プロローグ
「あぁ〜、疲れた......」
我が家である四階建てアパートの二階の一室へと帰宅した俺は、シャワーを浴びてからベッドに倒れこんだ。
目を瞑って、今日やった事を思い出す。
仕事、仕事、仕事、仕事、それと、ほんの少しの遊び時間。
俺は毎日が嫌だった。充実していなかったからだ。
毎週日曜日にインターネット掲示板に行っては、俺と同じ境遇にいるやつらと傷を舐め合う、そんな休日。
そして、月曜日から土曜日の夜遅くまで働き続ける。
残業代なんて出ない。『それが普通だから』と言われる。
でも、今はまだマシな方だ。
子供の頃は、毎日のように石を投げつけられ、エスカレートしていったその行為は、高校に入った頃には根性焼きをされるまでになった。
親は助けてくれなかった。むしろ逆で、俺を傷つけた。
俺がクラスメイトに付けられた丸い跡が三つぐらいで、親からは四つも印を付けられている。
それだけではなく、刃物で切られた事もあった。
切り傷は数え切れない程、体の至るところに残っている。
俺は毎日、殴られ、蹴られ、押し付けられ、掛けられ、罵られ、無視された。
誰も俺を見ようとはしなかった。助けようとしなかった。
誰の視界にも、俺は映っていなかった。
いや、映そうとしなかった。
痛々しいから、関わりたくないから、飛び火を喰らいたくないから、面倒くさいから......理由は様々だろう。
俺はそんな奴等を見ても、何も思わなかった。
きっと俺も、あの立ち位置にいたら同じことをするだろうから。
でも、俺をいじめる奴等だけは許せなかった。
同じ痛みを味わわせて、殺してやりたかった。
だが、我慢している内に慣れていって、何時の間にか俺は、『我慢すればすぐに解放される』と思い込んだ。
体の傷を残したまま、俺は高校を卒業して地元を離れた。
すると、世界は一変した。全てが新しく見えた。
だけれども、そんな夢も四年で終わった。
俺はとある企業に誘われるがまま就職し、現在進行形で後悔している。
入社した会社は黒い。詳しくは言いたくはないが、黒いのだ。
俺の人生は滅茶苦茶だ。
もう、死にたいとさえ思っている。
『我慢すれば解放される』なんて考えを持った俺がバカだった。
過去の自分と話せるのなら、すぐに警察に駆け込むべきだと、助けを呼ぶべきだと言ってやりたい。
どうして俺はあんな歪んだ結論を導き出したのだろうか。
過去の自分を殴ってやりたい。『後悔』は、後味が悪い。
俺は今日も、昔の胸糞悪い出来事を思い出しながら眠る。
思い出したくて思い出している訳ではない。
俺の味わった憎悪が、怒りが、そうさせる。
そんな俺に転機が訪れるなど、この時の俺は知る由もなかったわけだ。
――――――
アパートの一室に、一人の男が侵入した。
窶れた顔と瞳には狂気を滲ませ、息を荒くして大量の脂汗を額から流している。
部屋の中を進んでいき、男はベッドの前で立ち止まる。
ベッドには、パンツ一枚で鼾をかいて寝る、二十代後半の青年がいた。
男は、青年の体中についている傷を見て、顔をしかめる。
その傷は、男が付けた物だった。
青年がまだ小学校の高学年だった頃に、男が毎日のように付けた傷だ。
切り傷や丸い点を見て、男は弱々しく口を開いた。
「ごめんな......」
男は寝ている青年に向かって謝罪の言葉をかける。
「俺のせいで、痛い思いさせちまって......」
男は青年の頬を撫でると、キッチンへと向かい、包丁を手に持つ。
男は手に持った包丁を撫でながら、青年に話しかける。
「でも、許せない。なんでお前だけが幸せそうな顔で寝てやがる」
弱々しかった震えた声は消え、憎悪に満ち満ちた、暗い声で呟いた。
男は、青年の胸に包丁を突き立てる。
「お前、母さんが恋しいって言ってたよな。待ってろ、今、会わせてやる。俺も後から行く、心配すんな」
そして、男は、包丁を押し込んだ。
銀色の刃物は、肉を貫き、障害物によって一度動きを止められる。
だが、男が力を入れると、障害物は進行を許し、心臓を貫いた。
青年の鼾が止み、部屋には男の呼吸音だけが響く。
「はぁッ......はぁッ......!」
息を整えることもせず、男は自分の喉に血に濡れた包丁を突き立てる。
男の息は急激に荒くなっていき、十数秒後、呼吸音が途絶える。
まるで、今まで動いていた機械が動力源を失った様に、パタリと消えた。
アパートの一室。
そこに残ったのは、
心の傷をそのまま現すかのように、胸に穴を開けた青年と、
自分の不幸を嘆くかのように口を開き、体液を振りまいた男だ。
そうして死んだ青年――シャルルの、異世界での物語が始まる。