう。
彼の身体の重みがあの時の親友と重なった。
彼の死因は心臓麻痺であると診断された。間に合うことは無かった。何故こんなにも若い彼が死ななければならなかったのだろうか。込み上げる怒りと悲しみがおさまることはなく、私は流れる涙を誤魔化すように初めて弟子の前で煙草を吹かした。煙が窓の外へ天へと彼を送るように仰いでゆく。
夢
前に師が
後ろは弟子で
横は友
そんな光景に夢を見て
今日も一歩一歩と
生きるのです
理想の世界に夢を見て
居ないあなたを想うのです
『君と歩む道
一緒に過ごした日々___
それはとても短いけれど
全部全部大切な想い出』
読んで下さりありがとうございました。
如何でしたでしょうか。
次回は夢島つづら自身についての物語を書ければと思います。