No.03 Full moon ~Today you, tomorrow me.
「…?」
昨日は結局魔王コンビと別れた後、真っ直ぐ帰路に付いた。一昨日の出来事もあってかあまり夜遅くを出歩く気にはなれなかったのだ。ちぐはぐな自室で、ある程度の家事を済ませてから就寝した。時間としては22時くらいだろうか。高校生にしては早い睡眠時間だと我ながら感心する。そうして今朝は快調に目が覚めたのだが、何か違和感がある。どうにも形容できない、しづらい違和感。胸騒ぎとも言えるだろうか。布団から這い出てカーテンを開けると、昨日と変わらずの晴天だった。強いて違う点を挙げるならば、少し風が強いとか、そんな程度の差異だ。寮の窓から見える大木に実った葉がざわざわと揺れている。自分の心中を現すかのような景観に眉を顰めた。
ぼうっと窓から見える景色を見ている訳にもいかないと、少年は己を急かして動き始める。繰り返しのビデオテープを何度も回すように、彼は昨日の朝と同じく、洗面所で着替えと身だしなみを整え、珈琲を淹れて、一人がけのソファへ身を沈めた。朝の貴重な短い時間に毎日全くの変化がある者など、あんまり居ないだろう。特に朝が得意でない者は、時間ぎりぎりまで惰眠を貪り、忙しなく準備をして、家を出る。大体は皆それの繰り返しなのだ。得意な者は朝早くに起きて多少違う事を出来るのかもしれないが、生憎と少年は朝が得意な方ではない。熱い珈琲を片手に持ったまま、もう片手でテーブルのパネルを操作した。青色の電光がちかりちかりと輝くのが、寝起きの眼には眩く感じて少年は目を細めた。
『長らく報道されている連続怪死事件ですが、昨晩新たな被害者が発見されました。被害者の身元は不明、現在ファルスム治安維持機構は全力で調査を――』
パネルを操作し終えてテレビがつくと同時に、アナウンサーの悲痛めいた声が耳に届く。作り物染みた声だなと思う余裕も無く、少年は即座にテレビ画面に釘付けとなった。パネルに触れていた片手が行き場を無くして宙を掻く。もう片手で掴んでいたカップを無意識にぎゅっと握り、掌に熱さを感じた所ではっとなった。顰められている事の方が多い眉間の皺を、より一層深くして思考する。
『被害者の心臓部は無惨にも抉り取られ、頭部の骨は粉砕して顔が特定できなくなっており――』
アナウンサーの発する声が途切れ途切れに聞こえた。少年は心のどこかで自分には関係の無い事だと思っていたのだ。ニュース番組に流れる報道を可哀想だとか、大変そうだとか、早く捕まればいいのにとか、そんなありふれた感想を持つことは出来ても、身の回りで自分にも起こるかもしれないだなんて、普通思わないだろう。テレビの前の視聴者には無関係と言っても過言ではない訳であり、大きく見積もっても普段から気を付けよう、位にしか思えない。なんたって他人事なのだから。悲しく思う事は出来ても、自分の周りで起こる事を想定しやしない。そして実際に起こっていたとしても、やはり己の身に何かしら危害が加わらない事には、他人事で有り続けるのだ。
少年もそうだった。一昨日出会った”人型の何か”が連続怪死事件の犯人だったと仮定して、実際に少年は何の危害も加えられていない。強いて述べるならば、見た目はイケメン中身は乙女な寮長に長時間の説教を喰らったくらいで、怪我をしただとか、況してや命を狙われた訳では無いのだ。
『――被害者の服装はリベロ・オムニブス・スコラ学院のもので――』
何よりも少年を安心させていたのは、被害者の共通項だった。学生が圧倒的に多いこのL.O.S.敷地内に於いて、生徒は誰一人被害に合っておらず、被害者は皆、商店街の大人だったり、機関や機構の職員ばかり。要するに少年は此度の怪死事件では”生徒は狙われない”もしくは、学院関係者は狙われない”と、そう信じ切っていた。
『胸ポケットのシンボルマーク部分は抉り取られ確認は出来ていないようですが、恐らくミセル生徒では無いかと思われているようです。学年や身元が解る物は残っておらず、現在学院側と協力して身元解析を行って――』
「……」
回らない頭を懸命に動かそうとするも、少年の脳は思考する事を拒絶する。片手に持っていた珈琲は湯気が薄くなっていて、あまり美味しくは無さそうだった。こんな事件が起きたというのに、どうも学院は休みになっていないらしい。テーブル上に設置されたテレビのパネルであり、学院側からのメッセージ受信機能は、点滅する兆しすらない。休校にしてしまったら、来ていない生徒から虱潰しに検索する事が不可能だからなのか、又は異能者の集う学院生徒なのだから自分の身くらいは自分で守れという事なのか。少年にはわからないが、今日も今日とて学院に向かわねばならない事だけははっきりしていた。
ほぼ口にしていない珈琲をぐっと、例えるならば二口分くらい飲み込んで、ソファから立ち上がる。そのまま台所へと向かい、温くなった液体をシンクに流して、カップをそっと置いた。アンティーク調のコックを捻り、冷たい真水を両手で掬う。ぱしゃりと顔に一度だけかけると、急速に頭が冴えていくような錯覚を覚えた。所詮は錯覚に過ぎないのだが、一時的にでも頭が冷えるのは有難い。洗面所のタオルで顔を拭いて、とっとと通学の準備を行った。
「行くか。」
準備を終えていつものボストンバックを肩にかけると、足早に部屋を出る。目に映る絨毯は、普段通り痛い赤色をしていた。そのまま中央階段を抜けて重厚な扉の前に辿り着く。生徒達がざわついて見えるのは錯覚では無く、今朝のニュースを受けてなのだろう。視界に入った体格の良いイケメン乙女な寮長は、現に生徒達に囲われ何やら質問されていた。生徒達に囲われているというのに、頭一つ分、否、それ以上に大きな図体の寮長は、遠くからでも何処に居るかすぐ分かる。眉を下げて心配そうな顔の寮長を見るだけで、彼等が何を話しているかは何ともなしに察しが付く。
大扉を開くと、昨日同様に太陽光が射し込んできた。冷たくも、暑くも無い、丁度良い風が隙間から吹き込んでくる。やはり本日は晴れのち強風のようだ。多少強い風を物ともせずに寮を出ると生徒達の姿と声が、いつもより多く感じた。不安に掻き立てられ平常時より早く寮を出たのか、乃至はテストが近いからなのか。双方共に有り得そうな選択肢である。抑々、L.O.S.学院生徒は事件に対してあまり関心を持っていないのかもしれない。多少の噂は聞けど、掘り下げている者はあまりいない。といっても話し声の中にちらほら聞こえてくる話題なのだから、やっぱり関心はあるのだろうか。
憶測ではあるがミセル生徒はそれなりに関心を持っているが、ケルサスやウルグスに属する生徒は、何が来ても身を護れると過信しているので、興味が無いのやも知れない。彼等は随分と己を高く評価している。別に構わないとは思うが、危機感なんかには欠けている気がしてならない。箱庭で育った子供が自信を持っても意味が無いのではないだろうか。ケルサス生徒ならばわからいでもないが、割とウルグス生徒の方が自信家が多い。
ケルサスの中でも一等星だとか、最上の輝きを放つ奇蹟(センティナリー・ダイアモンド)だとか、何やら胡散臭い渾名を持つ生徒なんかは、非常に自信家でプライドが高いと聞いたことがあるが、実際に彼女は優等生の中でもずば抜けた成績で、学院には殆どおらず、普段は任務にばかり就いていると聞く。其処まで輝かしい名声と成績が有れば、怪死事件なんかに危機感や恐怖心を抱かずとも解るのだが。
どうでもいい方向に傾き始めた思考の渦に、ふと薄桜と深紅のグラデーションヘアが浮かんだ。立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、しかし中身は残念無念な変人。見た目と才能だけは備わっているようだが、彼女は決定的に中身が残念だ。馬鹿と天才は紙一重と言うが、彼女はきっとその類いだろう。一方的な会話を繰り広げられるだけで割と疲労するレベルの変人だった。人気が有るのは誰も話しかけようとしないからなのだろう。あと見目は麗しい。見た事が無いレベルの美人だったことは認めざるを得ない。そういえば彼女は何か自分に言ってはいなかっただろうか。いや、大量に話していたがそうではなく。何なら一方的に此方の返答も待たずに捲し立てていたが、そうでもなく。理解できないボケを吐きだし続けていたが、それでもなく。
”君、薄幸の相が出てんで。十分に用心した方がええ。特に、夜間は出歩かんのが吉やね。”
そうだ。彼女はひたすらに、誰が求めた訳でもないというのにボケ続けていたが、途中で何やら不吉な事を言っていたではないか。聞いているようで聞いていないような、要約するとほぼ自分は彼女の話を聞いていなかったのだが、思い返してみれば、何かを仄めかしていた。問い正したくとも彼女にもう一度出会える保証はない。所詮は偶然の産物であり、彼女も初対面でほぼ無視を決め込んだ自分ともう一度会おうとは思わないだろう。捜し歩くのも馬鹿らしい。結局は彼女の出した問題を自分で解くしかないのだ。
昨日と同じ目的地へと辿り着き、無事昼食を買い、学院への通学路を歩いている間も、少年はぼんやりと彼女の台詞を反芻していた。
解答は見つからないまま、気付けば昼休みの真っ只中。風が強い日などは展望庭園の周囲は透明なガラスで覆われるのだが、本日はそれのようだった。見た分に変わりはなく、ただ風が吹きこんでくることが無いだけなのだが、何処か味気なく感じるのは風情の問題なのだろうか。因みに午前中はいつもと違う点は殆ど無く、ホームルーム中に簡単な注意喚起が行われただけだった。何一つ変わらない日常に違和感を覚えるどころか、安堵している自分が居る。変わらないことは何よりも大事だ。日常的に変転するような生活はあまり送りたくない。平穏無事とはどれほど幸福な事か。
影が差しつつあった筈なのに、午前中だけで毒気を抜かれてしまった少年はやはり能天気なのだろう。近代的な扉に背を向ける形でクリームとホワイトの中間色程度のイスに腰掛ける少年は、変わらぬ風景に少しばかり眉間を和らげながら昼食を摂る。昨日はどこぞの優等生に大事なランチタイムを邪魔された為に、いつもならばイスに腰掛け昼休みの大半をぼんやりと過ごすが、手早くサンドイッチの封を切り口に運んでいる。程よいしゃきしゃき感のレタスと、まろやかなチーズ、潰れていないトマトと、塩気のあるハムが協和するサンドイッチをもぐもぐと咀嚼していると、突然背後から声が降ってきた。
「およ。君やっぱ此処に棲息してんねんな。」
気配も、音も、何一つ感知させずに展望庭園へと入ってきて自分の背後に立ち、あろうことか声を掛けてきたのは昨日の戦犯だった。声で誰が居るのか気付いた少年が急いで振り返って見上げると、翡翠の双眸を細めて胡散臭く微笑む美少女が緩く手を振っている姿が視界に入る。微笑を浮かべて手を振っていると捉えれば見事な景色なのだが、如何せん彼女の笑顔は尋常じゃなく胡散臭い。とてもではないが、同級生とは思えない。
「これまた随分と失礼な暴言を吐きまくりよって。まあ、おもろいからええねんけど。相席宜しいかい、少年。」
有無を言わせる気が皆無と顔に書いてある少女は、返事も聞かずに少年の真前に位置する空席へと座った。何処から取り出したのか、彼女の髪によく似た色の包みを取り出して机上に置くと、慣れた手付きで開封していく。包みの中からは、無駄に立派な漆塗りの弁当箱が現れた。漆黒の器や蓋には、銀色の鳩模様と葛が刻まれている。鳩の目に位置する部分にはあからさまに高そうな赤色の宝石が填め込まれていた。弁当箱に宝石とは、洗い物が大変そうだなと現実逃避し始めた脳内で少年はどうでもいい感想を述べていた。行儀作法はきちんとしているのか、頂きますと手を合わせ、少女は箸を持ち、色彩豊かな弁当箱の中身をつつき始めた。どうやら何から食べるのか悩んでいるらしい。
「……って、そうじゃねぇよ!」
思考の海から抜け出して、目の前で淡々と食事を始めようとする少女に向かって口を開く。完全にスルーしてしまいそうだった。というより、現実から目を背けそうになっていた。現在の状況は自分にとって明らかに異質である。
「え?少年はあれか、好きなもんから食べるタイプか。うちはどっちかってーと好きなもんは後で食べたい系やねん。」
「いや俺もどちらかと言えば後者だが…ってそうでもねぇ。違う。」
「んー?うちの弁当に何や文句がおありと。言うとっけどめっちゃ美味いかんな。やらんぞー。」
「……俺は食いしん坊か。」
ぴかりとよく磨かれた黒い箸を自分の顔前で開いたり閉じたりしながら、ふふんと得意げな顔をする少女の姿に、早くもツッコミを放棄したくなった。何なのだろうか彼女は。取り敢えず彼女のペースに巻き込まれ続けると、貴重なランチタイムが終了してしまう。手に持ったサンドイッチを口に放り込んで咀嚼していると、眼前の少女は悩みに悩んだ末、金平牛蒡に箸を伸ばしていた。
「ああ、そういや少年よ。」
何やら自分に問いかけようと言葉を発したかと思うと、口に金平牛蒡を放り込み、少し子供っぽい顔で咀嚼し始めた。貼り付けたような胡散臭い笑顔は何処へやら。そして途中まで話したなら、全部話し終えてから食事を始めろよと思いつつ、サンドイッチを飲み込んだ。口の中に物が入っている内は言葉を発しない様を見るに、やはり礼儀作法は完璧なようだ。子供染みた笑顔との対比に違和感を覚える。
「自己紹介がまだやったなーってさっき気付いてんけど、君、名前は?」
一口目の金平牛蒡は無事彼女の胃袋へ送られたらしい。少女から投げかけられた今更過ぎる質問に溜息を飲み込もうと思うも、気付けば自分の口からは大きな吐息が吐きだされてしまっていた。眼前の少女は臆する事も無く、どこか和やかな雰囲気のまま食事を続けている。食事が好きなのか、やっぱり昨日見た彼女に比べて子供っぽい、というよりは幼い顔をしていた。年相応と言うべきか、それでも整っている事に何ら変わりは無いが、こうして見ていれば普通の、大層美人なただの高校生にしか見えない。無視を決め込みたい気持ちを抑えて、口を開いた。彼女には問わねばならない事があったのだ。昨日とは打って変わって自然と声を発している事には気付かずに、そのまま少女へと言葉を投げかける。
「名前を聞く時は自分からって習わなかったのか。」
自分の口から出たのは思っていたより刺々しい台詞だった。しかもよく考えてみれば彼女に聞かずとも、自分は彼女の名を知っていると言うのに。人付き合いが苦手なのだから仕方がないだろうと、心の中で小さく言い訳を零し彼女を見遣ると、翡翠の双眸を瞬かせて、花が綻ぶような、眩しい笑顔を浮かべていた。胡散臭さは微塵も感じられない、ただの美少女の笑顔だ。何か違うと思ってしまうのは、きっと昨日の彼女の所為だろう。万人が照れてしまう笑顔は、ひどく心臓に悪い。
「ん? そりゃそうやったな。ごめんごめん。うちの名前は葛紅衣。葛さんとか紅衣さんとか、何や適当に呼んでくれて構わんよ。」
「さん付けを強要してくるなよ。」
「君の強面具合でちゃん付けとか薄ら寒いで、背筋凍るわ……。」
「するか!」
「え? すんの?」
「しねぇよ!」
へらりと笑いながら会話する少女に翻弄されながらも言葉を返せている事に、内心驚きを隠せなかった。自分は特に同い年との会話を苦手とするのだ。然もさらさらと口から吐き出される刺々しい台詞に、彼女が憤る事も無く返答しているのにも驚いた。優等生は皆一様にプライドが高く自信家で、我こそが一番頂点だとかそんな風に考えている者ばかりだと思っていたのだが、どうやら当ては外れてしまったらしい。何処となく感じていた居心地の悪さは、気が付けば消え失せている。薄桜と深紅の対比が美しいグラデーションカラーの髪が、何がそんなに面白いのか、笑い続ける彼女の身体に合わせてふわりと宙を舞う。
「んで、勇者A君の名は? やっぱ”ああああ”とかやったりするん? あんま情緒に欠ける名前に設定したら途中で飽きてまうで。」
美麗な容姿から吐き出されるのは至極残念な台詞。彼女、葛紅衣の自称ファンとか、そういったクラブをこっそりと設立している奴らが聞けば軽く二日は再起できないだろう。自分に向かって失礼だと何度も告げた割に、己も大分失礼な暴言を吐いている少女に買い言葉を返した。片手に持ったサンドイッチの存在は、結構な時間忘れ去られている。
「んな不便極まりねぇ名前で決定するか。というか勇者=ああああの図式はやめろ。そして俺は勇者Aでもねぇ!」
静かに返答するつもりが、最後の方は自棄と言われても仕方がないような口調になってしまい、怪訝な瞳を眼前で笑う少女に送る。電波は届かなかったらしい、じっと凝らした瞳に彼女は笑みを深くした。
「三段法とはやりおるなぁ。話術で世界を救うんですかにゃー。」
苛立たしい語尾をつけて愉快で堪らないと顔に描いた少女が笑う。いつになく上機嫌なのか、先程からずっと彼女の口角は上がりっぱなしだ。
「せめてひのきの棒とくったくたの布の服くらい装備させろ!」
「無欲なこって。のろいそうび全種を所望するくらいの強欲さ見せなー。」
黒塗りの箸を弁当箱の上でくるりと回転させると、悩ましげな視線で彩豊かな小さな箱を見つめる。バランスよく食事を摂るんだなと、どうでもいい感心が思考の片隅に浮上した。次の標的は唐揚げに決定したみたいで、彼女は箸で唐揚げを突く。
「伝説の装備じゃなくて敢えて呪い装備を所望する意味がわかんねーよ。」
「人生に於いてスリルとは必要不可欠な要因や思うけど。即ち博打や博打。賭ける対価が重けりゃ重いほど、成功した時に感じる幸福感は跳ね上がるやろ?」
唐揚げを掴むと眼前でくるくると、催眠術でもかけるような動作をした後に、口元へと運んだ。作法がどうのと言ったが、あれは見間違いだったかもしれない。路地裏でワンカップ焼酎片手に全財産を失ったものの未だ未練がましいおっさんみたいな言葉を吐きだした少女が、もぐもぐと唐揚げをとても美味しそうに頬張っているのに、何とも言えない気持ちになって自分も三つ目のサンドイッチを口へ放った。そういえば結局自己紹介をされてしまったが、自分は彼女に名乗っていない。思い出さなければよかったが、後悔先に立たず。名乗らせておいて名乗らないのは流石に人として如何なものかと思ってしまう自分は、割と真面目な性格なのかもしれない。
「東雲千景。」
最後のサンドイッチを咀嚼し終えてから、ぶっきらぼうに彼女へ名前を告げた。幸せですと表情を緩ませていた少女がこてんと小首を傾げる。子供かこいつは。口内で噛み砕かれていた唐揚げを胃へ直送し、彼女は翡翠の双眸を細めた。右口角だけをニッと上げて笑う葛紅衣は何処からどう見ても胡散臭い。先までの幼稚な動作が嘘のようで、心の内で焦燥する。つい数分前まではこっちの笑顔が無ければ違和感を感じていたというのに、何故か胡散臭い笑顔を浮かべる少女に対しての違和感が沸々と湧きあがっていた。
「よろしく、東雲君。」
三日月を模した細い双眸は、何もかもを見透かすようで、失った筈の居心地の悪さを想起させた。
「あ、因みにレディの笑顔に胡散臭いと形容するんは止した方がええで。君は随分顔に出易い。嘘でも可愛い~とか美人~とか褒め称えな。」
見透かされていた。悔しい気もするが、必然的な気もして、反論する気力は霧散した。へらりと笑う少女に毒気が抜かれたのかもしれない。誰よりも思っていないだろうことを吐き捨てた少女は二つ目の唐揚げを突っつき始めた。箸で突っつくのは些か行儀が悪いと思うが、彼女に口論で勝てる未来が見えなくて、悔し紛れにペットボトルを引っ掴んでキャップを捻り、ミネラルウォーターを口に含む。喉を潤わせて視線を遠くへ向けると、空がいつの間にか薄暗くなっていた。今朝までの晴天は何処へ行ったのやら、雨が降り出しそうな空色に知らず眉間を顰めると、卵焼きを飲み込んだ少女が口を開く。いつの間に卵焼きを食していたのだろうか。
「満月は見えなさそうやなぁ。」
ぽとりと落とされた言葉に少しだけ身が強張る。彼女の口から吐き出された独り言とも取れる小さな台詞には、不思議な色が滲んでいた。殺気とは違う、憂鬱でもない。輪郭がぼやけた誰かの姿を思い起こさせるそれに、眉間の皺が増えた気がした。見えない、知らない、けれど彼女には含まれた意味が理解できているんだろう。明瞭としない思考に嫌気が指した。
それにしても、今宵はどうやら満月らしい。ユース・ノヴァのお隣に位置するL.O.S.学院敷地内で、月の満ち欠けを気に掛ける者など、片手の指ほども居ないと思う。ユース・ノヴァでは天候が確立化されているが、L.O.S.敷地内では不規則な天候が観測されている。然し観測される前に予測された天候情報に間違いは今まで一度も無かった。暗に天候を敢えて確立化していないと言っている様なもので、それらはL.O.S.学院生徒の中では常識中の常識だ。要するに、今現在視覚化されているこの空は偽物である。建物を出れば季節に合った風が頬を撫でるだろうし、予測された気候情報通りに気象は変転するだろうし、雨が近付けば空は暗くなる。月の満ち欠けなども、きっとそう見せているだけで、憶測ではあるが自然物ではない。結論を言えば、空に浮かぶ太陽も月も全てが人工的な物に過ぎないのだ。疑似的な自然物を態々愛でる物好きなどそういないだろう。
「そんなもん見ても何にもなんねぇだろ。」
口から飛び出た音の響きは思っていたよりも苦かった。故郷であるリーベルタース国で見た空は自然物だったのだろうかと、疑惑が首を擡げる。鮮やかな四季を彩る自国の空さえ猜疑心に飲み込まれるこの場所は酷く窮屈だ。他の生徒達がどう思うかは解らないが、知っているからこそ人工物で囲われたこの箱庭が、とても馬鹿馬鹿しく感じるのだ。苦々しく吐き捨てられた言葉に、ふっと目を細める少女は高校二年生とは思えない雰囲気を纏っていた。
「風流も愛せんようじゃまだまだ子供ってことやで。」
「人工物を風流と説くのはどうかと思うぞ。」
此処にある全ては新規に作られた人工物だと示唆すると、彼女は翡翠の大きな瞳を丸めてきょとんとしていた。もしや彼女は知らなかったのだろうか。優等生だからこそ噂話なんかには疎いのかもしれない。瞬時に胡散臭い微笑を顔に貼り付けると、小さく嘆息する。あからさまな様子に顰め面を見舞ってやると、彼女は薄く笑った。
「何を以てこれら全部を人工物やー思うんか解らんけど、うちは立派な自然現象やと思うで。そうやないと気象を確立化せーへん意味がない。だって梅雨とか、豪雨とか、台風とか万が一にも学院が機能を停止せざるを得ない要因とか、外敵、侵入者が忍び込みやすくなる要因とか、残しとる意味なんざ万が一にもない筈や。此処はユース・ノヴァの延長線上にあるだけのモノやのに、その技術を使用せん理由は、意味は何々やろうねぇ。まあ、それらを理解できてやっとこ一人前っちゅーこっちゃ、少年。」
最後に嫌な笑顔で笑うと、二つ目の卵焼きを二等分して、その一つを口へ放った。嫌な笑顔は途端に消え失せて、子供が好物を嬉しそうに食べるような、そんな無邪気な顔で卵焼きを頬張る。表情がころころと変転する奴だと溜息を吐きたくなって、そういえば何故自分はこの変人と和やかに食事をしているのだろうかと、真っ先に気付くべきだった事実にぶち当たった。一理ある彼女の言葉に首を縦にふってしまいそうだった自分を叱責して、彼女が語った自論から目を逸らして、問いかける。
「つうかあんた、何で此処に来るんだよ。」
何を今更言っているんだ。卵焼きをもぐもぐと幸福感と共に噛みしめる少女の顔にはそう書かれていた。自分だって解り易いじゃないかと非難したくなるも、多分この変人は態と解り易い態度と表情を作っているのだろうと理解して、片手に掴みっぱなしだったペットボトルのキャップを締める。二手三手先を読まれていると言うよりは、何もかもが彼女の掌の上で転がされているようで、米神がぴくりと動いた。
「勇者A君の生存確認?っつー冗談は置いといて、何や噂が一人歩きしてもーとるみたいやけど、うちは四月に転入して来たばっかりなわけですわ。別段コミュニケーションを取りたいと思う様な人材も居らなんだし、昼休みは大体ふらふらしとってん。ほな昨日明らかに人気が無さそうな穴場スポットと、一匹狼勇者の東雲君がセットで特売中やったから、お得かなって?」
小首を傾げて疑問符を飛ばす葛紅衣。何故にあんたが疑問符を飛ばす側なんだ。自分が飛ばしたい。というか多分漫画なら既に自分の傍ら辺りに疑問符が浮いている事だろう。実際、脳内では疑問符を量産する工場みたいにクエスチョンマークが浮かび上がっている。
「後半何言ってんのか全然理解できねぇ。」
「そりゃ東雲君の思考回路が貧相なんや。」
迅速に返ってきた言葉は余りにも暴君染みている。初対面、ではないが総時間数で換算すればまだ半日も経っていない相手に、どうしてこんな謂れをされなければいけないのか。
「どう考えてもあんたの思考回路が変哲なんだよ!つうか要するにあんたもぼっちってことじゃねぇか!」
「おや少年はぼっちやったのか。」
気にした様子は垣間見えず、寧ろどことなく楽しそうな少女に辟易した。墓穴を掘るように仕向けている彼女の思考が上手なのか、簡単に思惑通りの言葉を吐いてしまった自分が馬鹿なのか。多分両方なんだろうなと、認めたくもない結論に至る。卵焼きを口へ運ぶ少女を横目にわかりやすく嘆息した。よく噛んで飲み込むと、彼女はこれまた楽しそうに笑う。出会って半日と経たない同級生を弄んで楽しむとか性悪にも程がある。
「そう純直な対応をされるとついうっかりこーゆー態度取ってまうねんって。」
まるでだから私は悪くない、悪いのはお前だと告げているようで、口端がひくついた。素知らぬ顔で最後の唐揚げを口へと放る。冷厳な優等少女(ペルフェット・ラガッツァ)とか囃していた生徒達をとっちめてやりたい。彼女にもしそういった名を与えるとすれば、奇しき暴君少女とか絶対そんな感じだ。自由奔放で変人で暴君で変人な美人。馬鹿と天才は紙一重、神は二物を与えない。
「別にそのまま罵詈雑言を突き付けても怒らんのに、敢えて口内に留めとくんは一応レディへの配慮なんかね。」
「口に出せば事実として受け容れざるを得ないだろ…。」
「夢みがちなこった。ロマンティシズムとか流行らんでー今時。こないだも言うたけど、基本昨今の主人公の傾向はやなぁ…」
「メタっぽい発言を時折混ぜてくるのはやめろ。」
「何つーの? メインヒロインとしてキャラクター性の確立に尽力してんねん。ラスボスになるくらいならよう在る話やし、かといって幼馴染とか今更どないもならんやろ? 同い年やから年上お姉さんにもなれませんし? ほなもう後は謎の転校生キャラしかないやん。こうして葛紅衣さんのキャラはブレッブレになったんよ。」
一息に言ってのけた変人、葛紅衣は誇らしげな顔で此方を見遣る。果たしてこれは突っ込み待ちなのか、若しくは至って真面目に言っているのか。理解に苦しむ自分と違い、彼女は薄花桜と真紅の対比が美しい髪を後ろ手に纏めはじめると、何処からともなく取り出した薄浅葱色のリボンで括った。そういえば昨日の葛紅衣は、長い髪を黒色のリボンで結んでいたような記憶がある。低い位置で髪を結び終えると、彼女は残りの卵焼きを口へと運ぶ。漆塗りの豪奢な弁当箱は空っぽだった。
「あんた、やっぱ、変だろ。」
何とはなしに溜息を吐きだしたい欲望に駆られて、吐息と共に彼女へ暴言を投げた。くりりと大きな翡翠の双眸には今更何を言っているんだと、口にするまでも無い言葉が滲んでいるように見える。
「褒め言葉として受け取るとしようか。それに、東雲君も人の事言えんじゃろ?割かし変人やからこそ、変人が寄ってくるんやで。類は友を呼ぶってやっちゃな。」
「あんたしか変人らしい変人とは関わり合いを持ったことがねぇよ。」
「そりゃあ光栄な事で。でもまあ、気を付けるに越したことはない思うよ。東雲君の”変”の定義は量りかねるけど、実際普遍的日常を脅かす”変”なものには好かれとるみたいやし。」
彼女は語りながら漆塗りの弁当箱を閉じて、紅花色のランチクロスで包んでいる。もう夏服への移行が始まっているのにも関わらず、白手袋と長袖ブレザーを着込んでいる眼前の少女から吐き出される言葉は、随分とひどくぼやけていて、核心のない噺だと思った。明瞭性のない噺と言うより、敢えて解答をぼかしているんだろう。ピンとこないのに、背が寒くなる感覚に目を背けたくなる。彼女が指す”変”が何なのか、理解に苦しんでいるようで、その実何を話したいのかを何とはなしに理解してしまっていた。然しながら、自分は未だそれと対面したくないし、向き合いたくない。小さな世間を騒がせる事件を思考の隅に追いやって、彼女に適当な言葉を返す。
「日常に於ける変って結局あんたのことじゃねえかよ。」
「ん?あーやっぱそう定義されとる?ってよりはあれか、理解したくないってやつね。まあ、瀬戸際程度までなら放っておいてもええか。そういう経験を経てレベルアップするんがロールプレイングの定説?定番やもんなー。」
ことあるごとにゲームに準えて語るのは何なのだろうか。マイブームか何かなのか。抑々彼女の言葉を真面目に聞いて理解しようと思うのが間違いな気すらして来た。けれど、そうして投げ出せない様なすれすれの話題を暈して話されると、耳を傾けざるを得ないのだ。何やらまたも物騒な事を言っているのかもしれない。漸く彼女に尋ねなければならない一件を思い起こせたのに、何故だか口からは全く関係の無い言葉が吐かれていた。
「…葛のRPGへの執着は何なんだ。」
己を臆病者だと笑い飛ばしたい気分だった。翡翠の双眸はそれすらも見透かした上で、笑う事もせずに穏やかな色を醸している。
「最近流行ってるって聞いてんけどなー、そういうゲーム。やから解り易いかなって。」
的外れな返答だと思った。女性にしては低く、然し聞き心地のいい声音であるが、彼女の言葉は内面を抉る様な鋭さを持っている。何を知っていて、何を知らないのか。己には理解できない事を、きっと見ていて、知っているんだろう。子供染みた仕草の節々で、何処か達観していて、何かを諦めているような目をしていた。そしてその目を見るのが嫌だと感じている自分が居るのは紛れもない事実だ。出会って間もない、時間で換算すれば一時間にも満たない少女へ、何の期待をしているのか。不明瞭な感情に埋め尽くされた思考を無視して、無理矢理に次の言葉を捻りだす。話題は流行のゲームだったか。はて、と考えては見ても、生憎と最近はあまりゲームをしない人種なのだ。どれだけ張り巡らそうと解答は見つかりそうにない。
「流行ってないんかね。まあうちも然程知らんねんけどな。」
へにゃりと目尻を下げて微笑む顔を見て、自然と口元が綻んだような気がした。それでもきっと、どことなく仏頂面なんだろうとも思うが。
「俺は最近ゲームとかあんま触んねぇから、流行ってたとしても知らねぇ。」
「おや、そうなん? 若者は大概やっとるもんやーっておもっとったわ。」
そういって包まれた弁当箱を片手にイスから立ち上がった。ギギギと不快な音が耳に残る。イスを元の位置へ戻すと、水筒を左手に、弁当箱を右手に持った葛紅衣は、先までと打って変わった胡散臭さ全開の微笑を貼り付けて口を開いた。
「ごちそうさまでしたっと。因みに東雲君、明日の放課後暇かい? 暇やったらL.O.S.学院敷地内観光案内ツアーの案内人さんとかしてくれてもええんやで?」
何を言い出すかと思えば、L.O.S.学院敷地内観光案内ツアー?案内人?唐突過ぎる。そういえば、彼女は今日の会話内で四月に転入してきたばかりだとか宣っていた。てっきり嘘だと思っていたが、どうやら事実なのかもしれない。否、抑々論点は其処ではない。何故自分なのかだ。何故、劣等生の自分が、昨日今日昼食を摂った程度の関わりしか持たない優等生の葛紅衣を案内しなければならないのか。はっきり言って何を考えているのか、さっぱりわからな
い。嫉妬の念入り混じる野次の視線を背に受けて、彼女の横を歩きたくはないし、彼女だって劣等生としてそれなりに名の知れ渡る自分の横を歩いていれば、悪い噂にしかならないだろう。
「他を当たれよ。つうか、せめてウルグス生徒かケルサス生徒に頼め。選択肢の中で俺が一番有り得ない選択だろ。」
いつの間に何処かへ格納したのか手ぶらの彼女は、こてんと小首を傾げて、白手袋に覆われた指を顎へと移動させる。考えてますってポーズをした後に、目を細め口角をニッと上げた。
「それは少年目線の話やろう。事実うちが話して楽しいと感じたのは君であり、頼むとしたら東雲君以外は有り得へん選択なんやけど。レディに此処まで言わせといて、いいえとかノーとか言うんは無粋やで東雲君。覚悟決めて明日はツアーガイドさんの役目を全うしてくりゃれ。」
愉しげに瞳を細める胡散臭い同級生は、梃子でも意志を動かすつもりは無いだろう。時に諦めることも大事だと、未だ納得のいかない本音を奥深くに閉まって、肯定の意を示した。
「さっすがー、よろしく。あ、東雲君も急いで教室向かった方がええで。時間ギリッギリやから。ほな、またね。今日は満月やから、はよ帰りやー。」
早口で捲し立て颯爽と扉に向かって歩いていく少女を横目に、はっとなって腕時計を見ると彼女の言う通り、いつもならば既に空中庭園を出て、教室近くを歩いているような時間だった。誰のせいだよと文句を投げつけようと振り返ると、既に彼女の姿は見えない。湧き出た怒りの矛先は向かう先を失ったにも関わらず沸々と滾っているが、現在はその件について追及する訳にもいかず、忙しなくゴミを捨てると自分も屋上を出た。階段を大股で降りながら、ボストンバックを肩にかける。
結局昨日と同様に、翻弄されて疲弊しただけじゃないかと、口内で悪態を募らせた。どうせ明日も、確証はないけれど昼休みになれば彼女は現れるだろう。その際に投げかけてやればいいさと、近年まれに見ない猛ダッシュで階段を降り切り、五限目の授業教室へと全力で走った。