自立した者
勲さんは続けた。
「直樹は俺が何故会社を辞めたか、解るか?」
「確か‥、長時間の車の運転とか不定期な残業とかの、営業の仕事が体力的にきつくなったからと言ってませんでしたっけ。」
「馬鹿、あんなの嘘に決まってんだろ。」
「えっ、じゃあ本当の理由は何だったんですか?」
僕には、ちょっとした驚きだった。
勲さんの退職は、当時の僕にとっては相当なショックだった。会社内で出世こそしていないが、僕にとっては一番頼りになる先輩であり、そのポテンシャルは名ばかりの管理職を遥かに凌駕していた。
もしかしたら、そんな自らの待遇への不満もあって辞めたのかもしれないと、当時は考えたりもしたのだが‥‥
勲さんの意図は、全く別の所にあったのだった。
「準備が整ったからさ。」
勲さんは、自らの退職理由をそう説明した。
「えっ‥、あの、何の準備ですか?」
「自立する為の準備だよ。」
「自立?‥独立じゃなくてですか?」
「ああ、自立だ。表向き、今不動産屋を営んでいる俺は、直樹から見たら独立した様に映るのかもしれないな。
だが、俺が求めた本質はそこじゃない。会社だけからじゃなく、社会の全てから影響力を受けずに自分の意思で生きて行く事が出来る力を身につけたかったんだ。
その力を養う為に『会社に属して利用していた。』というのが正しい表現になるだろう。」
(だから、昇進とか昇格に興味が無かったんだ。いや、辞める時の事を考えたら、敢えてそうしていたんだ‥きっと。)
驚きはあったが、内心、僕は納得していた。
勲さんの話は続いた。
「実際、会社にいる間に俺は色々な物を手に入れる事が出来た。
まず金だ。
寮に居続ける事で節約し、順調に貯金も出来たが、勿論それだけじゃない。
俺が若かった頃は、ちょうどバブル経済全盛期だったからな。
担当した販売物件のモデルルームに設置してあった家具やオーディオ類を売りさばいて稼いだりもしたな。当然、上司には『販売交渉上、客に提供した。』と嘘ついてな‥。
だが、それよりも大きかったのは、やはり不動産の転がしだな。当時の知人に名義を借りて買えるだけの土地を買い漁ったな。幸いバブル崩壊前に全て転売したから、何倍にもなったぞ。
それから人脈だ。
営業の傍ら、俺は将来自分にとって役立つ人脈作りに注力したよ。地主、管理会社、役所や警察官、医者、保険屋、銀行員‥幅広くな‥。大手不動産会社の看板を使って与えられるだけのメリットを彼等に提供しながら、その懐に取り入っていったんだ。
最後が知識と情報だ。
知識については自慢じゃないが、勉強も結構したぞ。ただ、それ以上に作り上げた人脈によって知り得た裏事情も含めた業界知識と情報は貴重だった。
そして、俺は同時に、他人の懐に入る事で更に貴重な情報も手に入れていった。他人の個人情報ってやつさ。
言っておくが住所とか生年月日の類なんかじゃないぞ。公には隠している個人的な秘密ってやつさ。
こういった物を手に入れ、自分が自立出来るだけの力を手に入れたと確信したから、俺は会社を辞めたんだ。」
ここまで話し終えると、勲さんは敦子が入れてくれたお茶を、ぐいっと一飲みした。
「勲さんて、‥‥恐い人ですね。」
思わず呟いた僕の声が耳に届いたのだろう。
「おいおいっ、言っておくが別に誰かを積極的に脅す為にそんな秘密集めをしていた訳じゃないぞ。あくまで、自分に対して他人が攻撃をしてきた場合の備えさ。何処かの国の軍事力みたいなもんだ。」
慌てて、言い訳めいた発言を付け加えた。
「でも、なんか卑劣だわ。」
敦子からも、批判を受けた。
「だから‥、誰かが攻撃さえしてこなければ、俺はただの気のいい不動産屋のおっちゃんなんだってば‥。」
「いいえ。腹黒いおやじよ。」
「おいっおいっ、そりゃないだろ‥。」
やはり、勲さんも敦子には弱い。
困り果てて、弁解する様は、ちょっと滑稽だった。
そんな光景を見ていたら、一瞬感じた勲さんへの恐れも、何処かへ飛んでいってしまった‥。
「それで、さっき言った対抗策なんですが‥。」
僕は、話を本筋に戻すべく切り出した。
「そう、そう、そこからが肝心だった!」
勲さんも、敦子の詰問から逃れるチャンスに飛び付いてきた。
「さっき勲さんが言った通りだとしたら、僕にどんな対抗策があるんでしょうか?正直警察や会社の上層部に、一サラリーマンの僕が対抗出来るととは思えないんですが‥」
「だったら、辞めたら?」
「えっ‥」
「だってそうだろ。あの会社は無実だと判ってるお前を、警察に売ったんだぞ。お前はそんな会社の為に、今後も働いてやろうなんて気持ちになれるのか?」
「そりゃ、そうですけど‥。」
「ちょっとお父さん、何言ってるの!直君に失業しろって言うの?」
敦子が話に割って入って来た。
その顔は真っ赤だった。アルコールのせいか‥、或いは激高しているのか‥。
いずれにしても、敦子の口撃に勲さんは慌てた。
「おいっ、慌てるなよ。今すぐ会社辞めろとは言ってないだろうが。何より、直樹はまだあの会社から何もふんだくってないんだから‥‥今辞めたら割に合わないだろうが。」
「だったら、最初からそう説明してよ!性格悪いわ!」
「分かったよ。悪かったよ‥。」
勲さんは、不本意な謝罪をしてから、改めて言い直した。
「要は、会社での自分の立場など気にするなという事だ。それが出来るんなら‥‥なんとかなるさ。」
「‥‥出来ますよ。」
僕は決意表明をした。
「よし、直樹にその覚悟があるなら、俺が精一杯サポートする。大丈夫、今まで色々な想定で、俺はシミュレーションしてきた。
きっとそれが、活きる筈さ。
大体ここまでは、無防備な直樹に対して、用意周到な準備をした奴等が攻めてきて後手に回っただけの事だ。誰だって突然狙われたら、回避なんかできない。
‥それで、これからについてだが‥。」
それから小一時間、僕は勲さんからいくつかの提案を受けた。
いずれも、危機対応力が欠如してしまっていた僕には考え及ばないものだった。
そして、改めて思った。
(やっぱり、勲さんは恐い人だ‥。)
自分がそれを遂行できるか、不安も覚えた。
それでも、勲さんのいつもの一言は僕に力を与えた。
「‥‥なんとかなるさ!」




