第215話 うっかり捧げてしまった男
米国の研究室の同僚にニルスという男がいた。
北欧出身のコンピューターサイエンティストだ。
母国で博士号をとってから渡米してきた。
ある日、ニルスを見かけた妻が驚いた。
「なんてハンサムなの、ニルスって!」
言われてみればそうかもしれない。
北欧出身者は総じて背が高く金髪で瞳が青い。
多様な人種で構成されるアメリカでも、その美しさは際立っている。
ある時、研究室のメンバーはシカゴで行われた北米放射線医学会《RSNA》に出席した。
世界で最も規模の大きい学会だ。
出席者は5万人とも6万人とも言われる。
この学会は同時にメーカーと病院の商談の場でもある。
MRIや放射線治療装置など、数十億円する機器を売買するので金もかかっている。
当然のことながら学会は華やかになり、コンパニオンの美人度も上がるってわけだ。
とあるメーカーのレセプションはシカゴ美術館を借り切って行われた。
こんな美味いもの食っていいのか、と研究室からの参加者たちは喜んだ。
宿泊先でニルスとオレは同室になった。
すべてがアメリカンサイズなので、それぞれがツインベッドを1つずつ占有する。
何故かニルスはパンツ1丁と黒い足袋みたいなのを履いて寝た。
上半身は裸だが、なんせ肌が白いのでシーツの中に溶け込んでいる。
もちろん日本人のオレは上下パジャマに裸足だった。
ある日、ニルスに博士論文なるものを見せてもらった。
彼の国では、博士論文を製本し、皆に配る習慣があるのだそうだ。
何十ページもあるから様になる。
当然のことながら表紙をめくると最初に謝辞が出てくる。
研究の指導をしてくれた恩師。
論文作成を手伝ってくれた同僚や秘書。
厳しい研究生活を応援してくれた両親、兄弟。
そして最後にこうあった。
~この博士論文を愛するイングリッドに捧げます。長い間、会うことができず、寂しい思いをさせてしまいました。いつも僕を支えてくれた彼女に心から感謝します~
そんな趣旨の文言だ。
オレは尋ねた。
「イングリッドってのは奥さんか?」
するとニルスは答える。
「いや、僕は独身だよ」
オレは重ねて訊いた。
「じゃあ、ガールフレンドか何かか?」
するとニルスの答えは……
「うーん。正確には |then-girlfriend だな」
オレは念を押す。
「つまり |ex-girlfriend ではなく|then-girlfriend ってこと?」
そこにイギリス人の同僚、アーサーが割り込んだ。
「何代か前のガールフレンドだよ。こいつの前には町中の女が身を投げ出して来るから真直ぐ歩けないんだ」
なんとまあ、羨ましいというか難儀というか!
それはさておき、イングリッドの名前が刻まれたのはニルスの人生で最大級に大切な博士論文だ。
さすがのニルスもいずれは身を固めるに違いない。
その時にどんな顔で奥さんに自らの博士論文を見せるのだろうか?
不用心というか何というか。
ヨーロッパの人は気にしないのかね、そういうこと。
ちなみにオレが医学博士をとったのは結婚後なので色恋沙汰とは無縁だった。
それに博士論文を製本したわけでもない。
まあ余計な心配をしなくて済んだってことだな。




