待ち人
『祥子さん、今日は遅いなぁ……』
「もうそろそろ帰ってきますよ。夕飯の時間だし」
ベランダから、祥子さんが帰ってくるのを待ちわびていた。いくら夏で日が長いといっても、もう空は赤みを増してきている。
『目、痛くない?』
誰かに見られたら説明が面倒臭いと言い、霊体になった二人も、俺に付き合ってかベランダで外を眺めていた。ベランダの手摺りにもたれ、三人並んで……正しくは四人で、祥子さんの姿を探す。
「へーき。彼方に言われたとおり、こすらず冷やしたら痛くないし」
ただ流れ出るままにしていたのがよかったのか、長く沢山泣いたにも関わらず、目はほとんど赤くなったり腫れたりすることはなかった。
夕方の風は、少しだけ湿気があって、けれど爽やかで、ぬるい。色を少しずつ変えていく空と太陽を見て、逸る気持ちが体をそわそわと落ちつきなく動かす。
紙袋には、手紙とチョコプレートについていた五色の蝋燭を入れた。冷蔵庫には、出番を待つケーキが箱ごと入れられている。
ぱらぱらと、歩いてはそれぞれの家に吸い込まれていく、さまざまな頭を目で追い掛ける。目当ての頭は、まだのようだ。
『あ、あれ晃くんじゃない?』
杏が指差した先、木々の隙間から一瞬見えたのは、確かに晃っぽい。もう一度、目を凝らして見れば、たしかにあの頭は晃だと思った。
「塾って午後一杯やるんだな。今時の小学生は大変だなぁ……」
遊びたい盛りだろうに、あんな小さな頃から塾に缶詰らしい。左腕を枕に、下を覗き込みながら、つい言葉が口を突いて出た。
『明日から学校よね、小学生は』
「俺はまだ夏休みだけどな」
『大学は夏が長いねぇ』
「まぁ、せいぜい課題と集中講義に励めってことなんでしょうがね」
そう答えたら、思わず苦笑いが漏れてしまった。夏休み後半には集中講義がばっちり入っていて、俺の実質的な夏休みは九月の頭までだ。大学生は、思ってたよりも暇じゃないし、想像していたよりも自己選択が迫られる。なんとなく、ではやっていけない。
晃の頭が、マンションのエントランスに吸い込まれるのを見送る。その後もいくつかの通り過ぎていく頭を見送った。
『あれではないですか』
彼方がすい、と指差した方向。ショートカットの、長い影を供にして歩く女性。ちょっと遠すぎて、顔が判別できない。ベランダから見ると、まだ米粒くらいのサイズなのだ。
『あ、祥子さんだ』
義幸さんの声が、心なしか弾んでいる。あれほど小さくても、義幸さんにはわかるらしい。
「はぁー……あんな米粒みたいなサイズで、よくわかりますね」
『それは愛の力、よね?』
茶化す杏の言葉に律儀に顔を朱に染め、義幸さんは頭の後ろに手をやる。何か口の中で呟いているが、明確な言葉にはせずにそのまま噛み潰している。
『晃、喜んでくれるかな』
「絶対喜んでくれますよ。最高の誕生日プレゼントだと思います」
そわそわと落ち着かない気持ちは、義幸さんの方が上のようだ。世の中の父親が皆、こんな風に子供のことを心から思って愛してくれればいいのに。自分にはない存在だから、その家族に向けられる真っすぐな愛が、俺には少し眩しかった。
人影が近づくにつれ、俺でも祥子さんだと判別できるようになった。マンションのエントランスに吸い込まれるのを確認してから、部屋に戻った。平行を保ったまま箱を冷蔵庫から取り出し、紙袋に入れる。手紙は入れた、蝋燭も入れた、ケーキにプレートはちゃんとセットしてある。
「よし、忘れ物なし」
指差し確認で最終チェックをし、なるべく揺らさないよう、斜めにしないよう細心の注意を払い、玄関に向かう。 手近なサンダルを履こうとしたら、丁度足音がこちらに向かってきていた。慎重に動いていたからか、来るのが予想よりも早かった。
ドアアイから廊下を覗くと、疲れた顔の祥子さんが通り過ぎた。サムターンをひねり、ドアノブに手を掛けて押し開ける。祥子さんは今まさに鍵を差し込もうとしていたところらしく、目を丸くしたまま固まってこちらを見ている。
「こんばんは」
「こ、こんばんは……。類くん、どうしたの?」
ぽかん、とした表情のままの祥子さんは、前よりも少し頬が痩け、窶れていた。
「今日、晃の誕生日ですよね」
「あ……そうね、類くんよく知ってたわね」
「それで、迷惑でなかったら、ケーキ作ったんで……もしよかったら、どうぞ」
そっと、祥子さんの前に紙袋を差し出す。祥子さんはますます目を丸くし、紙袋を見つめる。
「類くんが作ってくれたの? 買い忘れてて、さっき思い出してどうしようかと思ってたの」
突き出した手から、祥子さんの手に紙袋が渡る。
「ありがとう、いただくわ。晃もきっと喜ぶわね」
そこで初めて、祥子さんの顔がゆるんだ。細められた目は、愛おしそうに紙袋を見つめる。
「じゃあ、失礼します」
「本当にありがとうね、類くん」
頭を下げ一礼してから、自分の家に戻った。扉を閉め、鍵を締めたところで、緊張の糸が切れてしゃがみこんでしまった。
「はぁ……」
これで、俺の仕事は終わりである。義幸さんの未練も、達成されたことになる。
お別れの時間が、迫る。
『さ、太田義幸さん、冥界に行きましょう』
『……そうですね、行きましょうか』
杏に促され、義幸さんが体から出ていこうとするのがわかった。まだ、もう少し一緒にいたかった。
「待った、俺も見送りに行く」
立ち上がり、義幸さんの動きを止める。
『迎えは、あと十分程で来ます』
胸ポケットから取り出した懐中時計で、彼方が時間を確認している。
「場所は?」
『今朝の公園です』
「よし、行こう」
鍵を持って、家を飛び出した。
公園まで、歩いて七分くらいだろうか。夕日に満ちた赤い公園には、人影はもう無かった。いつのまにか実体に戻っていた二人が、横目で時計を気にしている。
『もう、出るよ』
そう言って、義幸さんが体から出る。体の中に感じていた存在が急にいなくなり、心にぽっかりと穴が開いたような気持ちになる。夕日に透ける義幸さんは、深く深く、俺に一礼をした。
『ありがとう、類くん。本当に、ありがとう……』
「義幸さん……顔、上げてください。そんなすごいこと、俺、出来てませんから」
『ありがとう……最後に、やり残したことが出来て、僕は本当に幸運だったよ』
顔を上げた義幸さんの目元が、夕日の加減かきらりと光った。満面の、穏やかな笑みが、義幸さんを包む。俺もつられて、頬がゆるんだ。
「来たわ」
天を仰いでいた杏の声に弾かれるように、二人で空を見上げた。
赤い海を走ってきたのは、一台の黄色いタクシー。空飛ぶタクシーは、エンジン音をほとんどさせず、ふわりと花びらが落ちるときのように衝撃も音もなく、着地した。
「…………何、これ」
「だからお迎え。今回はタクシーなのね」
あの世のお迎えは、タクシーなのか?
理解に苦しんでいると、運転席と助手席から人が降りてきた。運転席からはすらりと背の高い、蜘蛛みたいに四肢の長い、襟足が長い黒髪の男が。助手席からは背の低い、中学生みたいな……男か女かわからない中性的な、肩で切り揃えた銀髪の人が。二人とも揃いの、タクシー運転手が来ているような深緑の制服と帽子を身に纏い、白い手袋をはめている。右耳から、イヤホンマイクをしているのが覗いた。
「お疲れさまっ! 彼がバイトくん?」
子供特有の高い声で、銀髪の方が喋りだす。声を聞いても、どちらの性別かわからない。
「そ。秋月類」
「へー。よく見つかったねぇ!」
興味津々といった態で、無邪気に顔を覗き込んでくる。
「対象は?」
地を這うような低い声で、黒髪の男が簡潔に喋る。
「彼です。太田義幸、三十九歳」
彼方が手で義幸さんを示し、紙を一枚黒髪の男に手渡す。ROBOのコンビといい、お迎えのコンビといい、冥界は凸凹コンビに仕事をさせるのが主流なのだろうか。
「じゃあ、行きましょっか!」
銀髪の方が後部座席のドアを開け、義幸さんを促す。
『はい』
義幸さんは素直に乗り込み、ドアを閉められた後、窓越しに頭を下げた。お迎えの二人も乗り込むと、音もなくタクシーは浮き上がり、空の彼方に向かって走り去っていった。小さくなるタクシーを、見えなくなるまでそこに立ったまま見送った。
“あの世でケーキを作りながら、君のことを待ってるよ。”
手紙の最後の一文をふいに思い出し、鼻の奥が少しつんとした。
「じゃ、あたしたちも帰るわね」
「あ……うん」
夕日を背に並んだ二人の顔が、暗くてよく見えない。このまま夢だといって、二人とも消えてしまう気がした。
「どうぞ」
彼方が、四角い何かを差し出した。受け取ったそれは、板チョコだった。
「甘いものは疲労によく効きますので」
そう言って、二人は夕日に向かって歩き出す。そのまま見送っていると、ふいに杏が振り返った。
「バイト代、それだからねー!」
叫びながら指差された物体は、先程渡された板チョコ。それが、つまり板チョコが、今日のバイト代?
待て、聞いてないぞ。
「は!? 何だよそれ!」
「だってうちの会社、出来たてで貧乏なんだもの!」
叫び返したらさらに叫び返され、唖然としているうちに、二人は去ってしまった。赤色に満ちた公園に取り残されたのは、俺と、板チョコ一枚。カラスも鳩も姿はなく、既に家に帰ったのだろう。
「……バイトじゃなくて、ボランティアじゃん」
俺の愚痴は、板チョコだけが聞いてくれた。




