かまぼこ長屋の秋(2)
二話目です
「やあ、ご隠居、ようやく来てくれたね?」
「網元、お久しぶりですね」
たとえ網元だろうと、普段なら平気で仏頂面をみせる竜之介には珍しく、愛想よく微笑んで、隣へどっかりと腰掛けた。この町で網元の横に平然と腰を下ろすのは、竜之介だけである。
数年前、ふらりと町に現れたこの男は、ふたりの網元の下に割れていた漁師たちの争いを、一人の犠牲者も出さずに収めてしまった。
その結果、今の網元が町を仕切ることになったのだ。
網元は彼に屋敷に住むよう言ったのだが、竜之介はこれを固辞すると、一番貧しいかまぼこ長屋の奥に居を構えた。
仕事もせず、日がな一日奇妙な難しい本を読んだり、不可思議な実験をしたりするこの風変わりな男を、人々は最初、気味悪く見守っているだけだった。
しかしこのあたりは、元来ヒトがよく世話好きな人間が多い。
色々とおせっかいを焼くうちに、竜之介の方も、彼らが困ったときに知恵を貸してやることが多くなった。これがまた、驚くほど手際よく問題を解決するものだから、みな、竜之介に一目置くようになる。
網元が彼を評して言った。
「日がな一日のんびりと暮らし、しかし、驚くほどの知恵者。まるで、ご隠居さんのような男だな」
爾来、みなが面白がって「ご隠居」と呼ぶようになり、やがて定着した。 竜之介が若くして、ご隠居と呼ばれている、これが経緯である。
「ご隠居、機嫌がいいのは、これだろう?」
網元が酒瓶を引っ張り出すと、竜之介はだらしなく相好を崩す。
「綾瀬小町なんて銘酒、よく手に入れましたね」
言葉は網元に向いているが、視線は一升瓶に釘付けだ。
苦笑した網元は、大きな杯に銘酒をなみなみと注ぐと、竜之介に差し出す。
受け取る男の顔は、まさに至福を絵に描いたよう。
両手で杯をしっかり受け取ると、そのまま口元に運び、ぐびぐびとのどを鳴らす。
「好きだねぇ」
「好きですねぇ」
悪びれず返す竜之介に、網元はまた苦笑した。
と。
突然、真面目な表情になって、居住まいを正す。
「ご隠居、銀二の話、聞いてるかい?」
「ああ、なんでも、富くじを当てたとか?」
「ああ、それも一等だ。五百両の大金だ」
「ほう、そりゃア、豪気ですなぁ。いくらでも旨い酒が飲める」
「ははは、あいつぁ、下戸だよ。そのかわり、酒と同じくらいタチが悪いものにハマってる」
「富くじから連想すりゃ、博打ですかね?」
「さすが、ご隠居。話が早い。生来、博打好きだったんだが、ここ最近は特にひどくて、稼ぎを素寒貧になるまで突っ込んじまってたんだよ。それががまた、ぱったりと博打をやめてね」
「いいことじゃないですか。女房は……ああ、ツネさんでしたっけ? あの人も喜んだでしょう」
「それなんだよ、問題は」
言いながら網元は声を潜めて辺りを見る。
もっとも、寄り合いと言えば聞こえはいいが、要は漁師や若いものの集まる宴会だ。呑んだくれて大騒ぎをしている者の嬌声にかき消され、少々大きな声で話しても、誰にも聞こえることはない。
網元は、騒いでいる若者達の中で、隅のほうにひっそりと座って青い顔をしている女に目を留める。
向こうも気付いてこちらを見る。網元は、手招きしてそばへ呼んだ。
やってきた女は、何かにおびえるような顔で、消沈している。
「やあ、おツネさん、元気がないね?」
「ご隠居……」
「ツネ、ご隠居に話を聞いてもらいな」
ツネはこくりとうなずくと、その場にぺたんと座って話し出した。
話の内容は、そう複雑ではなかった。
富くじに当たってからこっち、夫、銀二のヒトが変わってしまったと言うのである。
「博打は一切やらなくなったでしょう? いい話じゃないですか」
「ええ、それは良かったんですけれど……富くじが当たってからまる三日、あのヒト、ロクに寝てないんです。五百両を入れた箱の前に陣取ったきり、仕事にも行かず、ご飯もほとんど食べず」
「なるほど……心配で眠れないんですね。それほど心配なら、とっとと使ってしまえばいいのに。かまぼこ長屋なんか出て、山の手の方に家でも買ったらいいじゃないですか」
「私もそう言ったんですが……あのヒト、そんなことをしてみろ。長屋の連中はやっかむだろうし、買った家の近所だって、富くじで買ったにわか成金だと馬鹿にするに違いないなんていうんです」
「まあ、にわか成金なのは事実だから仕方ないだろうし、そんなことを気にしても始まらないでしょう」
「ええ、ですが夫の言うこともわかりますから、それじゃあ中を修理しようって言ったんです。ウチもあちこち壊れてますから。ところが、それもダメだって」
「急にきれいにしたら、長屋の連中がやっかむって言うんですね? しかし、それじゃあ、五百両もってたって使えないじゃないですか」
「とにかく、目立つな、派手なことはするなの一点張りで。おかげで枕元に大金を置いたまま、ろくに眠らない日々が続いているんです。これならいっそ、博打で全部すってくれるくらいのがマシですが、あれきり博打もすっかりしなくなってしまいまして」
「ふうむ……金って言うのは持つにも器が要るからなぁ。銀二は急に大金を持ったんで、どうしていいか判らなくなったんでしょうね。何か買おうとすると、みなの目が気になり、かといってすぱっと使ってしまうには、あまりにも惜しい」
竜之介の言葉に、ツネは青い顔のまま、力なくうなずく。
「いっそ、それを元手に何か商売を始めて見ちゃあどうです?」
「商売……ですか? でも、商売なんて、素人が手を出して……」
「まず、うまくいかないだろうね。だが、おツネさんは博打ですってしまえとまで思ったんでしょう? それと似たようなものじゃないですか。銀二にしたって、元手が増える可能性もあると思えば、やってみようって気にもなるんじゃないかな?」
「そうでしょうか?」
「まあ、わからないですけどね。あまりの大金に目がくらんでそんな事を言ってるが、元々博打が好きなやつなんでしょう? いまはにわか吝嗇ん坊になってるだけだから、「増える」って可能性があるなら、やってみようって気になる かもしれませんよ」
「でも、なにを……」
「そうだなぁ……さすがに賭場を開くってワケにはいかないでしょうが、ヤマっ気の強い商売がいいですね。ばくち打ちに、地味に努力を積み重ねる商売は向かないから」
そこで黙って聞いていた網元が口を挟む。
「かまぼこやればいいじゃねえか。それなら、近所のヤツラも手伝えるし」
「なるほど……ここいらの名物だから、売るにも売りやすいだろうし、そりゃあ案外いけるかもしれないなぁ。でかいかまぼこ屋とは内容を変えて、目先の珍しいものをそろえれば、商売がぶつかることもないだろうし」
請け負う二人の言葉の強さに、ツネのほほにも赤みが差す。
「わかりました。帰って夫と相談してみます」
「何かあったら、いつでも来りゃいい。ワシもご隠居も、いつでも相談に乗るよ。な、ご隠居?」
言いながら網元が一升瓶を掲げると、一瞬、口を尖らせて渋い顔をしかけた竜之介は、あわてて相好を崩し、うなずいた。それから口の中で小さくつぶやく。
「ま、当たろうが当たらなかろうが、問題は解決するんだし、旨い酒がのめるなら、いいか」