No.02 Kibou Moon ~埋もれ木に花が咲く。
新緑の季節らしいぽかぽかとした晴れ模様に少しばかり浮ついてたのか、今朝は少年が予測していたよりも随分と早く門を潜ることが出来た。高等部二年の劣等生を掻き集めた教室内の最奥、窓際が少年の席である。
劣等生の集うクラスをユウェンス・ミセルと呼称するのだが、中でも下層中の下層、それが少年だ。学院では下層に値すればするほどに、地位が低くなり、不遇な扱いを受ける事になる。伴って少年の地位は最低、扱いは最悪だ。誰も自分より下層の者とは縁を紡ごうとはしないので、友人と呼べる友人もいない。虐めや陰口が無いだけましなのかもしれないが。多分、そんな余計な事に着手する位ならば、少しでも己の成績を上げる事を考えるのだろう。成績至上主義を名目とするこの学園に於いて、下層成績者は誰よりも必死で、余裕を持たない。
下層成績者として、早めに学院へ辿り着けば勉学にでも励むべきなのだろうが、生憎と少年の向上心は然程高くない。特徴的な窓から見える学院外の景色をただぼうっと見つめ、予鈴までの時間を潰す。澄み切った青色の空は雲一つ無く、今日も穏やかな平穏が続くのだろうと、勝手な願望を浮かべる。自身の周りで起こりつつある不穏な空気が一瞬で晴れ渡る様な、清廉された空だと思った。少年は現実から逃避しがちな性格なのかもしれない。解り易い言葉で例えると、無自覚の能天気である。
浅膚な少年は不確かな頭を明瞭化させることに早々と諦め、机に突っ伏した。学生の本懐は勉学である。彼は劣等生でありながら、真剣に取り組む姿勢が全くと言っていいほど見受けられない。むしろ、そんな姿勢を貫いているからこそ、不名誉極まりない劣等生の中の劣等生―キング・オブ・ユウェンス・ミセルなどと呼称されていても平気な顔で学院に通い続けるのかもしれない。
机に伏せながら空を仰ぐ少年の耳に大音量の鐘の音が響く。学院における授業開始、もしくは授業終了の合図である。電子音を再生しているだけなのかと学生は皆思いがちだが、L.O.S.学院では何故だか本物の鐘を鳴らしている。その設備は本当に必要なのだろうか、少年の脳内にどうでもいい疑問が浮上し、そして瞬く間に霧散する。所詮はどうでもいい疑問だ。
半分以上休眠している脳が、予鈴の音ともに少しだけ活動を再開する。教室内部に掛けられた時刻盤の針は午前八時十分を指していた。五分もすれば担任が訪れて、ホームルームが始まり、直ぐにでも一限目が始まるだろう。一限目の授業は古典魔術だった筈だ。古魔術書の解読、解説、特徴、作成者にまつわる歴史、魔術がどのように形成されてきたか、実際にどのような魔術があったか、などそういったものが全般的に扱えない者からすれば、果ても無くどうでもいい内容の授業である。
何よりも、歴史というカテゴリに興味はあるが、解明されていない歴史の多くを適当な説明や勝手な解釈で決定付けて、学生に刷り込むのは如何なものかと思ってしまい、少年は興味を失ってしまった。それでも未来史や、考古学に関する情報を手に入れる事を心がけているのは、心のどこかで煌びやかな歴史への仄かな期待が有るのやも知れない。
有名な考古学者や、古術者は、自分たちの住まうこの世界は空白が多いと論じていた。パズルのピースで例えるならば、ピースの内六割程度が消失しており、現状世界は形の違うピースを無理矢理填め込んで、偽っているだけにすぎないと。
未来視が出来る術者や、占星術師は口を揃えてこの世界を欠陥品だと豪語する。どこかの境界線を皮切りに、必ず終末を迎える世界なんだそうだ。終末預言にしては酷く曖昧で、訪れる暦すら無いとは、群衆を信用させる気が無いとしか思えない。更に言及するならば、過去の預言者は悉く預言を外している。当たることの無い占い師と名高い者の言葉を信用し、財布の紐を緩める馬鹿など一握りもいないだろう。
良くも悪くも凡人であり、神秘を視る事が出来ない少年は、科学的に立証された事象以外を受け容れられないのだ。
予鈴からきっちり五分が経過したところで、教室の扉が開いた。古風な外観と違って、近代的な機能に溢れた学院のドアは大体全自動である。教室のドアも例外でなく、学院名簿に登録された者のみを通過させる。登録者以外が通ろうとすると自動的にロックがかかるらしいが、未だかつて学院に入学して以来、そんな場面には出くわしたことが無い。
自動的に開いた扉からは、若い女性の姿が見えた。明るすぎないブラウンの長髪に、空を彷彿とさせる淡いブルーの瞳。美人と呼ぶには些か言葉が過ぎるが、顔の造形が整っていないのかと問われれば、そんなこともないと答える程度の容姿をした女性。教師の中には、割と時間にルーズな者や、服装が派手な者も多いが、彼女はいつも白のカッターシャツに黒のスーツを着用し、おまけに大きな黒縁眼鏡をかけ、時間も厳守する。入念に手入れされた髪も、常に高い位置で一纏めにされている。見た目年齢は二十代前半から後半といったところか。高等部二年ユウェンス・ミセルの担任であり、古典魔術の先駆者として、それなりに名の馳せた人物であるらしい。他の生徒から後者の件について質問された際に、昔の話です。と返していたのはまだ記憶に新しい。結局彼女の年齢は不詳なのである。一説では魔術師、若しくは魔女なのではないかとまで言われていた。
丁寧な口調でホームルームの開始を告げ、教卓の前で淡々と決められた言葉を吐きだし続ける。特に変わった事は話さず、昨今の事件についても触れやしない。現状、学院敷地内は学生の数が圧倒的である筈なのに、何故だか学生の被害者は出ていないからだろうか。そういえば、何故学生から死傷者は出ていないのか。被害者に規則性は無いと報じられていたが、敢えて学生を弾いているのではないか。少年は昨晩の内に被害者になっていてもおかしくはなかったのだ。犯人を視た者を態々生かしておく理由は無い。そのまま治安維持機構の駐在所へと足を運ぶ危険性の方が高いではないか。
一度溢れだした疑念は留まる事を知らずに、次から次へと浮かび上がってくる。ぼうっと教卓を見つめつつ、教科書を机上に置いて、思考だけを全く別方向へ展開した。目撃者を生かしておく理由、己を知っているような口ぶり、路地裏で行われる不規則な怪死事件。
日常から程遠い筈だった悍ましい非日常は、いつの間にか少年の日常を浸食し、塗り替えてしまったようだ。回転を続ける思考に、少年は睡魔が晴れ行く感覚を覚えた。昨晩遭遇した”何か”の姿と、靄がかかった”誰か”の姿が重なりそうで重ならない。何か自分は、重要な見落としをしている気がするのに、何を見落としているのか解らない。家を出てから何か忘れていると気付くも、何を忘れているのか思い出せず結局そのままにする、そんな状況に現在の自分は酷似している。
成績劣等者の少年も普段は、どうでもいい授業だからといって聞かないなんて事は無いが、今日は真面目な声で睡眠を誘う教師の言葉が、大根役者だけで構成された映画を観ているように何一つ耳に入ってこなかった。そうしてずるずると思考の淵から抜け出せないまま、気付けば時刻は十二時を過ぎていた。空腹感と、見覚えの無い教師の声ではっとする。いつの間にか数時間経っていた事と、微塵も授業を聞いていなかったことに驚くも、後悔先に立たず。仕方ないと、自分に言い聞かせて机に掛けてあるボストンバッグを持ち上げた。昼休みと言えば昼食だ。学生にとって一番の楽しみと言っても過言ではない。教室内には学生たちの楽しそうな声が響いている。日常的に食事を摂る相手の居ない少年は、そそくさと賑やかな教室を出た。緩やかな足取りで廊下から中央階段へと向かう。賑やかと言えば聞こえはいいが、少年は周囲の楽しそうな声を騒音と捉えていた。少年は食事中くらい静かに過ごしたい人種なのだ。
場面は変わってL.O.S.高等校舎最上階屋上。機械的なドアが開くと眼前に広がるのは、穏やかな風が吹き抜け四季折々の花を揺らす、和やかな雰囲気の展望庭園だ。しかしながら空中庭園に訪れる者は少ない。少ないと言っては控えめが過ぎるぐらいだ。全く以て利用者は居ない。少年が高等部に来てから頻繁に昼食所として利用しているが、未だ訪れる客を見た事が無いのだ。そもそも、この展望庭園に辿り着くには大きな吹き抜け階段を上らねばならない。雰囲気を重視してのことなのか、他の理由があるのか、少年には知らぬ事だが、高層な学院内でエレベーターが通じていないのは此処だけだ。依って学生は面倒臭がってこの場所を訪れる事を避ける。と言うより、誰もこの学園に屋上が存在するという事実を知らないのだろう。以下の理由から最早展望庭園は、学院に於ける秘境と言っても過言ではない。其れほどまでに此処は、何時如何なる時でも無人を貫いている。友人と呼べる者も居らず、一人食事を摂る少年にとっては好都合な場所に他ならない。
機械的なドアを抜けて目的地へと歩を進める。所謂、定位置と呼べる場が少年には有った。展望庭園の地面には、白に程近いクリーム色の石畳をベースに、何かの紋様を象るよう小川が流れている。何を象っているのかは、きっと上空から見なければ解らない。全く以て不可解でいて、無駄と思える設備ではあるが、密かに水流のせせらぐ音が緩やかな風の音に混じり、植え付けられた木々がさわさわと揺れる空間は、まるで此処が学院の中だという事を忘失してしまいそうな程に神秘的で、少年の心を落ち着かせる。丁度桜花は散ってしまったばかりで、現在は深緑の葉が豊富に実っていた。桜と言えば毛虫もセットになりそうなものだが、この庭園内でそれらしい虫を見た事が無い。何者かが手入れしていなければ、こうも四季折々に美しい風景が生み出される事は無いだろうが、庭師の姿も見た事が無かった。
小川を通り過ぎ、展望庭園内部でも一番に見渡しの良い場所へと辿り着く。傍に佇むガーデンテーブルに荷物を降ろして、柵越しに遠くを見る。本日の空は雲一つ拝むことは出来ないほどの晴天だ。己の中で燻る疑問が晴れていくような錯覚に、自然と表情も緩む。
そうだ、此処は。この場だけは、いつも通りの静寂と平穏を貫き通しているではないか。何を淀むことがあったのか。何を悩むことがあったのか。
本日二度目の言い聞かせ論法を繰り広げ、聳える時計塔に視線を遷した。時刻は十二時三十分。昼休み終了までは三十分近くある。ゆるりと食事を頂くとしようか、少年は優雅な気持ちで振り返った。白のガーデンテーブルに、同じく白のチェア。石畳と小川が有り、それらを囲むように柵の手前に丸く切りそろえられた生垣と、更に手前には花壇や大樹が備えられている。ドアから見て前方部分のみ生垣は無く、景色を楽しむ為だろうか、胸ほどの高さの柵が立ち並ぶ。広さは高等第一校舎棟一面で、備え付けのテーブルとチェアは全部で六個ほどある。それは殆ど毎日見る景色であり、いつもと何ら変わらない。何も変わらない筈なのに、酷い違和感がある。つい先ほどまでは気付かなかった違和感。否、降って湧いた違和感とでもいうべきか。
違和感の原因は其処だけ別空間と言っても差し支えのない、白く機械的なドアにあった。それだけならば、日常的に感じる違和感であり、寧ろそうで無ければおかしいとすら思えるほど慣れ親しんだ風景だ。依って、違和感の原因は自動ドアの前方に有る。展望庭園内部から見ての前方で、つい今しがた自分が通った場所だ。其処に、無人で在るべき場所には有り得ない人影が有った。
身の丈160㎝弱程度で、白磁色の滑らかできめ細かな肌と、チェック柄の少し長めなスカートからすらりと伸びる足、太陽光を受けて艶めく紅桜の長髪と燦然と輝く大きな翡翠の瞳を持ち、紺と白を基調としたブレザーと首元には男子生徒専用のネクタイを締めた、黄金比の輝きを放つ少女が佇んでいた。 翡翠の双眸を瞬かせて微笑を浮かべる様は、絵画や美術品を彷彿とさせるほどの美麗さだ。そして何より、彼女の胸ポケットには、当学院に於いて五人しか持つ事を許されないユウェンス・ケルサスのシンボルマークが刻まれていた。
他者が大絶賛するほど容姿端麗で、更にケルサスのシンボルを持つ優等生。彼女はL.O.S.学院に通う生徒であれば大抵の者が知っていると思われる有名人だ。
穏やかな風の音も、せせらぐ小川の音もやけに煩く感じた。沈黙が身に沁みる。私室に全く知らない人物が同居しているような居心地の悪さだというのに、交錯したままの視線を逸らすことが出来ない。少年の心情を現すが如く、穏やかに吹いていた風が突然吹き荒んだ。
「てっきり穴場スポットやー思っとったんやけど、何や先客居るやん。しかも茫然自失としとるし。目を合わせただけで対象を石にする、とかそんなおもろい異眼は持っとらんのやけど。」
沈黙を破ったのは機械的なドアの前で此方に視線を寄越す少女、だと思われる。何故曖昧な憶測しか立てられないのかというと、彼女は学院内でも一、二を争う有名人なのだ。冷厳な優等少女等と持て囃される優等生であり、彼女を指す言葉は数知れず。例を上げれば己が耳にした事が有る範囲で、冷静沈着、冷酷無比、絶世独立、一顧傾城、文武両道、才色兼備、エトセトラ。要約すると現在ドアの前に立つ少女は、優れ過ぎた容姿に、超越された頭脳と武道、異能関連全てにおいて秀でていて、酷く無口な事から性格は謎に包まれている、そんなほぼ良い噂しか聞かない将来有望な人。住む世界の違う人と言った方が、わかりやすいかもしれない。
そんな少女が突然キング・オブ・ユウェンス・ミセル等と噂される少年の眼前に現れて、然も女性の中では割と低い方に分類される声で、無口とか言われていたはずなのに胡散臭い関西弁を並べ立て、更にどこからどう見ても胡散臭い微笑を浮かべているのだ。二度も胡散臭いとの単語を出してしまうほどに胡散臭いのだ。混乱するなというほうが間違っている。というか現状に遭遇して混乱しない人物に会ってみたい。
少女に対して尋常じゃなく失礼な言葉を脳内で浮かべて混乱する少年を余所に、きな臭い微笑みを貼り付けた少女は、ゆっくりと歩き始めた。
「少年や、レディに対して失礼極まりない言葉を吐き捨てまくるんは、デリカシーが欠如し過ぎてるんやないかね。」
言葉では指摘しているものの、彼女の顔には微笑が見える。まるで同年代とは思えない器量の少女に、少年はたじろいだ。
そもそも脳内で言葉を繰りだしていた筈なのに、どうして彼女は自分の考えている事が理解できたのか。其れほどまでに己は顔に出やすい性質だっただろうか。自問自答ばかりが浮かんで、彼女に対する応えは何一つとして浮かばなかった。
「喋ったら対象の声を奪うとか、そんな不自由な能力を持った覚えはないんやけどなー。」
訝しげに眉を顰め、唇をぐっと引き締める少女の、何処からどう見ても子供染みた動作で、ふと我に返った。拗ねたような仕草で翡翠の双眸を揺らす姿からは、先程までの胡散臭さなど微塵も窺えない。初めて垣間見た同年代らしさに、自分は酷く失礼な対応をしてしまった事を詫びるべきだと気付いた。然し、どう声をかけるべきか、どうやって己は学院内で同年代相手に声を出していたかを思い出せず、結局無言で視線を彷徨わせる。ぼっち歴の長い少年は、同年代との人付き合いが究極に苦手であった。
「孤高の無口系主人公とか今時流行らんでー。気付いたらハーレム出来てました、みたいな無自覚・天然・朴念仁と三種の神器兼ねる系主人公が主流やのに。あーでも、朴念仁って無愛想で無口って意味も兼ねとるし前者でも1スキルは獲得できるな。よかったやん、少年。」
癖のある低音だが、恐怖感を与えるようなものではない声色で滔々と捲し立てる少女に圧倒されて、やっぱり少年は言葉が出なかった。何よりも彼女の口から出てくる台詞にツッコミ所が多すぎて、少年にはとても捌ききれる気がしなかったのだ。物語や小説等に於いて重要なポジション、所謂ツッコミという名の苦労人ポジションを放棄した少年は茫然と少女を視る。誰しも苦労性を成長させていく可能性が高い未来は避けて通るだろう。
「朴念仁に加えて鋼のスルースキルを持つとは、中々やりおるなあ。此処までスルーされたんは人生初やで、少年。うちの今晩の夕食は赤飯で確定ですわ。」
大袈裟な身振り手振りを加えて未だ滔々と話す少女に、少年は親に置いてけぼりを喰らって行き場を無くした子供みたいな顔で立ち竦んでいた。次第にエスカレートしている一方的な会話に、ぶっちゃけた話をすると頭がついていっていないのである。電源を入れても回転しない故障モーターを必死に、それも手動で回し続けた結果、少年は結論に至る。要するに生徒たちは皆、くだらないゴシップ紙に踊らされていたらしい。冷厳など欠片も無い台詞を時折子供のような顔で吐きだし続ける少女と、閉塞的ながら広域にかけて謂わば”あらゆる物事に於ける天才”と噂される少女が、同一人物だとは思えない、いや、思いたくなかった。
「その割に思考回路は駄々漏れとは駄目ですにゃー。あ、若しくはあれかい?ギャップ狙いやったりするんかね。トライアングル形成おめっとさん。あと二つ揃えたら立派なペンタゴン・パロメーターの出来上がりやで、ちゃきちゃき頑張るがよいぞ。」
彼女は息継ぎをしなくとも生きられる新種の生物なのではなかろうか。少年はやけっぱちにそんな事を考えた。思考を放棄したい気分とはこの事か。昨晩からろくでもない出来事ばかりに直面している少年の脳内は、混乱を通り過ぎて大規模なお祭りが開催されていた。
「もしや君は新種の喋られへん生物なんか。」
「いやそれは普通に現存するだろ。」
放棄すべき台詞が、無意識に口から出ていってしまっていた。絶え間なく続く台詞に、ついつい、うっかり、ぽろりと、返してしまったのだ。しかも初対面で初会話成立が漫才である。漫才と呼ぶには漫才師が憤慨しかねないが、及ばずとも遠からずという事で許しを請いたい。長々と続く演説に疑問点や矛盾点があれば誰しも、そう、誰だって少なからず言葉を挟むものだ。だからこれは自分が悪いのではない。初対面の人間に対して滔々と一方的な会話を繰り広げる眼前の少女が悪いのだ。
やってしまった。と顔にありありと貼り付けて少年は少女を見遣った。少女は変わらず胡散臭い微笑を湛えている。
「おや、鋼のスルースキルやなかったか。鋼に及ばず、然し豆腐ほど脆くも無く。中間を取るとすれば木か鉄くらいかね。大体ロールプレイングやったら木の剣から始まり、鉄になり、鋼になるもんな。君を勇者Aと名付けよう。」
成程、彼女には他者と対話する気というものが欠如しているようだ。否、対話する気兼ねは有るが、キャッチボールをする気は無いのだろう。会話のデッドボールとはこういったものなのかもしれない。
「それにしても勇者Aこと、少年や。君、薄幸の相が出てんで。十分に用心した方がええ。特に、夜間は出歩かんのが吉やね。勇者とは、どんな時代でも、どんな空想上でも、どんな物語上でも、災難と苦悶を摺り合せた剛速球を理不尽に投げられるもんやからさ。」
本日一番の長い長い台詞を喋り終わると少女はほな、またね。とそれだけを言い残しくるりと翻った。薄桜をベースに毛先につれて紅色の、低い位置で一つに纏められた長髪がふわりと揺れる。珍しい髪色をしているんだな、と現在浮かべるべき感想からは逸脱した感想を脳内で並べている内に、いつの間にかテーブルまで歩んでいた少女の姿は、一歩一歩と遠ざかり小さくなっていた。超自然的な空間で、そこだけが切り取られたように近代的な扉の前に立つと、小さく機械音が響き自動的にドアが開く。その姿から視線を逸らすことが出来ず、少年はまたもぼうっと彼女の背を見ていた。嵐の様に顕現し、台風のように立ち去る少女は、迷いなく庭園から出ていく。
「あ、そうそう。言い忘れとった。」
迷いなくとは嘘だった。彼女は軽やかに、顔だけを此方に向けて整った朱色の唇を開いた。アーモンド型の大きな双眸を細めて、にこりと微笑む。聞こえてくる台詞が残念でなければ、絶世独立、一顧傾城の噂通り、紛れもなく美少女だ。
「昼休みがあと少しで終わりますよ、勇者A君。ランチがまだでしたら、お早めに摂取する事をお勧めしますわ。」
「えっ」
台詞回しは実に丁寧で、見た目によく似合ったものだった。嗚呼でも、違う、そうじゃない。灰鼠の髪をくしゃりと掻き毟り、即座に時計塔を見ると時刻は十二時五十分を指している。昼休み終了まで残り十分だった。
所変わってL.O.S.学院高等部第三棟、通称魔女の森。L.O.S.学院高等部敷地内でも一、二を争う辺鄙な場所と言われている。
然し魔女の森を説明するより先に、L.O.S.学院内部をそれとなく説明しておく事にしよう。中央門の正面に第一棟と呼ばれる建物があり、周囲にはオブジェやら庭やら池やらと、第二~第五棟と呼ばれる特殊授業特別棟、武道場、大図書館、食堂、テラス等が広大な土地に顕在している。
洋風造りの建物ばかりが並ぶ中、第四棟と第五棟だけは和風造りである。景観を損ねる鳥居を潜れば、其処から先には何故か神社のような出で立ちの第四棟と第五棟が存在する。周囲には高く木々が聳え、ちょっとしたホラー空間だ。時代背景を疑うような建造物にした理由は、自分にはわかりかねないが、多分特殊授業の内容に沿った結果なのだろう。第四棟と第五棟は霊術や幻術、呪術を主とする。自分、というよりユウェンス・ミセルに属する学生は、そもそも特殊棟へ入ったことが殆ど無いので詳しくは知らないのだが、入学当時に少しだけ覗いて心底後悔した記憶がある。禍々しいだとか、おどろおどろしいといった言葉が似合う場所であったことは確かだ。他にも、大図書館や武道場なども割と辺鄙ではあるが、結局のところ一番不思議なのは第三棟が含まれる”魔女の森”に他ならない。
魔女の森は、その名の通りに魔術を取り扱う場所だ。古典魔術、近代魔術、召喚魔術、錬金魔術、エトセトラ。魔術は特殊系統の中でも随一を誇る多岐性を持つ。其処から更に分岐するのだからもうなんのこっちゃわからない。魔術というカテゴリは一番複雑で解り辛いのだ。
その魔術を学ぶための場所は、まるで内部を覆い隠すかのように鬱蒼と生い茂る大樹に囲われ、いつだって薄暗い。それだけならば然して第四、第五棟と変わりはしないのだが、更に黄金色の果実が実る大樹、明滅を繰り返す発光植物、年中雨の降る小規模な謎の湖、宙を舞う金色の大小取り取りな光。そして何より喋る蝙蝠と、お前は魔王かと問いたくなる服装の魔術専門古道具屋が徘徊している。色々な要素が交り合い過ぎて飽和状態と化しているのだ。神秘の真髄を理解できない自分の様な者からすれば、方向性を間違えたテーマパークかなとしか思えない。自分の中では多分、学院内一寄りつきたくない場所である。
ではどうしてその”魔女の森”に居るのかと言うと、なんてことない理由だ。五限、六限の授業が第三棟で行われていたからである。一限で学んだ古典魔術を実際に扱ってみよう、みたいなコンセプトだ。しかし前述した通り、ユウェンス・ミセルと呼ばれる学生は特殊棟へ足を運ぶ機会が、殆どと言っていいほど無い。ユウェンス・ミセルに在籍する学生の凡そが、実技授業へ至れるほどの理解力を持っていないからである。謂わば基礎問題を解けない者に応用問題を解けといっているようなものだ。それでも、実技に触れる事で何かしらの閃きが降りてくるやもしれないと、数にすれば年に一、二回のみ、こうして特殊棟へ赴き実技授業を行っている。ベテラン劣等生から言わせてみれば、実技授業は何よりも無駄な時間なのだ。それでも出席日数の為には、きちんと授業を受けなければならないのが、劣等生の辛い所である。
ぼんやりと授業終了の合図を待ちながら、少年は空を遮る大樹を睨んだ。六限目終了まではあと五分。昼食を食べ損ねた少年は明らかな不機嫌さを表情に乗せて、読めやしない魔術書をぱらぱらと捲った。
教科書として配布される複写本すら何が書かれているかわからないなんて、もういっそ一種の才能なのではないかとすら思える。他の生徒はギリギリ読める者ばかりだが、読めた所で正しく理解出来ていなければ作動しないらしく、授業終了まで五分も無いというのに、未だに四苦八苦している姿が見えた。
ふとその様を視界に収めていると、昼休みの情景が頭を駆け巡った。かの有名な優等生ならこんなもの、息をするのと同義なんだろう。例え巷で噂される性格と正反対であれど、この学院で成績は詐称できない。天才と変人は紙一重なのだ、多分。もしかして誰一人として、彼女ときちんと会話した事がないのだろうか。でなければ、あんな美辞麗句ばかり並べたてられやしないだろう。というより並べられるような性格ではなかった。
美少女優等生の理想像を好き勝手に重ねられている彼女に少しだけ同情していると、教室内に鐘の音が響く。六限目終了の合図だ。ざわざわと騒ぎ始める生徒を、担任教師は空色の瞳で一瞥すると、片手に抱えた本を一度持ち直し口を開いた。
「本日の授業は終了です。速やかに寮へ帰宅するように。帰宅後は外出は控え、本日の復習をしておくこと。七月には学期末のテストがあります。評価が著しく無い者はこのままユウェンス・ミセルに属する事になるでしょうが、平均以上の評価を貰えればユウェンス・ウルグスへの昇進も有り得るでしょう。尚、本日の授業内容で尋ねたい事などがある方は、後日私の下へ。それでは、お疲れ様でした。」
淡々といつもの長ったらしい口上を述べると、分厚い本を片手に彼女は教室と言うにはらしからぬ室内を出ていった。木製の扉が閉まり、教師が出ていく事を確認した生徒達は扉へ向けて足早に駆ける。ギシリと木製の古ぼけた床が悲鳴を上げた。怪しげな道具が並ぶこの部屋から一刻も早く出たいのだろう、誰もがそそくさと扉へ向かって行く。少年はその光景をどこか他人事のように見つめながら、ゆっくりとした動作で椅子から立ち上がった。窓の向こうは変わらず鬱蒼とした木々に覆われ、本来の天候はわからない。ゆるりと歩いていると、気付けば室内には誰も居なかった。途端に薄気味悪さに覆い隠されるような錯覚を覚えて、少年は歩行速度を早める。
「やぁや、やぁや!其処のキミ!魔女の森でひとりぼっちな孤高のキミ!やぁや!ヘロー!」
間もなく扉の前、といった所で突然甲高い声が降ってきた。少年は心底驚いたのか、がくりと灰色の頭が揺れる。少年の様子が随分と面白かったようで、甲高い声の主は変わった笑い声を周囲に撒き散らした。驚きはしたものの、すぐさま犯人が何かを理解した少年は、素早い動作で振り返り、斜め上を見上げる。ばさばさと鳥が羽ばたくような音が聞こえたかと思うと、少年の双眸が睨みつける場所へと白い物体が飛び込んできた。
「そう怒りなさんなぁや!ぼっちのキミ!キキキ!キミの名を頂こう!キキ!名はなんと言うのかい?」
耳が痛くなる声に、一層少年の眉間の皺が濃くなった。丸い球体にも似た何かは、蝙蝠羽を翻し小刻みに揺れている。白い毛玉のような身体に茶褐色の蝙蝠羽をとってつけたような生物は、一度少年の上空を旋回、その後少年の肩へと静かに降り立つ。遠目で見れば空に乳白色の毛玉が飛んでいるようで愛らしく映るが、近場で見ればそこはかとなく残念な顔のフェルト人形にしか見えないと、この生物は学院内で有名だ。
「キキキ失礼な!失敬な!不敬な!粗相な!この白く丸く愛らしい肢体が!勇猛で凛々しき両翼が!やぁや!見えんかね!見えんかね!やぁやぁ!」
「耳元で騒ぐな、反芻するな、鼓膜が破れる。人語を話す白饅頭。」
「やはり!やっぱり!失礼!不敬!無礼者!キキ!」
実を言えば少年はこの謎の生物、白饅頭と邂逅するのは二度目なのだった。高等部一年の頃にも一度絡まれ、大変無駄な時間と労力を割かせられたのだ。苦い想い出が頭の中を駆ける。ふう、と解り易く溜息を零すと紫水晶の双眸を細めて、未だ高音域の笑い声を発し続ける生物を睨みつけた。よく見ると頭部に小さなシルクハットを乗せた白い生物は、人間ならば頬を染めているような顔で、嬉しそうに少年の頬へとすり寄ってくる。その肢体は最高品質のもふもふである。ご機嫌取りの方法をよく理解している愛玩動物に一瞥くれてやると、少年は口を開いた。
「饅頭と戯れている時間が惜しい。帰る。」
「やぁや!?愛くるしい姿に狼狽えんとは!オートクチュールの肢体に悶えんとは!キミの精神は鋼かぁ!ダイヤモンドかぁ!かの有名な!宝石娘すらも魅了したこの小悪魔ぼでぃに!目もくれんとは!残念!無念!また来週!キキキ!」
「おう、また来年。」
「一刀両断!?やぁや!主!主を呼ぶぞ!キキ!」
意外と面倒見の良い少年は、白い毛玉と言葉の応酬を繰り広げながら、今にも腐り落ちそうな木製の扉を開く。ギィと音を発てて開く扉に顔を顰めながら、宙を舞う金色の光を見て更に眉間を寄せた。木々に覆われた空は全く姿を見せない。発光植物が視界に入り、幾度目かの溜息を吐きだすと、肩の上でがなり立てていた毛玉が勢いよく飛び立った。よく考えてみればこの毛玉はどうやって室内に入り込んだのだろうか。どうでもいいような、そうでもないような、判断に困る疑問を反芻しながら散り散りに生えた雑草を踏む。
「キキキ!主のお目見えだ!見え見えだ!」
薄暗い空を滑空する毛玉の言葉と同時に、これまた学院内では有名な変人が現れた。何処からともなく現れたかの人物は、今から村一つ焼き払いにでも行くのだろうかと思える風体をしている。
「レスティヒ、何処に行っていたんだい。」
バリトンボイスと言うのだろうか、心地の良い低音を口から吐き出した男性は慈しむような表情で空を舞う白い毛玉へと視線を移す。名を呼ばれた毛玉は先程少年に擦り寄った時と同様の雰囲気で、魔王と渾名される変人へと突撃した。ぼふっと痛くも痒くも無い音を胸に受けて、男性は顔を綻ばせる。
「すまないね、我が使い魔が随分と迷惑をかけたようだ。」
変人、魔王などと囃される割には常識的な謝罪に多少の驚きを覚えつつ、少年は男性を見遣る。男性にしては長い黒髪とサファイアを彷彿とさせる双眸。黒のファーをふんだんに誂たどぎついワインレッドのマントに、他の衣服全てが真黒な為、異常な程に白い肌の色が際立っていた。おまけに手には金色の装飾が施された杖を持っている。先端につれて蛇が二匹絡み合っている杖を実際に使用している姿は見た事が無い。
「まあ、耳は痛かったですけど…多少楽しかった、気がしなくも、なくもないので大丈夫です。」
後半につれて世辞色が濃くなったが、対する男性、こと魔王は気にも留めていないようだ。実際の名を誰も知らないので、魔王以外に呼びようがないのが難点である。
「キキキ!そうだろう!だろう!最高級の肢体に癒されただろう!だろう!」
「肢体は最高級かもしれねぇけどあんたの声は煩い。」
「またも一刀両断!?やぁや!慈悲!慈悲は無いのか!主よ!かましてやれ!やれ!この世全てを魅了する!素敵ぼでぃの素晴らしさを!伝えてやるのだ!伝授するのだ!」
「レスティヒ、今日の夕飯は蝙蝠の丸焼きがお望みかな。」
「やぁや!残虐!残忍!残酷!」
ばさばさとわざとらしく音を発しながら白い毛玉は、鬱蒼とした木々の合間へ向けて飛び立った。キキキと甲高い笑い声が辺りを木霊する。アンティーク調の時計へ視線を移すと、六限目終了から既に二十分も経過していた。そんなにも時間が経過していたとは思わず、少年は急いで片手に掴んでいたボストンバックを肩に引っ提げると、眼前の男性へと一礼する。
「すみません、もう俺帰りますので。」
淡泊な挨拶に対して、魔王は微笑みを貌に乗せただけだった。薄暗い森の中で彼が手持無沙汰に揺らす金色の杖の輝きは普通よりも明るく見える。少しだけ恐怖心が湧いた。
「それでは…。」
サファイアの双眸は足早に駆けていく少年をじっと見つめるだけだった。森を抜けたのを確認すると、どこからか白い毛玉が顕現する。目に痛い赤色の肩へと無事着陸すると、異常なまでに白い男性の頬へ擦り寄った。肩の上で嬉しそうに戯れる小さな毛玉を、手袋に覆われた指で慎重に撫でる。
「今日の五、六限の第三棟使用クラスは確かミセルだったよね。」
「キキキ!紛れも無いミセルだぞ!先駆者が担任だぞ!」
「ああ、四十雀さんの担当生徒か。道理で不思議な匂いがする訳だ。彼女の得意とする分野じゃない気もするんだが、まあいいか。」
「やぁや!」
白い蝙蝠の口癖が薄暗い森へ反響する。ざわざわと応えるように木々が揺れた。薄ら寒い風が頬を撫でいく感覚に嫌な予感を覚えて目を細めるも、すぐさま少年が駆け抜けて行った方向から視線を逸らし、魔女の森内部、第三棟に隣接した自分の庭へと男性は歩きはじめた。
「彼女の助言が無駄にならなければいいね、レスティヒ。」
「キキキキ!あの娘っ子は胡散臭い!猛烈に!熱烈に!信用すれば馬鹿を見る!被害甚大!災害だ!人工災害だ!」
「ああ見えていい子なんだけどね。胡散臭いのは認めるけど。」
意味の無い会話を続けながら、彼等は白く塗られた木製のこじんまりとした屋敷へと消えていった。防音性など有りやしない、薄っぺらな壁一枚の向こう側で、未だ騒ぎ続ける蝙蝠を滔々と脅す声が魔女の森に響いた。木々の繁みに身を隠した少女は甲高い声と、反するバリトンボイスの応酬に口角を上げる。ざくりざくりと雑草が生い茂る地面を踏む音が、彼等の織り成す騒音に混じった。日常に混じる小さな異音に気付く者は誰もいない。




