第三章:驚異の「業務効率」と蔣琬からの権力簒奪
尚書令となった費禕は、大司馬(軍事のトップ)として君臨する蔣琬を実務面で支えた。正史には、費禕の常軌を逸した事務処理能力が記録されている。
「禕識悟過人、毎省読書記、挙目暫視、已究其意旨、其速数倍於人、終亦不忘。」
(意訳:費禕は理解力が常人を遥かに超えていた。文書を読む時は、さっと目を通しただけで内容を完璧に把握し、その速さは他人の数倍であり、しかも決して忘れなかった)
彼はこの能力を活かし、午前中で膨大な政務を終わらせ、午後は賓客と飲食や博奕(ばくえき:賭け事)に興じていたという。これは彼の天才性を示す美談として語られるが、裏を返せば、諸葛亮のように身を削って公務に尽くす精神の欠如であり、公的な権力の中にも「私的な快楽と余裕」を求める、生々しい俗物性の表れである。
そして延熙3年(240年)、政局が動く。漢嘉郡で反乱が起き、討伐に向かった宿衛の向寵が戦死。さらに蔣琬が漢中から立案した「上庸攻略作戦」が、過去の敗戦のトラウマを持つ朝廷内の猛反発を受けた。蔣琬の政治的求心力が急激に低下したこの機を、費禕が見逃すはずがなかった。
費禕は、南中へ左遷され不満を持つ馬忠や、蔣琬の漢中進駐によって権限を削られていた王平など、蔣琬体制に不満を持つ実力者たちを水面下で結集させる。そして朝廷の反対世論を後ろ盾に、劉禅の詔勅を引き出して蔣琬の上庸攻略を頓挫させた。
結果として蔣琬は権力の座から引き摺り下ろされ(表向きは病による権限委譲)、費禕は**「大将軍・録尚書事」**という蜀漢の最高権力者の座を奪い取ったのである。後軍師という閑職からわずか八年。これは有能な先人からの美しい継承などではなく、周到に仕組まれた無血クーデターであった。




