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 食器を洗い終えてリビングに戻ると、朋はソファーに凭れて欠伸をしていた。

 回りこみ、朋の前にしゃがみ込む。

「寝るなら、寝室に行きなよ」

「大丈夫。あ、食器まで片してくれて有り難うね。御飯美味しかったー」

「さっきも聞いた」

「だって、本当に美味しかったんだもん」

 朋は、へたりと笑う。

 来た時よりも少し、血色が良くなったみたいだ。眼の下に見える隈はそのせいか、先程よりも目立たなくなった気がする。

 寝不足って、偏頭痛の原因になるのかな?

 そういった症状を起したことの無い自分には、その痛みは解からない。普通の頭痛と、どう違うんだろう。

「いいよ。今度パンケーキ奢ってもらうから」

「奢るから、またご飯作ってよ」

「気が向いたらな」

 料理を作るのは好きだし、慣れている。母さんが仕事で遅い時は勝手に作ってしまう。

 父さんは大阪に長期出張中だし、兄さんは早く帰る時は連絡を必ず寄越す。作る相手が少ないので、適当に余り物でなんとかなる。作るのは、普通に好きだ。

 立ち上がると、朋はその様子をまじまじと見てきた。

「なに?」

「もう帰っちゃうの?」

「うん。ちゃんとベッドで寝ろよ」

「……やだ」

「おい。そのまま寝たら、また風邪をぶり返すぞ」

 朋は俯く。

 捨てられている、子犬を見ている気分だ。

 小さく息を吐き出すと、朋は遠慮がちに視線を向けてくる。

「ごめん」

「夕飯も作ってやるから、そんな顔するなよ」

「そんな顔って、どんな顔?」

「捨てられてる子犬みたいな顔」

「子犬って、俺、背でかいよ」

「じゃあ、大型犬」

「はは、大型犬が捨てられてたらちょっと、怖いね」

「捨てちゃ駄目だけどね」

 朋は眉を八の字にしながら、笑った。

 泣きたいのか笑いたいのか解からない顔だけど、泣かなくて良かった。

 病気をすると人は素直になるって聞いた事が有るけどそのせいかな、今日は年下に見える。

 変に遠慮されるよりは、ずっといいけど。

「我侭言ってごめんね」

「どっちだ!」

「食べたいです!」

 朋がシャッキッと背筋を伸ばして、元気に返事をする。

 しまった。心の声が漏れ出てしまった。

 まあ、もう良いや。別に嫌じゃないし。

「じゃあ俺、コンビニ行って来るわ」

「なんで?」

「なんでって、材料の調達に」

「なに作るの?」

 決めてなかった、どうしようかな。

「何がいいの?」

「決めていいの?」

「うん。出来る範囲でだけど」

 そんなに手に混んだものは作った事がない。返答次第では、ちょっと、困ってしまう。

 だけど、朋の返答はとても早かった。

「雪の、好きな物が良い」

「なに遠慮してんの」

 笑いながら言うと、朋は小首を傾げる。

 遠慮をしている訳ではないらしい。

 でも、様子が少しおかしい気がする。なんだろう。

「してないよ。雪の好きな物が好きだもん」

「俺の、好きな物?」

「うん」

 朋は笑った。でも、何か、おかしくないか?

「ホットケーキは? 好きなんだろ?」

 自分から食べたいって言ったくらいだ。

「雪も好きでしょ。ホットケーキ」

 いつもの感じだ。いつもの、言い方だ。

 そうだ、好きだよ。

 昔、家族で出掛けた鎌倉で、美味しいホットケーキ屋に行ったよ。話したこと、お前にあったよ。「好きなの?」って聞かれて、「好きだよ」って答えたよ。「じゃあ、俺も好き」って言われたよな。変な答えだなって思ったこと有ったよ。

 その時も、お前、同じ顔して笑ってたよな。力が抜けるみたいな、そんな笑い方。

 変な違和感が、こびり付いた。

 よく考えてみると思い当たる節が、幾つも出てくる。

 去年買ったジャケットも色違いだったよな。こいつは揃いの物ばかり欲しがる。

 セール品だから、背の高いお前には合うサイズがなくて結局、メーカーにまで問い合わせして買ったんだよな。自分も気に入ったとか言ってたけど、本当にお前の趣味だったのか? そういう服、好きだったか? 本当に?

 趣向が、似ているのだとその時は思っていた。気が合う、そういう風に思ってた。

 伝えなかった問いが今更、頭の中を回り出した。

 朋の、好きな物って聞いた事、有ったけ。

 そうだ。

 朋は何か作るのが好きだと言っていた。両親や先生の勧めを断ってまで、芸術専門の大学に行ったくらいだ。

「造るの、好き?」

「つくるって?」

「だから、絵を描いたり、他にも彫刻とか」

「作るって、ああそういう」

「好きなんだろ?」

「俺の作る物が好きって、雪が……」

「俺?」

 何で、俺が出てくるの?

 どんな顔をしていいのか、解からない。がっかりした。そういう感情でもない。

 目の前のこいつも、同じような顔をしている。眼を見開いて、固まっっている。

 けどその直ぐあとに、しまったとでも言うように急いで左手で口元を覆った。朋の方だけ。

 

 なんで、俺は気が付かなかったんだろう。

 朋は、自分で選ぶということを殆んどしない。

 自分を主張したがらない。

 そんなに気が弱いわけでもない。

 俺以外の前で、嫌な事は嫌だとちゃんと伝えている姿だって見たことがある。だけど相手を必ず尊重する。

 だから、嫌われるというよりも誰にだって好かれている印象があった。

 朋の作る物以外は。

 朋の作る物は、なにか欠けている。この部屋にある、創作物もそうだ。

 青いものが多いのも、あの小学校の時に一緒に買った青い色の石が付いたキーホルダーが影響しているのかも知れない。

 青が似合うと、俺は言ったことがあった。

 自己主張が少ないのも、目立つ事が嫌いだからという理由じゃあないのかもしれない。朋は嫌いなものなら言うけど、好きな物を言われた覚えがあまり無い。

 今更、そのことに気付くなんて。

 黙り続ける俺の耳に、届くか届かないかの小さな謝罪が聞こえてきた。

「ごめん、なんか、気持ち悪いよね……」

 泣きそうなくせに、無理して笑うなよ。

 違うって言いたいのに言葉が上手く出てこない。

 手足が、冷たくて動かない。逆に咽喉が凄く熱い。

 頭の奥がジンジンする。

 嫌な気分だった。

 なんでこんなに嫌な気分になるんだろう。

 朋はソファーから立ち上がり、自分の横を通り過ぎる。

 物が少ない朋の部屋で、進行を妨げてるのは俺だけだ。

 ガチャリと、ノブを引く音が聞こえる。こんな音、してたっけ?

「こんなんじゃ駄目だと思って、先生や両親の進める高校に行ってみたんだけど、やっぱり、解かんなかった。ごめん」

 なにに対しての、謝罪だよ。なにが、解からなかったんだよ。

 言ってくれなきゃ、俺にも誰にも解からないよ。

 俺はさっき、なんで斎木さんに朋は争い事が嫌いなんて言えたんだろう? 知りもしないのに。

 俺は朋のこと全然、知らなかったのに。

 フローリングに足がくっ付いたみたいで、動かない。

 扉が開く音って、蝶番が鳴る音ってこんなに大きかったか?

「鍵、シューズボックスの上に置いてあるから掛けたら、ポストの中に入れておいて。俺、ちゃんと寝室で寝るから。ごめんね」

 扉から身体が半分以上出ているのだろう。

 声が遠く聞こえる。 

 過ぎ去ってしまう。あの、半年のように。

 陽が陰ってきたのか少しずつ、レースのカーテンだけが閉められた窓から光が消えていく。

 伝えなきゃいけない事が有るのに口を開いては閉める。

 ちゃんと、口にしなきゃ伝わらないことがある。

 陽が陰って、足元が暗くなる。光りが、引いていく。

 陽気な、音みたいな声を思い出した。

 夢みたいな時間だった。実際、きっとただの夢だった。

 特別な時間だった。

 実際、今でも夢なんじゃないかなって思う。

 だけど、今を繋ぎとめてくれるならなんだって良い。夢でも良いから、もう一度。

 もう一度。


 作業机の上に乗っていた、電源が切られていた筈の開かれたノートパソコンが起動した。

 薄暗くなって来た室内でその光は、周辺の陰影を強くして強烈に眼に飛び込んでくる。

「……故障?」

 朋の声だ。

 良かった。扉はまだ、閉まっていない。

 パソコンからはこの場の雰囲気なんか関係なしに、陽気な声が室内に響くのだろう。

 始まる。


『さあ、始まりました。夢告げラジオ。周波数は貴方次第!リスナーは貴方、其処の貴方、独りです!』

 あの時とは随分と時間帯が違うが、また繋がった。

 小さな、零れる様な声が聞こえた。朋が、戸惑っているのが解かる。

『さあ、貴方の夢の……、なんだまた貴方ですか。この青春ボーイ!』

 ああ、まったく変わっていないな、この人。

 夢でも何でも良い。

 今は、それが酷く安心した。

 握り込んでいた手の平から、力が抜けた。

『まあいいや、電話しますねー』

 この部屋の重苦しい空気なんてお構いなしに、簡単に壊していく。

 自分のものと、同じ携帯電話の着信音が二重になって鳴りだす。ひとつは、自分のポケットからだ。それを取り出すと、音は一層大きくなった。もう一つは、直ぐ隣からくぐもったように聞こえる。

 自分より高い位置にある眼に目線を持っていくと、気不味そうに視線を反らされた。

 ああ、避けられた。妙に冷静に、そう思った。

『あ、もしかして其処に、ああ、もう一人いますね。暗くてよく見えませんでした。ああ、はあ成る程ねえ。取り敢えず通話ボタンはもう押されてるんで、少しお話でもしましょうか、お二人様』

「なにこれ。なんの悪戯?」

 自分にでは無く、朋の視線も言葉もパソコンの画面に向けられている。

 こんな険しい顔の朋は、見たことが無い。

 正直、ちょっと怖い。陰影がはっきりとしているせいでは無い。眉間には深く皺が刻まれている。

『悪戯じゃなくて、ただのラジオ番組ですよ。不特定多数には向けられていないだけの。ちょっとそんな怖い顔しないで下さいよ。いいんですか? 貴方の大事なお友達、怯えてますよー』

 肩を揺らした朋の視線が自分に向けられた。泣きそうな顔に、もう変わっている。

 眼が合ったのに、直ぐに視線は反らされた。

 やばい。これはちょっと泣きそう。

 握り絞められた携帯から漏れ出した音声と、パソコンから聞こえる声が少し遠くに聞こえる気がする。振れて、聞こえてくる。

 やっぱり全部、夢なら良いのに。夢なのかもしれないけど。

「どっから覗いてんの? なんで雪の分まで番号知ってるの? またってなに? 堂々と出て来いよ! 気持ち悪い!」

 怒鳴っているのに、声はそれ程大きくは無い。

 あからさまに息を吐き出す音が、パソコンのスピーカーと電話口からはっきりと聞こえる。その息遣いの方が大きく聞こえた。

『ラジオの意味解かってます? 公開放送はしない主義なんですよ。出てく訳ねえだろ。馬鹿だろ餓鬼だろ』

「出て来れないの? 弱虫」

 声は笑っているのに言葉は笑っていない。この二人、怖い。

 縫い付けられていたような足が、一歩後退した。

 緊張の糸が切れたように咽喉から言葉が、すんなり上がってきた。

「朋、怒ること有るんだね。初めて見た」

「へ?」

 朋から、気の抜けた声が漏れる。

 パソコンと携帯からは笑い声が響きだす。

 解かっている。もの凄く場違いな発言だと云う事が。

 それでも、感情を剥き出しにする朋が見れて嬉しかった。

 朋の視線が忙しなく動き出した。暫くして、ゆっくりと此方を向いた。

 ちょっと迷うように、朋の口は動いた。

「嫌?」

「なんで? こっちの方が全然いいよ」

 多分俺は今、いつもの朋と同じくらい相当緩い笑顔をしていると思う。

 同じ様な、ホッとした顔を向けられた。

 今が夢だったら、やっぱり困るな。

『お二人様とか異例だけど、袖すり合うも他生の縁、さあ始めましょうか』

 朋は携帯の電源ボタンを連打している。

「なんで切れないのコレ! 今大事な話してるのに!」

『この放送がどの周波にも属さないからですよ』

「空気読んでよ!」

『いいから黙って聴きなさいよ』

 パーソナリティーの陽気な声が、ガラリと変わる。

 室内の暗さはあの時と同じなら、変わらない筈だ。

 自分が初めて、このラジオ番組を聴いた時、時間は止まっていた筈だ。

 でも幾分か、室内の闇が濃くなった気がする。


 二重音声が室内に響く。

『中波にも短波にも超短波にも長波にも、もちろん極超短波にも属さない。放送塔は私自身だからです。ご存知でしょう、生き物からも微弱ながら電流が走っているんです。媒体はなんでもいいんです。声が届けば問題は無いんです。ただ、私がラジオという媒体が気に入っているだけなのですよ。それが私の番組の発信源、夢告げラジオです』

 朋がパソコンのバッテリーを引き抜いて、コンセントも素早く引き抜く。

 ちょっと視線が携帯に行っている間に、朋はもう窓付近に居た。

「切れない」

『切れませんねえ』

「なにが目的だ」

『貴方と同じですよ。天の邪鬼さん』

 朋の眉間の皺がパソコンの明かりのせいで、より深く見える。声も深く低い。

「なにが言いたい?」

『一回くらい本気で追いかけて空っぽになってもそれはそれで幸福なんですよ。その意味は経験してから初めて得られる。知っていましたか? 君はいつだって、暮れぬ先の提灯だ』

「……余計なお世話だよ」

 バッテリーもコンセントも抜けたパソコンから、キシリと小さな音が聞こえる。朋が強くモニター部分を押しているせいだ。

 モアレが指を中心に、円状に何度も広がっている。

『お節介が私の売りなもので。痛いとこ突きまくりで申し訳御座いません。痛いですよね、大事なお友達にも隠し続けた本音』

「無いよ、雪に言えない事なんてないもん!」

『じゃあ、貴方は何の為に作り続けるのですか? その机に有る物をなんで薄い布で隠したのですか? 本当は見付けて欲しくて呼び止めたんじゃないんですか? 隠すのに見せたいのですか?』

「これは、」

『貴方の夢は、誰の夢なのですか?』

 パソコンを、朋は床に払い落とした。

 ガシャンと云う音が室内に響く。

 一緒に、朋の袖口に引っかかった青い布がゆっくりとフローリングの床に堕ちていく。

 バラバラとその後を小さななにかが、勢いよく追い越した。

 一つ、自分の足元まで滑り込んできた物を摘み上げる。

 見覚えがあった。つるりとした、木の感触。

「これ、朋に貸した狐のキーホルダー……」

 他にも、幾つか同じ物が点々と転がっている。黒い目玉が、此方を向いている。

『それは、彼が作った物ですよ。彼が考えて考えて焦ってもがいた過程軌跡生き様』

 堕ちたパソコンから、音声は漏れ続ける。

 朋は手で目元を覆い、膝を床に打ち付けたまま下を向いて動かない。

 頭は、垂れた向日葵のように床にくっ付いた。

「朋の夢、貴方には見えてるんですか?」

『もちろん。聞きたくないですか?』

「その言い回し、どちらにも取れますよね」

 聞きたいのか聞きたくないのか、二通りの意味に聞こえる。

 聞きたい様な、聞きたくない様な。表裏一体な答えを求められる。

 一つの問いで二つの答えは、今は必要がない。

 手の平に載せた、朋の作ったキーホルダーを握りこむ。

『貴方と私は波長が合い易いようだ。同じ人間にこの放送が届いたことなんて始めてからは一度も無かった。この番組の主旨が、貴方にはもう見えている』

「蝶々さん」

『よく、覚えていてくれましたね。私の名前』

「携帯、使う意味無かったんですね」

『すみません、本当はそうなのですよ』

 笑い声に、済まなさそうな声が混じる。

 もし蝶々さんが目の前にいたら、苦笑いでもしているんだろうな。なんて、そんなことを考える。

 考えて、考えてばっかりだった頃を思い出した。


 夢を見る人に、憧れた。

 叶えた人に憧れる。諦めないで前を行く人に憧れる。

 自分が出来なこったことを、完全に過去にしてしまう自分に呆れていた。

「まだ、迷います」

『本気だから、迷うんですよ』

「そうですか、そうですよね」

『不言実行が可能な方に私の電波は届かない。必要が無いし意味が無いから。私が』

 パソコンから発生する光が薄くなってく。彼の声と同じように小さくなっていく。

 彼は、どちら側なのだろうか。

「貴方に出会えて良かったです。忘れてたこと、思い出せました」

 音に、ノイズが交りだした。

 放送がもう直ぐ終わる合図、なのかもしれない。

『お礼を言われたのは、初めてですね。私も思い出せそうです。初心は忘れちゃあいけませんもんね』

 この人もそうなのかも知れないしそうじゃないのかも知れない。

 でも似てるんだ、朋にも自分にも。

 一歩を、踏み出す怖さ。

「それが、貴方の夢だからですか?」

 小さな沈黙だった。

 ノイズ交じりの声は、とても陽気で楽しそうだ。

『MC、交代してみますか?』

「しません」

『そうですか。残念です』

「蝶々さんの夢は、見付かったんですか?」

 小さな沈黙がノイズの中に流れた。息を零したような笑い声が聞こえる。

『夢の中で見付けたのが、私の夢なんです。私の、私は、』

 なにか、言葉に続きが有ったのかもしれない。

 その前に、電源は切れてしまった。

 パソコンは完全に、光を失った。携帯電話は途中からツーツーと鳴るばかりだった。


 初めて、彼の番組を聴いた時は時間は止まっていたはずだった。

 けれど今は時間が、止まらずに動き出している。

 室内はいつの間にか点いた窓の外の街灯で、薄ぼんやりとしている。

 立ち上がってスイッチを捜した。カチリと音が室内に響き渡る。

 音と一緒に入り込んだ人工的な明かりが眩しくて、眼を細めた。

 ずっと、手で目元を覆ったままの朋は動かない。

 朋の時間だけが、止められたままなのかもしれない。

 リビングは六畳ほどの広さで、数歩歩けば直ぐに朋に辿り着いた。

 直ぐ其処にある、窓に掛けられた白いレースのカーテンは先程までは薄ぼんやりとした外の世界を映していた。

 外の暗さに室内の明るさが加わって、今は本来の白い色をはっきりと映し出す。

 しゃがみ込み、朋の肩にゆっくり手を乗せると大きく上下した。少し経ってから、もう一度上って深くゆっくり下がってゆく。

 自分より背も高くて身体も大きいのに、丸まった背中はとても小さく見える。


 朋のこんな姿は、初めて見た。

 いつだって、朋は怒るということをしない。

 他人が批評と非難を投げかけても、それをジッと聞いているだけだ。

 そういう時、目を細めて口端は緩く上っていた。

 怒るでもなく泣くでもなく、遠くを見るように真っ直ぐ相手を見る。

 直接対峙した大抵の人間は、自分から眼を逸らしてしまう。

 逸らしてしまう方の気持ちの方が、自分には理解ができた。

 朋が、泣いている姿を見た事がない。

 泣いちゃうなんて言うくせに、絶対泣かない。

 笑うんだ。

 いつだって目を細めて眉を下げて、答えを二つ提示するように。

 自分には、朋と出会ってから二つの答えは出せなかった。

 だから、空っぽになったんだ。


「あのラジオ、去年、聞いた事が有るんだ。進路に悩んでた時、大学受験前に聞いたんだ。本当に自分はこれでいいのかなって、ずっと悩んでた。聞かれたくない事聞かれて、大きなお世話だなって思ったけど、自分の本心がその時、解かった。俺、『向日葵』みたいな店を開きたい。ああいう空間で生きていきたい。大事な物を、好きな物を好きだと言ってくれる人にもっと出会いたい。それを、その人の大事な時間の一部にしてくれたら、嬉しい。そう思ったら、少しづつでもやってみようって思えた」

 背中を丸めたままの肩が、小さく動いた。

 背筋は、ゆっくりと伸ばされる。片手で口元を隠した朋と、視線がぶつかった。

「雪はいいよね、ちゃんと自分の夢、言えるんだもん。でもさ、そんなの無い人間だっているんだよ。夢、それがなんなの? みんな思い通りに生きていけるわけじゃないんだよ。それは、いけないことなの? 俺、何もないんだよ。大学の、専攻してる科目の教授にさ、何でも良いから、自分だけが好きな物を一個作ってこいって、言われたんだ。期限なんて、在学中ならいつでもいいなんて言うんだ。可笑しいだろ? 簡単だって思った。だって、たったの一個だよ。だけど、でもね、一個も出てこないんだ。自分が、自分だけが好きな物なんて考えた事も無かった。だから、雪の好きな物から、造ろうと思ったら、それだけで終わっちゃった。造っている間は無心になれる。この時初めて思ったんだ。ああそうか、俺にとって、作る事は捌け口なんだ、全部詰め込むんだ。どんなに夢中になっても、違うんだ。でも、作ってる間はそんなこと考えなくていい。だから作る。そうしないと、どうしようもなく、本当にどうしようもなく、苦しい」

 朋の声は、笑っているような泣いているようなどちらにもとれる声色だった。

 指の隙間から落ちた水滴が、フローリングに染みを造っていく。

 ああ、泣いているんだ。

 彼がまた身体を丸めて小さくなる。

 口調は、どんどん早くなっていく。

「両親や先生が喜ぶからって進んだ高校には、雪は居なくて、でも、それじゃあ駄目だって思った。雪は言わないけど、雪にはやりたい事が有るんだろうなって気が付いてた。それが羨ましくて、自分もそうなりたくて、雪の好きそうな物に囲まれたバイト先にも、やっぱり雪は居なくて、家に行く勇気もなくて、駅でずっと探して、見付けて、それで、余計、虚しくなって、先の事なんて、ずっと考えたくなくて。考えたくないんだ。なんで、一人だけで行っちゃうの?」

 フローリングの染みは、もう見えない。朋が隠してしまっているから。

 隠しきれていないものを、必死に隠そうとするから。

 握り締めていた朋の作ったキーホルダーを手の平で開いて、一度見てからまた閉じた。


 言わなかった。

 自分が憧れた場所に、朋がいたから。

 今なら、ちゃんと言えそうだ。

「朋の好きな物、知ってるよ」

 背中はまだ丸まったままでもちゃんと、聞いてる。

 長い付き合いだから何となく解かる。だから構わず喋り続ける。

「好きじゃなきゃ、続かないよ。朋が作る物、俺は好きだよ」

「雪が、好きって言ったからって言ったじゃん」

 足元から聞こえるのは、小さな声だ。

 本当の事なんていつも、迷いだらけで解かり難い。

 答えなんて、自分で見つけて自分で目指すしかない。

 朋も俺も、迷ってばかりだ。

 言う必要なんて、ないのかも知れない。

 でも、自分には最初から二つは選べない。

「同じだよ。それも含めて、今の夢になったんだから」

「同じな訳ないじゃん」

「同じだよ」

 上げられた顔を覗き込む。

 鋭い目付きだ。さっきよりももっと強い。

 でも、これがいい。

 同じものを望む気持ちも、理解はできる。

 朋も自分も、進む先がもう違う。見ているものがもう違う。

「同じだったら、こんなことになってない! 雪は傲慢だ! 知ってる振りなんかやめろよ! 同情しないでよ! そういうのが一番ムカつく! そういうとこ……、」

「うん」

「そういうのが、寂しくなる」

 開いていた口を、濡れている手で朋は塞いだ。凄く哀しそうに、傷ついたようにして顔を歪めている。

「ごめん、でも俺、朋の作る物やっぱり好きだよ。ずっと羨ましかったよ、誰かに褒められてるお前見て、俺も其処に行きたいって思ったよ。才能のある奴は良いよなって、思ったこと、あるよ。特別な、自分だけのものが欲しかったよ。認められて、困ったように笑うお前が嫌いになった時期もあった。目を細めて、口端だけを上げるようになったのも気が付いてた。いつも同じものを欲しがるお前と居るのが、息苦しくて、学校が離れた時は正直、ちょっと安心したんだ。何でも先に行くお前を見て、これで、比べなくて済むって安心したんだ。ごめん」


 朋の顔が見えない。俺が俯いているからだ。

 本心なんて、隠したいに決まっている。

 友達を優劣で見ている自分が嫌いだった。心が痛む時も沢山有ったけど、朋の隣は、それでも居心地が良かった。

 だから、相手の本心だけは知りたいなんて、朋の言う通り本当に傲慢だと自分でも思う。

 知られて、惨めになんかなりたくない。

 自分を否定されたくない。

 優劣を付けられたくない。

 だから、特別なものが好きだった。

 綺麗な場所で綺麗に笑う人に憧れた。

 同じ場所に立ちたいと思った。

 自分だけの世界が欲しかった。

 そんな事、誰にも言えるわけがなかった。


 均等に揃えられたように見える、フローリングの模様を見ながらゆっくりとまた、口を開いた。

 今は、今だけは朋の顔を、見たくは無かった。 

「初めて朋と会った時、友達にはなりたくなかった」

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