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垂直落下の祈り



 仕事は軽快な着メロとともに、電波に乗って突然やってきた。

 通話ボタンを押して開口一番、埜村杏が指定してきたのは、自宅近くの小さな公園。場所を指定した後に『明日空いてる?』と聞いてきた。順序が逆じゃないだろうか。

 今日で丁度、夏休みだけの短期バイトも終わりになる。明日の予定表は、まっさら。特に断る理由はなかった。だくと返答すると、じゃあ十時にね、と軽いノリで返された。

 ツー、ツー、と音がする携帯と睨めっこをし、冥界の他の住人も皆、こんな感じなのだろうかと不思議に思った。





 八月最後の日。

 宿題をやっていない子供は追い込みで頑張っているのだろうし、早めに終わらせた子供はのんきに遊んでは終わってしまう夏休みに物憂げになって、また始まる日常を待っているのだろう。

 俺がやってきたのは、近所の公園。いまどきの子供はクーラーの効いた部屋の中でゲームをやっているのか、はたまた塾に通わされているのか、公園で遊ぶ人影は少ない。折角アスレチックやら滑り台やらブランコがあるのに、もったいない。そんなことを考えながら見た腕時計は、指定された時間の五分前を指している。

 よし、いつでもこい。

 頭にソーラーパネルがちょこんとついた背高のっぽの時計が見える木陰で、ROBOの二人を待つ。頭上からは蝉の鳴き声が雨霰あめあられと降ってくる。その声も夏の盛りよりは少なくて、道端に転がる蝉の末路を見かけると、もう夏も終わりかとしみじみ思う。まぁ、太陽が殺人的な強さなのに変わりはないが。少し汗ばんで不快なTシャツの襟元を摘みあげ、ぬるい空気を送り込む。


「おまたせ」


 にこにこ……いや、にやにやと笑みを浮かべて、こちらに来る人影。この前会ったときと服装も髪型も変わらない、埜村杏だった。


「埜村さん」


 姓を呼んだ途端、ぴたりと足を止めてしかめっ面になった。


「え、何その他人行儀。杏でいいわよ」

「杏……さん」

「呼び捨てにしてよ。さんづけされると何だかこしょばゆいわ。もちろん彼方もね」

「じゃあ、杏。彼方は?」

「今回の対象者を連れてくる係。あたしは類の係」


 係って、俺は飼育されている動物じゃないんですけど。心の中で一人ごちる。

 太陽光線が痛いのか、杏はそそくさと俺の隣に並び、木陰で一息ついていた。


「あーあ、暑い。だから日本の夏ってイヤなのよ」

「その体、暑いとか感じるんですか?」


 ハンカチで、白く細い首筋に玉のように浮かぶ汗を拭く様は、彼女が死人だと思うと妙な光景だ。


「もちろんよ。冥界特製の体は感覚もあるし、霊体になっても感覚はあるのよ」

「え、霊って、感覚ないんですか?」

「ないわね。だってそれを感じる(うつわ)がないんだもの。痛いとか暑いとかは現世にいるかぎり、無縁ね」

「そんなものですか」


 まぁ、壁を擦り抜けるたびに痛かったらたまったもんじゃないだろうが。そのままぽつりぽつりと話し、蝉の歌声をBGMにして、木を日傘代わりに使用して彼方と対象の幽霊とやらを待った。


「浮遊霊を体に入れるって、俺の体の中はどうなってるんです?」

「類の場合は、そうね……飛行機のコックピットみたいだったわ」

「は?」

「普通なら一つの操縦席が、二つあるの。基本的には類が操縦桿そうじゅうかんを握っていて、でも類が操縦桿を霊に渡せば、類の体を霊が直接使えると思うわ。席に座っていれば感覚を共有することも出来るしね」


 あの彼方の拳骨は効いたわ、と顔をしかめて杏は呟く。あの目を閉じたときに感じた安楽椅子に座っているような感覚と、隣から覗き込んでいた杏はそういう事だったのかと納得する。納得はしたが、何故俺の体がそういう風に出来ているのかは、判然としない。


「お待たせいたしました」


 木の陰から声がかかり、振り向くと彼方が立っていた。その奥に、向こう側にあるシーソーが透けて見える体を持つ、霊。近づくにつれて明確になる小太りな体、人のよさそうな顔つき。白い制服と帽子を身に付け、赤いバンダナを首に巻いていて。


「『あ』」


 おもわず、互いを指差してしまった。


「義幸さんじゃないですか」

『あれっ、類くんじゃないか』


 まるっこいウインナーみたいな指が、俺を指差す。その指の持ち主は、ついこないだ亡くなったばかりの義幸さんだった。


「えー、本日のお仕事の内容をお伝えします。こちら太田義幸さん、三十九歳。一週間ほど前に亡くなられました。太田さんの未練は、本日誕生日である息子さんの晃くんを祝ってあげられなかったこと、だそうです」


 杏が義幸さんを手で示し、ミルクチョコレート色の手帳見ながら仕事内容を読み上げる。


『あの、毎年晃にはケーキを作ってて、今年は直前で祝えないまま死んじゃったからね……死んだのに我儘言うなんておかしいとは思うんだけど、どうしても最後に祝ってやりたくてね……』


 照れたように顔を伏せ、頭を掻きながら言い訳めいたことを口にする、義幸さん。生前と、何ら変わらないその仕草、言葉、表情。なのに、もういない人だなんて。


『類くん、僕に体を貸してくれるってことだけど……そんなことできたんだね。知らなかったよ』


 世の中は知らないことばかりだなぁ、と目尻を下げて笑う義幸さん。

 何故、笑えるんだろう。死んじゃったのに。もう、晃にも祥子さんにも、そこにいても気付いてもらえないのに。

 胸が、ぎりぎりと万力で締め付けられて、言葉は全部詰まって出てこなかった。


「はい……晃の誕生日、毎年祝ってましたもんね」


 これから先も、ずっとずっと祝ってほしかった。もう、叶わないことだけど、願わずにはいられなかった。


「貸します。俺なんかのでよければ、使ってください」


 うまく、笑えただろうか。きっと、下手くそな笑顔になったはずだ。だって、見なくても失敗したのが何となくわかる。


『……ありがとう、類くん。遠慮なく、一日貸してもらうよ』


 そう言う義幸さんは、清々しい笑顔でそこに立っていた。





「小麦粉なら家にありますよ。卵と牛乳と砂糖も」

『じゃあ無塩バターと製菓用のチョコとバニラエッセンスとベーキングパウダー……あぁ、チョコのプレートも頼むよ』


 目の前には、ずらりと色とりどりの製菓用品が並んでいる。ナッツ類だけでも種類が豊富で、そこにチョコスプレーやら粉砂糖やらが並んでいるものだから、目当てのものを探すのにも一苦労する。

 製菓用品売場で、深緑色をしたスーパーの籠を持って品定めする、独り言の多い男子大学生。長閑のどかな夏のスーパーに似合わない光景なこと請け合いだ。


「肝心の生クリームとフルーツはいいの?」

「それは後で。傷んだら困るし」


 どのチョコレートがいいか見比べながら、茶々を入れる杏に答える。隣に立つ彼方は、興味深そうに棚に並ぶチーズケーキの素を見ていた。

 いくつかあるうちから、手頃なものを一つ手に取る。普段口にするチョコレートより艶もなく、ごろごろと不揃いの欠けらで放り込まれたそれは、正直不味そうだ。


「このチョコでいいですかね、義幸さん」

『少し多いかもしれないね……余ってもいいかな?』

「大丈夫です、どうにかなりますから」


 一つ一つ、既に体に憑いた義幸さんに確認をとっては籠に入れる。誰か俺じゃない人が体の中にいるというのは不思議な心持ちだが、外見に何ら変わりもなければ、俺の体が乗っ取られるということもない。ただ、頭の中から声がするか否か、というだけである。

 ちなみに、考えていることは義幸さんには伝わらない。もし会話をするなら、いちいち俺は口に出さなければいけないらしい。反対に義幸さんの声は俺の体に憑いている限り、霊感がある人にも聞こえないらしいが、ROBOの社員が右耳に装着しているイヤホンマイクは、この本来聞こえないはずの声を拾ってくれるらしい。どんな仕組みなのか、さっぱり不明だった。だけど、お陰でいちいち義幸さんが言ったことを通訳のように言わなくてもいいのは、大助かりだ。


「型はどうするんですか」


 今度はプリンの素を凝視している彼方が、質問なのか独り言なのかわからないが、呟く。手には取らず綺麗な姿勢で立ったままのその姿は、はっきり言って変だ。気になるなら手に取って見てみればいいのに。


「あ、そうよね。型が無かったら焼けないじゃない」


 女の子の常識なのだろうか、杏はお菓子作りに関してある程度の知識があるようだった。

 お菓子なんて生まれてこのかた作ったことのない、お菓子作り若葉マークの俺にしてみれば、心強い。


「え、そうなの? あったかな、型なんて……」


 だから、型なんて言われても、どんな物体なのか、さっぱり見当がつかなかった。そもそもお菓子は買うもので、自分で作ろうなんて思ったこともないのだ。


『そうかぁ、困ったな……型がないと流石に僕でも焼けないなぁ』


 苦笑して、頭の後ろに手をやる義幸さん。見えないが、今そうやったな、と感じた。


「んー……とりあえず材料買って、一回家に帰って型を探しましょう。無かったら買えばいいし」

『本当に色々と買わせたりして、申し訳ないね』

「いえ、俺の金じゃないし」


 小声で答え、ちら、と隣の二人を見る。

 バイトにかかる経費……今回の場合はケーキを作るのに必要な材料費になるが、これはすべてROBOが払ってくれるらしい。なんと太っ腹な会社だ。現世と冥界では、お金に対する感覚が違うのだろうか。こうやって実際にバイトが始まっても新しく知ることばかりで、そこからまた新たな謎が増えるから、冥界に関連する謎は減らないどころか、逆に増える時さえある。無限ループにまんまと嵌められた気が、しないでもない。


『いや、でもこうして死んでも何かが出来るなんて、想像もつかなかったよ』

「俺もです。自分にこんなことが出来るなんて、思いもしませんでした」


 互いの姿は見えないけれど、二人でこっそりと笑いあう。笑いながら、おたんじょうびおめでとう、と上部に小さく書かれたチョコプレートを手に取る。一緒に入れられた蝋燭とチョコペン、動物型のチョコが、何故か懐かしかった。

 チョコプレートを籠の一番上に乗せると、今まで触れたことのない素材ばかりが入っていた。新しい世界を、垣間見ている気分だ。


「全部揃った?」


 籠を持つ左腕に腕を絡ませ、杏が籠の中を覗き込んでくる。軽くぶら下がられてるようで、ちょっと重い……かもしれない。


「あとはフルーツと生クリームと無塩バターかな。フルーツはどうします?」


 義幸さんに尋ねるとき、つい中空を見てしまう。

 いまだにどこに向かって話し掛けたらいいのか、よくわからない。


『桃の缶詰とオレンジがいいかな』

「了解です」


 指示通り白桃の缶詰とオレンジを二玉、籠に追加する。最後に無塩バターと生クリームを入れて、会計を済ませて店を出た。

 涼しかったスーパーから一歩外に出ると、急激な暑さで毛穴がぶわっと開いた気がした。

 足早にマンションに戻り、エレベーターに乗り込むと人心地ついた。暦の上では秋らしいが、体感季節はまだまだ夏である。ベージュ色をしたエコバッグの中に入れたチョコがこの暑さで溶けやしないかと、それが心配であった。

 八階で降り、十番目の扉で立ち止まり、鍵を開ける。母さんはもう仕事に出ていて、静寂とぬるい空気が俺たちを迎えてくれた。


「お邪魔しまーす」

「失礼します」


 それぞれ、ヒールと革靴を脱ぎ、俺の後に続いて家にあがる。そう親しくない他人を自宅にあげるなんて、中学以来だろうか。久々にあげた他人が、バイト先の、既に亡くなった人というのはなんとも奇妙な気分である。


「ケーキの型ってどんなやつです?」

『こう、浅い円柱型というか……金属製なんだけどね』


 ジェスチャーでサイズや形を示してくれて、なんとなくだが伝わった。

 リビングから真っすぐ右手にあるキッチンに向かい、とりあえず腐りそうなものを冷蔵庫に詰め、上部に備え付けられた棚を開けてみる。普段それほど使わない調理器具なら、大抵この棚に入っている。左から順番に開けてみると、一番左には大学になってからあまり使わなくなった弁当箱やすき焼き鍋と卓上コンロ。真ん中にはボウルや蒸し器など、一応使うもの。一番右に、土鍋と、ビニールに包まれた銀色の物体が入っていた。


「これか?」


 少し手を伸ばして下ろしてみると意外と軽く、ひやりとした感触に金属製なのだとわかった。


『あぁ、それはパウンドケーキの型だね』

「……みたいですね」


 手の中にあるそれは牛乳パックを倒して上部を切り取ったような長方形で、普段見ている丸いホールケーキの型とは到底思えない。こんなものが家にあったのかと思うのと同時に、そういえば昔、母さんが作ってくれた記憶があるなと思い出す。確か、当時苦手だった、色鮮やかなオレンジ色をした人参ケーキだ。

 その奥にはクッキーの細々した型を入れたケースやはかりがあるだけで、ケーキの丸い型は見当たらない。


「んー、ないみたいですね。ケーキを入れる箱もないし、買いに行きましょうか」

『悪いね、類くん』

「いえ。二人とも、行こう」


 興味津々といった態で家の中を歩く杏と、廊下に通じる扉の前から動こうとしない彼方に、キッチンから声をかける。軽やかな足取りでこちらに来る杏と、静かな所作で動く彼方は対照的で、二人並べて見ると面白かった。またあの暑い外に出るかと思うと少し憂鬱だが、からっとしていて湿気が無いだけましだと思おう。二人を先に扉の外へ出し、戸締まりを確認して家を出た。





「こんな小さい型、あるんですね」


 ホームセンターからの帰り道、太陽光と蝉の声はやはり間断なく降り注いでくる。なるべく日陰を選んで影踏みのように、人気のない歩道を歩いていく。


『今は少人数の家庭が多いからね、五号で十分っていう人が多いんだ』


 右手に持った袋の中に入ったケーキの型は、直径十五センチ。俺からすれば、手で持てるくらいの、小振りなホールケーキである。小学生の時、義幸さんの働くケーキ屋で見た苺のホールケーキは、自分の顔くらい大きかった気がした。……あの頃の俺が小さかっただけなのだろうか。


「これくらいのサイズなら、一人で食べれそうよね」


 後ろを歩いていたはずの杏が、いつのまにか隣に来ていた。彼女も日陰に入れるように、少し端に寄る。


「え、一人で?」

「ええ、一人で」

「……そう、ですか」


 いくら小さいとはいえ、一人でホールケーキひとつ食べるのを想像したら、流石に胸焼けがしそうだった。杏の胃袋はどうなっているんだろう。そもそも、普通に食べ物を摂取できる体なのだろうか。


「その体、食べることは出来るの?」


 後ろで手を組んで歩く杏に、問い掛けてみる。ROBOでお茶を飲んでいたのは覚えているが、実際はどうなのだろう。


「もちろん。ただし、霊体の時は冥界の食べ物しか食べれないけどね」

「ふぅん……」


 霊も、食事をするらしい。冥界の食べ物って、どんななんだろう。霊と一緒で、透けてるのかな、やっぱり。


「現世の食べ物は、我々のような体を持つ死者にとって、嗜好品と同様の扱いになっています」


 後ろを歩く彼方が、補足説明を入れてくれる。


「じゃあ、食べなくてもいいんだ。冥界だと霊も食事はする?」

「体を保つために、現世と同様に食事を摂ります」


 その静かな声に、惹かれるように足を止めて振り向く。気付いたのか、彼方も止まった。


「……死んでも食からは逃れられないんだ」

「存在するには、それだけの対価が要りますから」


 そう言って、眼鏡を押し上げるその様がすごく似合っていて。こんなインテリのような行為が似合う人はそうそういないな、と思った。


「そっか……ありがと、彼方」


 礼を言って前を向くと、にこにこと笑って聞き手に回っていた義幸さんが、小さな声で呟いた。


『じゃあ、冥界でもケーキ屋をやろうかな』

「あぁ、いいですねそれ。義幸さんならどこでも美味しいケーキ、作れますよ」


 義幸さんのケーキなら、きっと誰からも美味しいと言ってもらえるはずだ。冥界でもケーキを作る姿を想像したら、なんだか心が温かくなった。自然と顔をほころばせ、歩を進める。太陽も随分と高い位置にいて、腕時計で確認したら正午も間近な時刻になっていた。


「杏、感覚って共有できるんだよな?」

「そうよ」

「義幸さん、お昼何か食べたいものあります?」

『え?』


 やっとマンションが見えてきた。冷蔵庫の中身を考えながら、口を動かす。昨日買い物に行ったばかりだから、材料は大体揃っているはずだ。


「美味しいって感覚が俺と共有できるらしいから、義幸さんの食べたいもの食べましょう」

『食べたいもの、かぁ……そう言われると悩んじゃうなぁ』

「あはは、そうですよね」


 マンションの入り口が見えてきて、マンション名の書かれた金属板の前、植え込みの端に座る、見知った小さな人影を見つけた。日が照りつけて暑いだろうに、そこから動かない。若干の不安を抱き、足を速めた。

 鮮やかな緑のTシャツにベージュの半ズボン、足元はサンダルというラフな出で立ちで俯いている、少し日焼けした肌の持ち主を、俺は知っていた。


『あたしたち、一旦あの子には見えないようになるわね』


 耳元でした声に振り向くと、二人とも半透明になっていた。気を利かせて、幽体になっていてくれるらしい。確かに関係を聞かれたらややこしいことになりそうだから、有り難かった。頷くことで返事にかえ、更に足を速めた。


「晃、こんなとこにいたら日射病になるぞ」


 太陽光ですっかり熱されて焦げそうに熱い短髪の頭に、掌をぽんと乗せる。暗い表情で顔を上げたのは、義幸さんと祥子さんの一人息子である晃だった。


「……類兄。買い物?」

「あぁ、うん。晃、こんなとこで何やってんの?」

「……暇だから、ぼんやりしてた」


 普段の快活さはすっかり影を潜め、今の晃は幽鬼のように重い空気を纏っていた。あれほど慕っていた父である義幸さんを亡くし、元気な方がおかしいだろう。


『……晃……』


 義幸さんの声が、胸に突き刺さる。絶対に届かないその声は、頭の中で小さく響いて、闇の奥に消えた。


「祥子さんは? もうすぐ昼だし家に入ろう」

「母さんはパート。昼は菓子パンが用意してある」


 億劫そうに立ち上がった晃は、適当に尻を払い、必要最小限の言葉を言い、くるりと背を向けた。その小さな背中が、痛々しかった。その細い肩に一体、どれくらい重いものを背負っているのだろう。


「晃。……昼飯、うちで食べないか」

「類兄んちで?」

「そう。今から作るところだし、一人分も二人分も一緒だしさ」

「…………」


 でも、と言いたげな瞳が、ゆらゆらと泳ぐ。あと一押ししたら折れるだろうか。


「一人で食べると、俺も寂しいし。嫌じゃなかったら、付き合ってくれると嬉しいんだけどな」


 反応を少し待つと、振り向いた顔は先程よりも少しゆるんでいた。


「……しょうがないなぁ。類兄って寂しがりやだったんだな」


 少し照れて笑う晃に、いつものとまではいかないが、生気が戻る。少しでも笑えるうちは、大丈夫だろう。虚ろだった瞳の奥に僅かだか光があることがわかり、こちらも頬がゆるんだ。


「教えてなかったっけ? 俺、兎なの」


 隣を歩く晃の背中に手を軽く添え、エレベーターへ向かう。


「兎? なんで?」


 疑問符を付けて返され、今の小学生は寂しい兎がどうなるのか知らないのか、と思い至る。たった七歳の差に、かなりのジェネレーションギャップがありそうだ。


「兎は寂しいと死んじゃうんだよ。知らない?」


 八階のボタンを押している時に、杏と彼方が静かにエレベーターに入ったのをさり気なく確認して、閉ボタンを押した。


「何それ?」

「そっか、今の小学生は知らないのか。まぁ、迷信らしいけどな」

「なんだぁ、類兄のウソつき」


 上昇するエレベーターの中で、晃の気分も少し上昇したようだ。屈託のない笑顔を見て、俺も義幸さんも安堵した。杏も、やわらかく笑っていた。

 八階に着いて十番目の扉の前に立ち、鍵を取り出す。


「おっ邪魔っしまーす」


 扉を開けて一番に晃を入れ、わざと扉を開けて杏と彼方を中に入れてから鍵を掛けた。

 隣だから間取りも一緒だし、何より家族ぐるみの付き合いでよく出入りしている他人の家だ。臆することなく晃は靴を脱いで端に寄せてから、リビングへ行った。


『類』


 晃には聞こえないだろうが、何故か杏は耳元に口を寄せ、小声で話し掛けてくる。


「ん?」


 自然とつられてこちらも小さくなる。俺の声は晃に聞こえるから、限界まで小さくしなければいけないのだが。


『別にあたしたち、今は霊体だから、壁の通り抜けなんて朝飯前よ』

「あ、そっか。忘れてた」


 見えない、というだけではなく、本当の幽霊だったんだよな、この二人。あまりにも生き生きしているせいか、時々本当は生きているのではないかと錯覚しそうになる。そんな二人は、幽体になっても律儀に玄関で靴を脱いでいた。二人の靴は、持ち主にあわせて半透明のまま玄関に揃えられて並んでいる。面白い光景だ。笑いを堪えて見ていたら、リビングの方から晃に呼ばれた。返事をし、俺もスニーカーを脱いでリビングへ向かった。


「何?」

「お茶飲んでいい?」

「手洗ってからな」

「はーい」


 ばたばたと忙しなく動き回る晃の足音は、静かな我が家に活気を取り戻す起爆剤のようだった。リビングとベランダを繋ぐ窓を開けると、からりとした風が室内の淀んだ空気と入れ替わるのを先を争うようにして、どっと流れ込んでくる。真夏のじめじめとしたべたつく空気はどこかへ行ったようで、今は秋のように湿気の少ない空気だ。こういう暑さなら、嫌ではない。


「晃は何が食べたい?」


 食卓に置きっぱなしだったエプロンを着けながらキッチンに移動し、ちょうど戻ってきた晃にコップに入れた麦茶を渡し、ついでに問い掛けてみた。コップを受け取りながら、晃は悩むことなく答えを口にした。


「オムライス!」


 義幸さんが瞬間、虚を突かれたような顔をした。かと思ったら、次にはこみあげてくる笑いを止められないといった様子で、盛大に笑いだす。脳内に爆笑が響き渡り、意味もわからず困っていたら、一息で飲みおわった晃が不審そうな顔をしてこちらを観察していた。


「…………無理?」

「や、大丈夫。テレビでも見て待ってな」


 コップに作り置きの麦茶を再び注いでやり、リビングへ行くように促す。大きく頷くと、晃はそそくさとソファに座ってテレビを点ける。それを確認してから、ケーキの型を晃には手が届かない備え付けの棚にしまい込む。そうしてから、オムライスの材料を取り出すために冷蔵庫に向かった。


「笑い終わりましたか?」


 テレビの音に紛れて聞こえないだろうと踏んで、自分が出せる限界の最小ボリュームで、義幸さんに話し掛ける。義幸さんはまだ笑いすぎて苦しそうにしていたけれど、なんとか喋れる迄には戻っていた。


『悪いね、爆笑、しちゃって』


 野菜室から人参を取り出し、冷凍庫からグリーンピースと鶏もも肉を発掘する。


「いえ。でも何でですか?」


 冷凍庫の扉を閉め、赤いネットに入れられてぶら下がっている玉葱たちの中から、一番小振りなのを選んで取り出した。材料を一通り揃え、ハンドソープをホイップのようによく泡立てて、手首まで入念に洗う。


『いや、実はね……晃が言ったオムライス、僕の好物でもあるんだよ』

「あ、それで」


 泡をきれいに洗い流し、玉葱を持って茶色の皮を剥いていくと、中から純白のつるりとしたものが顔を覗かせる。


『よく祥子さんに作ってもらってね、二人で多い方を取り合いになったりして。懐かしいなぁ……』

「……祥子さんの味とは違うと思いますけど、腕によりをかけて作らせてもらいます」


 玉葱の頭とお尻の不要な部分を切り落とし、縦半分に切る。

 切り口を下にして、縦に細くスライスのように切った後、向きを変えて先程の切りこみに垂直になるように包丁を小刻みに下ろしていく。気持ちのいい音とともに、ぱらぱらと玉葱が小さなサイコロ状になって俎板の上に積み重なる。


『それは楽しみだなぁ。冥土のいい土産になるよ』


 包丁を入れて数呼吸後、鼻の奥をつぅんと刺激されて視界が歪んだ俺は、急いで換気扇のスイッチを押す羽目になった。





「類兄ってプロみたいだな」


 楕円状に皿に盛ったチキンライスにオムレツをそっと乗せていると、匂いにつられてか晃がキッチンにやってきた。ふわふわと、湯気といい匂いを立ち上らせる完成手前のオムライスに、晃と義幸さんの目が輝く。


「自分で開く?」

「うんっ」


 ナイフとスプーンを手渡すと、オムライスの乗った皿を持って慎重に食卓に移動する。

 待ちきれない様子の晃が席に着いてから、目の前に皿を置いてやった。


「わかる?」

「テレビで見たから」


 銀色のナイフで、黄色いきめの細かい肌の上へ横一文字に線を入れる。すると待っていたといわんばかりに、黄色い幕がチキンライスに覆いかぶさった。


「おぉー、本格的ー!」


 大袈裟なくらい大きな感嘆の声に、笑いが漏れた。頭の中からも同様の声がしたからだ。冷蔵庫からケチャップのボトルを取り出し、食卓に置く。


「ほら、ケチャップ。先食べてて、もう一個作るから」


 満面の笑みで頷く顔を確認してから、キッチンに戻りもう一つオムレツを作った。先程の方をかなり慎重に作ったせいか、自分の分だからと思っていたせいか、オムレツは少し歪な形でチキンライスの上に着地した。フライパンを流し台に置いて、急いで自分も食卓に移動する。晃から受け取ったナイフでオムレツを開くとき、ごくりと義幸さんの喉が鳴る音が聞こえた。はらりと開いたオムレツは少し破れていて、ケチャップ色のご飯が顔を出している。


「あちゃー、失敗したか」

「そんくらい失敗じゃないじゃん」

『類くんすごい上手だねぇ、美味しそうだなぁ!』


 自分のオムライスにぐるぐるとケチャップをかけた晃が、ケチャップを差し出しながら慰めてくれた。義幸さんにいたっては、少しくらい破れても全然気にならないようだ。


「そう?」


 自分のにも適当にケチャップをかけると、赤に挟まれた黄色と匂いが食欲をそそる。


「『いっただっきまーす』」

「どーぞ」


 三人で手を合わせ、親子の息の合った声に答えてから、スプーンを持った。ざくりと同時にスプーンを突き立て、一口分を口に運ぶ。温かな湯気とケチャップの味、卵が口の中に充満する。


「うっめー! 類兄すげーな!」

『うまい! 類くんやるなぁ!』


 そっくりな反応におもわず吹き出しそうになったが、なんとか堪えて口の中のものを胃に押し込んでから口を開いた。笑いを堪えるのが難しいが、どうにか平常の表情で答えることに成功した。


「ありがと。作った甲斐があるよ」


 もりもりと頬張って食べる晃が、ハムスターが頬袋に一生懸命ひまわりの種を詰めている様子に似ていて面白い。義幸さんもすぐに次の一口を味わいたそうだったので、スプーンに大きめに掬って自分も頬張った。


「類兄ってなんで料理上手いの?」


 もごもごと、口の中にものが入っているからか、少し不明瞭な発音で晃が質問してくる。食べるのに一生懸命で、けれど喋りたいという気持ちが伝わってきて、俺もそれに応えた。少々行儀が悪いが、食べながら。


「必要は上達の母って言うじゃん」


 ぷちん、と、グリーンピースが歯で押し潰される感触がした。コーンも入れてミックスベジタブルにしてもよかったかもしれない。でも、そうしたら黄色が多くなるか、なんて考えたりしながら噛み続ける。


「……それって、必要は発明の母、じゃなかったっけ?」


 晃は咀嚼そしゃくしていたものを飲み込んで、少々思案してから確認してきた。今時の小学生はこんな言葉をもう知ってるのかと、密かに驚く。だが、『必要は上達の母』という言葉を俺は身をもって知っていたから、あえてこう言ったのだ。


「ばれたか。物知りだな、晃は。何回も作れば上手くなるよ」

「……今度、オレにも教えてくれる?」

「俺でよければ。でも、祥子さんの味じゃなくていいの?」


 聞き返すと、忙しなく動いていたスプーンと口が止まり、ごくりと飲み下す音が聞こえた。今までの明るい空気が、急速に晃の周りから姿を消していく。地雷を踏んでしまったようだと、後悔してももう遅い。


「……母さん、父さんが死んでからよくぼーっとしてて、料理失敗することが多いんだ。だから、母さんにも食べてもらいたいな、って……思って……」


 最後の方は尻窄みになり、切れ切れになる。そうしてスプーンを持ったまま頭を垂れて、晃は動かなくなった。

 声をかけるべきか迷ったが、晃に何を言えばいいのかわからなかった。言葉を選びあぐねて何度か口を開いては閉じ、歯痒い思いを味わう。何も言えなくて、せめて気持ちだけでも寄り添いたくて、手を伸ばして小さな頭を撫でた。何度も、何度も。


「……だから、言ったのに……父さんのばか……」


 ぽつり、されるがままの晃が小さく零した言葉に、義幸さんは口を開くことはなかった。





 その後、晃は黙々とオムライスを食べ終えると、塾があるからと言い残し自宅に帰った。見送ってから食卓に戻り、空になった二つの皿を前にして、おもわず大きく溜め息を吐いてしまった。義幸さんは晃の一言のせいか落ち込んでいて、口を開かない。


「男って面倒くさいわね」


 いつのまにか実体に戻った杏が、先程まで晃がいた席に座っていた。


「辛いときは泣けばいいのに。そうしたらすっきりするわよ?」


 杏は食卓に頬杖をついて、心の奥を見透かすような目付きで微笑む。


「簡単に泣けたら苦労しないよ。小さくったって、晃も男なんだから」

「ふぅん。見栄っぱりで意地っ張りね、男って。晃くんっていくつなの?」


 呆れた様子の杏に、言いたいことはいくつかあったがやめておいた。男の考え方と女の考え方がそもそも違うのだから、いくら説いたところで衝突するだけで、互いを完全に理解し合うことはできないだろう。だけど、こういうときに自身の感情に素直な女性は少し羨ましい。きっと晃も、泣けば少しは楽になるはずだ。


「小四だから、今日で十歳かな」

「随分ませてるわね。今の子供ってあんなもの?」

「そんなもの。そういや二人は昼飯いいの?」


 皿とスプーンを流し台に持っていき、台拭きとコップ二つを持って食卓へ戻る。コップに麦茶を注ぎ、一つを杏の前に置き、もう一つにも麦茶を注ぐ。


「お腹減ってないし大丈夫。ねぇ、彼方」

「ええ」


 ソファで黒革の手帳らしきものを開いている彼方が、こちらに目を向けることなく答える。すらりとした足を組んで座る姿は、不思議なくらい様になっている。

 麦茶の入ったコップをソファの前にあるローテーブルに置き、キッチンに戻った。スポンジに洗剤を垂らして食器を洗っていたら、物凄く凝視されているのを感じた。何となく誰なのか予想はついていたが、一応確認のために顔を上げたら、杏と彼方の二人が警戒中の草食動物のように、こちらを見つめていたのは予想外だった。

 はじめは顔にケチャップでも付いているのかと思ったが、二人の目線を辿ると、首から少し下、胸あたりに集中している。不思議に思い見られているところを見たら、なんのことはない、マスタード色をしたエプロンの模様である、リボンのついた白いウサギが犯人だった。もしかして、晃がいる間も度々感じた視線の原因は、これだったのだろうか。


「……言っとくけど、このエプロンは母さんのだから。断じて俺の趣味じゃないから」


 既に誤解されているかもしれないが、一応弁解してみる。胡乱な目付きの杏、静かながらも訝しげに見つめてくる彼方。二人からの氷のように冷たい視線が変わることはなく、弁解に効果がなかったのは、火を見るよりも明らかであった。しかしこれ以上弁解するのも、かといって今更エプロンを外すのも白々しくて、諦めて食器を濯いで水切り籠に置いた。

 いつもエプロンをするときは一人だから深く考えたことはなかったが、よくよく考えたらこの光景はおかしいよな。今度、自分が着けてもおかしくないエプロンを選んで購入しようと、密かに決心する。


「義幸さん、ケーキ作りましょう。体貸しますから」


 食器を拭きながら、黙りを続ける義幸さんに声をかけてみた。


『……あ、あぁ。そうだね』


 義幸さんは急に夢から覚めたような、少しぼんやりした様子だ。晃のあの言葉を聞いてから、ずっと考え事をしていたのだろうか。


「そうだ、体の操縦桿ってどうやって渡すの?」

「んー、あたしたちも主導権がどうなってるのか、よくわかってないのよ。いたこにも聞いたりしたんだけどね」


 結構適当だな、おい。いたこに聞いたということは、この二人組で恐山に行ったのだろうか。


「悪霊ならば無理矢理主導権を奪い取りますが、浮遊霊となると……我々も過去のデータが少ないので確かなことは言えませんが、意志が関係するようです」


 いつのまにか食卓に来ていた彼方が、空になったコップを持って立っていた。


「意志?」

「ええ。秋月類の場合ですと、操縦席が二つあり、感覚も共有できるようですが、基本的には器となる肉体との結びつきが強い秋月類が主導権を持っているようです」


 食卓の上に置きっぱなしになっていたポットからこぽこぽと勝手にお茶を注ぎながら、彼方は淡々と説明してくれた。どうしてこんなに興味がなさそうなんだろうかというくらい、物静かでどうでもよさそうだ。


「あー……まぁ、俺の体だしな。それで?」

「太田義幸さん、少し秋月類の体から出ていただけますか。秋月類はソファに座ってください」


 あくまで丁寧な口調で、だけど命令形な言葉に逆らう理由は特になく、義幸さんは彼方に従い俺の体に憑くのをやめて、するりと出てきた。自分の体から霊が出てくるのを見るのは二度目だが、そうそう慣れるものではない。義幸さんがいなくなったあとの体は少しだるくて、そんなに動いたわけでもないのに疲れているようだった。俺は言われたとおり、リビングのソファに腰掛けた。

 コップを食卓に置いて、目の前に仁王立ちをした彼方は俺を見下ろしながら、耳を疑うようなことを驚くほど冷静な表情と声で宣言した。


「今から僕が秋月類の体内に入り、主導権を奪いますから」

「…………は?」


 待て、と言う間も与えずに、彼方は素早く霊体になって体に入りこんだ。


『では、失礼します』

「ちょ、まっ……!」


 言葉は、最後まで言いきれなかった。

 次の瞬間、俺の意志に反して全身から急激に力が抜け、体すべてをソファに投げ出していた。

かと思ったら、右手がゆらりと、目の高さに上がっていく。眼前にあるのは、少し骨の浮き上がった、見慣れた手の甲。誰かに糸で、操られているかのようだ。


「……主導権を奪われた感想はいかがですか、秋月類」


 俺の声が、俺の言葉ではない言葉を紡ぎ、鼓膜を揺らす。右手を引っ繰り返し、手のひらがこちらに向く。感覚を確かめるかのように、ゆっくりと握っては開かれる、俺の手。


『……何したんだよ』


 俺の出した普段より低くなった声が、声帯を震わすことはなかった。両足に力が入り、普段と変わらぬスピードで立ち上がる、俺の体。


「主導権を奪ったんです。主導権とは、意志の強さです。強い気持ち、強い願いが、体により作用します」


 食卓に向かって歩く足の裏から伝わるフローリングのさらりとした冷たさ、食卓の椅子を移動させる右手の感触。口が開いたままの杏の前に腰掛けると、左手で頬杖をつき、顔の筋肉が動いた。自分の意志とは無関係に口角が上げられる、自分の顔。


「しかし……秋月類はなかなか意志が強いようです。僕もこれ以上奪い続けられなさそうですから、お返しします」


 間抜けな顔をしたままの杏を見据え、勝手に彼方が決める。


『返すって何……』


 次の瞬間、体中の力が一気に抜けた。驚くよりも早く上半身は重力に従い、左手から顎が落ちる。そのまま万有引力に引かれて地面に落ちる林檎と同様に、真っ正面から落ちた俺の顔は大きな音を立てて、鼻ごと机にキスをする羽目になった。


「「『…………』」」


 妙な沈黙が訪れる。

 今度は自分の思ったとおりに動く体で、両手を机について、顔をゆっくりと上げる。鼻が、額が、じんじんする。


「…………彼方、お前さぁ……実践する前に説明しろよ……」


 鼻に恐る恐る触れてみたが、折れてはいないようで、幸い鼻血も出ていない。

 よかった。……いや、赤くなっているだろうし、何より痛いから、よくないか。


「申し訳ありません。体を乗っ取るのは、これが初めてなもので」


 ぶつかる前に俺の体から出ていたと思われる彼方は、あまり悪怯れた様子もなく謝罪の言葉を口にする。もともとそこまで怒っていなかったが、その冷静すぎる様子を見て、どっと疲れがきた。


「ちょ……類、大丈夫!? すごい音したけどっ!」

『るるる類くんっ、血は出てないかい!?』


 今まで茫然としていた二人が急に我に返り、わたわたと焦り慌てて身を乗り出し、俺の顔に手を伸ばす。それを大丈夫と上げた手で遮って、ついでに自分で額にも触ってみると、少し痛んだ。痛みに少し眉が歪む。


「まぁ血は出てないみたいだし……大丈夫」


 たぶん、という曖昧で二人の不安を煽る言葉は、この際飲み込んでおく。それでも何か言い募りたそうな、眉を曇らせ今にも泣きそうな二人に平気だと伝え安心させるように、笑いかける。


「体の主導権って、要は意志の強さの問題なんだろ、彼方」

「ええ」

「作る間、義幸さんに体を動かしてもらおうと思ってたんですけど、ちょっと無理そうなんで……俺に憑いてもらった上で、ケーキ作りの指導してもらえますか?」

『……あぁ、うん。でも、本当に大丈夫なのかい?』


 まだ眉を曇らせたままの義幸さんに、ピースを突き出してアピールした。


「大丈夫です。晃においしいケーキ、作りましょう」


 義幸さんはようやく眉を開き、大きく一度、首を縦に振った。





 初めてのケーキ作りは、知らないことと初体験ばかりだった。

 料理ならば経験による感覚と味見をすれば、どうにか満足のいく味が作れるが、ケーキは材料をきっちり量らなければいけないし、必ず手順どおりに行わないと失敗のもとになるそうだ。お菓子を作る世の中の女子は凄いと、心底思った。そして、こんな面倒臭い作業はもうこりごりだ、とも思った。

 そーっと生地の入った型を、予め余熱していたオーブンの中に入れる。オーブンの蓋を閉めてスタートボタンを押せば、あとは勝手にオーブンが焼いてくれる。


「ふー……一段落、ですかね」


 流し台に置いたまま放置していた沢山のボウルを手に取り、蛇口を捻る。全ての材料を一々量らなければいけないこと、それらを先に用意するために家にあったボウルが全て出払うことになったのには、正直閉口した。中には粉類を入れただけで用済みになったボウルもある。


『そうだね、お疲れさま。電動の泡立て器がないのにメレンゲを作るの、疲れただろう』

「お菓子作るのがこんなにしんどいとは思いませんでした。義幸さんも女の子も、色々とすごいですね」


 チョコ色の生地がついたボウルに水を張り、先にそれほど汚れていないものから洗う。

 先に一番汚れたものを洗ったら、他のものまで被害を受けて二度手間になるのは目に見えているからだ。


「そう? あたしは作り方が明確にわかってる方が、初心者には作りやすいと思うわよ」


 先程まで彼方と一緒にソファにいたはずの杏が、キッチンに来ていた。作っている間は大人しくリビングでテレビを見ていたが、退屈そうにしていたのは横目で見てわかっていた。


『もちろん感覚だって必要だけど、料理みたいに味と感覚と経験だけじゃ出来ないからね、お菓子は』

「計量が面倒臭くてたまんないですね」

『お菓子作りでは大事なんだけど、料理が出来る人からすればそうかもしれないね』


 ざばざばとボウルを洗っていると、布巾を持った杏が水きり籠に置いたボウルを端から拭いてくれる。いつも作るのも片付けるのも一人だから、手伝ってもらうのは少し新鮮だ。


「それにしても、プロなのにレシピ本と作り方一緒なのね。てっきりプロ仕様かと思ってたけど」

「え、そうなの?」


 またひとつボウルを水きり籠に置きながら、聞き返す。それは意外だ。杏は丁寧に水滴が残らないよう拭きながら、小さく頷く。


『誕生日ケーキは家庭の味って決めているんだ。お店の味はお店に行けば食べれるけど、僕の家の味はどこに行っても食べれないからね』

「へぇ、色々考えてるのね。……スポンジが焼けるまで時間があるけど、他にやりたいことはないの?」


 最後の一つを拭き、全てのボウルを大きさ順にして重ねてから渡してくれた。それを使う前にあった場所へ戻し、使った場所を台拭きで拭く。その間中、義幸さんは言おうか言うまいか迷っているようだった。


「義幸さん、遠慮しないで言ってください。やりたいことは全部済ませましょう」


 何度も口を開いては閉じる義幸さんの背中を、そっと押す。未練を残して冥界に行くくらいなら、俺が出来る範囲のことはすべてやっていってもらいたい。そう思うのは、少しおごりすぎだろうか。

 義幸さんはしばらく迷ったあと、意を決したように口を開いた。


『…………祥子さんにね……手紙を、書きたいんだ』


 祥子さんの誕生日に、いつも手紙とケーキを贈っていたんだ、と添えて。そう言った後、義幸さんは頬を少し朱に染め、頭の後ろに手を当てながら恥ずかしそうに笑った。

 義幸さんと祥子さんは、仲の良いおしどり夫婦だと前から思っていた。ここまで仲が良いとは思っていなかったが、とても素敵な夫婦の形だと、ねたみもそねみもなく、素直に心からそう思えた。


「……書きましょう、義幸さん。便箋と封筒、ありますから」


 電話台の引き出しを開け、のし袋や使っていないメモ帳の入った段を探す。底の方から、淡い水色の便箋と封筒が揃いで出てきた。ぽつりぽつりと、誰かの涙のように小さな花模様が散らされた便箋。


『……いいの、かな』

「いいですよ。俺、見ないように目を閉じてますから、義幸さんの文字と言葉で書いてください」


 電話の横に置いてあるメモ帳からボールペンを取り、食卓に移動する。


『え……それは……』

「体、貸します。頑張って俺から主導権、奪ってくださいよ?」


 義幸さんにそう告げ、口の端を上げながら席につき、ふぅ、と軽く息を吐く。

 先程は、急に吹き荒れた暴風に巻き込まれるように、訳がわからないうちに主導権を彼方に取られた。優しく気の弱い義幸さんが、俺から主導権を奪えるかはある意味で賭けに近いが、手紙という強い気持ちの籠もるものを書くんだ。その間、俺は見ないように目を閉じ、力を抜いて自分が動かそうと思わなければ、きっと体は俺よりも義幸さんに従うはずだ。

 ……大丈夫、きっと義幸さんは、主導権を奪える。自分に、そう言い聞かせた。祥子さんへの、強い気持ち。それを原動力に、この体を使って、義幸さんの文字で、義幸さんの言葉で、手紙を綴ればいい。

 ゆっくり深呼吸をして、肩の力を抜く。


「義幸さん、じゃあ、やってみますか」

『……あぁ、頑張るよ』


 義幸さんの緊張が、ダイレクトに伝わってくる。それを振り払うように目を閉じ、全身の力を抜く。隣に腰掛ける義幸さんの存在を感じながら、もう一度、闇の中で目を閉じた。

 しばらく、そのままの体勢だった。眠る前のような、静かで何もない安穏とした世界をたゆたっていると、指先に僅かだが、力がこもるのがわかった。

 きた。

 確認するように、指が順番に、ぎこちなく動く。目蓋が、ゆっくりと持ち上げられる。闇に慣れた瞳には、午後の光が眩しかった。椅子に深く座り直し、感嘆の息を洩らす、俺の体。


「……動かせた、ねぇ」

『ですね』


 まじまじと両方の掌を見つめ、義幸さんが俺の声を借りて、口を動かす。


「二度目にもなると慣れたものね」


 様子を伺っていたと思われる杏が、しみじみと呟いていた。彼方は特に驚いた様子もなく、こちらを観察していたようだ。


『俺は目を閉じているんで、気にせず書いてください』


 勝手に動く体の感覚に身を委ね、闇の中で瞳を閉じる。そうすると、音と肌に触れるものの感覚を、普段より一層、大きく感じるようになる。見えなくなると、いつもどれだけ目に頼っていたかを痛感した。


「……ありがとう。遠慮なく、書かせてもらうよ」


 腕が動き、薄いものを持ち上げる感覚。ぴりっ、と、ビニールと糊が剥がされる音、指に触れる、さらりとした紙の感触。遠退く足音、ソファが軋む音が耳に届く。右手が細長いものを持ち、左手が紙を押さえる。少し前に上半身を倒し、軽く息を吐いてから、ボールペンを紙の上に走らせはじめた。

 最初の一文は、見えなくてもわかった。祥子さんへ。

 この言葉から始まった手紙は、始めはぎこちなくゆっくりと、次第に滑らかに、流れるように文字が便箋を埋めていく。走りだしたボールペンは、時に迷い、時に立ち止まり、時に逸る気持ちに追いつこうと必死で、罫線と罫線の間を走り抜けていく。

 その動きを感じながら、俺は暗闇の中で待ち続けていた。何を書いているのか、知ろうと思えば知ることは出来た。感覚を共有しているのだから、ボールペンの動きを辿れば文字くらいは簡単にわかる。だけど、それはしなかった。義幸さんが祥子さんと過ごした時間を俺は知らないし、知ることは出来ない。誰も割り込めない、二人だけのものを、土足で踏み荒らすような真似だけはしたくなかった。

 俺しかいないように感じる、俺の方が死人ではないのかと勘違いしてしまいそうになる、静寂が満ちる闇の中。ただただ、体が勝手に動く感覚を味わい続けた。それは短いようで長く、長いようで短かった。

 一枚目を書き終わり二枚目を手に取り、二枚目を埋め尽くして三枚目に手が伸び、三枚目に余裕がなくなり四枚目に進み、五枚目に来たところでようやく、ボールペンは動きを止めた。最後の一文だけ、動きを辿ったわけではないのに、わかってしまった。その一文を胸に秘め、意志とは関係なしに動く体の感覚に身を任せる。

 便箋を順に重ね、角を揃えて半分に折り、封筒に宛名を書いて、便箋を入れる。そこで初めて、俺は目を開けた。

 義幸さんが俺の体を通して見ている世界を、共有する。封は、封筒に付属されていたシールだった。藤色の、名も知らぬ小さな花が印刷された丸いシールで封をして、表を向ける。祥子さんへ、と書かれた、義幸さんにそっくりの丸っこくて伸びやかな文字が、封筒の表に鎮座している。


「出来た……人の体を借りるっていうのは、疲れるね……」


 ベランダに通じる大きな窓からは、白いレースのカーテンを揺らして絶え間なく風が吹き込んでいるのに、俺の額には汗が滲んでいた。たまに、背中を汗が転がり落ちていく感覚もある。俺の体が暑いからかいたわけではない、義幸さんの気持ちに反応してかいた汗だ。


『お疲れさまです。書きたいこと、書けましたか?』

「ああ、お陰様でね。……ありがとう、類くん」


 ははは、と清々しく笑い、義幸さんは両腕をのばして凝り固まった全身を解すように、伸びをする。何とも言えない達成感に、俺も嬉しくなった。


「……体、返すよ。実はもう、書き終わってから主導権を握っているのが辛いんだよね」

『わかりました』


 了承の言葉が合図となり、一瞬、全身が脱力する。すぐに体に力をこめ、体を支えて立て直す。予告があったからか、二度目だからか、今度はスムーズに義幸さんと交替が出来た。再び俺のものになった体は、何故だかだるくて重くて、背中に触れるTシャツは汗を存分に吸い込み濡れそぼっている。Tシャツを着替えようか悩んでいると、オーブンから電子音がした。


「あ、忘れてた」


 手紙に夢中ですっかり忘れていたが、よく考えればキッチンの方から甘くておいしそうな匂いが漂ってきている。この匂いなら、少なくとも焦げてはいないだろう。

 義幸さんに言われたとおり竹串を用意し、オーブンの扉を開く。物凄い熱気と、スポンジの卵と小麦粉、それにバターとバニラエッセンスとチョコレートの匂いが濁流となって顔を直撃した後、中にそっと手を入れて、スポンジの中央に竹串を突き刺してみた。ふっくらとチョコレート色に焼けたそれに、竹串はすうっと抵抗もなく刺さっていく。そっと抜いた竹串には、何もついてこない。


『上手く焼き上がったようだね。火傷しないように取り出してね』

「大丈夫です。どこに置きます?」


 白いミトンを両手にはめて、オーブンから型を取り出す。防熱のミトン越しに、型からぬくもりが伝わる。直接触ったら火傷確実なそれも、ミトン越しだと生き物に触れているような温度にしか感じない。


『そのままケーキクーラーの上に置いて、上に濡れ布巾をかけて冷ませばいいよ』


 義幸さんの指示に従い、金属棒が格子状に組まれたケーキクーラーという、焼けたものを冷ますものの上に置く。


「いい匂いね。初めてにしては上出来じゃない」


 匂いにつられたか、杏がわくわくした様子で見に来た。確かに、この焼きたてのお菓子の匂いは心が踊るような、そわそわする匂いであると思う。


「まぁ、プロの直接指導受けてるしな。これで失敗する方が、ある意味奇跡だろ」

「ごもっともね」


 顔を見合わせ三人でひとしきり笑った後、濡れ布巾をかけるときに、もう一度匂いを嗅いでみた。


「なんであんな苦いのから、こんないい匂いがするんですかね」


 作っている最中、今まで見たことのなかったバニラエッセンスからすごく甘くていい匂いがした。こんなにいい匂いがするのだから、さぞ味も甘くて美味しいのだろうと思い、少し手に出して舐めてみた。……ら、物凄く苦くて不味かった。鼻孔を突き抜けるのは甘く魅惑的な香り、舌を刺激するのは今まで経験したことのない苦み。おもわず口を濯ぎに洗面所へ走ったのは、当たり前の反応だったと思う。義幸さんも苦い苦いと言いながら笑い転げていて、バニラエッセンスは香料だからそのまま食べたら不味いに決まってるよ、と教えてくれた。


『んー、それが仕事だからね。さぁ、冷ましてるうちに生クリームを泡立てて、フルーツを用意しておこう』

「ですね」


 オレンジを冷蔵庫から取り出し、皮を剥きはじめたら、また視線を感じた。杏と彼方が、奇妙なものを見たというような顔で、こちらを凝視している。義幸さんも、なぜか唖然としているようだ。


「……何かあった?」


 今度は、エプロンのウサギが犯人ではないだろう。ずっと着けたまま行動していたら、杏も彼方も慣れたようだから。


「あのね……オレンジの皮、林檎みたいに剥く人って初めて見たから……」

「え?」


 瑞々しい柑橘の匂いのもとを見る。左手に乗っているのは、林檎の皮を剥くときのように、回転しながら螺旋状に皮を剥かれている途中のオレンジ。剥き終わったところからは、果汁の詰まった実がきらきらしながら外気に触れている。いつもの、俺がやるオレンジの剥き方だ。


「…………変?」

『あまり見かけない、剥き方だねぇ』


 あっさりと義幸さんに斬り捨てられ、これは世間で言うところの普通の剥き方ではないのだと、初めて知る。俺の家でオレンジを食べるときは、このように剥いた後、輪切りにして食べるのが普通だった。


「そうなんですか……薄皮剥いて、一房ずつにすればいいんですよね」

『そうだね。桃も同じように頼むよ』


 反対に世間の人がどのようにオレンジを剥いているのかと不思議に思いながら、分厚い外皮を剥いていく。剥き終わってオレンジ色の塊になったら、房毎に包丁を差し込んで櫛形の塊を切り出す。桃缶の中に入っている白桃も、櫛形に切る。そうして銀色のボウルにあけた生クリームに砂糖を加え、泡立て器で泡を含ませて混ぜていく。メレンゲと同様に、泡立てるのに時間と根気が要る。泡立ておわった頃に丁度スポンジが冷め、型から出してみた。

 見事にチョコレート色のそれは、焼き終わったときからほんの少し縮んでいるようだったが、それでも十分ふんわりとしている。義幸さんの指示どおり、側面から同じ高さになるよう平行に包丁を滑らせ、二枚に切り分けた。切り口に少しゆるめの生クリームを塗り、オレンジと桃を放射状に並べ、再び生クリームで蓋をしてスポンジを重ねる。茶色、白、オレンジにクリーム色、また白、茶色。上から純白の生クリームをたっぷりとかけ、表面が均一になるように、茶色のスポンジが見えないように、くるくる回しながら均していく。本当は専用のナイフがあるといいらしいのだが、生憎素人の家にそんなプロの道具があるはずもなく。ゴムべらで慎重に、表面の凸凹を無くしていく。何度かゴムべらを滑らせて、俺も義幸さんも及第点が出せるところまでにすることが出来た。中身と同様、オレンジと白桃を放射状に並べ、生クリームを端に絞り、最後に艶出しとして作っておいたシロップを刷毛で薄くフルーツに塗る。


「完成ー」


 初めてにしては自分でも上出来すぎるくらい上出来な、桃とオレンジのケーキが出来上がった。


『いやいや、プレートを置いたら完成だよ』

「あ、忘れてた」


 義幸さんの突っ込みで、冷蔵庫に入れたまますっかり忘れていたチョコプレートのセットを取り出す。箱の中から出してみると、冷蔵庫でしっかり冷えてかちかちのチョコペンでは、文字を書くことはおろか絞りだすことさえ不可能だと気付いた。どうしたもんだと思ってパッケージの裏を見たら、お湯に浸けて温めろと書いてあった。なるほどそれもそうだと納得し、マグカップにポットから熱湯を注ぎ、封を切る前のそれを浸してみる。しばらく温めるとチョコペンは次第にふにゃふにゃと柔らかくなり、これなら絞り出せそうだという辺りでお湯からあげた。


「プレート、何て書きます?」


 封を切り、念のために絞れるか確認をしたところで、何を書くのか聞いていないことに気付いて義幸さんに質問してみた。


『あー……、あきら10才、って書いてもらえるかな』

「わかりました」


 チョコプレートの狭いスペースをいっぱいに使って、初体験のチョコペンで言われたとおり書いていく。所々、チョコが切れなくてのびたり、いびつな文字になったりしているが、なんとか『あきら 10才』書ききることが出来た。残っていた生クリームで土台を作り、チョコプレートを斜めに乗せれば、今度こそ完成だ。


「『出来た』」


 義幸さんが作ったにしては素人のような、初心者の俺が作ったにしては十分すぎるレベルのケーキ。味はきっと、義幸さんの味だろう。


「お疲れー。すごい美味しそうねぇ」

「お疲れさまです」


 二人も来て、完成したケーキを覗き込んでいる。今日買ってきたケーキ用の白い箱を取り出し、ケーキを壊さないようケーキの乗ったプレートごと滑らせて、箱に収める。


『……赤いペン、無いかな』

「赤ですか? マジックならあったと思いますけど」


 電話台の引き出しを開け、何本か入っているペンの中から赤いマジックペンを取り出す。この頃使ってないから出るだろうか、などと思いながら、キッチンに戻った。細いマジックペンを手の内で弄び、義幸さんの指示を待つ。杏と彼方も、これ以上何かすることがあっただろうかと首を傾げている。


『……箱の端に、o、r、a、t、i、o、って、書いてもらえるかな』

「o、r、a、t、i、o、ですか?」

『うん』


 箱の天井部、右下に、言われたとおりの綴りを赤ペンで書き込んでいく。

 oratio――?

 orationという単語なら演説という意味であるが、この単語は見たことが無い。

 どういう意味なのだろうか。


「義幸さん、この――」

『……店の、名前にするつもりだったんだ』

「店……ですか?」


 義幸さんは淋しそうに笑った後、目を伏せて、ゆっくりと語ってくれた。


『もうすぐ、必要なお金が貯まるところでね。独立して、自分だけの店を持つ夢が、叶いそうだったんだ。その店の名前が、オラティオ』


 義幸さんは生前、自宅近くにある可愛らしいケーキ屋に勤めていた。義幸さん個人の店ではなく、他にオーナーがいて、義幸さんはそこでパティシエとして雇われていた。きらきらと、宝石みたいな果物が沢山あしらわれたケーキたちを、義幸さんは他のパティシエたちと力を合わせて作っていたのだ。

 自分だけの店を持つ。それだけの力がある者なら、誰だって一度は夢見ることではないだろうか。


『ラテン語で、祈り、という意味だそうだ。本当はオラショという発音らしいんだけど、僕はキリスト教じゃないし、初めて見たときにオラティオって読んじゃってね。こっちの方が、僕らしいなと思って』


 失敗した読みを店名にするなんて、馬鹿みたいだろう?

 そう、義幸さんは自嘲的な笑みを浮かべる。

 悲しい言葉に何も言えなくて、ただ首を横に振るだけしか出来なかった。赤字で書いた、oratio。そこに、どれだけの祈りと、どれほどの気持ちが込められているのだろう。


『……もっと、生きたかったなぁ……っ』


 下唇をきつく噛み、俯く義幸さんから、ぽろぽろ、透明な塊が落ちる。それは俺の視界を滲ませ、透明な液体となって、目から落ちていく。体が、義幸さんの涙に連動する。気持ちに、共鳴する。

 自分の目から勝手に落ちる涙と義幸さんの気持ちを知り、悲しくなる俺以上に、義幸さんの悲しい気持ちが、止まらない。

 心の雨は、なかなか降り止まなかった。



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