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 周りの友達より、少しだけ器用な方だったのかもしれない。

 絵を描くのが好きで、幼稚園の頃から兄と通っていた絵画教室の壁に飾られた自分の絵には、小さな金色の紙が貼り付けられていた。

 それは、一度や二度じゃなかった。

 皆で応募した絵画コンクールで金賞を貰って、先生にも両親にも兄さんにも褒められて、友達からは凄いと言われて、ちょっとした優越感が生まれていた。

 初めて持った夢は、絵描きだった。

 毎日毎日、画用紙一杯に植物や動物や偶に、人も描いたりした。楽しかった。

 他人の絵なんて気にならないくらいに夢中になってた。

 こんな楽しい気持ちは、一生終わらないと思っていた。


 小学校に上がって、四年が経った。

 その年の夏休み明けに、内居朋樹が同じクラスに東京から転入してきた。

 席も離れていたし、誰ともあまり話そうとしない。

 下ばかり向いている、内気そうな少年だった。

 自分も口数が多い方ではないが、あまり接点の無い人間だろうと思った。


 彼は勉強も一番で、走るのも一番だった。

 好きだった女の子も、彼のことが一番好きだと言っていた。

 話しかけられれば言葉を交わし、ニコニコ笑う。彼は嫌な顔をしない。

 そんな彼の周りにはいつの間にか、人が集まりだした。

 だけど、好意的な人間も居れば敵意を向ける人間も居た。

 それは、自分とは関係がないと思った。

 勉強よりも走るのよりも好きな女の子よりも、もっとずっと好きな事があった。

 自分には、それだけで充分だった。


 幼稚園の頃から通っている絵画教室に、内居朋樹も通い始めた。

 習い事を沢山していると、教室でよく一緒にいる友達が話していた。

 これもその一つ、大変だな。それくらいにしか思わなかった。

 同じクラスで数回、言葉を交わした事が合ったぐらいでそんなに親しいわけじゃない。目が合えば軽くお辞儀を交わす。必要以上の会話なんてすることも無かった。

 十畳ほどの部屋に、長机は五つ並ぶ。

 自分がいつも座るのは一番奥の席で、いつも通り筆を握る。

 三人くらいの人間が自分と同じ曜日に通っていた。

 その日、彼を含めて四人になった。

 みんな好きな席に座っている。

 人数が少ないので、いつの間にか指定席が決まっていた。暗黙のルールだ。

 誰もその日、その場所には踏み込まない。兄さんも一つ前の席にいつも通り座っていた。 

 内居朋樹は空いていた、真ん中の席に座った。


 いつも、ワクワクしてた。

 自分にはこれしかないって思っていた。

 描くことは、描かれたものは、生き物のようだと思った。描けば描いた分だけ成長してゆく。

 夢中になってた。

 楽しくてしかたなかった。

 静かな室内が急に騒がしくなって、ゆっくり顔を上げた。

 絵画教室の先生が立つ隣のホワイトボードに、絵が白いマグネットに押さえつけられて貼り付いていた。


 直ぐに、内居朋樹の絵だと解かった。

 こんな絵を描くのはここでは彼だけだ。

 自分が見てきた中でも、他には居ない。

 金色の紙はない。

 自分のしてきた事がとても、無意味に思えた。

 彼の絵は、とても綺麗だった。

 其処には、彼の世界が生きていた。

 自分が何枚も何枚も描いて描いて描いて、それでもまだ辿り着けない場所に、とっくに辿り着き、困ったように笑っていた。

 その後に横に貼りだされた自分の絵は、金色の紙なんか無くたって、才能の差を目の前で晒されているようだった。

 自分の世界は、ただの作り物の世界でしかなかった。

 生きていない。

 惨めだった。

 それでも周りはついでのように褒めた。


「白井君のも良いね」


 それでも描き続けた。

 彼の絵は生き物のようだった。

 もう解っていた。

 評価されるのはいつも、内居朋樹だった。

 週に一回、まざまざと思い知らされた。

 けれど、自分も辿り着けるとまだ思っていた。

 惨めな気持ちは、最初は直ぐに羨望に変わった。

 優劣は誰かが付けた。自分の世界に踏み込まれた。

 それでも手は、まだ動いた。

 その次は嫉妬だった。

 なんで、この手は思うように動かないのかと思った。

 頭で考えている世界は、こんな世界ではないはずだった。

 手が震える。

 自分はこの手で、なにをしたいのかが解からない。

 最後には虚しさだけが残って一度、空っぽになった。

 毎日がつまらなかった。

 筆を握れない。

 不思議と、描きたいとは思わなくなっていった。


 それは次第に日常に溶け込んだ。

 バイトを始めたいからという兄さんと一緒に、絵画教室は辞めてしまった。

 夢のような時間は、あっさりと終わってしまった。


 友達とよく遊ぶようになって、家族と沢山、出掛ける様になった。

 学年が上がり、内居朋樹とはクラスが分かれた。

 挨拶すらしない。

 他人だ。

 自分とは、関係のない場所にいるんだと思った。

 沢山の人間に囲まれる内居朋樹は、今日も同じようにニコニコと笑っていた。




「面白い物があるかもよ」と、日曜日に母に連れて行かれたフリーマーケット会場には、沢山の人と、沢山の日用品が並べられていた。

 青いブルーシートの上に品物が並べられ、通学中に通るいつもの境内の静けさが嘘みたいだった。

 ちょっとした、お祭りが開催されているような賑わいだった。

 お母さんは、店の人と楽しそうに話をしている。

 背中を軽くつついて、ちょっと周りを見てくると伝えた。お母さんは、笑って「余り遠くには行かないでね」と言った。頷いて、くるりと背を向けた。


 ふらりと近場を歩いてたら、小さな、古ぼけた木箱が目に付いた。

 しゃがみ込み蓋を開けると、小さなりピエロの格好をした人形がクルクルと回っていた。ただ回っているだけなのに、凄く可愛らしかった。

「それね、オルゴールなんだけど音が出ないの。それでも良かったらどうぞ持っていって」

 急に掛けられた声に、顔を上げて首を傾げてしまった。

「どうぞって?」

 お店のお姉さんは笑った。

「ごめんね。言い方が悪かったわ。持っていっていいよ。お金は要らないから」

「売り物なのに、いいの?」

「いいのよ。気に入ってたんだけど、捨てるには勿体無かったから持ってきたの。気に入ったんなら持っていって」

 気に入った?

 そうなのかな?

 回るピエロを、じっと見詰めた。

 それからもう一度お姉さんを見ると、首を傾げられた。

「ありがとう。大事にする」

 蓋をして、大事に抱え込んだ。

 何でなのかは、よく解からなかった。

 自分の知らない世界がこの小箱には詰められている気がして、ドキドキした。

「こっちこそ、ありがとう」

 逆にお礼を言われてそれが不思議で、でもなぜか嬉しくて勢いよく頭を下げてからお母さんのところに駆けて行った。

 お母さんは真剣な顔をして品物を見ていた。

 背中を小さく叩いて、呼びかけた。

 直ぐ振り向き、木箱を抱える自分を見て驚いた顔をしていた。

「雪、それどうしたの?」

「貰った」

「誰に?」

「女の人」

 お母さんは驚いたように眼を丸くした。

「やだ、あんたその歳でもう誑し込んで来たの?」

「たらし?」

「冗談よ。雪、そういうの好きだったの?」

「好き……って、どういうの?」

 好きな女の子も止めてしまった絵もなんで好きだったか、どういう風に好きだったのかよく思い出せなかった。惹きつけられるものも、もう特に無かった。

 友達が好きだという特撮ヒーローも野球選手も特別、興味が湧かなかった。

 お母さんは少し悩んだ後、小さく笑いながら教えてくれた。

「大事にしたいってこと、じゃないかしら」

 見慣れた顔なのに、キラキラして見えた。

 手に持っている木箱に視線を落とすと、なんだか哀しくもないのに眼から涙が幾つも落ちてきた。

 大事にしようと思った。だから大事に抱えこんだ。

 頭を優しく撫でられて、また、涙が零れた。

「好きな物がまた出来て、良かったわね」

 返事は出来なかったけど、嬉しそうに笑う顔を見たら、自分の言いたい事を解かってるんだろうなって思った。

 その時から、あまり物がなかった自分の部屋に少しづつ、物が増えだした。

 きっかけは、人から見たらそんなに大したものじゃなかった。

 でも自分にとっては大したことだった。


 小学校で最高学年と呼ばれる頃に、内居朋樹とまた同じクラスになった。

「白井君、だよね」

 始めに声を掛けてきたのは、彼からだった。

 彼の背は、クラスで一番高かった。少し見上げなければならない。

 なにか言おうとして、開けた口をまた閉じている。

「そうだよ。なに?」

 中々次の言葉を言わないから、先に自分の方から口を開いた。

 教室の出入り口に手を掛けて先を促すように言うと、少し俯いていた内居朋樹は、意を決したように口を開けた。

「あのさ、もう絵は……」

 驚いた。

 自分のことなんて、眼中に無いと思っていた。

 思わず眼を見開いて顔を凝視してしまった。

 モテるのが、何となく解かった。テレビで観る、アイドルみたいな顔をしていた。

 そういえば、彼をこんなにしっかりと見たことが無かった。

 一度彼は言い淀むと、今度はしっかりと言葉の続きを口にする。

「描かないの?」

「描かないよ」

 あっさりそう告げると、何故か彼が泣きそうな顔をする。

 解からなかった。

 自分がどうしようと、彼には関係の無いことだ。

 遠くで友達が自分の名前を呼んでいるのが聞こえた。

 早くそちらに行きたい。

 彼はこちらを見ないまま口を閉ざし、また下を向いている。

 彼の方が背が高いのだから、その表情はよく見えた。

「もう、行ってもいい?」

 なにか、こちらの方が悪い事をしている気分になった。

 早くこの場から立ち去りたい。教室の中からの視線が痛い。

 内居朋樹は、目立つのだ。

 やっと彼の口が、もう一度動いた。

「引き止めちゃって、ごめんね」

 困ったように笑う。いつも遠くから見ていた彼だった。

「いいよ、じゃあね」

 直ぐ彼に背を向け走り出す。

 返事はなかった。

 でもそれは、自分には大して重要なことではなかった。


 五月の終わり、郊外学習で筑波山に行くことになった。

 女子三人男子三人の六人でグループを組み、スタンプラリー形式で中継地点にいる先生に判子を貰いながら登っていく。

 うちのグループは男子が一人風邪を引いて休んでしまったので、合計五人で登っていくことになった。

 そこには、内居朋樹も混ざっていた。

 くじ引きで席替えをした際に、席が近くて同じ班になったから。

 それだけの理由だった。

 いつも通り別段、話をするわけでもなかった。

 彼は女子にひっきりなしに喋り掛けられていた。彼は、いつもと同じようにニコニコ笑っていた。

 その後ろを、少し距離をとって、ボーっとしながら着いて行く。

 返ってこの方が気が楽だった。

 彼をあまりよく思っていなかった友人が途中ですれ違いざまに、「雪ちゃん、頑張れ」なんてからかってくる。

 軽く笑って、返事はしなかった。


 地面が慣らされた、アスファルトよりも軟らかい土の上を歩いて行く。

 買ったばっかりのスニーカーが、少しづつ土で茶色くなっていく。

 風で木が揺れると、葉っぱの擦れる音がして心地良かった。

 空気は湿気交じりで、少し蒸し暑い。「今日は気温が上がるみたいだから、水分はちゃんと取るんだぞ」とブレザー姿の兄が玄関で言っていたのを思い出す。

 お父さんみたいにネクタイを締めた年齢が七歳離れた兄さんは心配性で、とても大人に見えた。


 木陰を選びながら歩く。

 見上げると、葉が幾重にも重なりそこから光がキラキラ覗く。

 綺麗だ。

 風は暖かくて、日向はやはり暑いくらいだった。

 七部袖を更に巻くって足を動かす。

 彼にくっ付いていた女子がくるりと振り向き、自分の方に一人抜けてやってきた。

 髪を二つに結んだ、笑顔が可愛い女の子だ。ピンク色の花柄のスカートがよく似合っていた。

 さっきからかってきた友人の話題によく出てくる。由比原理恵。

 歩幅を変えない自分の横を、並ぶように由比原は歩く。

「白井君も一緒に話そうよ」

「いいよ。由比原こそ、内居と話してきなよ」

「でも内居君、笑うばっかりであんまり、お話してくれないんだもん」

 確かに、自分から話しかける姿はあまり見たことがなかった。

 由比原は頬を膨らませ、不満そうに口を尖らす。

「照れてるんじゃないの?」

「えー、そうなのかなあ」

 由比原の顔が、少し赤くなった。

 ああ、好きなんだな。内居のこと。

 由比原の表情はコロコロとよく変わり、解かり易かった。

「そうなんじゃない? 由比原可愛いから」

 喋りながら歩いていた由比原の足が、ピタリと止まる。

 どうしたのかと思って振り向くと、由比原の顔は真っ赤になっていた。

 口をパクパクしている。今日は暑かったから心配になった。

 由比原の方に戻り、顔を覗き込む。

「大丈夫?」

 声を掛けると、ハッと息を飲む音がした。

 耳まで赤くなった。

 先生を呼んだ方がいいかな。いや、チェックポイントが近いから、おぶって行った方が早いかもしれない。

「平気? おぶろうか?」

「だ、大丈夫!」

 早歩きで、行ってしまった。

 ちょっと心配だけど、大丈夫そうで良かった。

 見上げると、高く昇った日が葉の間を縫って光りを注ぐ。眩しくて、目を細める。

「一緒に登ろうよ」

 ちょっとびっくりしたぞ。

 今度は内居が目の前にやってきた。

 おいおい、女子もびっくりしているんだけど。

「いいよ。戻りなよ。由比原達、待ってるじゃん」

 内居の脇から由比原を見たら、思いっきり目を逸らされた。ちょっと傷つく。

「じゃあ、皆で一緒に行こうよ」

「ちょっ!」

 手を思いっきり引かれ、連れて行かれる。

 こいつ、左利きなのか。

 中指の第一関節辺りが盛り上がっていた。

 ペンだこだ。昔、こんな風なのが自分の指にもあった。

 こいつは今も、あそこで描き続けている。

 興味が、少し湧いた。

 今の彼の絵は、どうなっているのだろうか。

 走ると背中にジワリと汗が滲んだ。

 背負った荷物が揺れて、走る前より重く感じる。


 最後のスタンプを押してもらい頂上に着くと、他のグループは全員揃っていた。

「二班が一番最後だ。みんなもう昼休憩中だから、あまり遠くに行かずに昼食を取りなさい。班長は内居だったな。全員連れてここに十四時集合だ。一般の登山客もいるから節度を守ってみんなで行動しなさい」

「はい」

 班員全員で返事をする。

 先生は見回りの為、直ぐにウロウロと歩き出した。


 昼食を済ませると、女子は早々に小さな土産物屋に入って行った。

 ちょっと疲れたので、木陰にあるベンチに座ってボーっとしていた。

 内居も、なにか喋るわけでもなく隣に座っている。

 疲れているなら、こいつの方かもしれない。

 女の子が三人寄ればカシマシイと、そういえば兄さんが言っていた。

 カシマシイって、どういう意味だ。

「ねえ、カシマシイってどういう意味か知ってる?」

「え?」

 びくっと肩を揺らして、内居はこちらを見る。聞いてなかったのか。

 なら、別にいいや。

「あ、いやなんでもない」

「え、ええと、賑やかとか騒がしいって意味かな」

 慌てたように、でもしっかりと教えてくれた。

「ああ、なるほど。どういう字書くの?」

「女って字を三つ並べるんだよ」

「どうやって?」

「ええと、ええと、手、貸してもらっていい?」

「うん」

 指で手の平をなぞり、三角形に女を三つ書いていく。

 なるほど。今日、身を持って体験した。

「解かった?」

「うん。ありがとう。内居って左利きなんだ」

「あ、いやあの、両利きなんだ」

「絵は、左で描くの?」

 きょとんとしている。結構表情が変わるのか。

「なんで、解かったの?」

「ペンだこ」

「あ、ああ!」

 力が抜けたようにへたりと内居は笑った。

 思っていた人間と、ちょっと違って見えた。

「今度、見せてよ。絵」

「うん!」

 尻尾があったら凄い勢いで振っていそうだ。


 下山した先で、お土産を買う時間があった。

 内居は自分の後ろから、遠慮がちに着いてくる。

 別に友達と見る約束もしていなかったので、「一緒に見る?」と聞いたら、首を何度も縦に振っていた。

 それがなんか面白くて、少し笑ってしまったら、内居も笑った。

 お揃いの、色違いのキーホルダーを買った。

 緑色の石が付いたのが自分で、青い石が内居。「白井君が決めて」と言われ「じゃあ、内居は青が何となく似合うから」と大した理由も無く選んだ。自分は緑色が何となく好きだったから、隣に並んでいた物にした。

 誰かと揃いの物を買うのは初めてだと、内居は凄く喜んでいた。

 それから、何となく内居と一緒に居るようになった。


 内居はいつだって、一番だった。

「あいつまたテストで一番だったらしいよ」「あいつなんかのコンクールで賞を取ったらしいよ雑誌に載ったんだって」「あいつ陸上部の河野よりタイム速かったんだって」

 あいつあいつあいつ、名前で呼ばない。


「お前さ、あいつと居ると疲れない?」


 劣等感が生まれることも、無かった訳じゃない。

 それでも、内居と一緒にいる時間は増えた。



 中学に入るちょっと前から、朋は少し変わった。 

 絵だけじゃなく、色々な物を造るようになった。

 画材も素材も特に気にはならないらしい。

 朋の作る物は、相変わらず何かが欠けている。

 前足が無い動物の木彫り、写真のように描かれた女性の片目部分だけが黒く塗り潰され、もう片方の目が飛び出ているダンボールで作られた立体アート。天に伸ばされた腕が何本も絡まりあっている白い彫刻、花弁の無い花の群生を模した針金細工。

 未完成な世界は、どこか美しくて繊細で、彼だけの特別な世界を造り出していた。

 絵画教室で初めて見た、美しい片翼の無い青い鳥の絵は今でもはっきりと覚えている。


 自分の絵には、個性と云うモノが存在しなかった。

 それはそれで良かったのかもしれない。

 でも、それが自分には一番欲しいものだった。

 憧れて、もがいて足掻いて、最後は諦めてしまった。

 でも諦めて空っぽになれるくらい好きなモノがあったことは、とても幸せなことだった。

 だから、また足掻いてもいいと思った。


 朋の作る物が好きだった。

 完成されていない世界には、可能性が溢れているようだった。




 ゴンっとなにかがぶつかる鈍い音がして、びっくりして顔を反射的に上げる。

 ある筈の朋の顔が無い。

 少し目線を下げると、少し茶色掛かった髪の中に、つむじが見えた。

「なんで、土下座してんの」

 朋が床に頭をぶつけた音だった。

 再び上げられた額は、赤くなっている。

「ごめん! 俺、雪が俺のこと、嫌いなの知ってたんだ! ごめん!」

 また、床に音を響かせる。凄い音が鳴る。

「ちょっと、やめろよ」

「でも、雪は絵画教室も辞めちゃって、途中から敵意も好意も向けてこない雪に興味が湧いて、それで、声を掛けたんだ。好きか嫌いか、どっちかしかみんな選ばないんだ。期待するんだ、頑張っても出来て当たり前って言うんだ。俺にだって出来ないこと有るのに解かると失望するんだ。でも嫌われるのは怖かった。勉強もスポーツも一番じゃなきゃ怖かった。でも、そんな俺から雪は離れなかった。それどころか普通に接してくれた。憧れた、同じ場所に居たかった、同じものを好きでいたかった。雪といると、周りの意見なんか怖くなかった。自由に作る事が出来た。隣にいて欲しかった。やっぱり、今は、雪が好きだって言ってくれなきゃ、意味がないんだよ。お願いします、お願いだから、友達辞めないで……」

 朋はまた泣き出した。

 黒っぽい隈よりも、赤い目の縁取りの方がずっと目立つ。

 ボロボロと零れて行く。

 俺が吐き出した息に、再び下げられた朋の頭が小さく揺れる。

「朋さ、もっと自信持ちなよ」

「そんなもの、持ったこと無いもん」

「俺は、持てるよ。『雪は面白いもの集めるのが得意だね、俺こういうの好き』って、お前が言ったんじゃん」

 中学に上がって、朋が始めて自分の部屋に来た時に言った言葉だ。

 何気ない会話。

 それでも覚えていた。

 ゆっくりと、赤い額がまた見え始めた。

「俺が、言ったから?」

「そうだよ、こんなに価値観の合う友達なんて、そうそう出来ないよ」

「価値観が合う?」

「俺ら多分似てるんだよ、好きな物が。だから好きな物、作りなよ」

「友達、好きな物」

 眼を見開きながら、朋は呟いている。からくり人形みたいだ。

「お前、人の話聞いてる?」

 一生口にしなくていいような事、言ってんのに。

 斎木さんはがあんな風に笑ったの、なんだか解かる気がした。

 というか朋、お前は表情が変わり過ぎだ。へらへら笑いやがって。

「俺、作るよ。雪が俺の作る物好きって言ってくれるんなら、沢山作れる気がする。そしたらさ、雪のお店に置いて貰えるかもね。あ、俺の夢できた!」

「ああそう、良かったね」

 顔が熱い。

 ぐだぐだ悩んだところで結局、答えなんか簡潔だった。



「結局、あの人はなんだったんだろうね」

 さっぱりした顔で、朋は自分のパソコンを拾い上げる。

 角のメッキが少し剥げているのが見えた。中身が壊れてなきゃいいけど。

 俺も片膝をフローリングに付けて立ち上がり、質問には答えずに握られていた手を開いて、狐のキーホルダーを朋の目の前に突き出す。

「朋、これ頂戴」

「いいけど、雪、本物持ってるでしょう?」

「これがいいんだ。店持てたら、一番最初に置くよ」

 朋の動きがピタリと止まる。

 俺、なにか変なこと言ったか?

 小さな溜息を吐かれた。

 朋は、眉を八の字にする。

「雪は、無自覚なのが凄いよね」

「なにそれ、あ、俺コンビニ行ってくるわ、お前結局なに食いたいの?」

「俺の?」

「そうだよ」

 朋の眼が、忙しなく迷ったようにあちこちむいてから、最後にこちらに視線を合わせてきた。

「オムライス?」

「あー、米あるし卵あるし油あるし、後は、玉葱とベーコンとケチャップと塩コショウか」

 ホッとした顔をしている。思わず自分の口角が上がった。

 朋は、なにかを思い出したかのように笑う。

「全部揃ってるよ。さっき姉さんが置いてった」

 姉さん? そうか、誰かに似てると思ったら、あの時階段ですれ違ったのは朋のお姉さんだったのか。

 ジッと、朋の目元が少し赤くなった顔を見詰めた。

 朋は首を傾げる。

 お姉さんか。本当だ、目元なんかよく似ている。顔を合わせたのは、確か、三年振りくらいだろうか。

「じゃあ、作ってもらえばよかったのに」

「玄関まで来て帰ってた。姉さん、料理出来ないもん」

「遺伝なのか」

「雪君にでも作ってもらいなさいって」

「お前の姉さんは、エスパーか」

 なんで俺が来るって解かるんだ、この姉弟。あ、斎木さんも知っていたな。

「雪、なんか、お腹すいた」

 へたりと笑う。

 さっき食べてから、そんな時間が経ってないだろうが。

 多分俺の笑顔は、存分に引きつっていることだろう。

「はいはい、今作りますよ」

 朋の作ったキーホルダーをジーンズのポケットにしまい、再びキッチンに戻ろうとしたら、腕を引かれた。振り向いて首を傾げたら「ごめん、本当はまだ、あんまりお腹空いてない」と後ろから掛けられた声に「そら、そうだろ」と返事をした。


 再びリビングに戻り、ソファーを背に座る。

 朋は作業机の横に立て掛けられたスケッチブックを手に取り、中指の第一関節辺りが盛り上がる左手で鉛筆を握る。

 ゆっくりと強い筆圧で、白い紙の上に一本の線を引いた。

 そこから生まれる物は、自分には想像も出来ない。

 出来ないから、とても楽しみだった。

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