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第86話 ICUのソファで寝る男

 その昔、研修医時代にオレは大学病院の集中治療部《ICU》で働いていた。

 麻酔科からのローテーションで全身管理を学んでいたのだ。


 当然、ICUは重症患者ばかりだったが、その半分は心臓外科手術の術後だった。

 かん動脈疾患、弁疾患そして小児の先天性心疾患。


 先天性心疾患の代表的なものは心室中隔しんしつちゅうかく欠損症やファロー四徴症しちょうしょうなどだ。

 その他に聞いたこともない病名の子供が次々やってくる。

 ただでさえ重症化しやすい小児の上に心臓外科の難病ということで担当医は皆、大変な思いをしながら術後管理をしていた。


 小児心臓外科の術者は特にきびしい人で、オレたちは「恐怖のナンちゃん」と呼んでいた。


 ナンちゃんは手術の後、いつもICUに泊まり、ソファに寝ていた。

 それはそれで立派なのだが、困るのは若い心臓外科医たちだ。

 彼らはオレたち麻酔科医とともにICU当番の一角を担いながら、同時に心臓外科術後患者の管理をしていた。

 ナンちゃんがソファで寝ているのに彼らが当直室のベッドで寝るわけにはいかない。

 仕方なしにずっと起きているか、フロアに椅子を並べて寝るか、どちらかになる。



 ベッドサイドで患者をていて「ちょっとマズイんじゃないか?」と思っていると、必ずナンちゃんが後ろから現れる。


「一体、何が起こったんだ!」


 ナンちゃんの怒鳴り声とともに、そのままICUのベッド上で再開胸さいかいきょうになったり、心臓マッサージになったり。



 心臓外科の連中は入局の時にナンちゃんに言われたらしい。


「1週間に1回ぐらいは家に帰ってもいいし、1年に3日ぐらいは休みもあるぞ」


 それだけ厳しい修行を積んでいるためか、彼らの手術は本当にあざやかだった。

 どうやったらあの境地に達することができるのか?

 将来、脳外科医を目指していたオレは真剣に悩んだ。


 とはいえ小児心臓外科を取り巻く現実は厳しかった。

 生還する子もいれば天国にされる子もいた。



 今でも忘れられないのはショウちゃんという6歳の男の子だ。

 ある日、腹部大動脈瘤(だいどうみゃくりゅう)が隣接する消化管に穿孔せんこうした。

 大量の吐血とともに手術室に搬入された。

 心臓外科による緊急手術の後に間一髪で救命された。

 しかし、その後、肝機能がどんどん悪化した。

 そして、何ヶ月にも及ぶ闘病の末にショウちゃんは力が尽きた。


 ショウちゃんが亡くなった時はICUの全員が泣いていた。

 オレも涙が出てくるのを抑えられなかった。

 大人が死んでも皆あっさりしているのに、なんで子供だと悲しいのだろうか。



 当時の心臓外科は学内外から超優秀な連中を惜しげもなく投入していた。

 彼ら心臓外科医もオレたち麻酔科医もベストを、いやベスト以上を尽くした。

 それでも負ける時は負ける。

 残念ながら、それが医療というものだ。



 ところが現実は常に想像を上回る。


 なんと、正面から入学試験を突破して医学部に入ってきた患児がいたのだ。

 生きているだけでも凄いというのに……


 人間の持つ無限の可能性には本当に驚かされる。


 それだけの根性があれば、どんな事でも成し遂げられるだろう。

 今度は彼らが医学の新しい地平を切りひらく番だ。

 オレは期待している。



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