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自宅から一番近い最寄り駅から数分歩くと、商店街の一角に外壁に煉瓦が埋め込まれた建物が見える。
欧風な外観をした喫茶店は、ひっそりとした建物が続く商店街の中では少し目立つ。
数年前、駅の西口方面に大きなショッピングセンターが出来た。駅から直ぐ近くだ。
東口にある商店街は、シャッターを下ろす店舗が増えた。
けれどそんな中、喫茶『向日葵』は小さな記事が情報誌に掲載されたことも手伝って、満席とまではいかないが連日賑わいをみせていた。
道路に面した出窓部分にはアンティークの置物や、壁には綺麗な風景の写真と店長が好きだと言っていた画家の絵が小さな額縁に入れられ飾られている。
大小様々な写真や絵画が、淡い緑色の壁紙に映えている。
照明は花の形を模していて、西陽が入り込む店内を照明の橙色と太陽の橙色の光が淡く包み込む。
雰囲気の良いお店だと思う。お客さんの年齢層も幅が広い。
自分を含めた従業員は全員、腰に黒いエプロンを巻いて白いカッターシャツを着て接客をしている。
「三番テーブル、エスプレッソ二つ持って行ってね」
「はい」
調理スタッフの田畑さんからトレーを受け取り、厨房とホールを繋ぐカウンターからエスプレッソを二つ、窓際に面した三番テーブルまで運ぶ。
テラスは無いが大きな出窓が三つ、外からの光を店内に連れ込む。
もともと、席の数は多くは無い。
けれどお客さんの要望もあって、昨年は三十席にまで増えた。
昼時を少し過ぎた女性客が多い店内で、制服を着た女子高生のテーブルになるべく音を立てないようにカップを乗せる。
テーブルを挟んで椅子に座る二人の女子高生は、こちらをジッと見上げていた。
「お待たせ致しました。真夏の憂鬱、エスプレッソになります」
一歩下がってお辞儀をし、出来るだけ丁寧に笑う。
「ごゆっくりどうぞ」
一礼をしてから、踵を返す。
背を向けた女子高生から声が聞こえる。噛み殺したかのような小さな笑い声が耳に痛い。
解かるよ、エスプレッソだけでいいじゃん。憂鬱とか、お客様に出しちゃ駄目じゃん。今、四月じゃん。
だがしかし、こういうのは恥ずかしがった方が負けだと、先輩から教わっていた。
勝敗なんかどうでもいいが、なんとかそう言い聞かせてやってこれている。
バイトを始めてから四年目を迎えても、知り合いが来ると今でも偶に、挫けそうになる。兄なんかはわざわざ会社帰りに寄ったりする。
身内に来られると、私生活を知られている恥ずかしさも手伝って、心は完全に折れた。
カウンターに戻ると、ホールマネージャーの斎木さんが丁度、休憩から戻ってきたところだった。
平日に比べ、土日はお客さんの入りが多い。
いつもは二人で回すホールも、今日の午後は三人で回す。
斎木さんがカウンターから出てくると、店内に居る女性客の声が少し大きくなった。のは気のせいじゃないと思う。
「白井、次、休憩いいよ」
「はい、戴きます」
「はいどうぞ」
自分の横を通り過る際に、綺麗なアルトの声が耳に響く。
ホールに、斎木さんが足を踏み入れた。
一週間前まで一ヶ月間入院していたせいもあって、今日久々に来たであろう女性客の反応は大きい。斎木さんはどうしたんですかと聞いてくるお客さんまで居た程だ。何人も。
この店のメニューの名前は、調理スタッフの花さんと田畑さんそして、ホールマネージャーの斎木さんが考える事になっている。
花さんと田畑さんは美味しく楽しく食べて貰えれば、名前は斎木さんが自由に決めていいと一任している。
メニュー名は普通なのに、憂鬱だの囁きだの微笑だの一言加えて楽しんでいた。斎木さんが。
「お待たせ致しました、甘い夢の終焉、新緑のココアになります」
斎木さんが言うと女性客の反応は笑いではなく、赤面だ。
この人は女性客に、非常に人気がある。
スラリと伸びた手足が制服を綺麗に着こなし、涼やかな目元が独特の雰囲気を作り上げている。おまけに、背も高い。
自分が低いわけではない、百七十センチはある。
斎木さんは一般的な人より背が高いのだ。
男装をしている訳ではないが、男装の麗人とお客さんが小さな声で言っていたのを接客中に聞いた事がある。
そもそもうちの制服は全員、パンツスタイルだ。
腰巻のエプロンを取り、それを片手で持ちカウンター横の扉を開ける。
直ぐ隣の厨房にいる花さんと田畑さんに声を掛けてから、休憩室に繋がる扉を開けた。
空調は通路には入っていないので、制服のシャツではまだ肌寒い。
もう一人のホールスタッフはお客様を案内していたり、レジ付近に付きっ切りになっていた。
休憩室の木製の扉には、アンティーク調のドアノブが取り付けられている。
店長は生活雑貨が好きでよく日本国内に留まらず、海外にも買い付けに行く。
先日、朝一の店が始まる少し前に品出しをしていた店長に声を掛けた。
店長の選ぶ品々は、ユニークな物が多い。
どこで買い付けをしているのか興味があった。だから、思い切って聞いてみた。
店長とは、あまり会話らしい会話はしたことが無かった。
今日の夜に飛行機の予約を入れていると、その時に言っていたのを思い出す。
ニューヨークで大きな市が有るらしい。
店長は英語が流暢だ。英語で話しかけてくるお客さんにも自国語のように話しているのを何度も見たことがある。
自分も、何となくは聞き取れるが店長のようにはスムーズに話せない。
店長は、海外の友人が色々情報をくれるのだと言っていた。
「興味が有るなら、次はお前一人くらいなら、連れてってやるよ」と言われ、凄く嬉しかった。
海外には行ったことが無いのも有るが、海外の雑貨にも興味が有ったしうちの喫茶店ではお盆には纏まった休業日がある。
それを利用してひとりで行ってみようと思っていたから、そういった情報に詳しい人と同行出来るのは、凄く嬉しい。「嬉しいです。お金貯めときます」と伝えたら、笑われた。
店長は普段、接客中以外は余り笑わない。
その店長に笑って「パスポート有るのか?」と言われた。そうだ、持っていなかった。
顔に出ていたのだろうか「ニューヨークは何県だ?」とからかわれた。普段、見たことの無い顔だった。「アメリカ合衆国です」と伝えると「正解正解」と言い残し、店長はそのまま事務所に入って行った。
最後まで笑われてたけど、嫌な気分はしなかった。
もっと早く、こういった話が出来ていたら良かったのにと思い、自分の受動的な性格がちょっと嫌になった。
ノブはその店長が定期的に変えている。ドアノブも好きとだと言っていた。
今取り付けられているモノも、童話にでも出てきそうなゴツゴツとした不思議な形をしている。この前までは、木製のライオンの顔が付いていた。回す時にちょっと痛いと斉木さんが文句を言っていた。髭の部分がチクチクしていたせいだと思う。ノブは次の日には今取り付けられているものに付け替えられていた。
ロッカールームの方は普通のよく見る銀色の物なので、ちょっと残念だ。だから余計に次はどんなのだろうと、楽しみになっている。
誰も居ないとは思うが一応、ノックをしてからノブを回す。
扉脇の照明のスイッチをカチリと鳴すと、薄暗かった室内を白熱灯が照らす。
扉を閉めてから室内の小窓を開けると、少し冷たい風が室内に流れ込んできた。
室内の中央には長方形の簡易テーブルと、パイプ椅子が三つ並べられている。
椅子を引いて腰を掛け天井を仰ぐと、蛍光灯の光が少し眩しくて眼を細めた。ホールの明かりより、ずっと光りが強い。
思いっきり背伸びをするのと同時に、小さなノックをする音が背後の扉から聞こえてきた。
「どうぞ」
「失礼ー」
椅子の背凭れに肘を乗せ振り返と、ここを紹介してくれた同僚で友人の内居朋樹がドア越しにひょっこりと、覗き込むように入ってきた。
少し長かった前髪を切り、何だかさっぱりとしていた。
「会計に付いてたんじゃないの?」
「三時過ぎから混み出すから、一緒に休憩入って良いって。店長がレジ変わってくれた」
「そっか」
返事だけすると立ち上がり、備え付けの小さなキッチンに置かれたポットに手を伸ばす。
コーヒーと紅茶が数種類、自由に飲めるようになっている。
コーヒーが苦手な友人は、背後からその様子を見てくる。
「今日はなにが有るの?」
手元が影になって、ラベルが読み辛い。
少し身体を傾けると、照明の光が入り込み文字が読み易くなった。
「アールグレイとダージリンはいつもので、新しいのがアップルティーとカモミールと、あ、これ木苺だ。美味しそう」
「それにしようよ!」
「了解」
ティーパックになっている木苺茶を二つ、ガラス瓶から取り出す。
今日はお休みの佐々さんが趣味で作っている陶器のカップに入れて、ポットのお湯を注いだところで酸味の有る、良い匂いが室内に漂う。
「超良い匂い」
「お前さー」
「ん?」
ジッと見上げた俺に、友人は首を傾げる。
「なによーう」
へらりと笑う友人の目の高さは、さっき感じた斎木さんとの距離感と酷似していた。
しかし、こいつが偶にお姉口調になるのは何故なのか。
沢山上がる疑問の一つを、提示してみた。
「背、伸びた?」
「わかるー? 斎木さんとさっきすれ違った時にね、目線がちょっと高かったから、百八十オーバーは確実かなあ」
「……ノッポめ」
「高過ぎても服が合わなかったり、色々と大変なんだよ」
「そうか、こっちは選び放題だ」
軽く眉を顰めてからちょっと重たい、斑になった深い緑色のカップを手渡す。それを両手で朋は受け取る。
しかしこいつは、手もでかい。
「ありがとー」
小学校からの付き合いだが、こいつは一貫して緩い。
そういえば、中学を卒業するまではこんなに目立った身長差は無かったのに、別々の高校に進学して半年ほど会わなかった間にもう、目線は随分と上になっていた。
身長以外は、変わった様子はなかったが。
視線が合えば、変わらずにへらりと笑う。
高校に入学する前は、毎日のように一緒に居た気がする。
いつから朋樹から朋と呼ぶようになったのかも忘れてしまった。
朋とよく話すようになったのは、小学校五年生の終わり辺りからだ。そこそこ、付き合いは長い。
高校に入ってからは通学時間の違いから、最寄り駅は同じなのにまったく会わなくなった。
そこで一度、ずっと続くと思っていた時間はあっさりと過ぎ去った。
お互いの時間に、気を使うようになったからだ。
変な感じだった。
偶然、駅のホームで朋と会った。
会わない時はとことん会わないなあと思っていた時だった。
高校一年の夏休みが始まる数日前、朋は開口一番に「バイトしてみない?」とキャッチセールスみたいに声を掛けてきた。すぐさま「やる」と、一つ返事をしてしまった。久し振り、という台詞は未だに言い忘れたままだ。
朋はニッコリと笑って、そのまま帰り道から少し外れた場所に有るここ、『向日葵』まで俺を連れてきた。
バイトの募集要項が書かれた紙も貼られていないので、本当に募集しているのか疑問だった。
それを朋に聞いたら、スタッフが声を掛けるなんてスカウトみたいなことをしていると聞いた。まあ、滅多にはしないらしいが。
どこぞの芸能事務所かよと思った。自分はまず、声を掛けられるタイプではない。
朋は偶々、外からお店を見ていたら斎木さんに声を掛けられたと言っていた。
今年入ったばかりの新人の小鳥さんは、店長が声を掛けたらしい。
面接は有った。
自分で良いのかと思って、思わず聞いてしまった。「駄目だったら、うちの敷居は跨がせない」と面接で言われたので、随分とマイナスな事を聞いてしまったが無事に働けることになって安心した。
帰り道から少し離れているだけで、店頭を通り過ぎることなんて無かった。
看板が駅近くに有ったのは見たことが有った。店の外観をしっかり見たのは、この時が初めてだった。
あっさり過ぎ去ったはずの時間は、昔ほどではないが変わらず続くことになる。
それはそれで、変な感じだった。
また少し、寒くなってきた。
小窓を閉めてからさっきまで座っていた席に座ると、朋は長机を挟んだ反対側の席に腰を下ろし紅茶を啜り出す。
「染み渡るー」
「今日の昼、凄い混んでたの?」
「ランチタイムに合わせてシフトインしたんだけど、もう最初から混んでたねー。斎木さんはギラギラだし、ピッピちゃんはいつも以上にピッピちゃんだったよ」
自分は十三時からで、朋は十一時からの出勤だったはずだ。
丁度、ピーク時にあたる。
午前は八時から、午後は二十時までの営業時間だと混み合う時間帯が午前と午後に一回は有る。
十一時から十四時のランチタイムと十五時からのデザートタイムだ。
ワンコインで提供しているランチセットとデザートセットが好評で、この時間帯に関しては満席になる事も珍しくは無い。
今はその間の一時間で、店内は少し落ち着いていた。
混みだすと小さく流されている有線のクラシックも、声の合間を縫って耳に届くか届かないかだ。
飲食の他に、佐々さんの作った食器だったり店長が買い付けてきた国内外の生活雑貨や置物なんかも販売しているので、店内に人が居ない事の方が珍しかった。
「ギラギラって……」
「してたよー。今日は女性のお客さんが多いでしょう。斎木さん女の子大好きだもん。ピッピちゃんとシフトも被ってたし」
「斉木さん、小鳥さんのこと気に入ってるもんね」
ピッピちゃんこと小鳥さんは、自分以来の新人だ。
体育などで良く使う笛の音に合わせた様にキビキビと動くので、斎木さんがピッピちゃんとあだ名を付けた。
斎木さんが初めてそう呼んだ時、「わあ、ありがとうございます!」と爽やかに小鳥さんは笑った。
花さんと同じくらいの低めの身長で、今年高校に入学したばかりの女子高生の小鳥さんは、斎木さんのお気に入りだ。花さんの次に、だとは思うけど。
斎木さんは理由は聞いた事がないが、花さんを心酔している。
先輩アルバイトの佐々さんが花さんにちょっかいを掛けると、凄い勢いでそれを阻止する。
当の佐々さんは「益子に行くんだぜ」と言っていたので、今日は静かだ。
故に斉木さんの今日の機嫌はとても良い。
ポットのお湯は熱いので、息を吹きかけながら紅茶に口を付けると適度な酸味が口の中一杯に広がる。
匂いも味も楽しめる。和む。
「美味しい」
「ね。田畑さんかなあ、買ってきたの。どこで買ってきたのか、あとで聞いてみようかな」
「この間の夏みかん茶も、田畑さんが買ってきてくれたんだよね」
「双子のお兄さんが紅茶好きだから、よく買いに行くんだってね」
「紅茶が好きとかなんか恰好良いな。うちの兄さんなんてちょっと心配になるくらい甘いコーヒーばっか飲んでるぞ」
思い出して、今飲んでいる紅茶の水面を揺らした。さらりとした感じだ。
兄が飲んでいるものは、水面が同じ動作でもゆっくりと動く。絶対に砂糖の量のせいだ。
「ああ、雪のお兄さんてめちゃくちゃ甘党だもんね」
「痩せてたって、糖尿病になりそう」
「頭使ってるから、糖分が欲しくなるんだろうね」
「血液がどろどろになってそう……」
外資系の会社に勤めている兄は、午前様なんてもう日常茶飯事だ。
だから、早く帰れる日くらい真っ直ぐ帰ればいいのにわざわざうちの店で砂糖たっぷりのコーヒーを飲んでから帰る。
胃が、普通の人よりも飛切り丈夫なのかもしれない。そのあと、家でしっかりと夕食も食べる。
兄さんが煎れたコーヒーを飲んだことが有るが、あれは、苦味の少し残った砂糖水だ。あ、砂糖湯か。
休憩室の白い壁に張り出されているシフト表を見る為に身体を半回転すると、パイプ椅子がギッと小さな音を響かせた。
「ねえ来週の金曜って、空いてる?」
「あー、俺シフト……」
「入ってないよ」
「じゃあ、空いてる」
自分の目で確認しても、金曜は空白になっていた。
佐々さんと斎木さんが、二人でホールを担当する日になっていた。花さんが、大変そうだ。
大学の経営学部に通っているが、サークルに入っているわけでもないのでレポートや試験が重ならなければ大体は空いている。
大学の友人もバイトをしているので、時間が合えば偶にカラオケに行くくらいだ。
こうやって、お互いの空いている日を確認し合うくらいには大人になったんだな、なんて思うあたりまだまだ子供なんだなって思う。
「雪の家、遊びに行っていい?」
「いいけど、午後も授業入ってるから夕方、遅い時間になるなあ。そっちは?」
「俺も午後まで。終わったら連絡頂戴。そしたら行く」
「了解」
カップに口を付けると、さらりと揺れる紅茶は丁度いい熱さになっていた。




