鬼の涙・後編
翌朝、トレーニングを済ませ、朝食を摂った後に購入した家へと足を運んだ。
ただし、手ぶらではない。箒、雑巾、バケツを所持している。
空いている手で鍵を開けて、中へと入る。
「よし、じゃあ、掃除するぞ」
ハウスダストの飛び交う小汚い家なので、家具が運ばれる前に掃除を終わらせてしまいたいのだ。
「ん……」
「――分かりました」
「……」
サラは返事なし。まあ、別に手伝うことを強要することはしない。
したくないのなら、座って待っていればいいだけだし。
「んー、俺は二階をやるから、カレンとノエルで三階をやってくれ」
「――了解いたしました」
「わかった……」
返事をしたノエルとカレンは、すぐに階段を上がっていった。
カレンだけでなく、ノエルまではしゃいでいる様に見えるのは、気のせいだろうか。
まあ、楽しんでいるのなら、俺としても嬉しい限りだが。
さて、俺は掃除を始めなくてはならない。
二階には食堂と調理場と居間がある。
掃除機が無いので、雑巾がけをしなくてはならない。
面倒で仕方ないが、雑巾がけは得意分野だ。
前世でいじめられていた俺は、掃除はほとんど俺一人に押し付けられていた。
雑巾、箒、黒板消し、窓ふきのエキスパートと呼ばれてもいいほどの数をこなしてきた。
それらを強要され、拒否をすれば殴られていたからだ。
理由としては自慢できる物ではないが、結果だけを見れば自慢してもいい物だろう。
まさかこんな所でいじめられた事が役に立つとは思わなかったな。
過去の嫌な記憶を思い出しながら、バケツに水をいれ、雑巾を濡らして絞る。
無心で床を拭き続け、いつの間にか二階の床を全て拭き終えていた。
新しい雑巾を出し、調理場のカウンターにコンロやオーブンの掃除を済ませたが、カレン達はまだ終わっていないらしい。
その間に、俺は一階のロビーの掃除を終わらせる。
箒をかけ、雑巾で拭く。扉や窓もしっかりと拭き、一息ついた所で、扉がノックされる。
俺はすぐに扉を開け、来訪者を中へと招く。
「どうも、店長」
「持ってきやしたぜ」
店長は親指で後ろにある手押し車を指した。
手押し車の上には注文した家具の一部が乗っている。
「あと数回往復して、仕事は完了でやす」
「いくら払えばいいですか?」
「無事に終わるかわかりやせんぜ?」
「先に知っておきたいので」
「わかりやした……えぇと、銀貨十四枚でやすね。送料は無料にしときやす」
椅子を六、食卓を一、机を二、寝台を二、戸棚を二、全部で一万四千円。
質も良いのに、こんなに安くて良いのだろうか。
「送料は基本いくらなんですか?」
「距離によりやすけど、最低でも銀貨五枚でやすね」
「なるほど」
「ほいじゃ、家ん中に運びやすんで」
「僕も手伝います」
「お客さんは座っててくだせえ」
「いえいえ、早く終わったほうがいいですから」
「……負けてくれとか言わないでくだせえよ?」
「言いませんよ」
俺は手押し車に乗っている戸棚を担ぎ上げ、家の中へと運ぶ。
「部屋まで運びやすか?」
「いえ、玄関まででいいです」
「そうでやすか。お客さんも力持ちでやすね」
「いえいえ、それほどでも」
俺よりも力持ちなのがいるしな。
俺と店長は世間話をしながら、テンポよく家具を運び終える。
店長が店に家具を取りに行き、戻ってくるのを繰り返し、三時頃に全ての家具がロビーに置かれる。
「予定よりも早く終わりやした。お客さんのおかげでやす」
「いえいえ。それと、僕のことはシャルルでいいですよ」
「分かりやした、シャルルさん」
「では、代金です」
俺は袋から金貨二枚を取り出し、店長に渡した。
「お釣りは大丈夫ですよ。心づけです」
「ありあとやした! またお越しくだせえ!」
「はい。お疲れ様でした」
代金を受け取った店長は手押し車を押して店へと帰っていった。
さて、後はロビーに置かれた家具を部屋に置くだけだ。
「ノエル、手伝ってくれ」
仕事を終えて下に下りてきていたノエルに声をかけた。
「――了解いたしました。どちらまでお運びいたしましょう?」
「付いて来たまえ」
俺は戸棚を担ぎ、ノエルが寝台を軽々しく持ち上げ、階段をのぼっていく。
俺の部屋は四階の一番広い角部屋だ。
ノエルに指示をだしながら、寝台と戸棚、机と椅子を俺の部屋に運んだ。
同じセットを隣の部屋に運び、食卓と椅子四つは食堂に置いた。
家具の配置も完了し、寝る事もできるし、服の収納も出来るようになった。
家で食事が出来るようには……まだなっていなかったな。
フライパンや冷蔵庫も必要だ。
次に向かうべきは、雑貨店か。
ダ◯ソーが近くにあれば、色々と便利なんだがなぁ。
「それじゃあ、俺は出かけてくるから、皆は家具を綺麗にしておいてくれ」
「ん……私も、行きます……」
「留守番を頼みたいんだけど……」
「……行きます」
「……」
「……」
しばらく沈黙が続き、遂にカレンが動き出す。
俺の体に腕を回し、胸に顔をうずめた。
そして、上目遣いでカレンが言う。
「だめ……?」
「いや、駄目とは言ってないよ! むしろ全然オッケー! うん、一緒に来るといい!」
全く! カレンさんはいつこんな事を覚えたのかしら!?
これで私が断れるわけないじゃないですか!
「さあ、行こう、カレン! 一緒にお出かけだ!」
「……しゃる……私以外に、騙されないで、ください……ね?」
「はい、ごめんなさい」
――――――
夕刻、日用品の購入を済ませた後は、皆で外食をした後に、家へと戻った。
さて、ここに来て気付いたのだが、ベッドが二つしかない。
これはつまり、二人一組になって寝なければならないという事だ。
「カレンは誰と寝たい?」
「しゃる」
「さいですか」
即答されてしまったので、ノエルとサラが一緒に寝る形になったが、大丈夫だろうか。
ノエルはこちらから話しかけないと何も言わないし、サラは不景気な状態だ。
部屋の雰囲気は暗くなるに違いない。
明かりはちゃんと購入したので、視覚的には問題ないが。
「よし、じゃあ、今日はもう寝よう。おやすみ」
「――おやすみなさいませ、ご主人様」
「ノエル……おやすみ……」
「――はい。おやすみなさいませ、カレン様」
うむ。よきかなよきかな。
ノエルとカレンの仲良し度は少しずつ上がっているようだ。
カレンがサラを視界に入れないようにしているのは、俺がそうしているからだろう。
サラには少し、厳しい事をさせているかもしれない。
だが、サラの落ち込み度までくると、慰める手はない。
追い込まれた人間は、自分で這い上がる意外に道がないのだ。
俺達の手は、サラには届かないのだから。
「ノエル、頼んだぞ」
小声でノエルにサラの事をお願いし、俺達は眠りへとついた。
しかし、眠ったはずの俺は、白い世界へと飛ばされた。
「やあ、お兄さん」
「シャルル君、今俺寝てるんだけど」
「ごめんね。でも、退屈なんだ」
シャルルは退屈になる度に俺を呼び出して、話し相手にさせる。
まあ、俺はシャルルと会話するのは嫌いではないから良いのだが。
「つい最近、魔術師やレイピア使いと戦ったばかりだろ」
「う~ん、でも、どちらもあっさりと終わって……僕はこう、緊張するような、すごい戦いがしたいんだ」
「戦うのは俺だけどな」
「ああ、視界が共有されるからすっかり忘れてた」
「まあ、でも、そうだなぁ……心配しなくても大丈夫だ。敵はそのうち現れる」
「どういう事?」
シャルルの表情は明るくなり、食いついてくる。
「勘でしかないが、俺はかなり大きな物――組織と戦っている気がする。というか、遊ばれていると言ってもいい」
「何故そう言えるの?」
「俺が昔路地裏で殺されそうになったのを覚えているか?」
「うん。魔眼を持っている男だよね」
「そうだ。これも勘だが、あいつと、スラムを襲った奴、それと転移の魔術師は、何か関連していると思う」
「何でそう思うの?」
「答え合わせはそのうちできるさ」
俺がそう言うと、意識が現実へと引き戻される。
いつの間にか朝になっていて、寝た気分がしないが、体は休まったようだ。
俺は洗面所で顔を洗い、シャルルとの会話を思い出す。
路地裏で俺を襲った奴、スラムを襲った奴、そして転移魔術師の関連性。
確定的な証拠があるわけではないが、あいつらには繋がりがあると見て間違いない。
俺の中では、考えがまとまっている。
まあ、だからといって、あいつらの本部を探し出し、襲うという事はしない。
今の俺ではあいつらには勝てないだろうから。
だから、俺は力がほしい。
あいつらは俺を弄んでいるだけだ。『今』は。
でも、いつ俺の家族に危害を加えるか分からない。
その時、守れるようでなければいけない。
カレンを失った時、俺はきっと立ち直れなくなる。
まあ、確信なんてものはなく、『きっと』でしかないのだが。
カレンはまだ眠っているようなので、俺は一人でトレーニングを始めることにした。
カレンの奴、昨日はしゃぎすぎたせいで、疲れたんだろう。
あのはしゃぎっぷり、おそらくだが、成人はしていない。
十代前半か後半か、そこまでは判別できないな。
そうだ。トレーニングの帰りに食材を買っておこう。
しばらくは自炊をして様子を見る。
もしかしたら、カレンも料理が出来るのかもしれない。
トレーニングを終え、家に帰ると、ノエルが扉の前にいた。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
そう言って、ノエルが頭を下げる。
メイド喫茶なんて行ったことがないので分からないが、それなんかよりも素晴らしき物なのではなかろうか。
接客ではないのだから、当然か。
いや、接客だからこそ優れている場合もある。
……まあ、そこは俺に判断できるとこではないので、置いておこう。
「ただいま」
俺は笑顔で挨拶を返し、ノエルを引き連れ二階へと上がる。
「――ご主人様、そちらは?」
ノエルが俺の手に持つ袋に視線を送りながら尋ねた。
「食材。朝飯は俺が作ろうと思ってね」
「――料理なら自分も出来ますが」
「いや、久しぶりに料理がしたい気分だ」
「――ご主人様は料理も心得ているのですね」
「簡単な物を作れる程度だよ」
ノエルと会話を交わしながら、俺は食材をカウンターに並べた。
使用するものだけを選び、他は昨日購入した小型の貯蔵庫に入れる。
この貯蔵庫には後でドライアイスでも作って入れておこう。
さて、俺が選んだ食材は卵、ひき肉、トマト、玉ねぎ、そしてジャガイモだ。
卵をといで、塩と胡椒で味をつけたら、玉ねぎとトマトはみじん切りにし、ジャガイモは小さめに切る。
フライパンに油を注ぎ、ひき肉、玉ねぎ、トマトを炒め、ひき肉の色合いがよくなった頃に、一旦ボウルへと移す。
炒めた具の内の半分をフライパンへと戻し、といだ卵をかけ、蓋をしてしばらく待つ。
俺の好きな半熟になった頃に、蓋を外し、皿に移せば完成だ。
これはスペインらへんで作られているという料理らしく、簡単で美味だったので、前世でも良く作っていた。
ケチャップをかければ更に美味くなる。
「ノエル、カレンとサラを呼んできてくれ」
「――はい」
俺は皿を食卓に並べ、オーブンでパンを焼いておく。
パンが焼き終わった頃、カレンが食堂に顔を出す。
カレンに少し遅れてサラが来た。
サラは眠そうでもなければ、冴えているわけでもない。
普段の無表情とあまり変わらない。
まあ、とにかく、全員が揃ったところで、手を合わせる。
「いただきます」
「いただき、ます……」
「――いただきます」
「……」
サラは食べ物を前にしても、無言、無表情。
仕方がないといえば仕方がない。
サラの事は後でどうにかするとして、まずは目先の食べ物である。
ここの食材は前世にあった物と味が異なるから、同じ作り方だと味が変わるかもしれない。
調整も兼ねて、味見をする。
……んー、少し、塩っぱいかもしれない。
次に作る時は塩の量を減らしたほうが良さそうだ。
「……おいしい」
「え、ほんと?」
「ん……」
「ケチャップつけたらもっと美味いよ。今度つくってみる」
「けちゃっぷ、ですか……? 売ってない……?」
「売ってないよ。だから、作らないと」
「私も、手伝う……つくりたい、です……」
「良かろう」
会話をする俺とカレンだが、ノエルは黙々と食べ物を口に運んでいる。
サラは少し食べたところで、フォークを置いてしまった。
食欲がないのなら、それでいい。
食べるように強要する事はない。
「……サラ、ちゃんと――」
「いいんだ」
サラに食いつこうとしたカレンの声を遮る。
「……なんで、ですか?」
「放っておけ」
「……ん」
カレンは素直に頷き、食事を再開する。
サラは視線を落とし、落ち込んでいるようには見えるが、やはり無表情。
もうそろそろ、俺も傷ついてきた頃だなぁ。
「よし、この後はサラと俺とで依頼を受けに行く」
俺の言葉にも、サラは反応をしない。
「だから、カレンとノエルには留守番をお願いするよ」
そう言って、俺はカレンの頭を撫でる。
カレンは何かを察したのか「ん」とだけ言って、コップに口をつけた。
「サラ、着替えてこい」
命令はしっかりと聞くのか、サラは席を立って、部屋へと戻っていった。
俺も水を飲み干してから、部屋へと戻る。
トレーニング用の服から、外出用の服装に着替え、剣を二本装備する。
コートのフードをなおし、首巻きを浅めに巻いて、サラと一緒にギルドへ向かった。
――――――
今回、俺が受けた依頼は『山賊の討伐』だ。
数年前に結託した賊は全滅させられたが、その戦いに参加しなかった賊や、新たに出来た賊が、最近また活発に行動をするようになった。
サラと共に森を歩きまわって約一時間、俺はアジトらしき洞窟を発見する。
俺は作戦を考えるわけでもなく、正面からアジトへと侵入した。
もちろん、罠に襲われるが、全部氷らせてしまった。
「な、なんだてめぇ!」
「ガキが何しに来てんだ!」
「仕方ねえ、殺せ!」
俺を見つけた山賊共が大声で叫ぶ。
山賊は俺を包囲し、じわりじわりと歩み寄ってきた。
「はぁ……」
ダメダメ、全然駄目だ。
相手の能力もわからないのに、包囲する時点で駄目。
じわりじわりと恐怖を煽っているのかは知らないが、もたもたしているのも駄目。
その前に、ガキだと思って舐めてかかっているのも駄目だ。
このまま全方位に氷槍か、土の弾丸でも飛ばせば全員が死ぬだろう。
でも、それではつまらない。
少し遊んであげよう。
「おらあっ!」
まず一人が、剣を振り下ろした。
俺は紙一重で躱し、頬に平手を食らわせる。
「あ?」
動きが止まった山賊の腹に膝を入れ、顎を肘で突く。
倒れそうになるのを手首を引いて止め、引いた時の勢いに乗せて、頬を蹴りつける。
気絶した山賊を土の魔術で拘束し、俺を囲む山賊の方へと転がした。
この動作を終わらせるのに五秒もかけなかったのは、ビャズマで体術を教わったおかげだろう。
「すみません、手が滑りました」
状況を理解しようとしている山賊に更なる挑発をかける。
単細胞な彼らは怒声を上げながら、俺に襲いかかってきた。
だが、同時はまずいだろうに。
俺が右からの攻撃を避けると、攻撃は左から攻撃してきた敵に当たる。
後ろからの攻撃を良ければ、正面から来た敵に当たる。
そういえば、リーダー格はここにはいないようだから、奥で酒でも飲んでいるのだろうか。
そんな事を考えながら、襲いかかる敵の頭に触れる。
俺に触れられた敵は、一瞬にして動きを止め、その場に倒れていった。
「な、なんだこのガキ!」
「なんだよあれ!」
「くそ! 冗談じゃねえ!」
情けない声を上げながら、洞窟の外に逃げようとする奴に土の銃弾を食らわせる。
奥に逃げた奴はリーダーでも呼びに行っているだろうから、放っておこう。
サラにちらりと目をやると、視線は俺に釘付けにされていた。
無表情がほんの少しだけ崩れ、口が少し開いていたのは意外だ。
まあ、でも、計算通り。
勘違いしてもらっては困るが、サラに見られる事が主目的ではないからな。
俺はマゾではない。決して、マゾではないのだ。
マゾで思い出したのだが、サドやマゾ等の異常性欲の名前は、作家の名前から取っている事が多い。
サディズムやサディストという言葉は、加虐的な小説を書いた作家、サド侯爵から来ている。
マゾヒズムやマゾヒストは、被虐的な小説を書いた作家、ザッヘルマゾッホの名にちなんでいる。
そして、少女を意味するロリータという言葉だが、これはナボコフの書いた『ロリータ』という小説から来ている。
『ロリータ』は中年男の異常なまでの少女愛を描いた作品である。
と、そんな事を思い出している間に、俺はどうやら山賊を全員倒してしまっていたらしい。
死体の山が俺を囲んでいて、サラは小刻みに振るえて地面に腰をおろしていた。
サラは、恐怖している。
『恐怖』は『生きたい』と願う人間だけが感じるものだ。
俺はアジトの奥へ進むが、どうやら抜け道から逃げてしまったらしい。
後は誰かが処理してくれるだろうから、大丈夫だろう。
賊のほとんどは俺が倒してしまったし。
「さて」
俺は息を一つ吐いてから、サラに向き直る。
「サラ、お前をここに連れてきた理由が分かるか?」
「……」
サラは震えながらも、首を横に振った。
「うん、えっとね、お前を殺すためだ。流石に、街の中で殺す訳にはいかないし、埋葬にもお金がかかる。ここなら、死体を放っておける」
「……!」
サラが、始めて大きな反応を示した。
虚ろな目は俺を捉え、今にも泣き出しそうである。
「さぁてと、どう殺してやろうかなぁ」
俺は一歩ずつ、ゆっくりと歩み寄り、サラを煽る。
サラは後ずさる事もなく、ただ震えていた。
腰が抜けて動くことも出来ないのだろう。
「あ~、どうしよう、悩むなぁ~」
今日の晩飯なににしようか、悩むなぁ~。
「ふふっ」
俺がサラに微笑みかけると、地面に液体が滲んでいった。
せ、聖水だ……。
失禁したサラは、瞳から涙を零し始める。
やっと、泣いてくれた。やっとだ。
俺がもう一歩歩み寄った時、サラはゆっくりと地面にひれ伏した。
そこには彼女が聖水があったのにも関わらず、サラは平伏している。
「生かして、ください……」
サラの喉奥から絞り出された、か細い声が俺の耳に届く。
「生かしてください……」
真意を伝えるために土下座までして、命を乞う。
サラはどれだけ絶望しようと『生きたい』と願った。
『死にたい』と、ここで言わなかった。
辛いなら、ここで黙って俺に殺されていればいいというのに、こうして彼女は、命乞いをしている。
「生かして……ください……」
サラは耐えようとしている。
背負おうとしている。
生きようとしている。
なら、それで良いのだ。
「サラ、顔を上げろ」
俺はサラの前に膝をついて、サラの顔を持ってきていたハンカチで拭う。
「答えが出たじゃないか」
少し急かす形になったが、これでサラの出せなかった答えが出た。
最初から出ていたのかも知れないが、絶望がサラの本心を押さえていたのだろう。
「全く。土下座が出来るなら、少し横にずれてからすればいいのに」
「……ごめんなさい」
「そう。謝罪の時は『ごめんなさい』だ。感謝の時は『ありがとうございます』。寝る時は『おやすみなさい』。朝起きて顔を合わせたら『おはようございます』。食べる時は『いただきます』だ」
「うぐっ……ごめんな、さい……っ……」
「泣け泣け。どんどん泣け。悲しい時、辛い時は泣けばいいんだよ。んで、嬉しい時は笑えばいいし、不愉快な時は睨みつけてやればいい」
サラは枷が外れたように、大声を出し、溢れる涙を遠慮無く流した。
俺がサラを抱きしめると、サラは倍の力で俺を抱きしめ、顔を俺の胸に埋めて泣き叫ぶ。
「そうだ、これでいい。感情を抑える必要なんてないんだ。絶望だけを見据えることなんてしなくていい。世の中まだまだ見てない物がたくさんある。楽しい物がたくさんある。それを見ないで死んじゃうなんて、勿体無いだろ」
「ご、ごめんっ、な、さいっ……!」
「俺達と楽しい事をたくさんしよう。綺麗な物をたくさん見よう。死ぬことを考えるのはそれからだ」
俺はサラが泣き止むまで、頭を撫でながら「もう大丈夫だ」と声をかけ続けた。
御意見、御感想、駄目出し、評価、何でも何時でも歓迎しております。




