俺と聖天使
五限目の授業は、美術だった。
紅 炎人は、この時間に限っては居眠りしないと決めていた。
先生が教卓越しに、ミロのビーナスは女性として理想に近いボディーバランスをしているとか何とか言っている。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。授業が耳に入らないほど、炎人はあるモノに夢中になっていた。
「で、でかい……。」
炎人の視界の先で、二つの柔らかそうな丘が呼吸に合わせて揺れている。ブラウスの胸元は大きく盛り上がり、第三ボタンははち切れんばかりだ。
「これでスタイルが良ければ、言うことなしなんだが……」と、炎人が思ったそのときだった。
殺気がした。
一瞬、「心を読まれた!」と思ったのだが、そんなわけがないと直ぐに思い至る。
炎人は、窓の外、教室の天井、後ろに座る綺麗な女の子と、キョロキョロと視線を動かした。
周りが何事かと騒めくが、そんなことを気にする余裕はなかった。
ゴロゴロと雷が鳴り響いた。そして、窓ガラスをガタガタと揺らす空振。いつの間にか、空は厚い雲に覆われ、陽が遮られていた。
「あれなんだよっ!」
クラスメイトの声と同時に、美術室全体が静かになった。炎人は、中庭を一望できる窓の外を見る。さきほど感じた殺気がそこにはあった。
黒い雲、いや黒い煙と言った方がいいだろう。美術室へと近付きつつあるその煙は、禍々しい危険な匂いがした。
「みんな、逃げろっ!」
炎人は叫んだ。しかし、状況を掴めないクラスメイトたちは、炎人を見たまま動こうとはしなかった。
窓の向こう側で、体育をしていた学生たちがバタバタと倒れるのが見える。美術室のどこかで叫び声があがった。
真っ先に教室から飛び出したのは、女教師だった。その爆乳を追って、何人かの男女が走り出す。続いて学級委員が「みんな逃げて」と、避難の誘導をする。
しかし、逃げ遅れた奴が一人。
炎人の幼馴染み、黒影 凛だった。
凛の脚に黒い触手が纏わりつく。「キャッ」という小さな悲鳴がして、炎人は振り返った。
「逃げろっ! 凛!」
逃げられそうにない幼馴染に、「逃げろ」はないと思うが、それでも炎人は叫んでいた。
しかし、その声は虚しく掻き消え、凛は闇に囚われた。
ウネウネと蠢く触手の群れが、凛に襲いかかり、両手両足を絡め取る。
「凛っ! 凛っ! 凛っ!」
「炎人、私のことはいいからっ。逃げてっ!」
少しずつ身体の方に這い上がってくる触手たち。
脚から上ってきた触手が、凛のウエストに巻きつく。ミニスカートが捲れ、白い太腿の付け根が覗いた。
両腕からの触手も、制服ブラウスの上から胸元を這い回り、豊かな胸の膨らみを強調させる。
「いやっ……炎人、お願い、見ないで……。」
雲のような黒い煙が、凛の背後まで迫っていた。闇が凛を喰らおうとしているのだと、炎人は思った。
「止めてくれよ、どうして凛なんだよ……。」
この二本の足は、何のためにあるのかと思う。動いて欲しいときには、いつも石のように固まってしまう。
動けっ! 動けっ! と心の中で叫んでも、膝は震えるばかりで言うことを聞いてくれない。
炎人は、己の弱さが情けなくて、悔しかった。
「凛……。」
闇が、凛の肢体を包んだ。一瞬、身体が光ったかと思うと、触手も黒い煙も消えてなくなっていた。
「だ、大丈夫か?」
一見、いつもの凛に見えた。黒い髪が、銀色に染まった以外は……。
「リンと言うのか、この女は? なかなかよい身体をしているではないか。」
しかし、いつもの凛の口調ではなかった。そして、銀髪の乗っ取られた凛の身体はブラウスのボタンを外し始める。
第三ボタンまで外れると、白い張りのある膨らみが、チラリ覗いた。
「男よ、見たかったのだろ? この女の胸乳を……。」
という声とともにブラウスが割れ、凛の裸体が晒される。
「凛に、何をしたっ!」
夢にまで見た凛の裸が、そこには無かった。柔らかそうな双丘を鷲掴みするように、男の手が貼りついていたのだ。
胸元を覆う大きな掌が、凛の鼓動のリズムに合わせるかのように動いている。豊満な膨らみが、ゴム鞠のように形を変えた。
「残念だが、この身体は、私が頂いた。くくっ、男よ、女の下半身も見てみるか? なかなかの名器だぞ。」
凛の姿をした銀髪の男が、ニヤリと笑った。
眩暈がした。絶望に胸が締め付けられ、えずきそうになる。凛は、文字どおり男に頂かれたのだ。
「もうここには用は無い。全てまとめて消してやろう。皆殺しにしろ鳥女っ!」
羽を生やした怪物たちが、炎人を囲んだ。凛の姿をした女が、闇の中へと溶けていく。
「殺るなら殺れよ。俺はもう死んでもいい……。」
気力を失った瞳で、鳥女を見る。
鳥女の群れはキーキー喚くだけで、手を出してこない。何かが起きているのだと思ったが、炎人にはわからなかった。
そのとき、炎人は光に包まれていた。少年を守る光は、炎人の心に囁きかける。
『彼女を助けたいか?』
「あぁ、でも、手遅れだ……凛は、アイツに手籠めにされた……もう、遅いんだ……。」
女の価値はそんなもので決まらないとわかっていても、もう他人のモノになった気がして、全てが失われた思いだった。
『アイツ? 魔王のことか? 魔王は絶望を喰らい成長する。少年よ、魔王の戯れに惑わされるな。』
「それは本当かっ?」
『炎人よ、我の力を使い、魔王の野望を砕け! 我の名は、聖天使ブレイズ!』
光が炎人の体内に入り込み、輝く炎を纏わせた。全身に力が漲る。
「行くぜ! 俺はお前たちの好き自由にはさせないっ!」
炎人は目の前の鳥女を殴り、消えゆく銀髪の男女に向かって走る。
「男よ、私に刃向うというのか? よかろう。人の身の限界を教えてやろう」
堂々と構える魔王に対すると、炎人は己の拳に炎を纏わせ、力を溜めた。
「喰らえ! “火炎拳”っ!」
「無駄だっ!」
パコっ!
繰り出す強烈な右ストレートを、魔王は軽々と片手で受け止める。そして、そのまま強力な握力で握り返してきた。
炎人の額から汗が流れ落ちる。
「はうっ!」
しかし、先に体勢が崩れたのは、凛の姿をした銀髪の男だった。ガクガクと膝が震え、スカートの内側から光る液体が滴り落ちるのが見える。
「き、キサマ……何をしたっ! まぁ、いい……どうやらこの身体は完璧ではないようだ。ひとまず引いてやろう。」
凛が、炎人の存在を無視して闇の中へと消える。同時に、鳥女たちが炎人に向かって襲い掛かってきた。だが、先ほどまでの炎人ではない。
「凛、ごめん。でも今はここで殺られるわけにはいかねぇ!」
「喰らえ!“火炎蹴”っ!」
鳥女の剥き出しの乳房を、次々に蹴り飛ばしていく。すると、鳥女は身体を反らし白目を剥いて悶絶する。一体何が起きているのか、炎人も分からなかった。
「スゲーぜ、この力っ! これが俺の炎の力っ!」
鳥女を全て消滅させ、謎の力に感心していると、再び心の中で声がした。
「炎人よ、お前と同じ聖天使の力を宿す6人の魔導師を探せ。」
「6人の魔導師?」
「炎人も含めた7人の魔導師は、7つの光を意味している。炎人よ、お前は赤の魔導師だ。他に橙、黄、緑、青、藍、紫がいる。7つの力を一つにすれば、魔王を幻と化すことができるだろう。」
「そうすれば、凛が戻ってくるんだな!」
「そうだ。これを持って行け。地図だ。ここは既に、別世界となっている。これも全て魔王の仕業。最初の目的地は“青き山”。ここには青の魔導師がいるはずだ。炎人よ、決して死ぬのではないぞ」
「ありがとう。ブレイズ。」
行く場所は決まった“青き山”。そこはどんな所かも分からない。それでも助けなければならない奴がいる。
「待っていろよ、凛……。」
炎人は胸に誓い、小さくて大きな一歩を踏み込んだ。