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『さあ、始まりました。夢告げラジオ。周波数は貴方次第! パーソナリティーは私事、蝶々がお送り致します。リスナーは貴方、其処の貴方、独りです!』
ちょっと年代物のファンヒーターが、カタカタと一定のリズムを刻む。
律動とは、子守唄の効果でも有るのだろうか? やけに眠気を誘う。
けれどこの暖房機器はそのリズムを時折壊し、別の音を鳴らす事もある為そこで一度、下げていた頭を一旦起こす。
買い替えにはまだ早いと思っていたが、そろそろ考えようかなとも思う。
こんなことを考えているあたり、集中力は完全に切れてしまっていた。
机の上に乗せられたデジタル時計は、確かにもう寝ていたい時刻を差している。
部屋も良い感じに暖かい。
条件は全て、満たされている。
電源を入れたままだったラジオ付きのCDラジカセは、有名な放送局に周波数を合わせていた。
この時間帯のラジオはよく聴く方だったが、初めて聞く番組名だった。
ラジオ番組は好きで、自分の知らないアーティストの歌が流れてくると歌も好きな自分はそれが嬉しいし、懐かしい歌が流れたりしても楽しい。
耳から入ってくるだけの情報は聴覚だけに神経が集中するせいか、音量を低くしていても静かな室内では意識せず自然と脳に流れ込んでくる。
この時期だと、それはそれで不味いのだが……。
受験生な自分にとって大勢の他者へと向けられるラジオ番組は、自分の私生活とは微妙にかけ離れていて、この距離感が奇妙な安心感を生んだ。
自分でアクションしない限り、この距離感が埋まることはまずは無いだろう。
でも今自分が聴いている番組は、はっきり言って妙だった。
個人へ向けられていると言うのだ。随分と、変わった言い回しだとも思った。
もしかしたら誰かが個人で流しているのを、偶然受信でもしているのかもしれない。
百メートル位なら、個人放送が出来ると聞いた事があった。
最近、自宅付近は森が減り新しい集合住宅が増えた。少し薄暗かった帰り道には、街灯も増えて人の話し声も増えた。
並べられた家々の中には、そういう趣味を持っている人もいるのかもしれない。
兎にも角にも限定やセールに弱い自分は、六畳一間の机から少し離れた場所に有るラジカセの電源を切るのも、ベッドの上に投げ置かれたリモコンを取りに動くのも億劫で、頬杖を付きシャープペンをクルクル回しながら、罪悪感は有るものの聞き続けた。
個人情報が流れたら流石に番組を回そう。そんなもの流しやしないだろうけれども。
そう云えば、来年着るからと買った薄手のジャケットが去年からクローゼットに仕舞われている事を思い出した。五十パーセントオフと書かれたポップを見て、つい買ってしまった。それでも少し高かったけど。
そのまま買ったら、もっと高かった。お得だ。お得だと思っておこう。
昨日、いや日を跨いでいるのでもう今日だが、同じ行動を友人としてきたばかりだった。タグが付いたままのシャツは、クローゼットに入れてある。
回していたペンをきちんと握り直し、薄い、均等に揃っている罫線の上に文字を書き並べていく。
どうでも良いが普通に放送されている番組だったら、どれだげ需要を削減しているんですかねプロデューサーさんは。
MCは、日常会話しかいまのところ喋らない。昨日の天気はどうだったかよりも寧ろ、今日の天気の方が気になった。
まさに右から左へ。
薄暗い室内で電気スタンドの明かりを頼りに、昨日本屋で買ったばかりの参考書に眼を通していく。
パラリと小さな音が、放送が始まって暫らくしてから流れ出した知らない曲の間を縫って耳に届く。
曲が終わり、パーソナリティーが再び現れた。
深夜には騒がしい喋り口調で語りだす。流れていた曲の作曲者は告げられなかった。少し残念だ。
偶々合った周波数。
嘘みたいな誘い言葉。
『貴方の夢の話をしましょうか』
他者へ向けられている陽気で、綺麗な少し癖の有る声に何故か背筋が震えた。
寒い、わけではない。
腕を摩った。少し捲れた衣服から、鳥肌の立っている自分の手首が見えた。
『冬期休暇中の為、今日はお休みだったけれどもいつもより多くバイトのシフトを組んでもらったはいいが最近の店の混み具合にちょっとクラッときちゃって明日は午後出勤なので夜遅くまで受験勉強に勤しんでいる其処の貴方!』
息継ぎが、ほとんど聞こえない。
ピタリと一致したこの状況に驚いていいのか、ノンブレスの長台詞に驚いたら良いのか解からない。
ページを捲ろうとした手を、ピタリと止めてしまった。
『シャープペンシルは緑! 参考書は今丁度、十九ページ目を捲ろうとしていましたよね!』
自分の手元を見ると、見覚えのあった右下の十九の印字。
『彼女は今募集中とか言ってる割には実はそんなに興味も無く男友達と遊んだり、趣味やバイトおまけに受験勉強、本心は今はいいかなとお思いのようですがそんな事思っていられるのも今のうちですよ。二十歳過ぎるとね、階段は二段飛ばしですよ。別に私の事じゃないですよ! 彼女は今はいいやなんて言ってみたいなあなんて、思ってないですからね! 話は反れましたが、他人事ですが受験勉強、頑張って下さいね』
最後ら辺は、テンションがやたら下がっていたな……。
一体これは、なんなんだ?
出した覚えの無い葉書。
出した覚えの無いメール。
合わせたはずの無い合わせた周波数。
机から少し離れた場所にある、音の発信源であるチェストの上に置かれたラジカセに視線を合わせる。誰も居る筈がない。
解かっているが確認の為、回転する椅子をぐるりと回し部屋全体を一瞥する。
ドアも窓もカーテンも締められている。
雑多なこの部屋に、自分以外の人間はもちろん居ない。
ガタンと、勢いよくローラーの付いた椅子を引く。
瞬時に机の上に乗せられた、携帯電話に焦点を合わさた。
自分は小学校に上がる際に、歳の離れた兄と別々の部屋を用意された。
自分だけの部屋に、好きなアーティストの着歌が響く。
音量は元々小さく設定していた筈なのに、いつもより大きく室内に反響した。
なんて、タイミングのよい非通知着信。
『さあ、ここでお電話が繋がっています。耳に当てるだけで結構ですよ。通話ボタンは此方で押しますから』
歌と、着信を告げる緑色のランプが点滅を止めた。
折り畳み式の携帯電話は、真っ直ぐに伸ばしても居ないのに通話口から陽気な声が零れ出ている。
スピーカーから流れる声と同じだ。綺麗で、癖のある声。
耳に近付いていく、不快感と二重音声。
不思議だ。
怖いと解かっていて、何故、手を伸ばしてしまうのだろうか。
一種の吊橋効果みたいなものだろうか。危険を共にした者は、恋に落ちやすくなる。
何かの本で読んだ事がある。いやテレビだったか? いや、今この状況とまったく関係ないし。
兎に角、自分で自分がもの凄く混乱しているのが解かった。
愛だの恋だのはともかく、なにか、特別なものを求めるのかもしれないし、知識欲を満たしたいのかもしれない。
使い慣れた携帯電話はもう、真っ直ぐに伸ばして、自分の耳にピタリと当てられている。
『ああ良かった放送事故になるかと思いましたよ全国放送なんてしていませんけどね出て下さって良かった』
ノンブレスで一気に捲くし立てられる。
『もしもーし、固まらないで下さいよう』
耳元からとラジカセのスピーカーからと、二つ重なって耳に入り込んでくる陽気な声。
口調とは別に耳障りの良い声は、妙にすんなり入り込んでくる。
この声と、口振りのせいもあると思う。
まったく現実味が生まれて来ない。
乾燥防止にと出窓付近のハンガーに提げておいたタオルは、もう水気を大分飛ばしているはずだ。
ぱさつく唇を開いて、繋がるはずの無かった相手と電話口に言葉を交わす。
「あんた、誰だよ」
「パーソナリティーの蝶々です」
「そうじゃなくて」
「本名は言えません。覆面パーソナリティーなんで」
「そうじゃなくて……、」
「なくて?」
おいおい楽しそうだな。頭痛くなってきた。
片手を額にくっ付けた。熱は無さそうだ。
「今宵たった独りのリスナー様。さあ、貴方の夢の話をしましょうか。特別が好きな貴方の為の、特別な貴方の為の時間です」
リズムを刻んでいたファンヒーターの音が、何故か聞こえてこない。とうとう寿命がやってきたのかもしれない。
パーソナリティーの蝶々は、悠々と喋り出す。
「さあ、貴方の一番強く願う夢の話を始めましょう」
少し低めに温度を設定していた筈なのに、手汗だろうか。握ったままだったシャープペンシルが、罫線が引かれたノートの上を転がった。
小さな音を合図にでもしたかのように、電話口からは笑い声が零れた。
なにが、そんなに楽しいのか。
「あ、その前に!」
こちらのプライバシーなんてまるで無視な会話に、完全に身構えていた俺は肩を大きく上下させてしまった。
見られていなくて良かった。いや、見られているのか?
眠気なんかとっくに醒めた頭に、恐怖が過ぎった。
彼は何故、自分の事を言い当てられるのか?
「来年着る物は来年買った方がいいですよ。去年のコート今年着ました?」
怖いが、なんかもうここまでくるともう、いいや。
「……なんで知ってんの」
「秘密を持った男はモテルので内緒です」
「ああ、そうですか……」
フフッなんて聞こえて、完全にどうでもよくなった。
大きなお世話だよ。買っちゃったんだよ。今年も買っちゃったんだよ。
来年は気を付けるよ。
疑問は疑問。
謎な相手に筒抜けな自分。
友人知人には覚えの無い口調。
夢想空間。
これで一旦落ち着こう。
「話を戻しましょうか。さあ、開幕です」
さあ、気を取り直してと聞こえてきそうだ。
「あ、蝶々って名前、素敵だと思いません? ヒラヒラ夢を渡り歩く感じがねえ、しません? ほら素敵!」
もの凄く同意を求められているが、知らん! というかもうこれは。
「リスナー、要らないですよね」
心底思った。
携帯で喋ってるだけなんだから。おまけに視聴者は自分だけ。
「なんて事を! 一人で喋っていたら寂しいじゃないですかカッコ泣き」
「カッコ泣き、じゃないですよ」
会話の中で、カッコを口で言う人物に初めて出会った。
あれ? 人、だよな?
向こうからはこちらが見えてるかもしれないが、こちらからは向こう側を確認なんて出来ない。
そもそもラジオだ、顔なんて見えやしない。
インターネットラジオなら、話は別だが。
「あははははははははははカッコ笑い」
「くどい。切りますよ」
携帯を離し、立ち上がって電源ボタンに指を持っていく。
「駄目! それこそ放送事故です!」
慌てだすパーソナリティーと妙に冷静な自分。
これ、放送する意味があるのだろうか。
「さあさあさあ、開幕です! さあ、始めます!」
仕切り直しやがった。
「おやおや、小中学生の頃からですか。最近では珍しいんですよね」
まだ何か言われた訳でもないのに、この先の言葉は何故だか自分でも予測が付いた。
そもそも、渦中の人物は自分なのだ。
(いいよ)
他人の声みたいな声が、頭の中で響く。自分が、もう一人居るみたいだ。
なんだコレ? 気持ちが悪い。パーソナリティーは間を割って、喋り続ける。
「好きな事に一生を捧げる覚悟が揺らいでるんですね」
(そうだよ。だけど、あんたには関係ない事だろう)
「手の平から零れ落ちるのは怖いですもんね」
(やめてくれ)
「追風に帆を揚げる、意味はご存知ですか?」
(電源ボタンは押したじゃないか)
「覚悟があるから、叶うんですよ」
(知ったような事を言うな。それでも……)
「ねえこれは、誰の夢の話ですか?」
キシリと鳴る携帯。
木目の走る床の上で音を鳴らし、滑る様にベットの方までスライドしてゆく。
ラジオからは小さな笑い声、馬鹿らしい、だけど。
「俺の、夢の話だろう」
ラジオからはノイズ。
最後に見た場所と、同じ場所を示すデジタル時計。
最後に置いた場所と変わらない位置にある、ストラップも付いていない自分の携帯電話。
ベッドに打つかって半分閉じかけた携帯をきちんと開くと、兄が勝手に設定した兄の顔がアップで映されている待ち受け画面。
溜息を付きながら、着信履歴を確認する。
午後九時過ぎに友人と話したきりで、非通知着信も他の着信履歴も無い。
ああ、終わったのか始まったのか。視線の先で、足早に刻まれるデジタル時計の秒数。
「おいてにほをあげる、良い条件に恵まれたり、物事が順調に進んだりすること」
そんな良い事ばかりじゃない。
知ってるよ。
だから、頑張れるんだろう。
諦めようと思った事の方が圧倒的に多かった。
でも仕方ないよ。
好きなんだもん。その為に今が必要なんだ。
緑色のシャープペンを握り直す。
参考書の十九ページ目はもう一度閉じて、十八ページを捲った。等間隔に並べられた罫線の上に、文字を書き進めていく。
ファンヒーターは時折崩すリズムを刻み、足元に暖かい風を運んでくれる。
『さあ、始まりました。夢告げラジオ。周波数は貴方次第!』
陽気に楽しく今日も喋り続ける。
『聴きたくないですか? 自分の声で』
ヒラヒラと夢の合間を縫うように誰かの元に。




