第2話 報告案件です
階段を前に、俺たちはしばらく黙り込んでいた。
風がないのに、下から微かに空気が流れてくる。
湿った匂い。土の匂い。だけど、それだけじゃない。
妙に澄んでいて、どこか“穴の奥に広がる空間”を想像させる匂いだった。
「……やっぱり、あるな」
義父が、眼鏡の奥の目を細める。
「ああ。夢でも見間違いでもねえ。間違いなく……これだ」
義叔父は、自分の言葉を補強するように、バールをぎゅっと握り直した。
「……見なかったことにできません?」
「できねぇよ」
即答だった。
俺も同時にため息をつく。
(――だよなあ)
これがただの落とし穴なら、全部土砂で埋めてしまえばよかった。
でもこれは違う。明らかに「作られた形」をしている。
しかも階段。
意図的な造形。
それだけで、“ただの自然現象ではない”と言われているようなものだ。
「悠斗」
義父が、俺を見る。
「……役所だな」
「だよね」
俺も頷いた。
◇ ◇ ◇
家へ戻ると、玄関の向こうで義母が待ち構えていた。
「どうだったの!? 見てきたんでしょ!? あったの!? なかったの!? どっち!?」
質問の連射がうるさい。
「……ありました」
俺が短く言うと、
「やっぱりぃいいいいい!!」
義母の声が、近所迷惑レベルのボリュームで響いた。
同時に――
「やっば」
美咲の声は小さかったけど、震えていた。
リビングのソファからは、テレビの音。
『――国土交通省は今日、新たに三十七件の“階段状の穴”を危険区域に指定し――』
義母がさっきから見ていたニュースは、まだ同じ特集をやっていた。
(日本中で増えてるのか……)
だとしたら、俺たちはただの「珍しい家」じゃなくなる。
“起こりつつある現象の一部”になる。
「ねぇ、どうするの?」
美咲が俺を見る。
その視線は、不安もあるけど――俺を信じようとしている目だった。
(ああ……この顔されると、しっかりしなきゃって思っちゃうんだよな)
「市役所に連絡。まずそれが先。
うちの敷地内だけど、これはもう個人の問題じゃ済まない」
「そうよね……」
「俺、電話してくるわ」
「頼む」
義父が頷き、義叔父が腕を組む。
その横で。
「――パパ」
ズボンの裾を引っ張られる感覚。
振り向くと、蓮が真剣な目をしていた。
「ニュースで言ってたよ。
“危ないかもしれないから、大人は絶対近づかないでください”って」
五歳児のくせに、ちゃんと聞いてるのかニュースを。
「近づかないよ。大丈夫。
パパは、危ないこと、ちゃんと勉強したからな」
「うん……」
それでも蓮は、少しだけ不安そうな顔をしたままだった。
陽翔は――
そんな空気も知らず、床に座ってコロコロおもちゃを転がしている。
それだけが、いつもの「家」だった。
◇ ◇ ◇
市役所の危機管理課は、想像以上に忙しそうだった。
『はい、階段状の穴ですね、場所は――はい、はい……。
現在、該当地域の担当が順次巡回しておりますので――』
電話の向こうの職員は、明らかに疲れていたけど、対応は丁寧だった。
状況を伝え、住所を伝え、「ゼリーっぽい何かに襲われた」ことも勇気を振り絞って伝えた。
『……ゼリー、ですか』
「言ってて自分でも信じがたいですけど、
叔父が顔面に受けそうになったらしくて」
『……本日は、そういう証言が四件目です』
「あります!?」
『ありますね』
軽く絶望した。
『では、本日中に職員二名と、県の調査担当が伺います。
近づかず、安全を確保してお待ちください』
「わかりました」
電話を切る。
「なんだって?」
義父が聞く。
「――来ます。
市役所と、県の調査担当と、たぶんすごく疲れた人たちです」
「だろうな」
◇ ◇ ◇
その後数時間――
俺たちは、家で待機することになった。
「ねぇ、これ……ニュースに映るやつ?」
義母が落ち着かず、テレビの前を行ったり来たりしている。
「映らなくていいですよ。できれば一生内緒で終わってほしい」
「ほんとよねぇ……。でもほら、またやってるのよこのニュース」
『――国は、新たに“土地の緊急管理制度”を検討しており――』
(これが、のちに俺たちの生活を変える制度か……)
今はまだ、ただの「検討案」みたいな扱いだった。
でも国が動くってことは――
本当に、それだけ“危機”だということだ。
「……パパ」
また蓮が、俺にくっついてくる。
「ニュースの穴、みんな“こわい”って言ってるね」
「怖いよ。
パパもちょっと怖い」
「でも――」
蓮は、俺の服の裾をぎゅっと握り、
「――パパがいるから、だいじょうぶだよね?」
言い切った。
その言葉が、心臓のど真ん中を突き刺した。
(……ズルい)
父親ってのはさ。
こう言われたら、
**“大丈夫じゃなきゃいけない側”になっちゃうんだよ。
「――ああ。
大丈夫にする。パパがな」
そう言うしかない。
その瞬間、
台所の方で義母が、
「ちょっと! 速報テロップ出た!」
と叫んだ。
◇ ◇ ◇
テレビ画面に、赤いテロップが流れる。
『【速報】政府、階段状穴現象の対策本部を“災害級”へ格上げ』
スタジオの空気が一気に重くなるのが、画面越しでも伝わる。
『――専門家の間からは、“未知の自然災害”と捉えるべきだとの声も――』
「ねぇ、これ……」
「……ハイレベルのやつですね」
つまり――
冗談じゃなく、本格的な国規模案件になったということだ。
そんな状況の中。
「ピンポーン」
インターホンが鳴った。
義母がびくっと肩を跳ねさせる。
「だ、だれ……?」
玄関のモニターには、スーツ姿の男性と、ヘルメットを持った若い女性。
「市役所危機管理課の者です。本日ご連絡いただいた件で――」
画面越しの笑顔はやたら丁寧で――
でも、明らかに寝不足の顔をしていた。
(ああ……この人たち、今日だけで何件回ってるんだろ)
俺は深く息を吸い、ドアを開けた。
「どうも、市役所の木村と申します。こちらは県の森下さん」
「あ、森下です。よろしくお願いします!」
木村さんは四十代くらい。
落ち着いてるけど、瞳の奥が疲れてる。
森下さんは若いが、こちらも目の下にっすいクマ。
でも、その笑顔には救われた。
「あの、それで……現場を案内していただきますか?」
「はい。こちらです」
俺はうなずき、二人を作業小屋へ案内した。
彼らは、階段を見た瞬間、
一瞬硬直し――
「……ああ、完全に“該当案件”ですね」
事務的に言った。
妙にその言い方が現実味を増して、逆に怖かった。
「確認のため、写真撮影と簡易計測を行います。
可能であれば、本日中に一旦“管理区域”として指定させていただきたいのですが――」
木村さんはこちらを見る。
「ご家族で相談のうえ、今後“どう扱うか”を決めていただくことも可能です。
ただし――
もし、ここを“あなた方が守る”選択をするなら――
国が正式に“任務”として認める方向で、制度が動きつつあります。」
その言葉に、俺たちは顔を見合わせた。
制度。
任務。
家族で守る――?
(……本当に、こういう話になるのか?)
この瞬間、
俺たちの日常は、確実に“変わり始めた”。
そして木村さんは、少しだけ表情を和らげて言う。
「――とにかく、“今は近づかない”。
それが、一番の安全策です」
義父が頷き、義叔父が深呼吸し、俺は――
(家族を守る。
それは、今日も明日も、多分これからずっと、俺の仕事になるんだろう)
ぼんやり、そう思った。
それが、のちに本当に“職業”みたいになるなんて、
このときはまだ、誰も知らなかった。




