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 今日は灰色にピンク色のネクタイ、腕にはカサブランカの花束を青年は抱えていた。

 本来なら七月から八月に手に入るはずのカサブランカは、店頭で早い時期に買うことが出来た。

 まだ、五月にも入っていない。

 人工的に栽培されたものだろうが、綺麗なものは綺麗だった。

 花粉を取ってしまえば長持ちしますよと、花屋の店員は丁寧にカサブランカの花粉を取り除いてくれた。

 大きな大学病院を定期的に訪れる青年は、ここに長く勤める看護師の間ではもう馴染みの人物になっていた。

 歩く道順も、見舞い人記入表の書き方も幾つの部屋を通り過ぎて行くのかももう誰に聞かなくても知っている。

 スライド式の重たい手動の扉は開いたら、ゆっくりと自動ドアのように元の場所に戻されていく。

 それももう何年も前に青年は知っていた。

 まだ、両手で数えられる年数だ。片手では足りなくなってしまったが。


 小さく三回叩かれたドアからは、馴染みの看護師の「どうぞ」という声がして、やはり重たいドアをスライドさせる。

 きちんと押さえてなければ直ぐに閉じてしまう。

 軽く会釈して「今日は暖かいですね」なんて、窓の閉まった、空調が効いたこの病室で眠る人物とはまったく関係のない世間話を「そうですね」と小さく笑い、青年は受け流す。

 本当に小さな、耳に届くか届かないかくらいの外と中を仕切る音が耳に響く。

 打ち消すように丸椅子を引き、正方形が幾つも並ぶ小さな薄い茶色の斑の染みをつける床の上に、カコンと音を鳴らす。


 今日は本当に、いい天気だった。

 掛けられた白いカーテンは、窓を開けたら放物線を描き風が止むと直線に戻っていくのだろう。けれどこの病室の白いカーテンは、静かに垂れ下がっているだけだった。

 昔は看護婦と呼ばれていた看護師は、今は何かの改正があったらしく男性も女性も全てひっくるめて看護師に統一された。

 名前が変わっただけで、彼女がこの病室の担当という事には変わりはなかった。

 それは喜ばしいことだった。

 彼女は、点滴の針を差し込むのが上手い。

 この病室で眠る人物の青白い、細い血管の浮き出た白い腕には幾つもの注射跡が残っている。

 一時期、青く大きな跡が青白い腕に残っていた事があった。

 それも今では、綺麗に青い小さな点が残っているだけになった。


 担当を替えて欲しいと懇願したのは、表情を変えず眠り続ける青白い腕の彼の母親と父親とまだ小さな彼の妹だった。「痛がっている」と、喋らない彼の声を代弁して泣いていた。

 看護婦に悪気があったわけではない。

 ただ、毎日同じように腫れている腕は確かに痛々しかった。

 申し訳ないと何度も双方で謝る姿を見て、ただ一緒に頭を下げることしか出来ないことが青年は情けなかった。

 看護婦は、別の病院に移ったと聞いた。

 人一人の人生を、大きく変えてしまった。

 たった一瞬で、大きく変わってしまう。

 罪悪感と安心感、安心感の方が大きく勝っていた。だからその話題には誰も触れたがらない。

 個室になっている病室は入院費だって結構するのも、もう知っていた。

 何か、力になりたかった。

 血の繫がりのない、ただの友人という間柄では金銭なんて受け取って貰えなかった。

 目の前の友人は眠っているだけなのに生きるのは大変な事なのだと、当時まだ十代だった頃から青年は変わらずに今でも思い続ける。出会った頃よりも、青年の友人が眠っている時間の方が長くなってしまった。

 眠ってしまってから、友人の脳の深い場所に小さな腫瘍が検査を重ねた結果、発見された。

 手術は成功したのに、何故眠っているのか誰にもわからない。

 青年が病室に駆け付けた時には、友人はもう眠ったままだった。

 丁度、今くらいの季節からだ。

 つつじが綺麗に咲く季節。


 ラジオが好きで、よく聴いていると前に言っていたから、それだけの理由で持ってきた、もう病室の一部となった小さな赤い携帯用のラジオデッキのスイッチを入れると、タイミングのいいことに当時流行っていた歌が流れ出す。

 青年にとっては懐かしくても、目の前で眠る友人にとってはどうなのだろうか。

 聞きたいことは沢山有る。

 聞こえてるのだとしたら返事をして欲しい。

 来るたびに思うのに友人の手は、変えられたら変えられた位置から戻らない。

 友人は、お喋りな方ではなかった。

 話題はいつも青年の方から振っていた。

 でも笑って返事を返してくれる。それだけで充分だった。

 あっさりと、日常は大きく変わった。

 自分の夢を応援してくれた友人は夢の中から出てこない。


 今は二人きりの病室には、小さく流れるラジオ番組と青年の声と、呼吸器を通して聞こえる生きている音しかなかった。

「俺、来週から海外に行くんだよ。やっと海外出張を入れてもらえるようになったのに、世間では連休なんだよ。弟なんか友達とパンケーキ食いに行くって言ってんの。あいつ、もう十八になったんだ。最近、母さんに口調が似てきたんだよ。世話焼きだから、いつの間にか苦手だった奴と友達になってんの。悪い奴ではないんだ。お前ともちょっとだけ、似てる気がするよ。あ、弟も海外に今度行くんだって。女の人と二人きりなんて、兄としてはちょっと心配なんだよね。手を出さないなんて言ってるけど逆に出されたらどうするのって話だよね。無防備っていうか世間慣れしてないっていうか、なんか危なっかしいんだよね。でもあれでいて周りに眼のいく子だから、安心といえば安心なんだけどさ。それでさ、料理も結構上手いんだ。オムライスなんか卵がトロトロで、あれ、この話はしたことあったっけ?」

 返事は返ってこない。

 定期的に落ちていく水滴に自然と眼が行ってしまう。

 動くものに眼がいってしまう。

 

 ラジオに、ちょっとしたノイズが交った。

 この辺も、大分変わった。

 大きな大学病院は青年の住んでいる町から、二本電車を乗り継いだ場所にある。

 初めて来た時には無かった背の高いビルや、マンションが出来始めた。

 そのせいか、そろそろ買い替え時なのか。

 ノイズはすぐに止まった。

 やはり、外の影響だったのだろうか。

 

 小さな赤い携帯用のラジオデッキの横に、花瓶に入れ忘れていたカサブランカが強い芳醇な匂いを撒き散らしている。

 白くて綺麗な花だ、ユリに似ている。

 そういえばカサブランカがユリ科の植物だと言っていたのは目の前の友人だった。

 水色の包装紙に手を掛けると、点滴の管が揺れた。

 何所かに管を引っ掛けているのかもしれない。

 確認する為に見た彼の細く白い腕。青く浮き出た血管の上に刺さる針に眼が行くよりも先に、動いている友人の指に眼が行った。

 揺れていたのは、友人の指だった。

 

 ベッドのすぐ近くに吊るされた、使われることなんてほんの二、三回しかなかったナースコールを、モールス信号のように連打する。

 もう直ぐここは騒がしくなるのかもしれない。なってもらわなくては困る。

 小さな音量で合わせていたラジオ番組が、今はちょっと煩くてスイッチを切った。

 友人の唇が久しぶりに、小さく動いた。

 長い間使われていなかった表情筋は痙攣しているように、小刻みに揺れている。

 声には、なっていなかったかもしれない。

 でも青年の耳にはきちんと届いた。

「あるよ」

 他人が聞いたらなにを言っているか解からないだろう。でも青年にはわかった。

 友人はずっと聞いていたのだろうか、青年の話を。

「そうか」

 今までも、眠ってしまってからも話題はいつも自分から振ってきた。

 返事が返ってきたのは、八年振りだった。

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