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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

祝福の神子

祝福の神子

作者: 一条さくら

 大陸南西部に広がる大草原を擁する大国、アナスタシア皇国。その皇都の中心から西に向かって巨大な皇城が聳え立っている。

 皇城の端、誰にも手を付けられることなくひっそりと建つ高塔に近づく者は居ない。

 幽閉塔、とも呼ばれるこの高塔の最上階、貴人を幽閉するためだけに作られたその部屋に、私は住んでいた。


 手枷、足枷、それらを繋ぐ細くて硬い金属の鎖にそっと指を滑らせる。

 太く分厚い鉄の枷から覗く両手足首はほっそりと痩せ細り、肉付きも薄く、まるで骨と皮だけがぴたりと張り付いているかのようだ。

 いまだに、これが今の自分自身の身体なのだと、この骸骨の如き痩せ細った身体で牢に入れられている現実が、私自身の現実なのだとは思えない。

 私の四肢に凡そ四年ほど常時身に付けさせられた枷は鉄製で重く、動く度に柔肌を擦ってしまい、枷を付けている皮膚の周辺は瘡蓋が出来て赤黒い痣を残していた。

 その武骨な枷の周りにぐるりと奇妙な紋様が入っているのは、恐らくこの枷を作った張本人と、付けられた私しか知らぬ事だろう。


「飯の時間だ」


 くぐもった鉄の扉の向こう側で兵士の声が聞こえると、扉の下からアルミ製のお盆が差し込まれた。

 カビの生えたパンが一つと、どろっとした灰色の何か、そして薄く濁った水のカップ。申し訳程度に乗ったそれらを引き寄せ、藁が敷き詰められたベッドまで運んだ。

 動く度にじゃらじゃらと嫌な金属音を立てる鎖が邪魔で、枷を出来る限り視界に入れないよう、パンはカビた部分だけを綺麗に削ぎ落としていく。

 パラパラと溢れるパンくずはお盆の上にかき集め、もそもそと口内の水分を一気に奪っていく乾いたパンを咀嚼し苦労して飲み込んだ。最後に薄く濁った水で流し込んで朝食兼昼食を終えた。

 お盆に乗ったまま手付かずの、灰色のどろっとした何かには手を着けない。

 以前、空腹に耐えきれず同じ物を食した時、胃の中を空にするほど吐いて吐いて吐きまくり、その後三日程は胃が痙攣し、水しか口にすることが出来なかったのは、悲しい思い出だ。


 凡そ三階程の高さがある高塔の頂上にあるこの部屋は、至る所に隙間が空いている。その隙間からお盆に集めたパン屑を落とし、お盆を扉の向こう側へ返すと、薄い綿で包まれている藁を敷き詰めたベッドに潜り込んだ。

 ごわごわと肌を擦るシーツは薄く、藁特有のちくちくとした感触が所々飛び出している。それでも、藁だけを積めていた時とは段違いに居心地が良い。


 耳を澄ませば、遠くに喧騒が聞こえる。

 この塔に封じられた頃から日付や時間の感覚が曖昧で、外の世界がどうなっているのか等知る由も無いけれど、それでもこの喧騒が通常の訓練から生じるものではなく、今まさに他国、或いは内紛によって侵略され、進軍されているが故の事だということは分かった。

 扉ごしに、慌ただしく兵が下がっていく音が聞こえる。

 この部屋に窓は無い。天井に近い部分には鉄格子が嵌まっているけれど、手が届くような場所ではない。ベッドを移動させて足場にしたとしても、届かない程高いのだ。


 じっと体を静止させて耳を澄ませていると、鉄格子からぽとりと白い物が落ちてきた。

 ……いいや、小さいけれど文鳥だろうか。何か機密文書を持たされている訳ではないようだけれど、こんなにも純白な文鳥は恐らく生涯初めて見た。


「お前…」


 そうっと手を伸ばせば、あっという間に文鳥は鉄格子の隙間から飛び立った。

 一瞬だけの邂逅に呆気に取られていると外が騒がしくなり、この高塔に大量の兵士が流れ込んできたのが分かる。

来たのね。

 その靴音はこの部屋に近付くにつれて大きくなってくる。

 荒々しい靴音だ。恐らくは他国か自国の兵士なのだろう。争うような物音が響いてはいるけれど、剣を交えているような音は聞こえてこない。


 素早くベッドから起き上がり、事の成り行きを見守るべく、扉が蹴破られるのをじっと身を固くして待った。

 程なく、扉の厳重な鍵が壊れ、いよいよ大量の兵士が流れ込んで来るのを想像していると、勢い良く開いた扉からゆっくりと姿を表したのは、私がよく見知った人だった。

 より正確に言えば、私が高塔に封じられる以前に身近に居た人物だ。


「カナシュタ、義兄様……」


 ぶるぶると、自分の意思に反して身体が震える。

 歓喜なんかじゃない、これは歴とした恐怖だ。


 濡れるような艶やかな黒髪に赤いルビーの目を持った壮絶な色気を放つその人は、黒の軍服に身を包み、部屋の内部をさっと見渡すと、立ち竦んだままの私に大股で近付き、その腕に深く抱き込んだ。

 鉄錆びに似た血の香りがしたのは一瞬、爽やかな柑橘系の匂いが鼻腔を擽った。


「テルミナ、待たせたね」

「か、カナシュタ義兄様、痛い、です」

「ああ、すまない。テルミナが無事で嬉しくて力が入りすぎたよ」


 痛い程抱き込まれて密着した身体が僅かに離され、カナシュタ義兄様は部屋の外で待機していた部下に合図を出して、私の四肢を拘束する枷を外させた。

 重苦しいが、着実に私を守る為の枷が (・・・・・・・・)外された瞬間だった。


「ありがとう」


 騎士の如く跪いて枷を取り払ってくれた兵士に御礼の言葉を口にすると、私の頭上から殺気にも似た冷ややかな冷気が目の前に跪く兵士に向けられた。それは紛れもない殺気だった。

 一瞬にして彫像と化した兵士は、ぎくしゃくとした動きで側を離れ、部屋の外へと去って行ってしまう。

 もし仮にこの殺気が私自身へ向けられていたものならば、みっともなく気絶してしまったかもしれない。


 枷が外された瞬間から、ふわふわと小さな金色の光が身体の周りを舞う。と同時に、それまで身体の内側に封じられていた魔術の元素が身体の隅々を行き渡り、身体を自然と動かすように魔術の元素が内部で揺らめいた。

 ここに至って漸く、自分がどれくらいの日数でお風呂に入っていないのか。また、長年の垢によって浮浪者にも似た饐えた臭いを纏っている事に気付き、反射的にカナシュタ義兄様から数歩離れた。

 すると素早く伸びてきたカナシュタ義兄様が私の腕を取り、それ以上離れないように手を固定すると、魔術を用いて全身を浄化してくれる。

 水の元素を用いたそれは、皮膚の表面を洗い流し、長年付いてしまった垢や溜まった皮脂さえも取り払う。それは身に付けた衣服にも及び、長年着古して黒ずんだ衣服は、汚れた部分だけが綺麗に取り払われ、数分も経たぬ内に、私の身体はすっかり清潔となった。


「カナシュタ義兄様、ありがとうございます」


 腕を握ったまま動かないカナシュタ義兄様を見上げてそう言えば、カナシュタ義兄様は何処か探るような視線を向け、私の言葉に嘘偽りがないと判じたのか、漸く口元を緩めて微笑んだ。


「積もる話はあるけれど、とりあえず今日はこのままで。さあ、行こうか。テルミナ」


 そう言って些か強引に私を横抱きに抱き上げたカナシュタ義兄様は、部屋の外で狼狽える部下に視線をやり、「後は任せた」と何やら指示を出して高塔の階段を下りていく。

 その足取りは、私という荷物を持ってしても軽いものだ。しなやかな筋肉がついた固い腕は、意外な程にがっしりとしている。


「カナシュタ義兄様、この塔に居た兵士はどちらにおられるのです?」

「……どうしてそんな事を聞くんだい?」


 恐る恐るそう口にした私に、再び冷たく刺すような声が降ってくる。と同時に、零度まで下がった空気が私の口を重くした。

 けれどここで負けていては、彼等の命に関わるのだ。

 敢えて近距離に居たカナシュタ義兄様と目を合わせ、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「あの兵士達は、ただ職務を全うしただけです。どうぞあの者達に、慈悲をお与え下さい」

「テルミナ、」


 静かに名を呼んだカナシュタ義兄様は、咎めるように私を見詰める。精一杯の虚勢で震えないように、自制のきかない身体を動かしてカナシュタ義兄様の頬に指を滑らせた。


「私がここに居た事は、彼等の職務には関係の無い事です。今の私が在るのは、彼らが職務に忠実であったが故のこと。どうぞ、お慈悲を…」


 カナシュタ義兄様は無言で頬に添えられた私の指先を掴み、その口元に引き寄せてキスを落とした。

 その仕草は、およそ義妹へ向けるようなものではない。愛情に満ち溢れた行為だった。


「テルミナがそこまで言うのであれば、彼等の首はそのまま繋げておくとしよう。ただ、後の処遇は私が判断する。それで良いね?」

「はい」

「分かった。ならば此度の件は貸し一つとしておこう」

「…はい、カナシュタ義兄様」


 胸の内に苦いものが広がり、平静を装ってこくりと頷いた私とは対照的に、カナシュタ義兄様は輝くような笑みを浮かべた。

 今回だけは、我慢する他無い。ここでカナシュタ義兄様の機嫌を損ねては元も子も無いのだから。

 そんな話をしている内に、高塔の入り口が見えてきた。

 高塔に幽閉されて六年。私は、久方振りの外界へと出ていった。





 高塔を出た足でカナシュタ義兄様が向かったのは、皇城の心臓部でもある皇帝陛下が住まい、普段から執務を執り行っている、アナスタシア皇国の中枢部だった。

 ここまで来るのに、随分と無遠慮な視線の嵐に晒されてきた。それは恐らくカナシュタ義兄様の珍しい姿と、私の周囲に舞う金の光が関係しているのだろう。

 これは私というある種の特異な存在を証明する、唯一の物なのだから。


「カナシュタ・フロンタール様」


 皇城の中でも最も権威ある謁見の間に入ると直ぐに寄ってきたのが、カナシュタ義兄様とは少し趣の違う紺色の軍服を纏った青年だった。

 高塔を出てからずっと気になっては居たけれど、やはりこれはカナシュタ義兄様が他国の威を借りて行った侵略戦争なのだろう。

 特徴的なのは、肩から胸元に掛けて流れるように下がる金紐と胸元に掲げられた百合の紋章。滑らかで光沢のある生地に刺繍された袖口の蔦模様は、高級軍人の証のようなものだ。我が国の紋章は大鷲が羽を広げたものであり、軍服は基本的に濃緑色で統一されているから、これだけで他国の者と直ぐに分かる。左肩から色鮮やかな緋色のマントを羽織っているのは、目の前の青年が高級軍人の中でもより上位の人間である証左だった。

 記憶が確かならば、これはアナスタシア皇国と国境を接する大国、ドロワー王国の正規軍人が纏う指揮官級の軍服だった。


 カナシュタ義兄様は、ドロワー王国に身を寄せていたのか。

 驚きで思わず身動ぎする。

 六年という月日は長い。いつ、どの時点でカナシュタ義兄様が敵国に渡ったのかは分からないけれど、少なくとも今は、アナスタシア皇国の人間ではないということは確かだった。

 足早に駆け寄る片眼鏡(モノクル)を掛けた青年は、カナシュタ義兄様の腕に納まった私を見るな否や眉を上げて驚いた。

 もうそろそろ下ろして欲しいのだけれど、カナシュタ義兄様の腕の力は緩むことなくこの身を拘束している。

 だから私は、礼を失しているけれど、精一杯の敬意をもって青年に目礼した。


「ご苦労。さて、どのような状況だ?」

「皇城の制圧は粗方終了しました。数名、逃亡を許してしまいましたが、小隊が後を追っています。捕らえるのも時間の問題かと」

「それは重畳。兵を集めて、アナスタシア皇国の重臣達を集めておけ。ああ、それから皇族達もだ」

「畏まりました」


 恭しく一礼した青年はちらりと私を流し見て、身を翻した。カナシュタ義兄様の意を伝令するべく足早に去っていくその背を眺めていると、顔に影が差し、首もとに小さな痛みが走った。


「カナシュタ義兄様…」

「あまり、妬かせないでおくれ。テルミナ」


 そんなつもりは毛頭ない。が、カナシュタ義兄様の目の奥に宿る黒い炎は明らかな嫉妬を表していて、ただ小さく頷くにとどめた。そうでなければこの炎は周囲に甚大な被害を及ぼすまで留まることを知らないのだ。


「さて、それじゃあ―――」

「フロンタール様っ!」


 カナシュタ義兄様が何か言われようとしていた言葉と重なるように、甲高い鈴を鳴らしたかのような女性の声が響いた。

 一目散に駆けてくるその女性は、真っ赤なドレスに白い薔薇のコサージュを着けた美しい女性だった。

 艶やかな栗色の髪と淡い空色の目が印象的な女性は、いまだカナシュタ義兄様の腕に抱かれたままの私を見て、はっきりと顔をしかめた。


 思わず、気恥ずかしさにカナシュタ義兄様の胸を押してその腕から地面に降り立った私を、カナシュタ義兄様が不機嫌そうに見る。いつもならばこれからの事を思えばカナシュタ義兄様を不快にさせる行動などしないのだけれど、生憎と私は久しぶりに高塔を出た事で少しだけ気が大きくなっていたのだ。

 ふい、とカナシュタ義兄様の視線から逃れるように謁見の間をじっと眺める。隣に立つカナシュタ義兄様の機嫌が更に下降したのを感じながら、今度は距離を縮めてくる女性へと視線を向けた。

 当の女性はカナシュタ義兄様の迸る怒りのオーラに気圧されたのか、駆けてきた歩調を緩めておずおずと伺うようにカナシュタ義兄様の側に近寄った。


「フロンタール様、」

「メイナール嬢、此方は危険ですからお越しにならぬようにと申し上げた筈ですが」

「ええ、そうね。でも、フロンタール様のことが心配だったのですもの。兵達がフロンタール様が帰って来たと言っていたから、駆けてきてしまったわ」

「そのような心配は無用です」

「ええ、そうでしょうね。…所で、そちらの方はどなたですの?」


 二人の会話をじっと注視していた私は思わず肩を揺らしてカナシュタ義兄様を伺った。

 これはどうしたものか。

 女性に対して礼儀を持って丁寧に、けれど些か慇懃無礼に対応していたカナシュタ義兄様は、女性の言葉にそっと私を見下ろした。


「この子は、テルミナ・ローズ・アナスタシア。アナスタシア皇国の第一皇女にして、皇位継承権第二位。そしてこの世界でたった二人しかいない、祝福の神子であり、私の義妹いもうとですよ」

「祝福の、神子…」


 カナシュタ義兄様の言葉に、謁見の間に集まった兵士達が騒めいた。

 それもその筈か。祝福の神子といえば伝説級の存在であり、いわば御伽噺の中の人間だ。

 とはいえ、祝福の神子と呼ばれる存在は、私だけではない。

 この、私の隣に立つカナシュタ義兄様もまた、私と同じ祝福の神子なのだ。

 …とはいえ、私とカナシュタ義兄様では、その役割も違うのだけれど。


「テルミナ、こちらはドロワー王国の第二王女であらせられる、メイナール・サルビア・ドロワー王女殿下だ」

「お目汚しをしてしましましたね、メイナール・サルビア・ドロワー王女殿下。私はテルミナ・ローズ・アナスタシア。私は最早名ばかりの皇女ではございますが、どうぞお見知りおき下さい」

「…ええ。こちらこそ、よろしくお願い致しますわ。テルミナ・ローズ・アナスタシア皇女殿下」


 優雅に淑女の礼を取れば、女性――メイナール王女が同じように礼を返してくれる。

 なんとも言えぬ奇妙な空気を破ったのは、謁見の間の隅で悲鳴にも似た声を上げる男性の声だった。


「テルミナ、皇女殿下っ! ご無事で、ご無事であられたのですね!」

「ザイツ侯爵」


 思わず、そちらへ駆け寄ろうとした時、六年間殆ど動かしていなかった萎えた足が縺れてふらりとよろめいた。それを支えてくれたのは、言わずもがなカナシュタ義兄様で、周囲に居た兵士達によって乱暴に取り押さえられたザイツ侯爵は口の端に血を流しながらこちらを食い入るように見つめた。

 ザイツ侯爵家は、このアナスタシア皇国が建国されて以来皇族を守り奉ってきた、アナスタシア皇国皇族に忠誠を誓う家だ。

 私が父たる皇帝陛下と相談した上で高塔に封じられた時などは、常になく狼狽し、断固として反対した忠義の人でもある。


「行きたいか、あの者の元へ?」

「はい、勿論です」


 耳元で囁かれたその言葉に頷けば、カナシュタ義兄様はメイナール王女へ辞去を申し出、私を支えたままザイツ侯爵の元へと向かった。


「ザイツ侯爵、」

「ああ、皇女殿下っ。ご無事とは知らず、どれほどご心配申し上げたことか。ああ、本当に、本当にご無事でいらっしゃるのですね?」

「ええ、私は無事よ。…カナシュタ義兄様が、来て下さったから」


 僅かに言いよどんだ私を労わる様に微笑んだザイツ侯爵は、私の背後に控えたカナシュタ義兄様を憎悪も露わに睨み付けた。


「陛下が貴方を追放した時、これですべてが収まるのだと確信していたというのに。なぜ、何故我が国へ戻ってきた? よもやまた皇女殿下を害する気ではあるまいな」

「口が過ぎるぞ、ザイツ侯爵。私はこれでも、ドロワー王国からアナスタシア皇国の攻略を任された総司令官だ。口を慎むがいい」

「陛下の温情を忘れ、皇女殿下に不敬を働いた平民上がりの皇族風情が…っ、がっは!」

「カナシュタ義兄様!」


 跪いたまま憎悪を吐くザイツ侯爵の顔に、カナシュタ義兄様の膝がめり込んだ。


「無様な侯爵風情が、知った口を聞くな」


 氷のような眼差しでザイツ侯爵を見つめたカナシュタ義兄様は、腰に下げた剣に手を掛けてすらりと鞘から抜き放ち、今にもザイツ侯爵を斬り捨てんばかりに剣を振り上げた。

 カナシュタ義兄様の膝蹴りは相当な力が入っていたのだろう。整った顔立ちをしていたザイツ侯爵の顔はみるみる内に腫れあがり、鼻や口、そして負傷していたらしいこめかみから大量の血が流れだしていた。


「カナシュタ義兄様、止めて下さいませ。ザイツ侯爵の無礼は、私が責を負います。ですからどうか、どうかこれ以上はお止めになってくださいませ!」


 ザイツ侯爵を庇うように、振り上げた剣を納めて貰おうとカナシュタ義兄様に抱き着いた私を、カナシュタ義兄様は鋭い眼差しで見下ろした。


「それがどういう意味を持つのか、わかっているのか?」

「ええ、勿論です」


 何度も頷き懇願を繰り返すと、カナシュタ義兄様はふっと息を吐き、側で硬直しつつ事態を見守っていた兵士達にザイツ侯爵を連れ出すように指示を出し、剣を鞘に納めた。

 こちらに背を向けた彼に、私は祝福の光を降り注がせる。これでザイツ侯爵がどのような処罰を受けようとも、害意を持つ者達からの攻撃をことごとく弾く筈だ。彼の守りとなるものは多いことに越したことはない。

 ぎゅっと私の腰を抱き、私の首元を小さく舐め上げたカナシュタ義兄様は、数人の部下を呼び、指示を出す。その間にも、アナスタシア皇国の政治の中枢を担ってきた皇族や重臣たちが集められ、私の姿を見ると大きく目を見開いて見つめてきた。

 その中には、私の育ての母たる側妃や、その子息子女も混じっていたが、父たる皇帝陛下の姿は何処にも当たらなかった。


 …ううん、ちゃんと分かっている。皇帝陛下は、二年ほど前に崩御したのだ。その葬儀に参加することも、喪に服することも出来なかったけれど、兵士達がそう噂しているのを聞いていたから。

 でも、こうして目の前に立つ皇族達を目の当たりにすると、そこに私の唯一の肉親が居ないことに打ちのめされてしまう。


 ―――カナシュタ義兄様は、元々皇帝陛下たる父の妹の子どもだった。当時カナシュタ義兄様のお母様たる叔母は臣籍降下しており、皇族という地位から外れていた。にも関わらず父にとっては甥であったカナシュタ義兄様を引き取り、養子としたのは私が幼い頃のことだった。その理由はただ一つ。カナシュタ義兄様が特別な存在である祝福の神子であったからだ。

 私よりも五歳年上のカナシュタ義兄様は、皇族として名を連ねるようになった当初から祝福の神子として広くその存在を知られ、その特性を持って周囲の人々の心を掴んでいた。勿論それにはカナシュタ義兄様自身の魅力も大いに関係しているのだろうけれど。


祝福の神子には特別な力がある。誰にも操ることのできない、唯一無二の力が。

けれどもし、アナスタシア皇国に伝わる古い秘儀を皇帝陛下たる父が持ち得ていなければ、或いは受け継いでいなかったならば、皇帝陛下ですらカナシュタ義兄様の意のままに操られていたことだろう。

 同時に、私がカナシュタ義兄様と同じ祝福の神子でなければ、義妹でなければ、こうなってしまう前に少しは状況を変化させることも出来たのかもしれない。

 けれど狂ってしまった歯車を止めることなど出来はしない。


 父たる皇帝陛下は、私を幽閉する前、カナシュタ義兄様が私へ向ける異常な程の執着心と歪んだ愛情を見抜き、遠ざけていてくれた。けれどもそれだけではカナシュタ義兄様を止める事など出来はしなかった。出来るのはせいぜい、二人を引き離すことだけ。

 なにせ相手は私と同じ祝福の神子たるカナシュタ義兄様なのだ。だから皇帝陛下は一計を案じて私を幽閉し、それと同時にカナシュタ義兄様を追放した。

 皇位継承権を剥奪し、皇族という位からも追いやった事で、私は安全に暮らせる筈だったのだ。 

 けれどもそれをもってしても、カナシュタ義兄様の執着心は消える事無く、こうして敵国の司令官として姿を現した。

 義妹を助け、アナスタシア皇国を攻略するという大義名分を持って。


「アナスタシア皇国は、ドロワー王国の属国となる。これはドロワー王国の国王陛下の意思だ。けれど自治権は、アナスタシア皇国の統治者に委ねられている」


 泣きそうに顔を歪めた私の耳元でそう囁くカナシュタ義兄様は、艶やかな笑みを浮かべてゆったりと私の髪を撫でた。愛情に溢れた、愛おしそうなその仕草は、こんな状況でなければ…いいや、こんな関係でさえなければ、とても喜んでいた行為だろう。

 けれども私がカナシュタ義兄様へ向けるのはただひたすらに、家族へ向ける親愛の情だけだ。

 この温度差が、私達の関係を拗らせ、そしてまたこんな状況に陥ってしまった原因でもあるのだろう。

 でも、それでも、私はカナシュタ義兄様に愛情を返せない。だって私は、カナシュタ義兄様の義妹なのだから。


「心配などしなくて良い。私が傍についている。これは国王陛下にも承認を得ていることだ」


 嫌な予感に胸を騒がせた私は、じっとりと冷や汗が滲み、ぶるぶると体を震わせた。それを労わる様に撫でるカナシュタ義兄様の手は優しい。けれどカナシュタ義兄様が紡ぐ言葉は滴るような毒に満ちている。


「統治者は、誰だと思う? 最もそれに相応しい人間が、今ここに居るだろう?」

「カナシュタ義兄様、まさかそんな…」

「さあ、時間だ」


 嘘、嘘よ。

 謁見の間に集められた皇族以下アナスタシア皇国の重臣たちを前に、カナシュタ義兄様は謁見の間に響くような大きな声で宣言した。


「ここに居る、テルミナ・ローズ・アナスタシア第一皇女殿下は、今この時を持って、アナスタシア皇国の統治者たる女帝となられた。アナスタシア皇国はこれよりドロワー王国の属国として、テルミナ・ローズ・アナスタシア陛下の統治の元に併合される。これはドロワー王国の国王、グランツ・ミズナ・ドロワー陛下の御意思である。心するように!」


 ドロワー王国の兵士達が深く礼を行う側で、アナスタシア皇国の皇族や重臣たちは蒼白な表情で震えていた。

 恐らく私も彼等同様に、蒼白な表情をしていることだろう。背中を支えるように手を添えたカナシュタ義兄様の腕がなければ、きっと私は倒れ伏していただろう。


「お帰り、私の(・・)テルミナ」


 そう囁いたカナシュタ義兄様は、いっそ憎たらしい程に美しくも妖艶な満面の笑みを浮かべた。


 これが、ドロワー王国の属国となったアナスタシア皇国の皇女、テルミナ・ローズ・アナスタシアが女帝として皇位に就き、祝福の神子として名を馳せる事となる第一歩を踏み出した日となった。

 ―――これが私がこれから語る物語の、終わりの、始まり。


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