大都 三
愛香が大都に来てからすでに半年が経とうとしていた。
帝国の元々の版図は南は長江から、東は東海とその北にある黄海、半島部、オホーツクから、北は北限のない北方領域、西は西の砂漠に至る地域であった。しかし、今では南の煬、今の煬帝国の侵略を受けていた。大都は仁煕帝とその前帝の治政の下にあって長い間安寧を保っていたというものの、愛香はその安寧期が終わろうとするときに、ここに来たことになる。
愛香は退院後、親衛隊宿舎に部屋が与えられ、しばし大都の中で過ごすことができた。迪恩は皇帝親衛隊、検非違使の長として、多忙を極めている。また、李恩から導師の教えを受けたオリエに、さらに指導を重ねる時もあった。オリエはその訓練の時の後などに、自由に愛香の宿舎を訪ねて来る。今日もオリエが来ていた。しかし、今日は彼の後を執事が追いかけて来ていた。
「陛下、耐えるのです。耐えて戦い抜くのです。先人達もそのようになされて来ました。」
愛香は陛下と言う呼び声に、なんのことかと考えていると、そこに反論しながら愛香の部屋に逃げて来たオリエを見つけた。
「そんな忍耐したって、父は戦って怪我して立てなくなって……やっぱり犠牲、身代わりとなって、死んでしまったじゃないか。」
「しかし、そうであってこそ、帝国の民達の心の自由と平安とを守り切って今に至っているのです。」
議論はそこで終わった。愛香と二人とが目を合わせたからだった。
「お二人ともお入りください。」
愛香は何も聞かなかったかのような顔をして二人を迎えた。オリエ達はしばらく黙っている。愛香は微笑みを絶やさぬようにして、茶を入れている。その沈黙の重さを感じたのか、気を取り直したオリエが思いついたように質問をした。
「愛香!今日こそ愛香の故郷の話をしてよ。」
「私の故郷はここと違いすぎるのよ。お話ししてもわかるかしら。」
「お家はどんなところなの?。」
「私たちの家には柱がないのよ。天井も無いわね。」
「じゃあ、雨はどうするの?。」
「雨は降らないところよ。でも時々隕石が落ちて来るわ。」
「隕石?」
「そう、カイパーベルトと呼ばれるところには、隕石の卵が浮かんでいるわ。」
「へえ、それは何処なの?。」
「この星からは少し遠いわ。」
「この星ってどこのこと?。どの星?。どうやったら、そこへ行けるの?」
オリエは愛香の一言一言を全て心に刻むように聞き続けた。乾いた大地が水を吸い込むように。
「愛香のお母さんは今何をしているの?」
愛香は自らを落ち着かせるように、座り込んでオリエを引き寄せた。無邪気なオリエの目が愛香をのぞき込む。オリエは愛香の微妙な心の動きを感じたのかもしれない。
「私の母は、幼い私を助けて亡くなったわ。父も母と同時に亡くなったのよ。そのあとは、ずっと家族がいなかったわ。」
その言葉を聞いたオリエが言った。
「じゃあ、泣きたくなったらどうしていたの?。」
『泣きたくなったら……。』などと言う疑問は、親から離されたこどもの必ず質問することだった。
「私のお父さんお母さんが亡くなったあと、長い間一人だったのよ。泣いたこともあったけど、助け出されるときまで、誰もいなかったわ。助け出されたあと、ある偉い白い髭の人に、『泣くな、我慢しろ』って厳しく言われたわ。だから、ずっと泣かなかったの。……いえ、泣いたことがあったわね……。ここに来る直前に、私に泣くなって言っていた人が私の祖父だったのよ。祖父だと分かった時、今まで誰からも経験した事のない優しさを、祖父の目に見つけて泣いてしまったわ。そして、その人にすがった時、父の匂いがしてさらに泣けて来たわ。」
ふと、愛香の脳裏にペードリアン長官の顔が浮かんだ。愛香は救い出された後に、一度ペードリアンの事務所に案内されていた。そこで、ペードリアンから『これからは泣くな、我慢せよ。』と言われていた。その時は彼を祖父であるとは考えなかった。彼は愛香を厳しい環境において忍耐強い少女に育て上げた鬼寮父のはずだった。雲の上の高官が、愛香を援助していたこと、そして、彼が母の父親であったことは、幼い時から絶えて久しい肉親への愛を呼び起こした。しかも、作戦行動直前の閣下の愚かさは、孫を思う肉親の愚かさだった。
それを聞いていたオリエの顔が曇って来た。
「僕も同じように言われた……。泣いてはいけない、耐え続けろって。」
「えっ?」
「お母様が戦いで死んだ時に………。そしてお父様も死んで……。」
「迪恩はお父上ではないの?。迪恩の奥さんはあなたのお母上ではないの?」
オリエは、はっとして口を閉じた。何か事情があるが、それは秘密なことらしい。それでも愛香が孤独になった時よりはるかに幼くして、オリエは愛香と同じ悲しみを背負わされている。さらには、孤独も。
「僕、大切な人を亡くした……。でも、泣いてはいけないんだ。」
幼い彼の強さの裏には、親と絶たれた子の悲しみがあった。それは愛香に閃きのような愛、愛香にとって胸のはりさけるような憐れみを呼び起こした。
「オリエ、こっちへいらっしゃい。」
そっと抱きしめたオリエは幼子の香りがした。
「もう、我慢しなくていいのよ。泣いていいのよ。私があなたのお母さんになってあげる。」
「もう、我慢しなくていいの?。僕、我慢しなくていいの?。」
幼いオリエは、泣きはしなかったものの何かを我慢するかのように思いつめた顔のまま、愛香の胸に深く顔を埋めていた。愛香は閃きの中で、言葉が浮かんだ。
『この子にしたことは私にしてくれたこと。』
閃きはそう語っていた。
そこへ、迪恩から知らせが来た。煬から講和使節が来るという。煬の使節はヤルカ将軍を代表とする五人程度の小さなものだった。迪恩は単純に喜んだが、愛香は警戒を解かなかった。
ヤルカ将軍を迎え、その夜、皇帝謁見の間でレセプションパーティーが開かれた。テラートが外交の代表の挨拶と、ヤルカの挨拶が通り一遍とりかわされた。次の日には皇帝との接見、そして交渉は次の次の日から開始されることとされ、一同は束の間の休息を楽しんでいた。その夜、ヤルカ主催の答礼の宴席に愛香もよばれた。愛香は大都の貴族達が身につける現地のドレスを身につけていた。しかし、目ざといヤルカは愛香を見初めていた。
宴会が佳境に入るとヤルカは愛香に語りかけた。
「海岸地域の一戦以来ですな。よくご無事で。」
「、あなたがいらしたのですね。戦士のように肌に直接剣をおびていらっしゃるなんて、カッコ良いものですね。」
愛香は皮肉を込めたのだが、ヤルカは褒められたと勘違いしている。
「儂は煬のなかで最高の剣士だ。詛術は我が国の伝統だが、私はその最高権威だ。」
「そうなのですか。素晴らしい。」
愛香は皮肉たっぷりに応じたが、ヤルカ将軍には皮肉の部分は伝わらなかった。
ヤルカは愛香を宮殿の中庭に誘い出した。夏であっても大都の夜空は内陸部である為に晴れ渡っている。
「あの空の首飾りをあなたに進ぜよう。」
ヤルカは空の赤道面に広がる力場発生衛星群を指して語りかけている。空に手の届かないはずの彼らが自信満々に語るその大言壮語に興味をそそられ、愛香はこの男が何を言い出そうといているのか聞きたくなった。
「私は、この国では何も力を持たない人間です。何故に私に話しかけられるのですか。」
ヤルカは愛香を正面に見据えて口を開いた。
「海沿いの戦いでお会いした時には魅力的な踊りを見せられ、我々の電撃から無事に逃げおおせている。また、我々が敗走した時には、亡霊が我々に迫って来ていた。それがあなたではないかと儂は睨んでいる。不思議な方だ。」
いつのまにか、愛香はヤルカに求められるように壁に押し付けられている。愛香の華奢な両腕まで掴んで愛香に被さるように話を続けている。
「あなたはこうして私を追い詰めているではありませんか?。こんな私が何をできると言うのですか?」
愛香は喘ぎながらやっと反論することができた。ヤルカはそれもそうだと言う顔をしながら手を緩めている。そこに、迪恩にそそのかされたオリエが近づいて来た。そのままオリエが愛香の故郷の話を、ヤルカに披露してくれている。
「ほほう、そんな未開の国から来ていたのかね。」
ヤルカは愛香を嘲笑している。オリエが愛香の故郷を柱も天井も無いところに住んでいる、と説明したからだった。
ヤルカ将軍をはじめとする煬の使節を迎えた迪恩やテラートは大都の市民たちと同様に薄着ではあった。しかし、煬人たちは汗臭い武具そのままに、ほとんど肌の上に武具を装備した出で立ちだった。
迪恩は、使節が来たと言う喜びも束の間、今は不機嫌そのものだった。
「失礼な奴らだな。文化的な服もないのか。」
「もやしには、もう少し服が必要らしいな。流石はナヨナヨの帝国人だ。」
度々戦端を開いている両国は和平交渉とは言っても一筋縄ではいかない。今回も右葉曲折があると予想された。
交渉の場は、宮殿の皇帝接見室だった。しかし、そこは名ばかりの部屋であり、不測の事態に対応できる設備がは他になかったから、そこが会場とされていた。
「おれは将軍ヤルカだ。まず要求を言う。海沿いからこの都市までの領域をよこせ。飲まなければ、大都を攻撃する。」
「わざわざ攻撃を予告するために来たのかね。そのためならば、あなた方をこのまま逮捕するだけだが。」
「俺たちが怖くないのかね。お前たちの海沿いの城塞を陥落させたことを覚えているはずだぜ。その実力を知った以上、要求を呑むしか道はない。」
「この大都を攻めることができると言うのかね。あまり自信過剰にならない方が良い。そちらの軍は投石機と電撃が、最大兵器と見ているが、それでこの城塞を落とせると言うのかね。」
ヤルカは迪恩がすでに煬軍の主要武器を把握していることに多少驚いたようだった。しかし、素知らぬ風をして話を続けている。
「ほほう、それなら攻撃するのみだな。」
「それなら、あなた方を逮捕する。和平ならいざ知らず、攻撃すると言う奴らに城の中を見せたまま返すと思うかね。」
検非違使達が逮捕しようとした時、使節の四人は剣を抜き、陣形を作り上げていた。ヤルカは彼らの背後に隠れ、両腕に持った四本の電極のような棒を、天井へ打ち込み、取り付けた。その途端、尖塔の上空から発した稲妻が接見の間に大きく届いていた。部屋の入り口付近から廊下にかけて、十数人の検非違使達は倒れ込み、呆然とする迪恩やテラートを後に残して煬人達は城塞の中へと消えていった。




