第1話:義叔父、バールを持って帰ってくる。
玄関のドアが、壊れるんじゃないかって勢いで開いた。
「――お、おい悠斗!!」
義理の叔父の声だった。
家中に響くただ事じゃない声量に、キーボードを打つ手が止まる。
「おじさん? どうしたんですか、そんな――」
リビングから顔を出した俺は、そこで言葉を失った。
義叔父は、バールを片手に、全身ドロドロだった。
作業着には泥と油と、よくわからない青黒いシミ。
髪は汗で張りつき、息は荒く、目だけが妙にギラギラしている。
「……え、撮影でもしてきたんですか?」
思わずそんな冗談が口から出た。
出たけど、すぐに取り消したくなった。
冗談を言っていい顔じゃなかった。
「悠斗。悪い、ちょっと落ち着いて聞け」
義叔父は、バールを持った手をぷるぷる震わせながら靴も脱がずに上がってくる。
「ちょっとちょっと! そっちこそ落ち着いて! 玄関、汚れちゃうから! タオル持ってくるから、そこで待って!」
台所から慌てて飛び出してきたのは、俺の妻――美咲だ。
その後ろで、義母がエプロン姿のまま顔をのぞかせる。
「まあまあまあ、どうしたのよそんな泥だらけで……。事故? ケガは!? ねえ、救急車呼ぶ?」
「生きてます! 大丈夫です! たぶん!」
義叔父が自分で自分にツッコミを入れた。
その時点で「ああ、死ぬような事態ではないんだな」とホッとした自分がいる。
ただ、次の言葉で、俺たちは全員固まることになる。
「……スカイラインの下から、ゼリーが飛び出してきたんだよ」
沈黙。
テレビの音だけが、やけに大きく聞こえた。
義母がいつものように見ていたワイドショーが、
『――本日も、各地で原因不明の“地面の陥没”が確認され――』
ちょうどそんなニュースを流していた。
◇ ◇ ◇
俺の名前は、篠宮悠斗。三十五歳、会社員。
趣味は勉強と資格取得と、技術を身に付けること。
――と、履歴書には書いてある。
実際、仕事以外の時間はだいたい何かしらのテキストを開いている。
英語、簿記、ITパスポート、FP、危険物取扱、狩猟免許。
罠猟免許は、数年前に取った。
銃も憧れはあったが、講習だの保管庫だの警察署への申請だの……あまりにもハードルが高くて、結局「罠だけ」に落ち着いた。
罠なら、仕組みを考えて、場所を選んで、相手の動きを読む。
紙の上でも、頭の中でも、シミュレーションができる。
――そういう「考える系」が、昔から好きだった。
二世帯住宅の一階には義父母と義叔父、二階には俺たち夫婦と子ども二人。
五歳の長男・蓮と、一歳の次男・陽翔。
賑やかで、うるさくて、時々うんざりして――
でも、心のどこかで「これは、多分、俺の欲しかった幸せなんだろうな」とも思っている。
少なくとも、この日の夕方までは。
◇ ◇ ◇
「ゼリーが……飛び出してきた?」
俺は復唱した。
自分で言っておいてなんだが、意味がわからない。
「ああ。スカイラインの下にな。作業小屋に行って、オイル見ようと潜ったら――
ぬるっとしたもんが、いきなり顔めがけて飛んできやがった」
「それ、ただの猫のゲロとかじゃ――」
「猫のゲロが、天井まで跳ねるか!」
義叔父のツッコミが地味に鋭い。
「まあまあ、まず顔洗ってきてくださいよ。ねえ、お義母さんタオル――」
「あ、もう持ってきたから。ほら、これで顔ふいて。ケガは? 変なところ打ってない?」
義母は、心配性だ。
でも、優しい。
いつものようにオロオロしながら、でもちゃんとタオルと濡れタオルを二枚用意しているあたり、そういうところがすごいと思う。
「ケガは……たぶんねえな。びっくりして頭をぶつけたくらいで」
「それ結構大事ですよ!」
俺がツッコむと、義父がぼそっと言った。
「ゼリーってなんだ……スライムでも出たのか?」
「義父さん、ゲームのやりすぎです」
そう言った瞬間、隣のソファからちょこんと顔を出したのは、長男の5歳、息子の蓮だった。
「パパ、さっきニュースでやってたよ。穴いっぱいあいてるやつ」
「穴?」
「ほら、ばあば見てたやつ」
蓮の指さす先で、義母がさっきまで見ていたニュースが続いている。
『――専門家の間では、地盤沈下との見方も出ておりますが、現場では階段状になっているとの証言も――』
「「階段?」」
俺と義叔父の声が、完全にハモった。
◇ ◇ ◇
そのニュースは、こう伝えていた。
・全国各地で地面の陥没が報告されている
・中には「階段のように」下へ続いているケースがある
・安全確保のため、自治体が立ち入り禁止にしている
・国も原因究明のための対策本部を立ち上げた――
「ほらね、変な地面の穴、ってやつよ。これと同じなんじゃないの?」
義母が、落ち着かない手つきでリモコンを握りしめる。
「おじさん、その……階段、って」
「あったよ。見間違いとかじゃねえ。ちゃんと段になっててな。
しかも、下の方が……やたら広い。ライトで照らしても、先が見えねえ」
義叔父は言いながら、さっきの恐怖を思い出したのか、わずかに震えた。
「夢じゃなかったんだ……」
小さな声がした。
見ると、蓮が、ぎゅっとクッションを抱きしめている。
「夢?」
「じーじがね、知らない人に会って、びっくりしてる夢。
変なところで、変な光があって、じーじが『なんだこりゃあ!』って言ってた」
「お前、それいつの話?」
「きのうの夜」
リビングに、妙な静けさが降りた。
そんな空気を、何も知らない次男の1歳、陽翔が破る。
よちよちと歩いてきて、泥だらけの義叔父の足に抱きついた。
「だっ!」
「陽翔ッ!そっちはさっきヒネって痛えんだって」
「おっと、陽翔。汚れる汚れる。ほら、こっちおいで」
美咲が慌てて抱き上げると、陽翔はきゃっきゃと笑い、
そのまま義叔父と目が合って――なぜか、泣きそうな顔をした。
(……なんだ、この胸騒ぎ)
俺は、自分の心臓の音が、さっきから少しだけ早いことに気づく。
◇ ◇ ◇
冷静になれ。
こういうときこそ、パニックを避ける。それが危機管理の基本だ――
罠猟免許を取るときに、講習でさんざん叩き込まれた言葉だ。
「……とりあえず、見に行きましょうか」
自分の声が、思ったより落ち着いていて少し驚く。
「は?」
「もしニュースでやってるのと同じ現象なら、市役所か警察に連絡しないといけないですし。
見間違いだったら笑い話で済む。
――そうですよね、お義父さん」
義父が、ゆっくり頷いた。
「そうだな。おれも見ておきたい」
「じゃあ、私たちは家で待ってるから……」
美咲が不安そうに俺の袖を掴む。
「大丈夫。危なそうなら近づかない。見るだけ。
――ね、おじさん?」
「ああ。さすがに、さっきみたいなのがまた飛び出してきたら困るからな」
「それはもう、全力で逃げてください」
「おう」
義叔父は、苦笑しながらも、さっきより少しだけ表情が和らいでいた。
その時、蓮が俺のズボンの裾を引っ張った。
「パパ」
「ん?」
「……気をつけてね」
五歳の顔じゃないような、妙に真剣な目だった。
俺はその頭をぽん、と軽く叩く。
「任せろ。パパ、罠猟の免許持ってるからな」
「わなりょう?」
「動物を捕まえるための資格。何回も鹿とかイノシシとって来てたろ? 危ないことも、ちゃんと勉強してきたんだよ」
「ふーん……。じゃあ、だいじょうぶか」
蓮は、少しだけ納得したように笑った。
その笑顔が、なんだかひどく頼もしく見えたのは、多分、気のせいだ。
◇ ◇ ◇
玄関を出ると、夕方の空気がひんやりしていた。
冬が近づいてきている。
義父、義叔父と並んで歩きながら、俺は少しだけ空を見上げた。
(穴ができる? 階段がある? ゼリーが飛びかかってくる?)
非現実的な単語の羅列なのに、足元はいつもの砂利道で、
家の外壁も、隣の畑も、見慣れた景色のままだ。
その違和感が、逆に怖い。
「……悠斗」
義父が、不器用に声をかけてきた。
「うん?」
「危なかったら、すぐ戻るぞ。
もし本当に、ニュースで言ってたようなもんなら……これはもう、うちだけの問題じゃねえ」
「わかってます」
俺は息を吸い込んだ。
心臓が、さっきよりさらに早く打ち始める。
数分後。
作業小屋の前に立った俺たちは、全員、同じところで足を止めた。
「……マジかよ」
義父の低い声。
義叔父は、さっきと同じ場所で立ち尽くしている。
スカイラインの下。
そこに――
ニュースで見た、あの「階段」が、確かに存在していた。
コンクリートでも土でもない、不自然なほど滑らかな段差。
ぽっかりと開いた闇の穴。
下から吹き上がってくる、ほんのり湿った空気。
俺の背中に、ぞわり、と冷たいものが走った。
(――これは、ただの「穴」じゃない)
その直感だけは、はっきりしていた。
◇ ◇ ◇
このときの俺は、まだ知らなかった。
この階段の先で、
家族みんなの「存在感」が、
目に見えるほど変わっていくこと。
この家での暮らしが、
やがて日本中、そして世界中の話題になること。
国会で、「とある家族の配信者のお父さんが――」と、
何度も間接的に名前を出されるほど、有名になってしまうこと。
そして――
五歳の息子の“夢”と、一歳の息子の“抱っこ”が、
本当に誰かの命を救う力だと知る日が来ることを。
この時の俺は、何も知らない。
ただ一つだけ、はっきりしていたのは――
「……これは、報告案件ですね」
震える声でそう言った義叔父に、
俺と義父が同時に頷いたことだけだ。
――そして、その日の夜。
義母がつけっぱなしにしていたテレビで、
「全国で相次ぐ“階段状の謎の穴”」という特集が始まった。
それが、家族と、世界と、
地下の何か を巻き込んだ、長い長い物語のプロローグだった。




