第四章:権力への異常な執着と、保身の「守成」
最高権力者となった費禕の行動原理は、「国家の発展(漢室復興)」よりも「自らの権力基盤の維持と安寧」に置かれていた。その最たる例が、姜維の北伐に対する異常なまでの抑制である。
「費禕常裁制不従、与其兵不過万人。」
(意訳:費禕は常に(姜維の北伐を)制限して従わせず、彼に与える兵力は一万人を超えることはなかった)—『三国志』蜀書・姜維伝
一万人という少数の兵力は、魏の領土を脅かすことはできないが、国境の防衛や小競り合いには十分な数である。これは表向きは「国力温存の合理策」に見えるが、本質的には「姜維が大規模な軍事的成功を収めることで、自身の権力が脅かされること」や「大敗北による政局の混乱で、自身の安寧が崩れること」を嫌った保身の策である。
また、人事においても露骨な私物化を進めた。自らが離れた尚書令の後任として、旧劉璋政権系の人材であり、自身と親しかった**陳祗を据えた。自身に都合の良い人間で周囲を固め、実務の権力を手放さないその姿勢は、私欲にまみれた権力者のそれである。
さらに延熙15年(252年)、費禕は漢寿において「開府(独自の幕府を開き、官僚を雇う特権)」**を行う。先代の蔣琬は宰相となってわずか三年で開府を許されていた。費禕の遅すぎる開府への執着は、「先代と同等以上の権威と名誉を誇示したい」という、強烈な自己顕示欲の到達点であった。




