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駅から近いアーケードが張られた商店街の人通りは、ここ数年で時間帯に関係なく疎らになった。
『ようこそ本町商店街へ』と書かれたアーチを、いつものように潜った。アルバイト先の向日葵へは、もう一つの『ようこそ本町商店街へ』を潜る。
小さな頃に何故入り口が二つあるのかと、母に尋ねたことがあった。答えは「昔からそうなのよ」だった。
自分のもう片方の手を握っていた兄が、その問いの答えを知っていた。「昔は店が集まっていただけで、道のようになっていなかった。整備されて道のようになって入り口が二つに分かれた。大した理由はないんだって」そう言いながら兄はニコリと笑った。
何で知っているのかと聞いたら、物知りな友人が教えてくれたと言っていた。
商店街は古本屋や魚屋、総菜屋なんかが数件今でも軒を連ねてはいる。けれど、相変わらずシャッターが下りている店が目立った。
朋と小学校の帰りに入ったことのある、ブリキの人形や車の模型が売っている駄菓子屋も、二年くらい前には店を閉めてしまったみたいだ。
高校に入学をしてバイトを始めてからは、小学校の時にはお小遣いでは中々手が届かなかった商品も自分で買えるようになった。
なっている、はずだった。
意識してここを通り過ぎた時には、もう看板は取り外されていた。
それが、二年前だった。結局は買えないままで終わってしまった。
二階の窓に掛けられていたカーテンは雨戸に代わり、朋と買い物に行くとニコニコ笑っていたお婆さんはもう、ここには住んでいないのだろうなと思った。
住宅を兼ね備えていたシャッターの下ろされた他の店も、同じように二階の雨戸が閉められている。
花や動物があまり原型を留めていないペイントが擦れた薄い橙色のアスファルトの上を、いつものように歩いて行く。最後まで通り抜けると、視界が開けた。アーチは此処で終わっている。くぐもっていた青が鮮やかになって眩しい。
チカチカする目蓋の中。キツク目を瞑ってゆっくりと開く。
直ぐに慣れ始めた視界でもう暫く歩くと、小さな林の先に住宅街の入り口がある。
空は橙が次第に濃くなり、夕日は線に埋もれていく。上空で一番星が光を強くした。
時間帯のせいか、更に静かになった住宅街を通り過ぎる頃小さな、きちんと精微された神社が見えてくる。
それ程大きくもない神社の境内にある大きな桜の樹が満開になる頃、孫を連れたお爺ちゃんお婆ちゃんや小さな子供を連れた親子が散歩している姿をよく見かける。
数ヶ月に一度、神社の境内で開かれるフリーマーケットは、回を増す毎に出店数が減ってきているらしい。
再来年辺りには最後になるかもしれないと、母が先日教えてくれた。
何年か前にフリーマーケットで買った未使用だった珈琲メーカーは、我が家では今でも現役で大活躍をしている。
掘り出し物が偶に有るので無くなってしまうのは残念だが、仕方がないのも解かる。
現に先日行われたフリーマーケットは、出店数が子供の頃よりずっと少なかった。
雑貨や古い物が好きでよく足を運んでいたが、それも出来なくなってしまう。
寂しいな、と思う。
ズボンのポケットで鳴る、携帯のバイブ音がやたらと大きく聞こえた気がした。
「ねえ、このリアルな兎と虎はどうしたの……?」
黒い一枚の瓦に金色が塗られ、それぞれに立体的な兎と虎が浮き出ている二枚の絵皿を見て朋は俺の自室の前で固まった。
自分の部屋に朋が遊びに来るのは、二週間振りくらいだ。それほど、久々でも無かった。
部屋の戸は開けっ放しなのに、朋は俺の部屋に入らない。
「貰った」
「誰に?」
「女の人」
「はあ?」
「朋、邪魔」
朋の後ろから階段を上がってきた俺は、飲み物が入っているカップが乗せられているトレーを片手に持ち直し、空いた手で朋の背中を押した。
軽く押しただけで、朋は簡単に動いた。
「あ、ごめんごめん」
「適当に座ってー」
自分も部屋に入り込んでから、後ろ手で引き戸を閉める。
いつも思うが、普通のドアノブの付いたドアが良かった。
六畳一間の自室は、一言で言うと物で溢れている。
畳の上に設置されたベッドとチェストと学習机とクローゼットの他に、白い三段になっているカラーボックスが三つ、白い壁紙が張られた壁際に沿って並べられている。
そのせいもあり、より狭く見える。
棚の上にはマトリョーシカやら色鮮やかな豚の貯金箱やら陶器の黒猫の置物やら、ソーラー電池で動く花が、蛍光灯の明かりでゆっくりと揺れている。
ベッド側の壁には植物の写真や、色彩の多いポスターやらが貼られて全体的に賑やかだ。
フリーマーケットで安く買ったり貰ったりした物が多い中で、虎と兎が別々に浮き出ているちょっと大きな絵皿は、確かに一際目立っていた。
置く場所に困ったが、何だかんだで気に入っていたりする。
ローテーブルの上にトレーを乗せてから、学習机の傍に有る椅子に自分は座った。長いこと使っているので、最近は座ると椅子がギシリと鳴る。朋はいつもの様にベッドを座った。
「フリマで貰った」
「なーんだ。だから益々面白い事になってたのか」
「面白いかな?」
自分や家族はもう見慣れている。
好きな物を集めたら、いつの間にかこんな事になっていた。気が付いた時には、ん? と首を横に捻っていた。
持ってきた紅茶から、柑橘系の香りが漂う。
ベッドに座っていた朋はカーペットの上に座り直し、鼻を鳴らしてから紅茶を飲み始めた。
眼が爛々としている。
「やっぱり、夏みかん茶!」
「田畑さんに売ってる店教えてもらったら、期間限定品だったみたいでさ。もう無いと思うからって分けてくれたんだよ」
「田畑さん優しー」
確かに、俺は田畑さんが怒ってるのも苛々している姿も見たことが無い。
花さんと一緒に、いつも楽しそうに厨房で料理を作っている。
人間関係が凄くいいのでスタッフの入れ替えは自分が入ってからは、二度しか経験していない。
その一度目が自分で、二度目が小鳥さんのことだが。増えるだけで、減った事はないそうだ。
「うわ、懐かしい系ー」
室内をぐるりと見渡していた朋は、ベッドに備え付けられている棚の上に置かれた、小さな狐のキーホルダーを摘み上げた。
「それも、兎と虎の絵皿と一緒に貰ったんだよ」
「これあげるから、その絵皿も貰ってくれと?」
「お前はエスパーか」
ズバリだった。ちょっと吃驚したぞ。
「エッフェル塔の硝子小瓶の時は、その小物入れだったよね」
キーホルダーの横に置いてある、小さな緑色の小石が鏤められている小物入れの蓋を朋が開ける。中は空なので、本来の役割は果たしていない。
朋はもう片方の手に先程から手に持ちっぱなしになっている狐のキーホルダーを、元の位置に戻すわけでは無く、小物入れの中に仕舞おうとしている。
「仕舞うなよ」
「小物入れでしょう?」
「でも、それは駄目」
ギシリと音を鳴らし立ち上がり、朋からキーホルダーを取り上げた。少しだけ驚いた顔をされた。
「特別、気に入ってるんだ」
「うん。だから、金具外してストラップにしようと思ったんだけど、これはこれで味わい深いというか……」
少し目線よりも高く持ち上げて、下から仰ぐ。
ゆらゆら揺れて、なんか可愛い。目には黒いビーズがはめ込まれている。
「雪さ、覚えてる? 小学校の時に行った筑波山で買ったキーホルダーって、こういうタイプの丸型金具が付いてたよね」
「あー懐かしー。そういえば楕円型にいつから変わったんだろう?」
「考えたこともなかったなあ。キーホルダーって、あんまり買わなくなったよね」
「朋、まだ持ってるの?」
「なにを?」
「筑波山で買ったキーホルダー」
「ああ、青い石が付いたやつでしょ。いつものコルクボードにぶら下げてある」
朋は青い石で、俺は緑色の石が確か付いていたはずだ。
石に金具が鎖してあるだけの、とてもシンプルなものだったはずだ。
「物持ちいいね」
「雪ほどじゃないけどね」
自分の分も確か、机の上の小さな木箱の中に入れっぱなしになっていた。
ベッドを背凭れにして座っている朋は、テーブルの上に置いたカップを人差し指で押す。
カップはほんの少し動いて、止まった。
急に、朋は神妙な顔付きをした。
こういう顔をすると、雰囲気がガラリと変わる。
「どしたの?」
「あのさ、あのね」
「どうしたの?」
俯き、なにか伝えようとしてはまた止める。
朋がこういった行動を取る時は大抵、何かに悩んでいる時だ。
あまり人に頼りたがらないから、ぎりぎりまで一人で悩む。人の悩みは直ぐに聞こうとするくせに、だ。
そういえば進路も、随分と悩んでいたみたいだった。
朋は奨学金制度を利用して、現役で芸大に合格した。
小学生の時から朋の作る物は抽象的で独創的な物が多くて、色々な評価をされてきた。好意的な意見もあればその逆ももちろんあった。
中学生の時に面と向かって「変なの」、と言われている現場に遭遇したことがある。吃驚して、視界一杯に入れてしまったその子の顔を今でもよく覚えている。その子は、俺と朋の脇を何事も無かったように通り過ぎた。
頭にきて怒鳴ろうとした口を、その時から人よりも少し大きな手で塞がれた。「いいから」、と眉を八の字にして笑っているこいつを見て、こっちの方が悔しくて仕方なかった。
先生からの強い推薦で、朋は中学の頃にコンクールに応募をした。朋はそれから、応募する度に大きな賞を取るようになった。
否定的な意見を目の前で言われることは珍しくなっていた。どうせ俺には言わないだけで、まだ有るんだろうけど。
そもそも目立つ事が、朋は嫌いだった。
「ただ、作る事が好きなだけだから」と言って、高校はこの辺で一番有名な進学校に進んだ。成績も良かったし容姿も良いから、どうしても目立った。中学に入る頃に掛け始めた眼鏡にだって、それだけで周りが騒いだ。朋はそれが面倒で、コンタクトにしたくらいだ。
そんな朋から、接客業に誘われた時は大分驚いた。高校に入って、心境の変化でも有ったのだろうか。
お互いの高校生時代の話は、そういえばほとんどしたことがない。
作品の相談には乗れないが、話を聞くくらいなら俺にも出来る。
椅子から、カーペットの敷いてある床の上に座り直し、ジッと朋の顔を見上げた。
話す気になったのか、ウロウロさせていた視線をゆっくりと俺に合わせてきた。
こういった仕種は、本当に昔から変わらない。
言いたそうなのに一度、必ず隠したがる。
「あ、あのさ……」
「うん」
「今さ、課題の作品造り、をしてるんだけどね」
「うん」
「そのキーホルダー、ちょっとだけ借りてっていい?」
朋が人差し指を向けた先には学習机に乗せられた、先程まで眺めていた小さな狐のキーホルダーがあった。
「あれ?」
「うん、それ」
ちょっと手を伸ばせば届くので、腕だけ伸ばしてそのキーホルダーを朋に手渡す。
「はい」
「いいの?」
「いいよ」
「特別、気に入ってるんでしょ?」
「欲しいなら、あげるよ」
なにかを特別欲しがる姿なんて、朋にしては珍しい。
「いやいやいや! 借りるだけで充分!」
神妙な顔つきから、朋はいつもの緩い笑顔に切り替わった。
なんか、安心した。
それほど、思い悩んでもいなかったようだ。
「遠慮なんかしなくていいのに」
「遠慮してないから、聞いたんだよ」
朋は、へらりと笑う。普段どんだけ謙虚に生きてるのこの子。
長い付き合いながら、ちょっと呆れてしまった。
「ありがと。明日、バイトの時に返すね」
「いつでもいいよ」
「一日あれば大丈夫。あ、ねえ話変わるけど俺さ、花さんに美味しいパンケーキの店教えて貰ったんだ。今度行こうよ。雪、パンケーキ好きでしょ?」
「花さんが美味しいって、相当美味しそう。行きたい!」
兄も甘党だが、自分も結構な甘党だなってこういう時に気が付く。
花さんが作るパンケーキは、お店でも凄く評判が良かった。ふわふわの甘めの生地に田畑さんが作った柑橘系のジャムがとても合っていてさっぱりとした口当たりで兎に角美味しい。その花さんのお勧めなら、間違いなく美味しい。
「今度の連休、行ってみようよ」
「火曜日だったら、店も休みだし少し早めに行こう。あ、ちょっと待って」
勢いよく立ち上がり自室の引き戸を思いっきり引いた。
スパンと良い音が、室内よりも廊下に響き渡る。
「何してるの? 兄さん」
目の前にはしゃがみ込み、眼を見開いて固まる兄が居た。
背中から少し風が当たると思ったら、覗いてやがった。
弟とその男友達の会話なんか聞いて、なにが楽しいのか理解に苦しむ。
「やだ。雪ったら背中に眼でも付いてるの?」
「付いてたら、服で見えないよ」
「透視能力が備わっているのかもしれない」
「真顔で何を言っている」
後ろで「相変わらず」と漏らす、朋の笑い声が聞こえる。
そんなことはお構い無しに、兄は喋り続ける。
「お兄ちゃんも連れてきなさい」
「お兄ちゃんなら我慢して下さい」
「母さんみたいな口振りを!」
この人は、アホなのだろうか。
あからさまに傷ついた顔をする七つ歳の離れた兄は、今年で二十五歳になる。
昨日は出張だと言っていたので、今日は早めに帰宅できたみたいだ。
兎に角、だから引き戸は嫌なのだ。足音まで忍ばせやがって。
「お兄さんも、一緒に行きますか?」
「行ってやらなくも無い」
何故この人は、朋にはいつも偉そうなのか。
兄は腕を組み、顎をしゃくり上げている。思わず溜息を付いてしまった。
「連休は海外出張に行くって、言ってただろ」
「お腹が痛くなったとでも言っておこう」
「お腹痛いなら、パンケーキは食べられないね」
「グヌヌ」
「グヌヌ、じゃないよ」
「オムライスを作ってくれたら諦める。ちなみに冷蔵庫には母さんが特売で買った卵が仰山眠っておる」
「じゃあ作るから、着替えて大人しくリビングで待っててよ。スーツ、皺になるよ」
「ツッコミすら返してこない。お前、母さんに似てきたな。大阪で頑張る父さんにも伝えておこう」
「写メを撮るな!」
フラッシュが眩しい。朋の笑い声が大きくなった気がする。
満足したのか言うだけ言って、兄は早々に立ち去る。去り際に「ケチャップは多めでね」と言い残し、隣の自分の部屋に戻って行った。
扉を閉める音が聞こえないのは、いつものことだ。
扉をしっかり閉めてから、さっきと同じ場所に腰を下ろした。
視線の先でお茶を啜りながら、朋が笑う。
「お兄さんと、仲良いよね」
「歳が離れてるから、喧嘩相手って感じにならないだけだよ」
あんなんでも、しっかり者のお兄さんと近所の人によく言われる。しっかりとご近所の分までお土産を買って帰るし笑顔で挨拶をするから、ご年配の方から人気がある。弟の部屋を覗き見してくるなんて、誰も思っていないのだろう。
「朋だって、お姉さんとよく買い物に行くんでしょ?」
「あんなの、ただの荷物持ちだよ」
朋は思い出したかのように肩を竦める。
男兄弟しかいないので、その辺はよく解からない。そういえば兄と買い物とか、もう随分と行っていない気がする。
「なあ、夕飯家で食べてかない? 丁度いい時間だし。卵の消費に付き合ってよ」
壁に掛けられた鳩時計は、七時を少し過ぎている。
調子が悪いので、鳩が中々出てきてくれない。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「うん、甘えて。消費期限が近かったから」
「役得だなあ。一人暮らしだと直ぐコンビニに頼っちゃうから、手料理って久し振りだなあ」
「彼女に、作って貰えば?」
朋の笑い顔が、顰め面に変わった。
「いないもん」
「あ、ごめん」
まさか別れていたなんてなんて思わなかった。
「ごめんも何も、最初からいないからね」
「由比原と上手くいったんじゃないの?」
思わずテーブルに手を付き、身を乗り出してしまった。
カップの中の紅茶が、淵を越えるか越えないかのギリギリの円を描く。
中学の卒業式が終わった後、朋は同じクラスでよく話してたショートカットの子に呼び出しをされていた。珍しく、朋が自分から話しかける女子の一人だった。
「断ったもん」
「続いてるんだと、思ってた」
恋愛話が、多分、一番しない。
何にも言わないからてっきり、告白もOKして、ずっと付き合ってるんだと思ってた。二人とも、仲が随分と良さそうだったから。
美男美女で、周りからも付き合ってるんだろうと告白される前から噂されていた。
ジトリとした目付きで眉間に皺を寄せながら、朋がこちらに視線を寄越す。
「雪こそ、彼女いるんじゃないの?」
目を細め、思いっきりそっぽを向いてやった。
「オ、オムライス楽しみだなあ」
話を逸らせようとしているのが丸解かりだ。
下から覗き込んでくるんじゃねえ。
俺はお前のように閉店後に待ち伏せされて、告白されたことは無いんだよ。教室でいきなり告白されたこともないんだよ。
おたおたと困りだした朋に、一つ溜息を付いてから思いっきり笑顔で振り向いてやった。
「ああ、トマトソースをたっぷりかけてやるよ」
「やめてー」
そう言いながら、朋の顔は笑っている。
しかし、トマト自体は好きなのにトマトソースは何故苦手なのだろうか。
朋は何だかんだで、トマトソースの部分もしっかり完食をしていた。
一人暮らしのアパートに帰って行く頃には、随分と遅い時間になってしまった。
家の電話ではなく、携帯電話のバイブ音がリビングのテーブルの上で鳴っている。
テレビを見ていた兄は、凄い勢いでその携帯を手にした。
少し肩を竦めたのが、ソファーを背にしたカウンターキッチンからでも見える。
よく聞こえないが短い会話をしたあと、兄さんは首部分まで深く座り直た。クリーム色のソファーの背凭れに頭を乗せ、兄はこちらを振り向いた。
「母さん、少し残業してくるって」
「ご飯は?」
「残しといてって」
「解かった」
自分の携帯にも、着信が入っているかもしれない。
ベッドの上に置きっぱなしになっているはずだ。
サランラップを掛けて、レンジの中に一人前のオムライスを入れておいた。これで帰ってきたら、直ぐに食べられるだろう。
工場で週に三、四日パート勤めをしている母は、納品具合では偶に遅くなることが有ると言っていた。
洗い物を済ませ、甘い珈琲を兄さんに持って行くと携帯の画面をボーっと見詰めていた。「電話、待ってるの?」と聞くと、ちょっと驚いたあとに「そうなんだよ」と眉を八の字にして笑い、携帯をパチンと閉じた。
兄さんも、物持ちが良い方だ。前の携帯は、壊れるまで使っていた。
「おお、珈琲!」
「甘いのは一杯だけにしなよ」
「善処しよう」
直ぐに、いつもの兄さんの顔に戻っていた。
手渡すと、温めに作ってある珈琲からの湯気で兄さんの掛けている眼鏡が曇った。
珈琲を一度ソファー前のテーブルに置き、眼鏡に冷たい息を吹きかけて曇りを取ろうと必死だ。確か、兄さんは高校の頃から眼鏡をする様になったはずだ。
もう眼鏡を掛けていない姿の方に、違和感を感じる。
ふと、店長との会話を思い出した。
「ねえ、兄さん。パスポート持ってるよね」
「もちのろんだ」
「兄さんのって五年、十年?」
「成人してから取ったから、十年用だな。何だ雪、あいつと二人で海外にでも行くのか?」
「あいつって?」
兄さんの向いに座り、自分用の甘くない珈琲を啜る。
時刻が変わる間際のせいか、テレビはコマーシャルばかりが流れている。
「内居朋樹」
「ううん」
「誰?」
「店長」
「お店の皆と、ツアーかなにか?」
「買い物。店長と」
「二人きりで?」
「うん。二人で」
「付き合ってんの?」
ちょっと、珈琲を噴出しそうになったんだけど。
自分が? 店長と?
「ないよ。相手にされるわけないじゃん。絶対に彼氏いるよ」
店長は凛とした、姿勢の良い綺麗な女性だ。周りが放っておかないだろう。
兄は曇りの取れた淵の無い眼鏡を掛けなおし、こちらをジッと見てくる。
「彼氏持ちの女性が、男を誘うと思うのか?」
「店長だよ」
そんな、珍しいことではないと思うけど。ただの買い物だ。変に勘ぐる方が、おかしいと思うんだけど。
兄は心配そうに自分を見ている。心配、されるようなことなのか?
そんな、誰彼構わず手なんか出したりしないのに。それとも、彼女がいないことを心配されているのか?
よく解からなくて、首を傾げてしまった。
すると兄は俯き、珈琲にはまだ手をつけずに親指と人差し指の腹で眉間の皺を揉み出した。
小さく溜息まで付いている。
「お兄ちゃん、ちょっと心配になったよ」
「兄さんだって、彼女いないじゃん」
「そういう心配では、無くてだな」
「大丈夫だよ。心配しなくても、手なんか出さないよ」
「違うよ、そういう心配でもないんだよ。ごめん、兄さんが大人になってしまっただけなんだ。気にしないでくれ。ところで雪、申請は済んでいるのか? 直ぐには出来ないぞ」
「兄さん、俺もう大学生なんだけど。まあ、いいや。あと申請書の法定代理人署名欄に、母さんの署名を貰ってお終い」
「雪はしっかり者だから、兄さんは安心だ」
「心配なの? 安心なの?」
「兄としては、まだ心配をさせて欲しいんだよ」
「なにそれ、結局安心は出来ないじゃない」
兄は、笑うだけで返事はしない。
また少し温くなったであろう珈琲を、兄が普通に飲み始めた。いや、飲み干した。
「美味い。もう一杯」
「青汁のコマーシャルみたいに言わないでよ。甘いのは一杯だけにしてよ。病気になるよ」
「それは困るな。じゃあココア」
「結局、甘いのじゃん」
「譲歩したぞ」
「はいはい、解かりました」
ココアを淹れに、またキッチンに向かった。
後ろでパカリという音が聞こえ振り向くと、兄はソファーに凭れながらまた携帯を開き、誰かからの着信を待ち続けていた。




