第一章:作られた「後継者神話」と実権なき名誉職への左遷
諸葛亮が建興12年(234年)に五丈原で没した際、遺言によって「蔣琬の次の後継者」として費禕が指名されたという有名な逸話がある。しかし、これは後に編纂された『益部耆旧伝』などに見られる記述であり、史実としての信憑性には大きな疑問符がつく。
なぜなら、諸葛亮の死後、費禕は**「後軍師」**という役職に就いているからだ。
当時の軍師職は、かつて諸葛亮自身や龐統が就いた格式の極めて高い最高幹部職である。しかし、権力闘争という文脈で見れば、当時の軍師は**「実権なき名誉職(閑職)」**であった。
国家の行政の最高意思決定機関である「尚書台」のトップ(尚書令)には蔣琬が就き、人事や予算の実権を握った。一方で軍師は「軍隊に随行して作戦を立てる」役職だが、諸葛亮の死によって大規模な北伐が止まり、防衛体制に入った蜀において、費禕には「指揮する軍隊」も「決済する実務」も与えられていなかったのである。
『益部耆旧伝』は、後に費禕の派閥に連なる文立らの意図を汲んで書かれたとされており、陳寿は後に『三国志』本編を編纂する際、この「費禕を後継者とする偽りの話」を削っている。すなわち、「諸葛亮に指名された第二後継者」という大義名分は、後に費禕が権力を奪取した際、自らを正当化するために捏造された政治的プロパガンダであった可能性が高いのである。野心家である費禕が、この「名誉ばかりで実権のない地位」で満足するはずがなかった。




