第9話 最初の階段と、最初の血
許可が降りた。
市役所の木村さんから書類が届き、
義父が落ち着いた声で確認して、
義母が「本当に行くのね……」と現実を噛みしめるように呟いて、
美咲が黙って俺の袖を掴んで――
俺たちは、穴の前に立っていた。
義父の手には、二万円したトルクレンチ。
新品ではないが、大切にしていたものだ。
「これ……本当は車のために買った道具なんだぞ。
“ここぞ”のためのやつだ。
まさか“ここ”になるとは思わんかったが」
その声は少しだけ冗談、
少しだけ本気だった。
義叔父は、
バールを肩に担ぎ、深呼吸を繰り返している。
「バールは裏切らねぇ……
……はずだ」
根拠はないが、勢いはある。
俺は、
木の棒の先に解体ナイフをくくり付けた即席槍を握った。
このナイフで、
俺はイノシシも、シカも解体してきた。
「“命を肉へ戻す”作業」は、
きれいごとでは済まないことも知っている。
だからこそ――
怖かった。
◇ ◇ ◇
階段を降りていく。
音が変わる。
外の風の音が消え、
地面が湿った息をしているような静けさに変わる。
ライトをつけると、
岩のようで岩ではない壁が、柔らかい曲線で広がっている。
「……やっぱり、ただの穴じゃねぇな」
義叔父が小声で言う。
いつもより声が小さい。
それは俺も同じだった。
その時。
――ぼちゃん。
何かが水に落ちたような音。
「構えろ」
義父が短く言った瞬間。
光の端で何かが揺れた。
ゼリー。
半透明で、
ぶよぶよして、
形が生き物の意思みたいに揺れている。
義父が前に出て腕を上げる。
次の瞬間――
跳んだ。
「うおっ!?」
盾代わりの腕で受け、
義叔父がすかさず横からバールで叩く。
ぐしゃ、と潰れる感触。
だが、形が戻る。
もう一体。
そしてもう一体。
「数いるぞ!」
義父が歯を噛み締める。
義叔父が叩く。
また叩く。
それでも減らない。
俺は前に踏み込み、
槍を突き――
中に小さな“芯”を感じた瞬間、
それを刺し砕く。
スライムは、
静かに崩れ落ちた。
「芯だ。
核みたいなもんがある。
そこ壊したら止まる」
言うと、
義叔父が笑いながらも震えてた。
「やっぱ現場経験者って違ぇな……!」
次々に来るスライムを、
俺たちは少しずつ慣れながら処理していく。
義父は“受け止める壁”。
義叔父は“崩す手”。
俺は“止める刃”。
呼吸が合ってくる。
緊張は消えないが、
迷いは減る。
「落ち着け。
数は有限だ。
怖いのは“知らないまま”だ」
義父の声が、
心を支えてくれる。
やがて――
静寂。
湿った静かな空気だけが戻る。
「一旦――」
そこで。
《――コン》
乾いた硬い音。
石ではなく、
肉でも骨でもない……
何かが“地面を蹴った音”。
重い足音が、
こちらへ近づく。
義父の背後――
階段の上から、声。
「パパー!」
蓮だ。
我が子のシルエットが片手を上げている。
不思議と表情まで読み取れた。
心配している顔なのに、
落ち着いている。
「気をつけてね!
ゼリーだけかなーって思ったけど、
ちっちゃい犬が走ってくるから!」
空気が、一瞬固まる。
義叔父が、ぽかんとする。
「犬?」
義父が、小さく息を吸う。
「犬は速いから嫌だぞ……」
俺は――
胸の奥がざわついた。
(……これ、“ただの想像”じゃない)
そう思った瞬間、
影が飛び出した。
ライトが捉える。
犬――
では、なかった。
イノシシだ。
でも違う。
牙は異様に伸び、
目は赤く、
皮膚は“土の獣”ではなく“別の世界の肉”だ。
――ヤバいっ!
ヌタ場で泥の鎧を纏ったイノシシは、罠にかかった状態でも致命傷を与えるには苦労する。
猪突猛進なんと言葉があるが、あんなのは嘘っぱちだ!
臨機応変に攻撃を交わして真横から突っ込んでくる。
罠がない分、こちらが圧倒的に不利。
あっちは筋肉の塊だっ。
「くるぞ!!」
義父が盾をトルクレンチで支えて正面を受け止める。
ガチャ、っとした金属と肉の重い衝撃音。
「重い!!」
「喰らえっ!」
ドっと分厚いゴムを叩いたような音が響く。
義叔父が横からバールを叩き込むが、
それでも止まらない。
俺の体が、勝手に前へ出ていた。
(胸の奥。
心の臓。
そこで終わらせる)
踏み込む。
息を止める。
槍を――
滑らかに刺す。
骨の抵抗が来ると思ったのに、
まるで体が“受け入れた”みたいに入った。
そのまま深く。
重い体が、
倒れた。
洞窟は、
また静かになった。
義叔父が、震え笑いする。
「お前……
ほんとに手慣れてんだな……
普通は“やれた”じゃなくて、“震えるだけ”になるぞ……」
俺は息を吐く。
「震えてるよ。
でも、“やらないと誰かが死ぬ”のはもっと怖い」
☆☆☆☆
一息ついてから、さすがに今日は終わりにして、イノシシを引きずって帰る。
上から、美咲の声が震えている。
「こんなの、
たくさん出てくる世界になったら……
ほんとに、夜眠れなくなる……!」
蓮が、穏やかに言った。
「大丈夫だよ。
たまたま上まで来ただけだから。
次は、もっと下いかないといないよ」
自然に。
当然みたいに。
(未来形で言うな……)
怖い。
でも俺は笑って返す。
「なら、安心だな」
――父親の顔で。
◇ ◇ ◇
俺たちは、
地上に戻ってからイノシシ(と呼んでいいのか迷うそれ)を運び上げた。
表からは見えない位置でしっかり処理し、
道具を整え、
衛生を確認してから。
義父が市役所へ連絡する。
「……はい。
……ええ、“もし解体できるなら助かります”?
肉を少し頂けるなら、こちらでやります」
義叔父が嬉しそうに肩を叩いてくる。
「役に立つ家族じゃねぇか俺ら!」
義母は怖い顔で言いながらも震え笑いした。
「絶対に衛生守るのよ。
命守った次は、胃腸守るの!」
「わかってるよ」
俺は解体を始める。
冷やす。
洗う。
血を抜く。
腹を開く。
何度も見てきた光景――
のはずなのに。
光る。
内臓の間に、
静かに埋まっていた。
青く光る石。
呼吸みたいに、
淡く点滅している。
言葉が出なかった。
義父が、低く呟く。
「……やっぱり、
これは“あっちのもの”なんだな」
義叔父が笑う。
でも、冗談ではない声で。
「完全にRPGだよな、これ……
でも現実だよな……」
義母は、
ただ両手を握りしめて見ていた。
(日本の地面の下に――
もう一個、世界がある)
それが、
ようやく本当に理解できた。
◇ ◇ ◇
夜。
テレビはついに
「ダンジョン」という言葉を、
冗談抜きのニュースワードとして使い始めた。
俺たちは、
ただ静かに画面を見ていた。
もう他人事じゃない。
俺たちはもう――
“触れた側”だ。
蓮が、小さく言う。
「次は……
もっと奥、だね」
ただの子供の感想。
なのに、
未来予告にしか聞こえなかった。




