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交差点



 信号の上に、ミニスカの女の人が座っていた。そんなことを誰かに言ったらおかしな奴だと思われるかもしれないけれど、でも確かに道路の向こう側にある自動車用の信号に、その人は座っていた。

 様々な人と一緒に信号待ちをする、大学生になって初めて迎えた夏休み。期間限定の、あと数日で終わる短期バイト帰りのことだった。背の高いビルの樹が林立するコンクリートジャングルの中で、街路樹も元気なく葉を垂らす、うだるような暑さの交差点でぼんやり思うのは、ただ一つ。

 あの女の人が、熱くなりすぎたアスファルトから立ち上る熱い空気が見せる、陽炎だったらいいのに。そんなことを考えながら、灰色のビルを背景に一人浮き上がって見える、信号の彼女を観察する。

 まだ赤みの少ない強烈な白い太陽光を浴びて、とろけそうに光を吸い込む蜂蜜色の髪は、ゆるく波打って背中を流れる。ひらひらとした墨色のミニスカートは、自動車が熱風を巻き上げて走るたびに裾を揺らす。この馬鹿みたいに暑い中、涼しい顔をして純白のブラウスを着た彼女は、黒革のピンヒールを履いた形よい足を優雅に組み、赤信号の前で足をゆらゆらさせている。そうして少し気だるげに、周りを歩く人の様子を窺っていた。

 そんな彼女の一番の特徴は、彼女の向こう側が透けて見えることだ。彼女は、死人……世間一般的な名称で分類するのなら、幽霊なのだろう。そして真夏の午後、ナチュラルに信号の上に腰掛ける幽霊を発見するのは、俺くらいなものだろう。

 そこまで考えたとき、ブォン、と自動車が息が詰まりそうな排気ガスと熱風を、全身に叩きつけてきた。灼熱地獄は地の底ではなく、都会という案外身近に存在するらしい。誰も注目しない彼女を横目に、青になった歩行者用信号に従って足を踏み出す。

 容赦ない日光に頭を照らしつけられ、好き勝手な方向へはねる天然パーマの髪が焦げるように熱い。呼吸をする肺を溶かすような熱と湿気と汗のにおいが立ちこめる中を、すれ違う人を避けて泳ぐように歩を進める。こんなに暑いんだし、たまにはアイスでも買って帰ろうか。そんなことを考えながら、幅の広い道路に描かれた汚れて灰色に近いくすんだ白の横断歩道の縞を踏み付けて、順調に渡る。反対方向に進む人は沢山いたが誰にもぶつからずに済み、長い横断歩道の半分まで来たとき、ミニスカの彼女がひらりと信号から飛び降りるのが見えた。重力も何もかも無視したミニスカートは裾を少しはためかせるだけで、決して捲れたりはしない。身軽に、そして幽霊なのだから当たり前だがヒール特有のよく響く高音も立てず、優雅にピンヒールで着地した。

 だが彼女はその場で腕組みし、動く気配はない。誰かを待つような態度を少し不審に思いつつも、そんなことは露ほども顔には出さずに進み続ける。

 しかし、このままでは確実に彼女と正面衝突……もとい、彼女の身体を通り抜けることになる。それは正直、あまり気分いいものではない。いくら死人で肉体もなくぶつかったときの衝撃がないとはいっても、他人の身体をすり抜けていくのは気持ちわる……いや、変な感じである。見えなければ気にならない、もしくは気付かないのだろうが、見える俺には少々無理な問題だ。

 だから、彼女の位置を確認しつつ、少しずつ進路をずらしていくことにした。ちらちらと確認のために横目で見ていて気付いたのだが、よくよく見ると、彼女の透け具合が少しおかしい。おかしいというのがそもそも変なのかもしれないが、普段よく見かける幽霊よりも、身体があまり透けていない。遠目に見たときにはわからなかったが、若干透けている、という程度である。普通、幽霊は半透明といってもいいくらい、向こう側がしっかりと透けて見える。

 理由はさっぱりわからないけれど、何故だか近寄らない方がいい気がした。自分の勘に従って、更に彼女と距離を空けようと斜め前に足を踏み出す。

目を上げた瞬間、目の前に彼女がいた。


「っ!?」


 思わず声が出そうになった口を反射的に押さえ、彼女を通り抜ける寸前で急ブレーキをかけて、足を止める。どうにか彼女を通り抜けることだけは免れて、一人胸を撫で下ろす。

 いけない、危うく叫ぶところだった。こんな人の多い往来でいきなり驚嘆の声を出したら、変人扱いされてしまう。それに、幽霊に関わってもろくなことがない。経験上、こういうのは無視と逃げが肝心だ。避けてさっさと行こう、という結論に達し、斜め前に足を踏み出した。

 じぃ、と俺を上から下まで舐めるように凝視する彼女を避けて、横を通り過ぎる。見えているのがばれたのかと思ったが、何事もなく前に進め、安堵の息が自然と出た。そのまましばらく直進し、コンビニのある角を曲がって大通りから脇道に入る。脇道に入るときに後ろを確認したが、後をつけられている様子はなかった。

 しかし、両側を高いビルに囲まれ日の光が差し込まない脇道の、少し奥に入ってから足を止めて、詰めの甘い自分を後悔する羽目になった。信号の幽霊が、細い脇道の真ん中に立ち、笑顔で待ち構えていた。


『こんにちは』


 自然と語尾にハートマークが付いたように聞こえる愛想のいい言葉と、人当たりのいい素敵な笑顔で挨拶をされた。真っ昼間に、幽霊から。

 おもわず頭を抱えてしゃがみこみたくなったが、それはどうにか堪え、目の前の現実を見ることにした。


「……何ですか」


 慎重に、言葉を選ぶ。神経を逆撫でするのも、むやみに怒らせるのもよくないというのは、今までの経験で知っている。こういう場合、何事もなくさっさと離れるのが一番だ。


『やだっ、無愛想。挨拶くらいちゃんとしてよ』

「……こんにちは」

『はいこんにちはー。でもラッキーだわ、あそこに張りついて五日なのに、なかなかあたしのこと見える人に巡り会えなかったのよね。やっと見つけられたわ』


 彼女の口からは矢継ぎ早に言葉が転がり落ちる。今まで見てきた幽霊の中で、こんな騒々し……いや、お喋りだった幽霊はいなかった。

 もともと、幽霊とはあまり接触しようと思ったこともないし、実際そんなに接触したことはない。見えないものに語り掛ける人間がどのような扱いを受けるか、わかりきっている。


『というわけで、ちょっと失礼するわね』


 少し思考の海に沈んでいたら、いつのまにか腕をのばせば届く距離に彼女はいた。灰色の双眸が悪戯にきらめき、艶やかな唇が弧を描いて近付いてくる。


「なっ……!?」


 最後まで言い切らないうちに間合いを詰められ、俺の体に正面から一直線に向かってくる。咄嗟に腕で顔を庇い、瞼を堅く閉じた。一呼吸おいて、彼女が確実に通り抜け終わっただろうと予想し、腕を下ろして恐る恐る振り向く。

 振り向いた先、大通りを歩く人が見える他、そこには誰の姿もなかった。


「………………は?」


 消え、た?

 は、と言ったそのまま形の口を、ぽかんと間抜けに開けたまま閉じることも忘れて、辺りを見回す。

 日の光が差し込まない薄暗い脇道に、俺以外の人影はもちろん、生きているものも死んでいるものも姿はなかった。あるのは、コンビニの裏口と薄汚れたビルの壁、捨てられたパンの袋といった、動かないものだけ。

 いやいやいやいや……、落ち着け俺。確かに幽霊は姿を消す。見える俺ですら、どんな理屈で消えるのか分からないが、雲隠れされたら姿が見えなくなることがある。でも、今の状況で俺を放置プレイって、何事だ。

 眉を寄せて途方に暮れていると、どこからか先程の幽霊の声がした。


『やだっ、すごい。あなたって天性の寄人よりびとなのね』


 今一度、空も含めて上下左右にぐるりと目を走らせる。やはり、誰もいない。訳がわからなくて困っていると、どの方向からかはわからないが、また声が聞こえた。


『そんなに見回してもいないわよ。あたしはあなたの中にいるんだから』


 耳を疑った。

 川の水が流れるようにさらりと言われた言葉を、心では理解したくないと拒否をしたが、頭はすぐに理解していた。背中を、暑いときとは違う種類の汗が転がり落ちる。確信を持ちながらも、否定してほしくて、見えない彼女に問い掛けてみた。


「それは、つまり……俺に、憑依ひょういした、ってこと……ですか?」


 毛穴が開いて、嫌な汗がじわりと出てくるのがわかった。


『ぴんぽーん、大正解!』


 陽気な声がして、そこでようやくその声が耳を通さず、頭の中で響いているのだと気付く。今度こそ誰の目も気にせずに、俺は脱力感とともにその場にしゃがみこんだ。


『あらやだ、立ちくらみ? 今日も暑いからねー。ちゃんと水分摂らないと熱中症になっちゃうから、気を付けなきゃダメよ』


 脳内で暢気に響く声に、怒る気力も怒り自体も失せてしまった。

 幽霊を見たことは生まれて十八年のうち数知れないが、幽霊に憑かれたことは生まれて初めてだった。だから、憑いた幽霊の落とし方も知らなかった。無意識に大きく息を吐いて、こうなったらもう仕方がないから、今が機会と思い気になることを訊ねてみた。


「立ちくらみじゃないですから。……一体何なんですか、あなたは」


 いきなり幽霊に逆ナンされ、憑依されるような謂われはないはずだ。……たぶん。先祖が云々だったらそれは俺も知ったことではないが、少なくとも俺自身は今まで極力幽霊との関わりを避けてきたから、祟られるとかいうおっかない事はないはずである。


『あら、まだ自己紹介してなかったかしら?』


 体の中にいて見えないはずなのに、何故か彼女が首を傾げたのがわかった。


「してないです」

『じゃあするわね。あたしは、ヌムラアン。冥界にあるROBOロボ社の社員で、今度地上に支店が出来るから、アルバイトできる子で、できれば寄人を探してたの』


 さくさくと実にあっけなく、彼女は聞き慣れない言葉ばかりを羅列させてくれた。どこから聞こうか、逆に迷うくらいだ。


「…………突っ込みどころ満載なんですが、とりあえず、体から出てもらえると嬉しいんですけど」

『え、なんで?』


 今度は彼女が反対に首を傾げたのが感じられた。見えないのに、一体どういう理屈でわかるのだろうか。


「いや、何でって自分の体なんで……それに、端から見たら独り言喋ってるイタい人だろうし……」


 コンビニとビルの間にある薄暗い脇道で、独り言を呟く男がしゃがみこんでいたら、誰だって関わりたくないだろう。張本人の俺だって、もし第三者だったなら関わりたくない。


『……しょうがないわね、出てあげる。かわりに、ROBOでバイトしてくれる?』


 呆れた交換条件だ。俺に得があるようには、これっぽっちも思えない。髪の中に指を突っ込み、掌に側頭を乗せて支えにし、何でこんな事になったのか悩んだ。


「何ですかそれ。しかもなんで俺がバイト……」


 溜め息混じりに問い掛けたら、彼女が勇ましく拳を握り、力んで答えてくれた。


『だって寄人なんて稀なんだもの! ここでゲットしなきゃ女が廃る!』

「じゃあ廃れてください。俺だって忙しいんですから、早く出てください」

『イ・ヤ。バイトして?』

「謹んでお断わりさせていただきます」


 何度も押し問答を繰り返すが、事態が変わることはなく。この時間の無駄遣いに辟易してきた俺は、何か策を練ろうと瞳を閉じた。

 俺を迎えてくれたのは、考え事をするのに最適な何もない闇ではなく、安楽椅子に深く腰掛けている感覚と、隣にある同じ椅子から身を乗り出して俺を楽しそうに観察するヌムラアンの無邪気な微笑みだった。

 驚いて慌てて目を開けるが、そこにあるのは数瞬前と何ら変わりない脇道、しゃがんでいて普段より近い地面。


「……何、今の」

『え、見えたの? さっすが寄人ね。それは……』


 答えは最後まで聞けなかった。背後から誰かに、頭へ拳骨を落とされたからだ。


「『痛っ!』」


 はからずも、ヌムラアンと同時に声を上げてしまった。殴られた拍子にバランスを崩し、尻餅をついた格好で、いきなり無言で殴ってきた相手を見上げる。

 右手を握り締めたまま俺を俯瞰ふかんしてくる若い男が、立っていた。眼鏡の奥にある、底冷えする紺色の瞳に貫かれ、蛇に睨まれた蛙のように体が硬直する。薄めの唇がゆっくりと開かれ、そこから静かな声が紡ぎだされた。


「アン、出てきなさい」

『わかったわよ……オトったら、少しくらい手加減してくれてもいいじゃない』


 いたたた、と蜂蜜色の頭を押さえて呟きながら、俺に憑いていたヌムラアンがあっけなく体から出てきた。自分の体から幽霊が出てくる様は、何とも言えず気色悪いものだったが。冷たい空気を身に纏った男は拳を解き、俺の隣に座って頭を押さえるヌムラアンを見下ろす。


「いきなり脅かしてどうするんです。これでは逃げられても文句は言えませんよ」


 感情的になることはなく、あくまで冷静な態度で叱り付ける様は、逆に怖い。俺が叱られているわけではないが、隣で怒られているとこっちまで怒られているような気になる。再び紺色の冷たい瞳に貫かれるのが怖くて、けれど一体どんな奴なのか見たくて、恐る恐る彼を見上げてみた。

 はじめに目を奪われたのは、ミルクティー色をした、長すぎず短すぎず頭に沿って整えられた髪だった。そこから視線を下ろせば、紺色の底が見えない瞳、セルフレームにしては枠が細めの眼鏡、襟の縁にラインの入った白いワイシャツ、高校生の制服のようなスラックスが順に目に入る。少し不思議だったのは、ヌムラアンも右耳に付けていた、耳掛け式のイヤホンマイクくらいだ。まだ高校生かはたまた俺と同年代か、と思わせる外見は、絶対零度を底に秘める瞳にそぐわない。


「ヌムラが大変失礼いたしました。僕らはこういうものです」


 尻餅をついたままなのに頭を下げられ、流れるような動作で差し出された名刺を受け取ると、そこには「ROBO社 苗羽のうま彼方おと」とだけ書いてあった。同じくヌムラアンから差し出された名刺には、「ROBO社 埜村ぬむらあん」とある。


「……ご丁寧に、どうも。秋月あきづきるいです。それで、どういった……?」


 質問を最後まで言う前に、苗羽彼方に先を越された。


「我々ROBO社は少々特殊な人材を必要としてまして、秋月さんがその条件に合致することが判明いたしましたので、ヘッドハンティングのようなことをさせていただきました。このようなところでお話するのも何ですし、弊社も近いのでそちらで詳しくご説明したいのですが、お時間はありますか?」


 丁寧にへり下って言われた台詞と強い瞳は、諾否だくひを考える隙を与えず、俺は操られるように首を縦に振った。


「では、こちらへ」


 表情を崩すことなく背を向けて歩きだした苗羽彼方に促され、慌てて立ち上がってその背中を追った。俺の隣に座っていた埜村杏も、並んで歩きだす。脇道をそのまま奥へ進み、幾度か曲がり、着いた先は学生の俺にはまだ縁遠い、オフィスビルが立ち並ぶ一角。その中の比較的新しいビルに吸い込まれたミルクティー色の髪を追い、ビルの中へ入った。

 クリーム色をしたエレベーターの扉を押さえて待機していた彼に軽く頭を下げ、共に乗り込むと箱は上昇を始める。四の階数表示にランプが灯ると、エレベーターは緩やかに止まり口を開く。扉が開いてすぐ目に飛び込んできたのは、「ROBO」という会社のロゴが書かれたガラス戸だった。


「奥へどうぞ」


 受付嬢すらいない無人の白い受付を通り過ぎ、奥へといざなわれる。

 そこでふと、夢から覚めたように不安になる。素直にほいほいとついてきてしまったが、本当に大丈夫だろうか。まさか……本当にまさかだが、裏の世界の怪しいお仕事とか、新興宗教団体の勧誘とか、高額商品の押し売りとかではないよな。

 急に鎌首をもたげた疑念を胸に秘め、少なくとも逃げ口だけは確保しておこうと思い後ろを振り向くと、絶妙なタイミングで埜村杏がガラス戸を閉めたところだった。


「…………」

「どうかした?」

「…………いえ。何でもないです……」


 鍵を閉めた様子はないから、完全とまでは言わないが退路を断たれ、これは俺にさっさと腹を括れという天からの啓示だろうか。諦めて前を向いたが、そこでふと違和感を感じ、もう一度背後を見る。

先刻まで向こう側が透けていたはずの埜村杏の体は、もう透けていなかった。


「…………」

「まだ何かあった?」

「…………何でもない、です……」


 見間違いではない。確かに質感と重さと熱を持った、本物の肉体がそこにあった。幽霊だったときと寸分違わない、ただ透けているかいないかというだけの、小さくとも大きい相違点を持つ、その体。全くもって、訳がわからない。俺を故意に撹乱かくらんさせているのかと、疑いたくなる。


「ほら、早く行きましょ」


 埜村杏に背を押され、受付の奥へと行かされる。

 受付の背にある壁を避け、左右にある通り口のうち左側から奥へ入ると、冷房が効いて涼しい、事務所のような場所がそこには広がっていた。素っ気ない鼠色の事務机が四つで部屋の中央に島を作り、一番奥に離れ小島のような机が窓を背に一つ。左壁には給湯室とおぼしき場所への入り口と、先に何があるのか全くわからない、壁と同じオフホワイト色の扉が三つ。右側には資料と思われる大量のファイルが一面に並べられた棚が四つと、引っ越し途中のようだけども放置されている未開封の段ボール箱が数箱、タイル型の絨毯が敷き詰められた床に直に置いてある。

 苗羽彼方は俺が立っている所の右側、受付のすぐ裏手にあたる位置にある、ベージュのパーティションで区切られた場所の前で、待っていた。無言で動かされた手に促されてそのスペースに入ると、そこはガラスの天板のローテーブルを挟むように黒革のソファーが置かれた、簡易の応接室だった。


「どうぞおかけください」


 その一言に素直に従い、鞄をおろして手前のソファに腰掛ける。適度に張りのあるそれは、沈み込む体に沿うように形を合わせ、ひやりとした革独特の温度を、まるで息をしていないことを改めて主張するかのように伝えてくれる。

 真正面に同じく腰を下ろした苗羽彼方に静かに見据えられて、落ち着かない。観察されるパンダってこういう気分なのかな、と妙なことを考えていると、埜村杏がお盆にガラスの湯呑みを三つ乗せて入ってきた。木製の茶托ちゃたくに乗せられた磨りガラスの湯呑みは少し汗をかき、中に注がれた緑茶が冷たいことが窺える。正直暑いし汗もかいたしで喉はカラカラに渇いていたが、直ぐに口をつけるのは何故だか躊躇われ、早く本題に入ってしまいたかった。


「わざわざご足労いただきありがとうございます」


 埜村杏が緑茶を配り終わって苗羽彼方の隣に腰を下ろしたのを見計らったように、苗羽彼方は口を開いて頭を下げた。


「あ、いえ。それで、ここ、いや御社は一体……」


 何をしている会社なんですか、と聞くよりも早く、苗羽彼方が先手を打ってきた。


「秋月さんは、人が死んだらどうなると思われますか?」

「…………は?」


 この質問一つで、目の前の好青年が急に胡乱うろんで怪しい人物に見えてしまう。え、何、やっぱり新興宗教とかそういう系なんだろうか、と疑いが深まる。


「信仰されている宗教によって死生観に対する解釈は異なりますが、人は死んだら肉体と魂が分かれ、魂は所謂あの世に行く、というのが世間の定説のようですね」


 たとえば古代エジプトで信仰されていた、死して分かれるという肉体とバーとカーのように。人が死すと滅びて失われる肉体、人が死すると冥界に行ってしまうバー、人が死してなおこの世界に残り生き続けるカー。この三つの関係は、現代の死生観が違う我々にとって理解はできますが、納得はしかねる点もあるのですがね、と呟く苗羽彼方。

 そうしてどこからか取り出した紙に、さらさらと流れるようにボールペンを走らせて、伸びやかな文字でバーとカーと肉体の関係に関する要点をまとめる。


「人間がどのような死生観を持とうとも、どのような宗教を信仰しようとも、死した人に待ち受ける真実はひとつしかありません。どの国に住んでいても、死してからのシステムは統一されていますから」


 死と、システム。いまいちしっくりとこない組み合わせだが、葬儀の手順のことだろうか。確か国や宗教で大分差があったはずだ。

 火葬する日本とは違い、土葬する国だってある。火葬したあとの骨を土に埋める国もあるし、河に流す国もあるし、現代は骨からダイヤモンドを作るとかいう企業だってある。要は、どの国でも人が一人死んだら、大変な騒ぎがおき、つまりは一大行事となるということだ。


「……彼方、説明が小難しすぎやしないかしら?」


 唐突に口を開いた埜村杏は、眉根に皺を寄せながら苗羽彼方に指摘する。俺が、相槌をうたなかったせいだろうか。論理的は論理的なのだが、説明口調というか、本に書かれている説明を読み上げているような口調は、正直頭に入りづらく退屈だ。


「そうですか?」


 まずはこれを前提として話しておかなければいけないでしょう、と小さく呟く苗羽彼方は不満げだ。軽く溜め息のようなものを吐き、埜村杏は座り直した。


「いいわ、あたしが説明する」


 動いた拍子に零れ落ちた、それ自体が光を放つような蜂蜜色の髪を耳に掛け、今度は俺の方に向き直る。自然、俺の体もミルクティー色の方からそちら側に向き直すことになる。


「あなた、幽霊見えるわよね?」


 あまりにもストレートな質問に、面食らいながらも答える。


「はぁ……まぁ、一応」

「よし。じゃ、死んだら人は幽霊になるってことはわかるわよね」

「そりゃ、しょっちゅう見てますから……」


 だからなんなんだ、とでも言ってみたくなるような確認のとり方だが、灰色の瞳が真剣そのもので、その強さに圧倒されて、口からその言葉が出てくることはなかった。


「幽霊っていうのはね、人の魂――その人の性格や記憶や感情、つまりは意識や自我の塊なの。その人をその人たらしめる存在、とでもいえばいいのかしら。とにかく、そういう普通は目に見えないものが凝縮した存在なの。だから、一般人には見えないはずなのよ」


 だけどね、と彼女は続ける。荒れたところの無い唇は血色もよく、動くたびに艶めく光を散らす。


「稀に、見える人がいるのよ。あなたみたいなね」


 苗羽彼方が使っていた紙の裏面を使い、こちらもどこから取り出したのか、女の子が好みそうな薄ピンクのボールペンで、簡略な図を描いていく。

 ボールペンが紙上を走るたび、ゆらゆらと花をかたどった付属のキーホルダーが揺れるのが、妙に目につく。普段ならそこまで気にならないものが気になるとは、神経過敏になっているのだろうか、俺は。

 紙に描かれたのは、簡単だが人の中に人魂みたいなものが描かれた絵、人魂を見ることのできる人と見ることのできない人の図。今までの内容が凝縮されたそれは、わかりやすかった。


「さて、話は少し変わるんだけど、死んだらその人の魂はどうなると思う?」

「死んだら……やっぱ、あの世に行くんじゃないんですか?」


 もしこの世にすべての死者の魂が留まっていたら、この世は幽霊だらけでとうの昔に許容量オーバーだ。そうしたら、俺は歩くこともままならないだろう。常に幽霊の体を通り過ぎなければいけない……考えただけで、肌が粟立つ。

 そこまで思考が飛んで、一人ぶるるっと背筋を震わせる俺を見て、埜村杏が苦笑した。


「正解。あの世、彼岸、冥土、黄泉の国、浄土、極楽、沖縄だとニライカナイだったかしら……日本には死後の世界に対して沢山の呼び方があるわね。キリスト教なら、天国と地獄。残念だけど、それ以外の宗教はあたしの管轄外」


 両手を軽くお手上げと言いたげに挙げながら微笑すると、紙の空いてるスペースに一言書き加えた。


「死後の世界を、あたしたちは『冥界めいかい』と呼んでるわ。これから先はこの呼び方で統一するから」


 冥界、と書いたその二文字を、くるくる囲んでいく黒いインク。そこだけ浮き上がるように濃くなった黒を、さらに上から重ねてボールペンは止まろうとしない。

 灰色の瞳は冥界という単語を見つめ続けたまま、こちらに向けられることはなく話は続いた。


「人は死んだら肉体と魂……死んだ人の魂は霊って呼ぶから、これ以降も統一するわ。とにかく、霊は冥界に行くのが義務なの。わかる?」

「はい」


 先程の身の毛もよだつ想像が現実にならないためには、やはり霊が冥界に行くのを権利ではなく義務にしなければいけないのだろう。


「日本には死ぬときに『お迎えがくる』って言葉があるわよね。あれ、本当にあるのよ。冥府めいふっていう冥界の政府に所属するヒトたちが、霊たちを迎えに来て冥界に連れていくの。それが『お迎え』」


 紙に新たに霊と冥府という言葉を書き足し、冥界から霊に向かって矢印をのばす。その矢印にお迎え、と書くと、ふいにあげられた上目遣いの瞳と、視線がぶつかる。白目が驚くほど澄んでいて、澄んだ白目はただ白いだけではなくて水色っぽいんだなと、その場にそぐわないことが頭をよぎった。

 しばらく視線を絡めたままでいると、眉間が狭まり縦に皺ができる。


「……秋月類、聞いてる?」

「あ……聞いてます」


 本当かなぁ、とおどけるように言い、埜村杏はガラスの湯呑みに手を伸ばす。桜色の爪がそれを持ち上げる様は、このおかしな状況下でなければおもわず見惚みとれそうだった。別に俺が変態というわけでもなければ、惚れっぽいというわけでもないし、断じて年上の魅力にやられたとかそういうわけではない。目の前にいる二人とも、整った顔にバランスのいい体付きをしており、一見しただけだとモデルかと思うくらいなのだ。

 優雅に両手で湯呑みを持って喉を潤しおわったのか、再び湯呑みをボールペンに持ちかえた。


「さて、質問です。お迎えがちゃんと来てるはずなのに、この世……現世に霊がいるのは何故でしょう?」

「えっ……と、うーん……冥界に連れていけなかったから、ですかね」

「半分正解。霊はね、現世に強い未練があると、冥界に行こうとせずに逃げることが多いの。霊になっても現世に留まる霊を浮遊霊っていうんだけど、その存在になることを自ら選ぶわ。……あたしたちはその浮遊霊を見つけて、未練をなくさせる仕事をするために、冥界から来たの」

「はぁ、ご苦労さま………………って、え。ちょっと待った。冥界からって?」


 動揺で、おもわず敬語を使うことも忘れてしまった。聞き間違い、と一瞬思ったが、その一言で今までの謎が部分的にではあるが、解決する。俺にしか見えなかったことも、俺にとり憑いたことも。この目の前の二人が霊ならば、説明がつく。

 苗羽彼方が冷たい紺色の瞳でこちらを一瞥いちべつし、口を開く。


「言う機会がなかったのでまだ言ってありませんでしたが、僕らは死人です。冥府からこの肉体を支給されていますが、この世での生は終えて、亡くなっています」


 緑茶を啜りながら、事もなげに衝撃の真実を告げる苗羽彼方が信じられなかったが、一応話は信じようと思った。信じれば、辻褄が合う。


「…………どうりで」


 ぼふん、と今まで真っすぐ伸ばし続けていた背中をソファに預ける。ついでに、ここに入ってからずっと張り詰めていた緊張の糸も、ぷつんと途切れたみたいだった。 冷房のおかげか黒革のソファはひやりとしていて、一度に沢山のことを詰め込んでショートしそうな頭を冷やしてくれる。気持ちがいい。


「……話、戻していいかしら?」

「あっ、はいどうぞ」


 埜村杏の困ったような声を聞いて、がばりと勢いをつけて体を起こし、再び話を聞く態勢をつくる。


「あたしたちは死者で、冥府に勤めてるの。これまでも浮遊霊を捜し出しては、話を聞いて未練を解消させて、冥界に連れていってたの。だけど、それだけじゃ浮遊霊は格段に減ることはなかった。……浮遊霊が長く現世にいるとね、未練の感情に自我を蝕まれて、最後は人に害を為す悪霊になってしまうの。その感情しかなくて、未練を成就させるためなら手段を選ばないのが、悪霊。それを防ぐため、未練を効率よく解消する目的で創設されたのが、このROBO社なのよ」


 淀みなく口を動かし、頭の中に台詞がすべて入っているのではないかという長い長い説明を終えると、口と交替するようにボールペンを走らせる。そこには、筆記体で何か英語が綴られており、一、二番目の単語の頭文字と、三番目の単語の最初から二文字に、下線を引く。


「Rental of Body――略して、ROBO。未練のある浮遊霊に生きてる人の体を貸して、未練を解消させる会社、って意味なの」


 浮遊霊に、体を貸す。そんな簡単に、肉体をモノのように貸し借りできるのだろうか。それより、この二人は冥府から『体』を支給されたとか言っていなかったか。


「その冥府から支給された肉体は、使えないんですか?」

「この体? 残念だけど、これは冥府で登録した一部の人しか使用できないの。空のまま現世に持ってくる実験もしたんだけど、空蝉うつせみだと現世に着いた途端に崩れちゃったのよ」


 体が崩れるって、どんな材料で出来ているんだ。崩れるなんて聞いたら、生身の肉体と同じ素材とは到底思えないが。冥府に支給されたという体を持つ二人に触れていないから感触はわからないが、見た限りでは生きている人間と全く差異のない、滑らかな肌をしている。きっと、触れたら張りがあり、暖かいに違いない。


「く、崩れ……。じゃあ、何で俺がバイトに選ばれたんですか」

「寄人だったから」


 紙に新たに寄人と書き込み、ペン先で丸く囲む。


憑坐よりまし、でわかるかしら。依代よりしろでもいいんだけどね」


 寄人の隣に憑坐、依代と書き、寄人という文字の上部に簡略な人の絵を描いていく。横に首を振ると、眉根を寄せて違う例を考えてくれるようだった。


「いたこ、って聞いたことある? これは東北地方での呼び方なんだけど。その人たちは霊を呼んで、口寄せするの。簡単に言えば、降霊術を行って、自分の体にその霊を憑依させて、霊に喋ってもらうの。テレビとかで見たことない?」

「あ、あります」


 思い出されたのは、テレビ画面の向こうで若い女性の口から漏れる、本当にその人から出ているのかと疑いたくなるような、皺枯れた低い声。確か、高名な霊能者が悪霊に憑かれた人をお祓いをする番組だったと思う。テレビ画面越しだからか霊が本当にいるかどうかははっきりとはわからなかったが、不穏な空気だけはよく伝わった。


「普通、霊っていうのは、人にとり憑けないの。生きてる人に比べて、力が弱いから。テレビとかで人にとり憑いてるのは力の強い悪霊だから別だけど。それでね、とり憑けないはずの霊がとり憑けるのが……」

「寄人、ですか」

「当たり。けれど、報告書によると人によって様々で、完全に体を乗っ取られる人もいれば、ただ体に霊を入れるだけって人もいるのよ。もしあなたが寄人じゃなかったら、あたしはただ体を擦り抜けるだけだったはずよ」


 先ほど描いた寄人の中に魂の絵を描き、更に矢印で魂を人の中にもう一つ入れる。そこまで描きおわると、口元にボールペンの頭を寄せ、にっこりと笑みを浮かべる。数十分ほど前の状況を脳内再生し、体から霊が出てくる様も酷いが、通り抜けられた方が幾分かは見た目にもましだったはずだと、一人心の中で思う。けれどそれは自分以外の誰のせいでもないから、自分の体質を呪うほかない。


「それでね、バイトしない?」


 ローテーブルに手をつき、笑みを浮かべたまま身を乗り出してくる。肩口から零れ落ちる蜂蜜色の髪が、緩く螺旋を描く。

 これも死者のものだなんて、信じられなかった。マネキンのパサついた髪の毛よりもずっと生命力があって、きらきらしている。


「寄人として、ですか」

「だって霊感ある人を探すのだって一苦労なのよ。言ったでしょ、あのくそ暑いあそこに張りついて五日だって。霊感ある人でさえ少ないのに、その中で寄人を探そうと思ったら、砂漠の中のダイヤモンドを見つけるくらいラッキーなのよ」


 力強い瞳で熱弁をされるが、その勢いに押されて逆に彼女が近づいた分だけ体を後ろに下げてしまった。

 こわいこわいこわい。ライオンに狙われたインパラの気分が、少しだけわかった気がした。

 じりじりと距離を保って後ろに下がると、すぐに腕と背中がソファーの背もたれに当たり、これ以上は無理だと教えてくれる。


「バイト、してくれるわよねっ?」


 笑顔で聞いてくる駄目押しみたいなそれが、若干、本当に若干であるが脅しのように聞こえて、こわかった。一も二もなく、縦に首を激しく振った。


「やった、バイトくんゲットー!」


 飛び上がりそうなほど歓喜の声を上げ、隣で静かなままの苗羽彼方に破顔してハイタッチを求める埜村杏。が、彼は僅かな表情の変化も、癖のないミルクティー色の髪一筋をも動かすことなく、埜村杏に反応することもなかった。行き場のなくなった手をにぎにぎと開閉させながら下ろす彼女は、不満げだったが、すぐに表情を切り替えてこちらに向き直る。


「じゃ、早速登録書類書いてもらわなくちゃ」

「あっあの、俺、他にもバイトしてるんですけどっ」

「あ、大丈夫。事前に連絡するから。急を要するのはぶっつけ本番だけどね、大体は大丈夫だと思うわ」


 さらりと流され、うなだれたくなった。

 あああ、もう何でこの人はこんなに口が回るんだ。口から生まれた……いや、もう死んでるから……口で死んだ、とか? ……うん、自分で何を言いたいのかが、よくわからない。何か変なんだけど、何が変なのか自分でもわからない。生まれてこの方十八年、たぶん一番頭が混乱している。……とか思えるから、まだ冷静な部分も残っているのだろう、たぶん。


「書類にご記入をお願いします」


 右手を髪の毛に突っ込み肘をついて支柱にし、うんうん唸っていたら、飾りも何も付いていない実用のみを重視された、素っ気ないボールペンとともに、ぺろりと一枚書類を差し出された。事務的な口調に、冷静な態度。山の如く動じない苗羽彼方を見たら、一人でこんなに混乱して焦っているのが馬鹿らしくなってきた。少し落ち着き、ボールペンを手に取り、住所や氏名といった個人情報を書き込んでいく。


「あ、これあたしたちのケー番ね。あと、あんまり使わないと思うけど、こっちがROBOの固定電話。登録しておいてね、類」


 そう言われ、三種類の電話番号を渡されたのが、現在から遡ること三十分前。そして今は、右手にコンビニの袋をぶら下げ、我がマンションのエレベーターの中。

 たった三十分前のことなのに、あれは現実だったのかと疑念がわいては、シャボン玉のように壊れて消える。帰り道、何度も携帯の電話帳機能を呼び出しては、ROBOという名で登録した数字の羅列を目に焼き付ける。

 だって、夢か幻みたいだ。冥界から来て、浮遊霊を体に宿らせることのできる寄人だなんて。何かの間違いだろう?

 狭い白い箱は、終わりのない思考の輪に填まる俺を乗せて、一定のスピードで上昇していく。順々に左から右へと移動していく階数表示のやわらかい橙色をしたランプを、ぼんやり見上げる。八階に来たところで、エレベーターは徐々にスピードを落とし、必要最小限の衝撃だけで停止する。エレベーターから廊下を突き当たりへ向かって歩き、同じ黒っぽい灰色の扉を通り過ぎること九つ。十番目、自分の姓が何故だかローマ字表記されている表札を横目に、鍵を差し込む。開けると、人の気配があった。時計を見れば、母さんが帰ってくるには少し早すぎる時間だ。


「ただいまー」


 玄関の真正面、廊下の突き当たりにあるリビングに通じる、磨りガラスが嵌め殺しになった扉を開ける。


「母さん、帰ってたの?」


 リビングに入って一番に目が吸い寄せられたのは、扉から見て左側にあった、真っ黒な塊。日常空間にそぐわないそれは、威圧感のある独特のオーラを放出し、それだけが周りから浮き上がっていた。他のソファやテレビなんかは普通なのに、テレビだって黒色なのに、どうしてあれはあんなにも他を受け入れない漆黒をしているのだろう。


「おかえり、類」

「誰か……亡くなった、の?」


 扉の右手にあるキッチンスペースから聞こえた少し元気のない声に、単刀直入に聞いてみる。部屋の縁にかけてあった喪服を凝視していて忘れていたが、リビングにはクーラーがかかっていた。もったいないと思い、中に入り開け放ったままにしていた扉を閉める。


「お隣のお父さんがね、亡くなったんですって」


 リビングから出てくることのない母親に、閉めた扉の前から一歩も動くことなく聞き返す。


「え……義幸よしゆきさんが?」

「そう。今朝お店で倒れられたそうで、午後に、って」


 不意に、足下の地面が、すべて無くなって。垂直落下するときの、あのふわりとした心許ない感覚が、全身を襲った。

 けれどそれは一瞬で、次の瞬間に俺はちゃんと、自宅のフローリングの上に、両足をしっかり付けて立っていた。


「明日の夜、お通夜なんですって。祥子しょうこさんから連絡があって、もうすぐ交替だからって先に帰らせてもらったの」


 右耳から入って左耳に抜けていく言葉の意味を深く考えることができず、目の前がぐらぐらする。

 隣の部屋の、家族ぐるみで仲良くさせてもらっている人だった。小さい頃、仕事で留守の母さんのかわりに、面倒を見てもらったりした。彼はまだ、四十歳になるかならないかのはずだ。一人息子のあきらだって、まだ小学生で。

 早い。早すぎる。なんで。

 体に斜めに掛けた鞄のベルトを、手に食い込むほどきつく、強く握り締めた。





 お通夜も、葬式も、淡々と呆気なく進んだ。

 入学式以来クローゼットに入れたままだったスーツを身に纏い、今まで着けたことのない闇色のネクタイを締め、参列した。

壇上で白い菊に囲まれた義幸さんの遺影は、いつもの笑顔と仕事着で。脇に鎮座する祥子さんと晃は俯いていたが、頬を濡らすことはなかった。

 天にのびる煙突から白い煙が昇ったとき、隣にいた晃が手を握ってきて。その手を強く握り返して、そうやって応えることしか出来なかった。

 俺も、涙が出なかった。一筋も、頬を濡らすことはなかった。



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