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四月一日/「1-A」
七臣が過激なセックス発言を行った直後に、前のドアが開いた。黒いファイルを持った男。身長は百七十前半と言ったところで、細い縁の眼鏡をかけている。スーツは安物であろう、とすぐに考えられるほど薄汚れた感じがする。年は四十代前半と言ったところか。非常に細く、針金のような手足をしている。頭はきっちりと七三に分けている。教壇へ上がると、教室全体を見回し、七臣に「はい、ちょっと座ってね」と声をかけた。七臣はぱくぱくと口を動かしたが、そのまま何も言わず座った。喧騒は止まない。当たり前だ、入学して六時間後、初めて顔を合わせたクラス、誰かに話しかけようか、そう緊張している最中、突然セックスしてくれと叫ぶ男子生徒。辺りがざわつかない筈がない。ナツキはと言えば、顔を真っ赤にし、頭からぷすぷすと煙を出し、あわあわとしている。七三の男は「どうしたの? なんかあった?」と教壇から近い生徒に声をかけた。それから、「ちょっとお話することがあるから、静かにねー」と教室全体に言う。三十秒ほどで静かになった。
「初めまして。学園に入学おめでとう。私は1-Aの担任をすることになった、山本博(ヤマモト/ヒロシ)です。担当学科は魔法全てと魔方陣。皆さん、よろしく」
山本が教壇の上で礼をする。何人かは釣られて礼をした。礼をした後、「あ、博の字は博士のはか、の部分です」と付け足した。
「これからいくつか事務連絡をするんだけど、それ程多くないし、折角なのでもう少し私の事を詳しく知ってもらいたいなあ、って事で、まだ自己紹介をしようかなあ、と」
黒いファイルを机の上に置いて、チョークを持ち、黒板に円を書く。中に下向きの正三角形を一つ書いて、チョークを置く。
「さて、この陣が何の魔方陣か分かる人は居るかな?」
教室を見回すも、誰も答えるものは居ない。最初だから、手を挙げるのは恥ずかしいよねえ、と山本は笑い、それじゃあ当てちゃおうかな、とも言った。それじゃあ、と黒いファイルを開いて、中に挟んでいる名簿から目に付いた名前を口に出す。「陣織さん」
はい、と声がした。七臣の斜め右前の女。金色の髪が肩までかかっている。七臣の方からでは後姿しか分からない。と、言うより先ほどから七臣は後ろしか見ていない。夏木の方だ。「メルアド教えてよ」「どこに住んでるの?」「好きな食べ物は?」「兄弟とかって居るの?」と小さな声で質問攻めをしている。ナツキは何も答えられず、先ほどから顔を真っ赤にしているだけ。クラス全体は気付いているが、山本はそれに気付かず、陣織さん、この魔方陣は? と質問した。
「炎です」
陣織、と呼ばれた女生徒は答えた。
「その通り。炎。一番基本的な魔法だね。この三角形を上向きにすれば水だ。これ位の事は、魔力を持っていたら分かるね。遺伝子に情報が組み込まれているんだよ。生まれたときから知ってる。これは、炎だ。陣織さん、もう一つ質問するね」
山本はまた黒板に円を書く。それから、中に正六角形を書く。それから、一呼吸を置いて。ふっ、と山本が息を吐く。陣織はその息を音を聞いた。かっかっとチョークと黒板が触れる音がした。陣織は目を見開く。他の生徒も目を見開いた。え、と驚きの声を出す者も居た。この教室内で驚いていないのは山本本人と話を聞いていない七臣と夏木の二人だけであった。
「それじゃあ陣織さん、この魔方陣は分かるかな?」
先ほどまで円と正六角形しか書かれていない魔方陣が、変貌している。円の周りに読めない文字がずら、と並び円の内部には龍の紋章、読めない文字、その他諸々が書き込まれている。山本が一瞬で書き込んだのだ。山本はその細い目を少し歪ませながら、「今、少し意地悪をしています」と微笑んだ。陣織は、分かりませんと答えた。
「うん、当たり前だよね。これは上級魔方陣だ。君たちの遺伝子情報に組み込まれていない。でもこれ位の魔方陣なら、勉強すればすぐ分かるようになるよ。魔法学や魔方陣学は奥が深いけど、理解すれば簡単なんだ。奥へ奥へ行くなら、やっぱり難しいけどね」
黒いファイルを閉じて、チョークで書いた魔方陣を消す。それから前を向いて。
「君たちは魔力を持っている。能力を持っている人も居る。――あ、魔力と能力の違いを分からない人も居るかな? それじゃあ説明しようか。時間もあるしね」
山本は魔法、能力と文字を書いて、その二つの間に縦線を一本書いた。
「魔力、と言うのは魔法を扱う力だ。魔法、と言うのは、魔力を持っている人間全てが使える。勿論魔力量や適正などの関係で使えない魔法もあるけど、理論上は、魔力を持っていれば全ての魔法が使えるんだ。能力は違う。能力、というのは個人個人によって違うんだ。持っていない人間も居る。だけど、魔力を持っていて能力も持っている人間は居るけど、能力を持っていて魔力を持っていない人間は居ない。魔力は能力ありきなんだ。この学園では、そうだなあ、能力者の方が少し多い。一概に言えないけど、能力は魔力より強い。殆どだ。例えばさっきの炎。魔力を炎に変換する術だね。もし炎を発現させて操る能力者が居るとする。そうすると、同じエネルギー量で魔力で出した炎と能力で操られる炎。必ず魔力で出した炎が負ける」
山本は黒板に「魔法<能力」と書く。
「同じ炎の性質を持つ術で同じエネルギー量の魔法と能力がぶつかれば、間違いなく能力が勝つんだよ。魔法が能力に勝つにはどうすればいいか? 一つは魔力量を多くすることだね。そうだなあ、魔力と能力のエネルギーをリンゴとする」
学園長のことだね、と微笑みながら、魔法と書かれたところにリンゴを一つ、能力と書かれたところにリンゴを一つ描いた。
「先ほど言ったとおり、これだと同じエネルギー量だ。能力は魔法に勝ち、魔法は能力に負ける。でも、」
山本は魔法の方にリンゴを四つ書き足す。魔法エネルギーのリンゴが五つ、能力エネルギーのリンゴが一つ、と山本が言った。
「これだと、魔力が勝つ。エネルギーの量が違うからね。でも、これは凄く非効率的だ。すぐに魔力切れを起こしてしまう。効率のいい方法は、相性のいい魔法を使う事。ジャンケンみたいなものだね。炎に弱いのは? 水だ。水の魔法を使えば、注ぎ込む魔力はリンゴ二つ分で済む。これで、魔法は能力に勝てる。まあでも、それでも圧倒的に無能力者が不利、ということは変わらないね」
文字やリンゴを全て消して、両手をぱんぱんと叩いてチョークの粉を落とす。
「このクラスにも魔力しか持たない、能力を持たない、無能力者の人が居るね。正直に言うけれど、この学園で無能力者に対する風当たりは強い。無能力者差別みたいなものだよ。でも大丈夫だ」
実はね、と山本は微笑む。
「私はこの学園の教師陣で唯一の無能力者なんだ。だからこのクラス内で無能力者差別は許さないし、この学園内でも許さない。もしそういう事があれば、私の所へ来てください。学園長が言っていたでしょう――私が、殺しますよ」
二十秒ほど沈黙が続いて、冗談です、と微笑む。山本スマイルだ、と陣織は思った。
「さて、それじゃあ自己紹介とかは終わり。事務連絡に入ります」
ファイルに挟まっていたプリント類を机でとんとん、と整えて、それぞれの机の列の一番前の生徒に配っていく。山本は配っていく途中に、後ろを向いている生徒を発見する。――七臣だ。名簿で名前を確認して、「七臣くん、前を向いてね」と注意する。
七臣は前を向かない。「七臣くん?」と山本は問いかける。名前の読みが間違っているのかな、ともう一度名簿を確認する。名前の読みが合っている事を確認して、もう一度問いかける。
「七臣くん」
七臣はがたん、と机を鳴らして前を向いて。ピアスが揺れる。しまった、という顔をして。
「あ、はい。すいません。えーと……キャ、キャサリン先生?」
「山本です」
「すいませんキャサリン先生」
「私は山本です。事務連絡をするので配られたプリントを後ろに回して、プリントに目を通してください」
「分かりましたキャサリ「山本です」」