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8/ワンダリングアフター

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 弓坂の提案はおよそ苦肉の策としてこれほどになくその型に填まったものである。つまり、ただ単に歩くだけ。街中を徘徊しつつ術式を発見すればその場で処理。放課後の予定はその無謀な策に費やされることが昼休みに決定されていた。放課後、校門で待ち合わせ。それが弓坂の指定した時刻と場所。遅れたら血を見ることになりそうなのでそそくさ教室を出ようとしていたところを呼び止められる。

 誰にかと問われれば当然、それは鏡岬の他に誰でもないのだが。

 そして、その時点で用件については聞かずとも見当がついていた。

「ごめん鏡岬、今日は用があって練習には付き合ってやれないんだ」

 先手を打って手を合わせる。正直、昼休みの件もあるのでこの誘いを断ることには抵抗があったがやむを得ない。

 先回りされた鏡岬は思考を読まれたことに驚きを見せることもなく、そもそもそんな感情は初めからなかったかのように、彼女にしては珍しく暗い表情をして理由を訊いてくる。けれどそれは、俺の言葉と同じく質問と言うより確認に近く、

「弓坂さん、かな?」

 素直に首肯すること以外に俺は自分の行動を選ぶことができなかった。

「まあな。悪い、また今度埋め合わせはするから、今日は見逃してくれ。……て、ん?」

 そして肯定してから気付く。

 鏡岬はいつ、どのタイミングでそれを知ったというのだろう。俺と弓坂の間にある関係をどこで知りえたというのか。それは例えば今日の昼休み。その光景を彼女が目撃していたというならば頷ける。……納得できるのと、受け入れられるってのは別物なんだな。

 細かく追求することはせずに、その感情を呑み込んだ。

「解った。うん、まあ元々、籠野くんは剣道部ってわけじゃないし、謝られるのはちょっと違うかな。いいよいいよ、気にしないで」

 飛び跳ねる笑顔が弾けて、鏡岬に肩を叩かれる。

 まるで自分が悪いことをしているかのようなそんな気分を味わうのはこれで二度目。

 だから俺は。

「サンキュ。今度また顔出すから、おまえも練習頑張れよ」

 籠野静月は少女の微笑みに背を向けて走り出す。

 まるでその裏側にあるものから目を背けるように、逃避した。

 もう何度もそれを繰り返してきたせいか、今では、その逃避の理由が解らない。一つだけ確かなことは、いつも彼女の笑顔に言い知れない不安を感じていると言うことだけで――

 いつからだろう。

 それが、畏怖に換わったのは。




「…………で、本当に歩き回るだけなんだな」

 溜息交じりに呟いた言葉が口に出してはいけないものだったんだと、吐き出してから思い出した。音の速さに劣る思考では、そうなった頃には無論手遅れなのだが。弓坂絵空の眉がぴくりと動き、流し目が刃物染みた鋭利さでこちらに向けられた。

「いや、その、なんか効率のいいやり方が他にあるんじゃないかと思ってさ」

「へえ、たとえばどんなことかしら? ちなみに、くだらないこと言ったら燃やすわよ」

 本当に機嫌が悪いから、それを言っていいものかどうか逡巡する。

「……術式のある場所に心当たりとかはないのかなって、さ」

「だからないってば。というよりも、そもそも結界の術式っていうのは根本となる式から広がるものだから、張った本人にもどこに根を張っているからなんて解らないものなの。物にもよるけど、結界っていう魔術は一つの式だから。境界を作り出す魔術が結界であって、その内部と外部を遮断する壁が魔術ってわけじゃない。式を組んだ時点で術者の仕事はほとんど終わってるってこと」

「だったらその根本ってのを壊せばいいんじゃないか。何も一つ一つ壊していく必要はないだろ?」

 我ながら見事な正論だったと思う。

 思うのだが、だとしたら弓坂がその考えに至らない訳もない。

 案の定、弓坂はくたびれた表情であっさりこちらの意見を否定した。

「それは無理ね。言ってるでしょ、結界はあくまで魔術。発動すればそれで終わりなの。十分に根を張ったらその後は自然消滅するのが普通よ。実際、そんなものがまだ残っていればわたしが見つけてる。断言してもいいけど、式はとっくに消されてるわ」

「そっか、悪い……軽率だった」

「謝らないの。そういう約束でしょ。ほら、しゃきっとする! これでも少しは期待して上げてるんだか」

 期待されても、俺だって手掛かりがあるわけじゃないんだが。条件としては弓坂と同じだし……いや、ことが魔術関連なのだから、やはり弓坂の方が頼りになるだろう。

 とはいえ約束してしまったのも事実だ。微弱とはいえ、そうなれるかは解らなくても、俺は弓坂に協力すると。

 けれど今から思えばそれは何故だったのか。

 自分の暮らす街が戦場に変わると、そう告げられたからだろうか。当然、自分の居場所が壊れることに危機感や恐怖を抱かないわけはない。魔術師達の戦争なんて他所でやってくれと思うのが普通だ。

 だが、それを自分がどうにかできるなんて――どうにかしようなんて思ったのは、なぜ。

 不思議と。

 弓坂絵空という魔術師に協力することに関して――自分が戦争に巻き込まれることに対する恐怖は、一切なかった。そう――籠野静月の中には今、『死』に対する恐れが致命的なまでに欠落していた。

 まるで、それを知っているかのように。

 未知である筈の死の概念に触れたことがあるかのように、この心は死を許容する。何も今度のことだけではないのだ。初めて弓坂と会った夜から既にそれは発現していた。あの死者との戦いの中で、俺が恐れていたのは自己の損傷や破滅よりもむしろ、目の前の少女の危機だったのだから。

「籠野くん、どうかした?」

 黙っていたのが悪かったのか、弓坂に声を掛けられる。それだけでどこか中空を浮遊していた意識が元の場所に戻ってくる。飛躍しすぎた思考が現実の、なんでもないアスファルト舗装の道路とコンクリートのブロック塀を認識した。

 なんでもない、と答えるつもりが、不意に意識に何かが引っ掛かる。

 脳の片隅が痛覚に刺激され、熱を訴える。

 吐き気を催すような違和感と現実の喪失感には覚えがあった。

「……っ。…………弓坂、そこ」

 歪んでいる。

 違和感を言葉にするならば、その一言に全てが要約されていた。

 日常の風景にあって、そこだけが確実に周囲から孤立している。白線で囲いを作ったように明らかな浮き彫りの空間。視認するだけで、あるいは近くにいるだけで肌が感じ取る異常がぽかりと日常に穿たれていた。

「え? なに、そこって?」

 弓坂は何も感じていないらしい。

 網膜に結ばれる像はなんら普段と違わない。なのに脳がそれを解析することで、内包した異常を発露するのだ。そしてその異常は、熱になり、痛みになり、意識を刺激する。

 世界がもしも白と黒だけに染まっていたならば。

 そこだけは周囲と違って他の色を持った、そんな感覚。

「その電柱、ちょっと位置が高いけど……なんか、変なんだ」

「電柱……?」

 反復して俺が指で示した電柱に近付く弓坂。半信半疑といった様子ではあるが、実際に間近に寄って件の電柱に触れたところで少女の反応が表に出た。

 はっ、とした勢いで振り返って怪訝な面持ちをこちらに向ける。その行動だけで心意を探るのには十分。どうやら俺の感じた違和感は本物だったと見て間違いないだろう。意識してもう一度、その位置に視線を向けて精神を集中する。

 消えかけていた異常は、そうすることで確固としたカタチを復元した。

「……信じられない、貴方本当に見えるんだ」

 見えるっていうのは少し違うけれど、厳密にどう異なるのかは説明できそうにない。弓坂は口元に手を当てて思案顔を作っていた。やがて、今は俺が術式を見つけ出したカラクリよりもそれの破壊を優先すべきだと判断したのだろう、再び電柱に触れて、

「………………届かない」

 忌々しげに小声で、弓坂絵空は絶望を孕んだ声音で溢した。

 うーん、と背伸びをしているが、指先はもう少しのところで問題部分に届かない。身長不足。そんな結果を体現しつつも再三チャレンジを重ねた弓坂は肩で息をしながら物凄い剣幕で俺を睨み付け、

「なにしてんのよ、さっさとこっち来て手伝いなさいよバカ!」

 理不尽な怒りの咆哮を俺に浴びせた。

「……俺にどうしろと、弓坂さん」

「跪きなさい」

「…………はい?」

「と、本当なら言いたいところだけどそれだとまだ高さが足りないのよ。この際仕方ないから、肩車しなさい」

「誰が……誰を?」

「あんたが、わたしを」

 聞いて後悔した。答えの解りきったその質問は、互いの間に鉛のような沈黙を産み出す以外に意味を持たない。弓坂も俺も、次に何を言えばいいのか解らない状態に陥ってしまったかと思いきや、やにわに弓坂の怒声。

「もたもたするな! さっさとしゃがめ!」

「あ、いや、俺は構わないけど、弓坂はそれでいいのか……?」

「うるさい。黙ってあんたは黙って肩車してればいいの。それから」

 言葉に詰まるも目は背けずに、瞳が震えているように見えるのは認識外へ、弓坂は言った。

「……絶対、上は見ないこと」

 どうやら、籠野静月に逃げ場は残されていないらしい。いざとなれば女の方が思い切りがいいとは言うけれど、それって自棄なんじゃないか。今の弓坂もその類いの心境であってこれは俗に魔が差したとか自暴自棄だとかそんな感じの考えなしな暴走であってつまり――ああ、もう。

 こうなればこちらも腹をくくるしかない。そもそも肩車程度のことでいちいち緊張していてはみっともないじゃないか。そう自分に言い聞かせて屈む。……うわ、思ったよりも色々と視界が危ない。

 弓坂の、白く適度な肉付きのした脹ら脛が、息の掛かる距離に並んでいる。首を少しでも上向ければその瞬間視界を覆うだろう光景に息を飲む。

「早くしてよ」

 ……無論そんな自殺行為は死んでも選択しない。

 無心。頭の中を空っぽにして、いざ――

 弓坂の膝に触れて体勢を固定する。

「ぁ――――」

 吐息みたいな声が聞こえた。

 構わず、聴覚を遮断して次の行程へ。掴んだ膝の間に頭を入れて立ち上がる。そしてその瞬間に後頭部を蹂躙した感覚に悶絶する。弓坂の体を肩に乗せて密着したこの状態を意識していないと言えばそれは嘘になる。上は見るなとの指示なので下方に目を向ければ肩から垂れ下がる二本の白い脚が視界に入って、極めつけには――

「ぁ……ん、やぁ…………」

「頼むから黙っててくれ弓坂!」

 俺にしてみればこの状況は、先週のあれよりも断然恐ろしい状況なのだ。だってそうだろう? 学校で飛び抜けた美人の、知り合って三日程度しか経過していない少女がスカートを履いて自分の肩に跨がっているなんてそんな状況、平然としていられるはずがない。

 そうして精神を磨り減らしながら自分の中にある制御を失いかけている感情と戦いながら俺が聞いたのは、頭の上で小さく笑いを漏らす弓坂の声だった。……こいつ、確信犯だったのか。

「共感……開始――――」

 悪魔の笑い声が止み、口調が変わる。

 今を必死に耐えていた俺は、その声に平常心を呼び戻された。浮ついていた空気が緊張する。まるで世界が、彼女に共感しているように静まり返った。頭上から降る赤い光。紡がれる細かな詠唱。繊細な声が脳に刻む。それは、赤い景色。

 赤い夢が、また、蘇る。

 黒煙が喉に絡みつき、目に沁みる。熱い。痛い。

 朧な景色はしかし普段よりも明確に、そこにいる誰かを映し出す。

 長い髪。炎に照らされて焼かれたような、そんな黒に黄金を溶かした茶色。幽かに窺える横顔の表情。赤い瞳は焼け果てる終わった絶望の世界を眺め、見通して――

「――――共感終了。術式破棄」

 停止ボタンを誰かが押した。そんな風に呆気なく、赤い夢が終わる。

「……驚いた。原理は解らないけど貴方、術式が見付けられるんだ」

 まだ夢を見ている気分で、どちらが現実かの認識も曖昧。

 答える自分の声は、思ったよりもはっきりとしていた。

「……この状況で、そんなに冷静な感想が抱けるおまえに俺は驚いてるよ」

「ふうん。でも籠野くんだって楽しかったでしょ?」

「そんなわけあるか!」

 けらけらけら。悪魔がそこにいた。

「さて、それじゃあ次に行きましょう。どうやら期待していいみたいだし、今日はこの辺りの地区に集中して探すことにするわ」

 手に入れた探知機の性能が思いの外よかったことにご満悦の弓坂。さっきまでの不機嫌さはどこに飛び去っていったのやらと思いつつ、威勢よく歩く背中を追いかけた。行く先の宛などないはずなのに、前に進むがむしゃらな歩幅はどこか子供のように危なっかしい。本当は俺が心配することなど何もないだろうのに。

 この時の赤い魔術師は、どこにいても可笑しくない普通の少女だった。




 *




 当初は難航を極めると思われた決壊潰しはしかし、終わってみれば思わぬ好結果を残していた。

 弓坂の破壊した一つ目の術式は確かに機能を停止して消滅したが、その後でも微かにではあるが違和感は残っていて、それを逆に辿ってみた結果が二つ目の術式に至ったのだ。弓坂の話では結界を維持している術式は大元の魔術から根を伸ばしたようなものだというから、それらは全て繋がっているのかもしれない。あるいは以前結界が発動した際に繋がった術式同士の回路である可能性もあるとも言う。

 術式は破棄した数を増やせばそれだけ見つけやすくなったし、違和感から不快感も引いていた。単純な慣れかもしれず、そのことは弓坂にはなしていない。

 ともあれ苦肉の策と思われたこの探索放浪はしかし、思いもよらぬ結末をもたらすこととなり、陽が沈む頃には相当な数の術式を解除することに成功していた。

「これだけやれば、この地区はもういいわね。これを後二つか三つの地区で繰り返せば確実に結界を破綻させられるわ」

 歩き回って疲れたのか、遊歩道にあったベンチに座って弓坂は満足気に言って笑う。

 けれど疲労感を隠しきれていないその表情はどこか無理をしているような印象を受けた。

「でも意外。籠野くん、貴方どうやら回路を逆引きする力があるみたいね」

「回路……って、魔術の元になるとか言ってた奴だよな」

「現象を生み出す機関、世界の感情とかそんな風にも呼ばれるわね。本来なら色の通っていない無色の回路に自己を接続して現象を引き起こすんだけど、貴方は逆の手順が踏めるみたい。つまり、回路を見つける能力に秀でているのよ。こういうことって、昔からあったりしたの?」

「いや……なかったはずだよ。こんなこと」

 強いて言うなら先週の夜。結界に異常なまでにあてられたことや、死者に対して使った魔術だとか、ここ最近に集中している。子供の頃なんかを思い出してみてもこんなことはまったくなくて、自分に妙な力があるだなんてことは思ったこともない。だからこそ弓坂に言われたことをすんなり受け入れるには抵抗があったし、納得もできなかった。

 代わりにあるのは漠然とした不安感。自分が自分でなくなるような喪失と焦燥が現実感を虫食いにする。それはここに自分がいることの認識を拒むように、自身の内側にあるものが酷く虚ろなように思わせた。

「さてと。今日はここまでにしておきましょ。続きはまた明日……かな。籠野くん、都合は大丈夫?」

「問題ないけど、なんで明日なんだ。今日まだこれからでも」

 いいんじゃないか、続く言葉を遮る弓坂の転倒。咄嗟に落ちる少女の体を支えて絶句する。何が起きたのかを理解することができなかった。唯一解ったことは、ベンチから立ち上がった弓坂が突然倒れたという経緯だけ。

「……こういうこと。自分でもびっくりしてるわ。わたしの結界処理……術式を解くってことは他とは違うから。なんていうか、わたしのやり方は負担が大きいのよ。今日は柄にもなくはしゃいじゃったから、疲れちゃった」

「そうか。まあ、それならいいけど本当に大丈夫なのか」

「平気、気にしないで」

 そう言われても。

「本当に大丈夫だから。じゃあね籠野くん、今日は手伝ってくれてありがとう。助かったわ、本当に」

 それを別れの挨拶に、弓坂はやや駆け足で離れていく。追いかけることもできたのだろうが、そうしなかったのはその行動に必要を感じなかったから。もしくは遠ざかる弓坂の背中が無言のままついてくるな、と言っているように感じたからかもしれない。

 何にしても、今日の活動はここまでで終了。

 弓坂が立ち去った後のベンチに、まだ乾き切っていない血の跡が残っていてもそれは、既に俺が気にするべきことではないのだ。

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