No.00 Gibbous Moon ~After a calm comes a storm.
「どうしてこうなった…?」
夕暮時も過ぎ、夜の帳が降りてくる頃、煉瓦造りの壁に囲まれた路地裏で、一人の少年が佇んでいた。
灰鼠の短髪に、闇夜の中でも一際輝く紫水晶の瞳。ここらでは馴染みの学生服に身を包み、白と黒の丁度中間色の肌をした、やけに目付きの悪い少年だ。
四方を壁に囲われた現状の中で、焦燥と困惑を多分に含んだ独り言を、誰に聞かせる訳でもなく零しながら、少年はぼうっと空を見上げている。曇り一つない空には、満天の星とは世辞にも言い難いが、ぽつりぽつりと星が瞬いているのが見える。寄り添うように、白く、儚く、美しい満月が浮かんでいた。眩しいほどの月光に眩むこともなく、少年は虚空に浮かぶ球体を凝視する。
時刻は午後二十一時前後。少年が住まう寮の門限には、間に合いそうにも無かった。
No.00 Moon phase:Gibbous Moon ~After a calm comes a storm.
今日も今日とて、何てことない日常を謳歌し、最近閉塞的な巷を騒がしている連続怪死事件の噂を小耳に挟んで「物騒な事もあるもんだ。」とどこか他人事に感じたり、図書室に立ち寄って勉強をし、三時間経った所で学院を出たり…。どれだけ説明を細かくしても、少年にとって何ら変化も違和も無い日常生活を機械的に繰り返しただけの一日だった。
強いて明確化出来得る非日常は、図書室での勉強が珍しく捗ったことくらいだろうか。頭が余り良くないため、基本的に理解できない事ばかりだが、今日はやけに頭が回っていたのだ。すらすらと頭の中に勉強内容が入ってくるので、じゃあこっちも復習しておこうと色んな方面に手を伸ばしている内に、閉校時間を教える鐘が鳴り響き、急いで図書室から出た。伴っていつもより帰宅時間は随分と遅延し、月が高く上った空をバックにとぼとぼ帰宅路を歩く現状に至る訳だ。
少年が通う学院は、一般的な学業施設とは異なり、一般的教養の他に、魔術、陰陽術、神術、エトセトラ、世間の学業施設では習う事も無い、科学的に実証されない奇蹟以上の事実を授業内容に組み込むような学院だ。
まあそもそも、奇蹟を越えた事実が普通に流通している世界であり、人間も居れば、妖怪や、悪魔、亜人など多種多様な種族が公に存在している。魔法も魔術も然程の事ではないし、陰陽術師が居たって、神降ろしを行う巫女が居たって、大して驚かれることもない。それが少年が生ける世界に於いての常識である。そんなファンタジーじみた世界の中で、科学と奇蹟を同時に取扱い、並行して授業として勉学を行っている学院と言えば解り易いだろうか。一般的な学業施設だと学生の内は、余りそういうことに着手している所は無い。若者に生死が関わる戦場へと赴く権利を与えるのは、いつの時代も賛否を招くものだ。
他にも、基礎的な体術から本格的な武術までをも取り扱っている。成績は一貫して基礎数値を測定、数字化したものと、知的全般のテスト点数によって左右される。数値は細かく十段階で評価され、測定結果によってクラスを振り分け、授業内容にも差異を与える完全成績主義を名目にしており、どれだけ名家の出身であろうと見合った成績を出せなければ、問答無用で下等クラスに分けられる。簡単に説明すれば、個体の尊厳を優劣で決定付ける学院である。
少年は斯様な学院の平凡な劣等生だ。成績表はいつも、いつまでも武術以外最低値で埋め尽くされている。一般的な学業施設に通っていれば、成績も其れほど悪かないものであっただろう。にも関わらず少年は、異端者の養成学院に入学した。そこに深い理由が有るのかと問われれば、一応有るには有る。然れども此処で語るほどのものでも無かろう。要するに「異端的な学院に通う平凡な劣等生」これだけの言葉で少年の価値は明徴することが可能なのだ。
先にも述べた通り、本日の授業内容についての復習を終え、図書室を出たのが午後二十時前だった。外観だけは洋風な学院を出て、これまた洋風な町並みを横目に帰路を歩く。頬を撫でてゆく風は少しばかり冷たかった。
学院本棟を基点に周辺一帯には、小規模な街が形成されている。それらの街全ても学院の一部だ。というより、小島一つが学院の敷地内なのである。どれだけ大きいんだとか、無駄な金を使い過ぎなのではないかだとか、学生内では専らの噂だ。街の風景は装飾華美な訳でなく、赤煉瓦や石畳を用いて中世の街並みを形成している。学院敷地内における建築物の殆どはマナー・ハウスやカントリー・ハウス、城に教会、聖堂のような威厳と風格を備えたものばかりで、入学したての学生達は夢の国へ迷い込んだみたいに、胸を躍らせながら学院内の探検を行うのが一種の通過儀礼となっていた。
因みに学院敷地よりも大規模な島が隣接しているが、その島は世界でも有名な海上要塞である。海上要塞都市ユース・ノヴァと聞けば、皆一様に微妙な顔をすることだろう。人間にとっては叡智の結晶であり、最強の要塞。人外にとっては目の上の瘤、屈強でいて堅固な牢獄。大まかな感想はこんなものだ。そんな毀誉褒貶入り乱れる要塞と、L.O.S.学院はお隣さんである。海中エレベーターを用い、行き来が可能となっている。どうしてこんな立地に学院を建てたのか、海上要塞都市との関連性は有るのか。様々な疑問はあるだろうが、その件については割愛させて頂くとしよう。何故なら話が前に進まないからだ。
冷たい風に目付きを曇らせつつ、石畳を歩いていると、何やら不穏な光が路地裏で明滅しているのが見えた。特に音や声は届かず、ただ不可思議な光の明滅だけが視界の隅に紛れただけだ。景観に合わせ備え付けられたガス灯の光では、暗い夜道を照らすには心許ない。従って一帯は薄暗く、月光も何故か翳っている。先程まで眩しいほど煌めいていたというのに、不穏な光を視野に入れた途端、辺りに月光は降り注がなくなった。不吉な現象に眉を顰め、発光源へと少しだけ視線を移す。赤煉瓦の壁に四方を囲われた路地裏には、ガス灯すら配備されておらず、殆ど真っ暗といってもいいほどだ。僅かな明滅を繰り返す発光源は、表通りから視線を移しただけでは見えない事を鑑みると、路地を幾度か曲がった奥にあるらしい。
ざわざわと加速する胸騒ぎに目を瞑り、じっと凝らして見るも矢張り何も捉える事は出来ない。素通りすればいいものを、少年は割と好奇心が旺盛なタイプの人間であった。好奇心は猫を殺すとは言うが、少年は猫よりも簡単に、呆気なく死ぬ人間だ。己の事を十分に理解した上で、理解の範囲外な行動を取ってしまうのは、ある種人間の性なのかもしれない。少年は心中で適当な言い訳を連ね、路地裏の中へと足を踏み入れた。
表通りから見るよりも、何倍も暗い路地裏を明滅を繰り返す謎の光だけを光源として歩きはじめる。無意識化で息を潜めているのは、緊張からなのか、恐怖からなのか。二つ目の路地を曲がった所で、今朝小耳に挟んだ学院内での噂をふと思い出す。ホラー映画を観ている時に限って、怖い話や体験を思い出すのと同じ道理だろう。降って湧いた噂話は、徐々に脳内を埋め尽くしていく。
数十日前から学院敷地内、及び海上要塞都市ユース・ノヴァで断続的に起きている連続怪死事件。発見された遺体に統一性は無く、謎の発火現象から焼死した者も居れば、全身の骨をまるで大きな手で握りつぶされたかのように粉々にされている者、両手両足あらゆる肢体を引き裂かれている者、落雷を何度も受け止め感電死していた者、例を挙げ始めれば正直きりが無いほど、長らく起こっていた事件のようだった。そんな事件だが、科学的に立証できなくとも異端者的観点ならば解決可能だそうだ。事件内容に於ける事象の総てに整合性の有る証明を完了させた猛者も存在するらしい。少年からすれば噂を小耳に挟んだ程度なので、それも誰かが創り上げた理想的な探偵像が反映され、広まっただけではないかと殆ど信用していない。
端からそんな天才が存在したならば、このような事件が長続きしていないだろう。どこまでも正論を振りかざしてしまうのは、年若き少年にしては不相応な思想だ。
要するに現在も進行形で事件は解決されておらず、このような不審な場所で凄惨な事件が行われている可能性は大きい。頭の中ではそれを理解し恐怖心を煽られつつも、歩みを止められないのは何故なのだろうか。少年自身が一番己の現状を把握できていなかった。
誘われるように、何かに惹かれるように、四方を壁に囲われた暗闇で明滅する光を求めて、奥へ奥へと足を進める様は、傍から見れば不審者、乃至は徘徊癖の有る不審者にしか見えない。結論から言えば、彼は紛うことなき不審者だ。
しかし客観的に見た己の現状を考えている余裕など、少年には露程も無い。灰鼠の髪が冷たい風に揺られ、学生服に包まれた身体を吹きぬけていく。新緑の季節らしからぬ寒気を覚え、少年は身震いした。紫水晶の目付きが悪い瞳は、常以上に細められ、主人公とは思えない凶悪面と化している。路地を進行する速度は緩めず、然れど物音は最小限に潜めて、全身の神経を集中させた。特殊的な知識、能力は殆ど持たない劣等生であるが、少年には武術のみ才覚が在った。彼の父は武術全般、特に刀剣を扱う武術に秀でており、幼少から修練させられていたのだ。神経を研ぎ澄ませる事で、多少の気配は察知出来る。が、それは所詮付け焼刃に過ぎない。どれほど修練や、鍛錬を行っていても日常的に戦場へ赴いていたり、暗殺を家業にしていなければ、てんで意味の無いものだ。
目を凝らし、神経を研ぎ澄ませつつ、五つ目の路地を曲がった其の折、謎の明滅を繰り返す発光源と、遂に鉢合わせてしまった。路地の最奥、何処よりも人気の無い暗闇の中で光球と形容するのが正しい光が、ちかちかと明滅している。青白い光球は、四方の赤煉瓦に囲われ、遠目で確認できるよりも眩い。大きな球体を中心に、多数の球体がそれらを囲うように周回している。好奇心の先に見たものは、少年の頭では理解できない類いのものだった。
明るすぎる光源を目にした事で、反射的に瞳を閉じ、眉を顰める。瞬時に警鐘が脳内で鳴り響き、閉じた瞳を無理矢理に開いた。痛む目を細め、睨みつけると光源の中心に誰かが佇んでいるのが窺えた。警鐘は益々音を大きくして、脳内に響き渡る。心臓の音が常の何倍も煩く聞こえた。少年が青白い光の中心に立つ”何か”を確認出来たという事は、”何か”は少年の存在に気付いている事だろう。ただでさえ、暗く狭い路地の奥だ。人気など塵一つも無い。
実技教科の無かった今日の授業内容に理不尽な怒りを宿した。武術授業、というよりは武器を用いた戦闘訓練があれば少年は背に大きな太刀を携えていたのだ。武器の有る無しでは心持が違う。今の少年には凡そ武器と呼べるものは、何もなかった。
煩いほどに高鳴る鼓動とは裏腹に、少年の身体は動かない。地面に縫い付けられたように、微動だにしなかった。眉間に皺を寄せ、光球に囲われた路地裏の”何か”を睨め付ける。ぼんやりと”何か”の輪郭が見えたような気がした。
―其れは長身な人型であった。其れは鮮やかな天色の頭髪をしていた。其れは鶸色の双眸をもっていた。其れは人間とは異なる鋭い爪と、鱗に覆われた腕を構えていた。
薄ぼやけた輪郭が徐々に明確となって、血走った鶸色の瞳と視線が交錯した。少年からは細部の造形までは見えないが、光球に囲われた”何か”の双眸が三日月のように弧を描いている事と、其れの鋭い爪の先に赤い雫が滴っている事だけは視覚化出来た。途端に体中を電流がかけていく。獲物を見つけた捕食者の瞳に、地面に音もなく落ちる液体に、只々戦慄した。愚かな自分を嘲笑うかの如く、周回と明滅を繰り返す光球にだけ注意を裂いていた己を恨んだ。路地の最奥だなんて、惨劇が起こるには最適な場所だと、よく理解していたじゃないか。己の過失に恨み言を連ねていても、現状に変わりがあるわけではない。無力に等しい少年は、縫い付けられたが如く動かぬ足を懸命にも引き摺って、後方へじりじりと動き始める。鶸色の双眸は、依然変わらぬ弧を描いたままだ。
不透明な球体は光を振り撒くだけで、少年に襲い掛かってくる気配は無い。そう、逃げるならば今しかないのだ。
「――く――――ハ―――まだ、その時じゃァない」
後方へとにじり歩いていた身体に緊張が駆け巡った。鶸色の双眸を輝かせ、構えた腕をぐっと握りしめる”何か”から、男女どちらとも取れる声が発せられる。狭い路地裏内に、狂気染みた笑い声が木霊する。独特な声色は少年の耳に、酷く居心地の悪い音を残した。黒板を爪で引っ掻くような、甲高く、背に寒気を与える様な不快音。少年の知り得る日常とは随分と懸け離れた狂気の音。気分の良くないものである筈なのに、少年にはどこか聞き覚えがあるように感じた。馴染み深いと例えるべきか。知っているようで知らない音。咆哮にも似た不快音に、彼の日常を支える重要な支柱が重なる錯覚を覚える。
「―――Te necesito.」
茫然と立ち尽くす少年に、青光の球体に囲われた”何か”から再度音が発せられる。少年には正体不明の”何か”から吐きだされた言語が理解できないが、言葉の節々にまるで恋焦がれる乙女のような、狂おしいほど情熱的な、余りある殺意に微量の恋情を撹拌したかのような声色だと感じた。背筋に冷たい液体が滑り落ちる。明確な殺意のような、そうでないような言葉に、只々恐怖心が体を巡った。
激しい動悸に眩暈がするほど立っているのも辛いというのに、声の主を突きとめなければならないと不相応な使命感に苛まれる。知人である可能性など微塵も無いであろうのに、少年の脳裏に何故だか見知った女性の笑顔と、柔らかい声がちらついた。心臓は忙しなさを止めようともしないまま、激しいエラー音を弾き出し続ける。
「あ…」
一体何者なのかと声を出そうとした瞬間、発光と明滅を繰り返す球体が一際眩い光彩を放った。今までの比でない眩さに反射的に目を瞑る。瞼の裏側に溶け込んでくる光の白さに、少年は暫く瞳を開くことが出来なかった。そして、体感的には十分、実際には一分も経たず瞳を開くと、目前に居た筈の”何か”は姿形も無く消え去っていた。少年が驚愕する間もなく、路地裏はいつも通りの平静さを取り戻してしまった。
石畳に残る血痕だけが、日常に取り残された異物である。死体も無く、殺人現場と呼ぶには些か証拠が不十分過ぎる路地の最奥で、落ち着きを取り戻し始めた心音と、脳内で騒ぎ立てる疑惑が、あまりにもちぐはぐで少しだけ笑ってしまいそうだった。人は不可解な現象を唐突に突きつけられると笑いが出るものらしい。
突如として訪れた現実離れには程が過ぎる現実と、静寂に包まれた路地裏の気味悪さに少年は眉間を顰める。路地の隙間から満月に程近い十三夜月が、燦然と輝いていた。幻想的な光を浴びながら、起こってしまった非現実から目を背ける為に、宵闇の路地から足早に去った。現実逃避するしか、少年には先の現実を消し去る術が無いのだ。居住まいである学院寮の門限は二十一時で、現在時刻は二十一時八分。間に合うどころか、長い説教と懲罰が下されるのは明白である。微妙に八分過ぎてしまった事を不運と思えばいいのか、今五体満足に生きてられる事を幸運と思えばいいのか、少年には判別し難い事実だった。