向かうべき道 四
海の向こうには、この大陸から孤立した島がみえている。フリオと淑姫の議論を参考にすると、その先には多くの未開の島々があるはずだった。愛香はオリエの澄んだ目を見ながら言い聞かせるように、ゆっくり語りかけた。それでもオリエの伏せがちな目は愛香を見なかった。
「私は迪恩のいるウスリーへ戻るわね。そして、必ず迪恩を貴方の元に戻してあげる。」
「愛香ももう一緒になれないの?。一緒に逃げてくれないの?」
「今、迪恩は貴方とみんなとを逃げ延びさせる為に、迪恩はあの要塞にいるのよ。私はそこへ彼を守るために戻るの。そして、私が迪恩を必ず連れて行くわ。」
「そう言って父は母を戦線から連れ帰れたけど、二人とも死んで帰ってきました。きっと迪恩も愛香も死んでしまう。愛香も僕を捨てていってしまうんだ。」
オリエは既に厳しい現実を頭では理解しているようだった。それはつまり迪恩とも愛香とも今生の別れであるかもしれないことを。オリエの心の中には、迪恩、愛香への愛情、子供特有の父母を慕う思い、自らが背負う責任、覚悟、今後の見通しなどが渦巻いているに違いない。オリエは、ためらいながら愛香を見つめている。オリエのこざっぱりしたサラサラの髪が愛香の心をくすぐった。愛香は一瞬、オリエの目と口と髪に見とれ、その幼い顔立ちは将来虜になる娘達が多いことを悟った。それを確かめながらも、心を鬼にしてオリエにいった。
「オリエ。かわいいオリエ。……。じゃあここでお別れね。」
「愛香、いやだ……。母上……。」
オリエはためらいながら母と呼びかけた。それは、愛香の予想していない言葉だった。愛香の心は大きく乱れ、愛香の心には母親のようにオリエを思う情念が渦巻いた。その心の乱れを捉えてオリエはさらに言葉を発している。
「母上!。」
オリエは、トラリオンを広げた愛香の姿を見て、愛香にすがりついた。
「いかないで。母上。」
オリエが愛香を呼ぶその姿は幼い子供に戻っている。五歳の子供であれば、自然なことだった。
「貴方のお母様は、もう死んでいらっしゃるのよ。私は単なる貴方の保母さんよ。」
「違う。愛香は僕の母上。僕はいい子になるから、僕を残していかないで。」
それは、オリエが今まで見せなかった母を慕う泣き顔であり、愛香の見たことのないオリエの涙、オリエの壊れそうな心、オリエの幼さだった。小さなオリエは涙をこらえ、愛香を見つめた。愛香はもう一度オリエを抱きしめ、頬ずりをした。それは最後の頬ずりだった。そうして、愛香はオリエに語りかけた。
「オリエ、よく聞いて。私は見えなくなるけど、貴方のことはいつでも祈っているわ。私の背後を守る方があなたがたにもいるから、貴方が願うことがあるなら祈りなさい。貴方のためになることだったら、必ず叶えてもらえる。煬にしたって、あなたが信じればイチジクの木を枯らすことができるように、滅ぼされていくでしょう。そして、その方は今までもそうだったように、これからいつまでも貴方とともにいるわ」
愛香はウスリー要塞にもどった。愛香の心にはまだオリエの幼い表情が重く残っていた。しかし、今この要塞には、迪恩と二人だけだった。オリエやテラート達の命運は、愛香と迪恩とがこの要塞に多くの人員が籠っていると煬軍に思わせることが鍵だった。最北の小さな要塞といっても駆け回るだけでも一時間半ほどはかかる規模だった。夜になれば、二人は多くの松明の火を焚き、衛兵の影を作り上げた。昼になれば、大きな声で衛兵交代の演出をしていた。煬軍が来るのはあと一ヶ月と見込まれていた。
夕刻の前にはしばしば二人で夕食をとる時間はあった。久しぶりに愛香は迪恩と二人だけの時間を過ごしていた。しかし、相変わらず迪恩は禁欲的な態度を崩そうとしていなかった。ただ、それでも迪恩は、無意識に愛香の黒髪とうなじに目を向けることが多くなった。人目のないこの砦の中では、邪魔が入るはずもなく、その迪恩の視線の意味するところは、愛香にもよくわかった。やっと迪恩は愛香に秘めた想いを滲ませている。このぐらいの積極性を全ての物事に向けるようになってほしい。それが愛香の願いだった。しかし、迪恩は、自分の頭の中に自らの様々な欲望で満たされていたことに気づき、苦しみ続けている。
「何故、ここに戻ったのですか?。」
「オリエに貴方を必ず連れ帰ると約束したのです。」
迪恩は、その言葉に戸惑った。彼としては、戦い抜くことが全てに優先すると思っていた。
「私を救い出すのですか?。しかし、二人一緒ではこの砦で十分には戦えませんよ。要塞の各箇所にある関門を敵が簡単に突破出来ないようにするには、二人がそれぞれ別の箇所で動く必要があります。それに、貴女が私の近くにいると、私は自由に動けなくなるでしょうし。」
「でも、貴方を守ることが私のここにいる第一の目的です。それから、ここに煬軍を焦土作戦をさせずに引きつけることも大切なことです。」
迪恩は、愛香から放射性物質の毒矢とそれらを乗せた気球の話を聞き驚いていた。
「死の灰?。そんなものが。なんということを。」
「しかし、一万年も前、この地上ではそのエネルギーと効果で戦争と殺し合いをしてきたのです。未だにその名残で地上の皆は二十代で死に絶えています。本来人間は百二十年くらい生きるのです。」
迪恩には想像もできない話だった。やはり、迪恩にこの話をすべきではなかった。棒立ちになった彼の顔を見ながら、愛香はオリエの理解力の柔軟さを思い出した。
「私に一案があります。今彼らは大都付近にまだ達していないでしょう。今のうちに、放射性物質に対して聖杖に似た技を使いましょう。」
「聖杖⁈。それはオリエしか持てないものです。」
「そうですね。でも一部の仕組みはあまり困難もなくトラリオンでも実現できます。例えば、強い中性子ビームを当てて安定化させてしまうのです。あまり難しくはありません。」
「ビーム?。でも、そう言うことなのですね。」
幼いオリエは先入観無しに理解してくれたが、オリエと同じレベルで説明しても基礎を教え込んでいない迪恩には理解できそうになかった。
「とにかく、これで焦土作戦が不可能になります。
次に彼らへの奇襲です。まだ煬軍がくるのは一ヶ月先です。要塞の中で立てこもるだけが策ではありません。煬軍は私たちについて多くの軍勢がこの要塞の中にとどまっていると考えているはずです。この地形から見て、彼らは鶴翼の陣形、もしくは包囲陣をとり、背後から攻撃はないと考えるでしょう。しかし、この森林地帯では背後の山岳地帯から投石をすることができます。」
「しかし、投石機はないし、投石の距離を間違えるとウスリー要塞を壊すことになります。また、一度に大量の投石をしなければ彼らは蚊に刺された程度にしか感じないでしょう。」
「ですから、タイガと馬の尾のヘアを利用しましょう。森の針葉樹林の木々のバネ力で投石するのです。」
「しかし、森の木々はそれぞれ太さ柔らかさが違うし….……。」
「そこは大丈夫よ。簡単に計算できるわ。」
「計算?。」
やはり迪恩にはわかってもらえそうになかった。それでも二人は、森林に、城塞の様々なポイントに仕掛け作りを作り続けていた。
初秋の気配が近づいていた。愛香は一人でヤルカ将軍率いる煬軍へ潜入し、放射性物質をことごとく中和していた。
秋の終わりに、ヤルカ将軍率いる煬軍はウスリー川に沿って北上して来た。川を挟んで要塞を囲む鶴翼の陣形は攻撃に特化した戦法であり、攻撃が近いことを意味していた。愛香は夜の間に飛び回って仕掛けの射角を調整したおしていた。
独特の煬軍の太鼓の音が響き始め、攻撃が始まった。まもなく放射性物質の毒矢を乗せた気球がいくつか浮かぶことになる。既に迪恩は愛香から放射性物質の矢について簡単な説明を受けていた。
「もう既に中和されているのですね。いつのまに処置したのですか?。」
やがて、煬軍は満を持して気球を浮かべ、要塞の上に移動させてきた。全部で十二。気球の中途半端な数は掻き集めてきたからなのだろう。しかし、愛香は二回のレーザー出射で全ての気球を川の流れに突き落としていた。
ヤルカは驚きつつも、電撃を加え始めている。それを愛香は待っていた。いくつかの電撃が、導線にひきまこれ、要塞から川面や山岳地に這わせている発熱回路へ流れた。目論見通り、蒸発した河の水は深い霧を作り上げた。それと同時に周囲の山から大量の石飛礫が煬軍の上に降り注いできた。石飛礫の雨に、煬軍は背後を突かれて大混乱となった。「敵襲」と叫ぶ者、逃げ道を探す者、やたらに剣を振り回す者などが入り乱れ、城塞攻撃などそっちのけでにげだす者達が川面、至るところにあふれていた。そこへ、さらに畳み掛けるように数回の石飛礫の雨の雨が降りつづいた。既に陣形は形をなさなくなり、上官の命令を無視して多くの者が元来た道へ殺到した。降った立ち込める霧の中に紛れながら、愛香と迪恩はその群衆に紛れながら要塞を後にした。後には、放置された武器が散乱した敵陣に囲まれて、仕掛けと罠を満載した無人の砦が残された。
ようやく石飛礫がやんだが、煬軍は体勢を立て直すのに四日ほどの日にちを要していた。それでもウスリー要塞は不気味に静まり返っていた。其の後、ヤルカは無人の要塞を攻略したが、多くの仕掛けと罠により、多くの兵は要塞から二度と出てくることはなかった。