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駅前を過ぎてしまえば、静かだ。
畑には野菜ではなく、遅咲きの水仙や菜の花が何列にも咲いている。桜はすっかり葉桜になってしまっていた。少し離れた畑で作業をする人が見える。
陽は、まだ高い。
折り畳み式の携帯電話を開くと、十四時を少し回っていた。
大学は、午後の講義が休講になってしまった。
レポートも昨晩に仕上げてしまったので、時間が出来た。
バイトも、今日は入っていない。
昨日は朋とシフトが被っていたが、代わりに小鳥さんが来ていた。あとでメールを確認したら、風邪引いたから休むね。と、律儀に連絡が入っていた。
もしかしたら、大学も休んでいるのかもしれない。
ズボンのポケットから、携帯電話を取り出す。
電話帳を開き目的の人物にカーソルを合わせて一度、携帯をパチンと閉じた。
目の前の二階建てのアパートは煉瓦が埋め込まれていてどこか、バイト先の建物と造りが似ている。
築年数がそんなに経っていないからか、全体的に綺麗だ。
角部屋にしてもらえたと言っていた朋が住んでいる部屋は、カーテンが閉まっている。
ここに来たのは、引越しの手伝いで来た時以来だ。
居ないのかもしれないし、寝ているのかもしれない。
意外と自分に無頓着な人間だから、心配になって連絡も無しに来てしまった。
来たのは良いが迷惑かもしれない。もう来ちゃってるんだし。
陽が差しているから分かり辛いが、カーテンの隙間から電気が点いているのが薄っすらと見えた。
体中の血液が足に落ちていく感覚がした。
携帯電話を直ぐに開き、合わせたままだったカーソルを確認して直ぐに決定ボタンを押した。プップップとコール音が聞こえるまでが長い。その後の3コールも長い。
「もしもし、雪?」
良かった。思ったより元気な声をしていた。
肩の力が一気に抜けた。バックの肩紐が片方、腕まで下がっていった。
「雪だよね? どうしたの? 何か有った?」
電話口で朋の焦ったような声が聞こえる。
しまった。
安心して、返事をするのを忘れてしまった。
「あ、ごめん。ちゃんと生きてて良かった」
そんな俺の返答に、電話越しで朋は息を吐き出すように笑った。
「ただの風邪だよ。ちゃんと休んだから、もう殆んど平気だもん。昨日はバイト急に休んでごめんね」
「いやそれはいいんだけど、今、家にいるの?」
「いるよ。今日、講義入れてないんだ。雪は今、大学にいるの?」
「午後は休講になった」
「そうなんだ」
「あのさ、昼間なのに電気点けてんの?」
「え、あ、本当だ。気が付かなかった! なんで解かったの?」
「あーえっとだな。エスパー?」
「わあ、本物……。って、もしかして、家の前に居るの?」
恥ずかしくなってきた。
これじゃあ、居ると言っているようなものだ。
角部屋のカーテンが開くと、もう電気の消えた部屋の窓から朋が顔を出す。
少し遠目だけど、声ほど元気そうには見えない。
小さな柵に肘を乗せて、朋は電話越しに話を続けた。
「あは、本当に居た」
「鍋、合ったよな」
「ご飯作ってくれるの?」
「うん。もう食っちゃった?」
「えーと、朝は、食べた? かな」
「食ってないんだな」
「……はい」
持って来たコンビニとスーパーの袋を高く上げる。朋の口の端も上るのが見えた。
「お粥でよかったら、食う?」
「食う!」
ホッとした。食欲は有るみたいだ。
小さなベランダから、朋は身体を少し乗り出している。
住宅街から外れているので、この辺は静かだ。
携帯を切っても声は聞こえるだろうが、大きな声は近所迷惑になるのでそのまま携帯で話しを続けた。
「行っていい?」
「ここで帰られたら泣いちゃうよ」
「はは、じゃあそっち行く」
「はーい」
電源を切って軽く手を上げた後、駐車場になっているアスファルトの上を通る。裏手にあるアパートの階段を登ると、直ぐの二階の玄関が五つ並んでいるのが見えてた。
階段を登る途中、若い女の人とすれ違った。
軽く会釈され、こちらも慌てて頭を下げた。
どこかで、見たことがあるような気がした。
おしゃれな造りなので駅から離れていても、若い人が主に住んでいるのかもしれない。家賃も手頃だと聞いていた。
引越しを手伝った時に、もしかしたらすれ違ったここの住人かもしれない。
女性は綺麗に背を伸ばしたまま、階段を降りきって角を曲がって行った。
二百五号室に内居、と書かれた表札がある。
その下の小さなドアベルを押そうとしたら、ドアが急に開いたので一歩足を引いてしまった。
「びっくりした」
「ごめんごめん、そろそろかと思って。汚いけど、どうぞ」
にこりと笑われ、玄関を大きく開けられたまま招き入れられる。
腕の間から見えた通路には、ゴミひとつ落ちていないし玄関の靴はきちんと向きが合わさり揃えられている。
「綺麗じゃん」
「廊下はね」
うちなんか、廊下に雑誌が積んであるぞ。兄さんのばっかりだけど。
用意された緑色のスリッパを履いてから、靴を揃える。
「お邪魔します」
「はいどうぞー」
朋がリビングのドアを開けると、確かに物が多かったが画材が散らばっているくらいだった。
自分の部屋より断然物が少ないし、服なんかはハンガーラックにしっかりと掛けられている。
二人掛けのソファーには、引越し祝いに渡した水色の毛布が掛けられている。
もう一部屋は寝室にしていると言っていたがこいつ、絶対ソファーで寝てるな。
先程まで会話をしていた窓の近くには、作業机がある。
開かれたままの電源の入っていないノートパソコンと、十センチ位の木材が置いてあり、小さな木屑が辺りに落ちている。
木彫りでもしているのだろうか。
多分作品が乗っている場所には、青い布が被せられていて見えない。
そう離れていない木目調のテレビ台の横には、大きめのコルクボードに小学生の頃に土産物屋で一緒に買った、懐かしい金具の付いた青い石のキーホルダーが吊るされていた。
カウンターキッチンから、朋が二つの鍋を持って出てきた。
「雪、鍋って何でもいいの?」
「あ、その銀色のがいい」
「はーい、あ、お湯沸かすね」
キッチンからガスを点けた音が聞こえ、慌てて向かう。
「やる! 俺がやるから。リビングに行ってなよ!」
「お湯くらい沸かせるよー」
朋は力が抜けるような笑みを向けてくる。手元が危なっかしくて仕方が無い。
「お前、水入れてから火を点けろよ!」
「鍋、温めてからの方がいいかなって」
「なら、せめて弱火でやってくれ」
「ああ、強火じゃ危ないもんね」
「ああ、危ないよ。火事になるよ」
「大丈夫だよー」とケラケラと笑っているが、全然大丈夫じゃない。ポットを使えと言いたいが、水が空のまま電源を入れっぱなしにしていそうで怖い。
朋は手先は器用だが、料理が壊滅的だ。
見た目は綺麗に出来上がる。しかしなんの魔法か、味がしない。全ての調味料の味が相殺し合っている。科学の実験じゃないんだぞ。おまけに、何の為に使ったか解からない調理器具まで出されている。豆腐とワカメの味噌汁に、なんで皮むき器が必要なんだと思った事もある。
料理に関しては、手元が危なっかしくて仕方が無い。本人も解かっているから、自分では最低限しかしたくないと言っていた。
食べられない事はないし完成まで漕ぎ着けるけど、コンビニが近くて良かったなと思う。
こっちが心配で仕方が無い。
作る前から、なんか疲れた。
一度家に帰ってから持ってきたスーパーの袋から、お米と調味料を取り出す。
梅干しは、コンビニに売っていた。
「ねえねえ」
「なに?」
あまり使われていないであろう台所から振り向くと、スエットからジーパンと長袖のシャツに着替えたこの部屋の主がこちらを見ていた。
未開封のホットケーキミックスを持って、キラキラと眼を輝かせている。
作れもしないのに、なぜ持っている。いや、作る気だったのか?
「いつ来ても良いように買っといた。雪が」
「ああ、そう」
歓迎されているようで良かったよ。
両手でしっかり俺に手渡すと「卵とシロップとバターは冷蔵庫に入ってるね」と告げ、リビングに行ってしまった。あいつ、俺が今日来ること解かってたのか?
本当に、エスパーかもしれん。
取り敢えず、元気に振舞ってはいるが病人にこの食べ合わせは大丈夫なのかと、ちょっと心配になった。
携帯を開くと時間も時間なので、サッサと作ってしまうことにした。




