6/魔術師の協定
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赤い夢を見る。
それは途方もなく絶望的で、救いの欠片もない灼熱の煉獄。気を抜けば、その光景は目の前に浮かび上がった。最初、否、そもそも何が初めなのかなんて区別もつかない。唐突に訪れたそれは叫びであり嘆きであり、痛みであり肌を焼く炎熱でもある。自分以外の存在が自分の世界に干渉して、その異物は循環し、世界を侵していく。
繰り返される絶望の赤色。三日前から消しようもない、確かな映像。幻は蜃気楼のように、或いは陽炎のように揺れては知らない間に消えている。いつもそうだ。悪い夢は目覚めてから何でもなかったかのように日常に溶けて消える。それが必然。当たり前のこと。
だけど一つだけ、夢の輪郭が溶解して判別できなくなっても残留するモノがある。その一つはきっと、この夢を見ている誰かの感情。深く、世界に根付く叫びなのだろう。けれど俺には、いつも、彼女の声が何を訴えているのか理解が及ばなかった。
「かーごのくん。どうかした? さっきからぼーっとしてるよ」
「え? ……ああ、なんでもないよ」
気を抜けばこんな風に、簡単に意識を持っていかれた。
「ちょっと疲れただけだから、大丈夫だよ。つうか、おまえは元気だよな、ほんとに」
「あははー。だらしないよ、籠野くん。男の子なのに」
こいつに言われたら本気で面目ないな。
「じゃあ、あたしはこっちだから。お別れだねー」
「おう。また明日な、鏡岬」
笑い声とともに駆けて行く鏡岬。ばいばーい、とか子供みたいに手を振りながら遠ざかっていく姿に、苦笑しながら小さく手を振り返す。これが日常。いつもの有り触れた光景だ。異常の介入する余地などない。こんな当たり前に何でもない。
少し空を見て考えてみた。あれは全部嘘だったんじゃないかと。だってそうだろ。骨が折れて、全身を焼かれて、肌の焼け落ちた人間が動き回れるはずがない。そんな魔法みたいなことはありえないんだ。何もなかった。いつも通りの夜だった。全部夢だったんだ。長くてリアルな、幻想だったって、それでいいじゃないか。
そうすれば、信じれば何も変わらない。いつまでもこの当たり前の日々で生きていける。普通に、何も知らないまま、何にも気付かないまま。こうして日常を享受して迷子みたいに――何も思い出さなくていいんだから。
思い出すって、なにを。どんなことを。
砂嵐の掛かった記憶が騒ぎ出す。頭の中で叫んでいる。思い出せ、と。今は仮初めなんだと大声で。忘れている。でも何を。そんなことは決まってる。俺が忘れているのは俺自身。俺自身の、赤い夢。……なんだよ、それ。ここにいることの異変。何かが変だ。間違ってる。こんなのは可笑しい。止めろ。俺は異常だ。この存在の在り方こそが既に――
止めろ――!
――既に、異常なんだ。
「お久しぶりね、籠野静月くん」
夜に涼やかな少女の声。凛として際立つ、闇を切り裂く美しい声。それに一瞬また、あの光景を想起させられる。黒煙の空。炎上する家屋。断罪を待ち続ける一人の少女。
振り向くと、いつかの赤い夢がそこにいた。
「三日振りかしら。直ぐに会いに行くつもりだったんだけど……まあ色々あって、遅くなっちゃった」
弓坂絵空は、片手を腰に当てて、そんな風に不敵に笑うのだった。
「弓坂……?」
否定することのできない現実が目の前にあって、否定したい景色が遠くに霞んだ。夢だと忘れて消そうとした三日前の夜が、確かな形を帯びて思考を塗り潰していく。
逃れられない現実の追走。スピードを落とせば追い付かれる。背中を触られたら、その時点で鬼ごっこは終了。迫る現実の鼓動は記憶が重なりあって形成する世界に呼応して、籠野静月を八つ裂きにするだろう。
何も考えずに目を逸らした。そこからは逃げるだけ。早足で駆けていく。追い付かれないように歩を止めない。逃げる。逃げる逃げる逃げる逃げる逃げる逃げていく。ずっと遠くに、追い付かれないように。この今が続くように。
「動かないで、質問に答えなさい」
ぞくり、と背筋が氷結する。全身の血液が凍り付き、意識を鷲掴みにされた。弓坂の一言が拘束する。抗えない支配に体を、戦慄という鎖にがんじがらめで束縛される。脚がすくんだ。本気で予感する。自分は死ぬんじゃないのか、と。今からこの少女に殺されるのではないのか、と。
「単刀直入に訊くわ。貴方何者。どこの魔術師? 何が目的なの――かは、聞かなくても明らかね」
一人でどんどん話を進めていく。
魔術師。目的。意味が解らない。何を言っているんだ、こいつは本当に。何一つ理解できない。何故俺が質問されているのかも、何を訊かれているのかも。だというのに心のどこかは、魔術、というその言葉に酷く納得していた。……もし、言葉通り、魔術なんてものが罷り通るなら、俺の日常に起きていることも、そしてこの街で起きていることも全てに説明が付く。
「『法典』――それが目的ね。で、じゃあ訊くけど、どこで知ったの? 『法典』が、ここにあるって」
「…………だ、から……」
震える喉で紡ぎ出す。
「ちょっと待ってくれ。『法典』って何だ。魔術師とか、そんなことを言われても俺には訳が解らないんだ。……本当だ、信じてくれ」
「信じない。信じられない。貴方は確かに魔術を使ってた。魔術、つまり世界と共感するには相応の回路が必要になる。貴方が使役したのは神代の回路よ。偶然だなんて言わせない。……それともなに? 魔術に心得のない人間が、偶然にも神話再生なんて現象を使役した上に、偶然にも魔術師同士の戦争に巻き込まれたと、そう言いたいの?」
それ以外に……何があるってんだ。
弓坂の言っていることは何一つ理解できない。今感じているのは、生命の危機を感じるだけだ。
「まさか、協会の人間だなんて言わないでよね。そんな質の悪い冗談、有り得ないとは思うけど」
「だから違うって言ってんだろ! 何なんだよ、魔術師とか、協会とかって一体!」
「本当に知らないって言うの? これだけの証拠が揃ってて、それでもまだ嘘を突き通すと」
「状況証拠だ! 全部おまえの推測だろそんなの!」
「まだ、そんなことを言うのね。……ならいいわ。拷問とかは嫌いだから、簡単な方法を取ります。――黙ってこっちを向きなさい」
手を掴まれる。湿っているのは間違いなく俺の掌だろう。弓坂の手はむしろ冷たく、体温を感じさせない。冷血に感情を制御し、押さえ付けたような感触。首が動かない。振り向けない。
「早くして」
拒否を許さぬ言葉に、従うしかなかった。振り返らないと決めた逃避の対象に再度、目を合わせる。赤い瞳が再び視界に浮かび、集中も注意も何もかもを支配した。
弓坂の握力が強まる。直後、意識に流れ込んでくるいつもの光景。それがいつもよりも実態を持ったはっきりとした輪郭で見えてくる。今度に限っては、普段は有象無象の叫びに埋もれて聞き取れない、小さな声も聞こえた。
ごめんなさい、と涙する声がリピートを続ける。誰に謝っているのかも解らない。何を謝っているのかも、勿論。一つだけ解ることは、これは夢の中にいる彼女の泣き声で、この景色を悲しいと思うのは彼女が――
「……参ったな。あんたの言ってること、嘘じゃないみたい」
引き戻される意識。夜の街。街灯に照らされるブラウンの髪と、闇に灯る紅の眼光。弓坂は手を離し、鼻がぶつかりそうなくらいに近付けていた顔を離してこちらを見据えていた。その表情を、困惑させながら。
「魔術を使った痕跡が見られない。世界に共感した後が、回路の発現がまるで感じられないなんて……貴方、本当に魔術師じゃないの?」
「だから、さっきから何回も言ってるだろ。第一何なんだよ、魔術師とか『法典』って……ついでに、三日前のことも説明してくれたら助かる」
遠回しに言ってみるが、だけど実際、一番気になっているのは他の一点。興味の対象はむしろそこだけに向かっていると言ってもいいかもしれない。
「弓坂、おまえは何なんだ」
それが一番の関心。何よりも気に掛かり、神経を支配した事柄だった。
弓坂は表情を変えずに、黙してこちらを眺める。話していいことなのか、或いはどこまでならば話せるものなのかを吟味でもしているのだろうか。それとも俺がまだ信用されておらず、発言の裏を探っているのかもしれない。
しかし少し長めの沈黙を挟んでから弓坂は、重たい口を静かに開いた。
「端的に言うなら、貴方は魔術師の戦争に巻き込まれたのよ」
話し始めたのを切欠にして弓坂の纏う空気が若干ながら弛緩する。これまでに敷かれていた警戒体制が解かれたのか、場の空気はずいぶんと軽くなっていた。
「魔術ってのはかつての統合戦争……歴史上の魔女狩りで異端として排除された学問の名前よ。大まかな説明をするなら、世界の意思である現象に共感して使役するとでも言うのかしら。人間という現象と、全ての現象の原初にして終着である中心とを繋ぐのが回路。魔術師ってのは、その回路についての研究に生涯を費やす人間のことよ」
「……おまえの言い方だと、魔術師って連中は学者みたいなものってことになるよな。そんな奴らが、何で戦争なんてことをやらかすんだよ」
「場合によってはやらかすでしょ。だって、魔術師の目標は『法典』で、それは一つしかないものなんだから。かつての統合戦争で、追い込まれた魔術側の当代で数人存在していた魔法使い達が、自分達の知識を詰め込んだ魔術界最大の遺産。アカシックレコードに等しい回路が『法典』。全ての探究はここに至るためのモノ。だから、互いの思想がぶつかり合えば、待っているのは殺し合いよ」
だったら、それはつまり。
「……おまえも、『法典』が欲しいのか? それを奪い合って、この間みたいな戦いをしてるのかよ」
「正確には違うわね。でも粗方そんなところ。私はそうでもないけど、向こうはそれが目的だしね」
さて、と言って弓坂。そんなことよりも、と恐らくは最重要のポイントをあっさりと放棄して話を進めようとする。俺にしてみればまだ疑問は何も解決していない。本当に聞きたいことは他にある。例えばそう、あの連日の停電が彼女のいう魔術師の戦争に関係しているのか。
だが弓坂は質問タイムを設けようともせず、切羽詰まったように自らの話題を進める。不穏な空気は先刻よりもむしろ重苦しい。弓坂は腰に両手を配置し、夜空の星を仰いで溜め息を吐き出した。
「困ったわね。面倒なことになったわ」
表情を見る限り、確かに困ってそうだし、この様子だと事実として面倒なことになっているのだろう。などと、他人事を他人事のように推察していると。
「なにをバカ面してんの。これでも、あんたの心配をしてるんだからね」
「俺の……? 何でだよ。俺が魔術師だって誤解は解けたし、その疑いは晴れたんじゃないのかよ」
「わたしの中ではね。まだ半信半疑だけど。でも、この街にいる結界の魔術師はそんなこと知らない」
聞き慣れない代名詞だった。しかし俺もまったく空気が読めないわけではない。魔術師間の争いを戦争と称するのだ。ならばこの街には弓坂の他にもまだ魔術師がいるということ。結界の魔術師と呼ばれた誰かは、恐らくは弓坂の敵に当たるのだろう。
「もう少し危機感を持ちなさい。奴はあんたが『法典』を狙う魔術師だって、きっと思ってるわ。だとしたら取るべき手段は一つだけ。――貴方を殺して、障害は排除する。当然の思考よね、これ。貴方、もたもたしてたら死ぬわよ」
「んな馬鹿な。そんな、あっさり殺すなんてこと」
「相手は、マンション一つ分の人間を操って戦わせるような、そんな魔術師よ。慈悲も予断もありゃしない。邪魔なら消す、それだけよ」
魔術が学問の類いであるならば、研究者に値する魔術師はもっと温厚な連中であるべきではないかと一瞬思う。けれどよく聞いてみるとそんなことより、もっと注目すべき部分が弓坂の発言には含まれていた。
「マンションって、郊外のマンションのことか……ほら、住人が一斉に失踪した……」
「……そう、ね。その通りよ」
何故か少し迷うように言って、
「覚えてないの? なにも。もしかして全部、忘れてる?」
意味深な言葉を呪文みたいに読み上げる。
覚えていないって、なにをだ。……少し考えれば簡単なことだ。覚えていないことといえば、停電のこともそうである。その夜の記憶が、俺には見事に欠落していた。
「いや、停電のことだろ。一応それは知ってる……あれも、おまえ達の仕業なのか?」
俺の切り返しに、弓坂は僅かに唖然としたかのような顔色を浮かべてしかし、それを取り繕うように直ぐ様返事をくれた。
「達、ってのは気に入らないわね。あくまで相手が一方的に暴れてるのよ。この街全体に結界の術式を組んで、発動すれば中の人間を支配できる状況を作ってるの」
「じゃあ、三日前のあれって」
魔術師に操作された、魔術とは何の関係もない一般人だったってことになるのか。
「正確には、結界の発動に組まれる術式の中枢。共感部を何に設定しているかによって形質は異なるわ。共界系の魔術だからきっと、ある一定の感情を膨張させて、それが個人の器に余った時、溢れ出た感情を結界の延長として操作できるのだろうけど」
「その結界は、まだ」
「ええ。術式は成立してるから、また発動されても可笑しくはないわ」
危機感が駆け巡る。街全体規模の結界が発動して、以前のように一人だけではなく、もっと大勢の人間を人形にされてしまったらどうなる。この街は本当に、冗談でなくゴーストタウンに成り変わってしまう。住人全員が混沌として暴れまわる、あんな化物が何十も闊歩する街に、変わってしまうということだ。
今の場面で俺が焦っても、どうにもならないことは理解できていた。だが落ち着いてなどいられない。自分の暮らす街が、十分後には破滅しているかもしれないのだ。焦りを感じないことなど、あるはずもない。
俺のリアクションが予想に違わなすぎたのか、弓坂は呆れるように息を吐き、腕を組み直した。
「つまりそれが『法典』。戦争の素にして、破滅の要因よ。魔術師はそれの為なら平気で何もかもを放棄するわ。他者の尊厳も、自己の生存も擲ってね」
「どうすればいいんだよ。このままだと、また……!」
「落ち着きなさい。向こうはそう直ぐに動かないわよ。むしろ、街の心配をするなら先ずは自分の身を案ずるべきよ、あんた」
パニックを起こしていた思考が急に冷却された気分を味わう。ずっと巻き戻ってこの話題の冒頭。そういえば弓坂は言っていた。『法典』を狙う魔術師は、俺を自分と同じ目的で動く魔術師だと考えているらしい。邪魔者は消す。つまりそれは。
「貴方、下手したら殺されるわね。間違いなく。本当に魔術師でないなら、抵抗はできないわ。黙って殺されるか」
続いて弓坂が口にした言葉は、欠片も予想のつかないものだった。
「わたしと組んで、抗うか。それだけよ」
「おまえと……どういうことだよ。俺には、おまえといっしょに戦ってやれる力はないぞ」
「それはどうかしら。仮にも貴方が神話再生を行ったのは間違いない。それに、別にこれは同盟を結ぼうとか言ってるんじゃないの。私にしてみれば、貴方のような怪しい人間が傍にいれば監視も出来るし、本当に無関係なら守って上げられる」
「守るって……」
魔術師なんて得体の知れない存在とはいえ、ここにいるのは同級生の弓坂絵空だ。その少女に、守られるなんてことはすんなり受け入れられない。それにこいつは、放っておけばあの異形に壊されかねないのだ。
そう思うと、少しだけ心配だった。
自分が標的にされかねないという状況だというのに。どうして他人の心配なんてしていられるのか。解決する方法が一つある。弓坂の誘いを受ければ、弓坂の傍にいられるし、自分の身も安全だ。いざとなればまた、三日前のようなこともあるかもしれない。
言い訳染みた思考の末に。
俺は、弓坂のその誘いに乗った。
「解ったよ、弓坂。だけど、これはあくまで協定だ」
「協定? 聞いてなかったの、私は別に、貴方に何も期待してないわよ」
そう言われるのは少し心外でもあるのだが。
「もしかしたらまた、三日前みたいなことがあるかもしれないだろ。なんにしろ、自分の身は自分で守る。だからおまえも、自分のことを第一に考えて行動してくれ」
「バカじゃないの。だったら、あんたの言うような協定は必要ないじゃない」
「俺は俺の目的の為におまえに協力する。今起きてる戦争を終わらせるには、おまえと組んだ方が都合がいいんだよ。それにおまえの言う通り、俺が魔術を使ったのが確かなら、また力になれるかもしれない」
月が雲に隠れていた。古い街灯が点滅し、僅かに生まれた暗闇にそれを自覚させられる。
見失った弓坂の表情。次に、月が覗いたときに照らされる世界。弓坂は、仁王立ちしてジト目、睨むような視線を崩さない。試すようなその眼差しに耐える数秒の後、根気で折れたのは弓坂の方だった。投げ出すように大袈裟な、見せ付けるみたいな溜息で背中を見せて、
「わーっかったわよ。名目は何だっていいわ。だけどそんなに言うなら、ちゃんと力になってよ」
ぎろ、と首を捻って見せる瞳。
弓坂は視線でだけ悪戯に笑って、からかうように続けた。
「期待してるからね」
「……努力します」
断れる理由なんてない。期待には応えたいと思った。
何故かって。決まっている。
月光の下で楽しげに笑う彼女の姿が、思わず見蕩れてしまうくらいに綺麗だったから。その期待を無惨に裏切るような真似はしたくない。だからこれは密かな誓い。決して口には出さずとも、まるで夢に誓うかのような或いは願い。
赤い、泡沫の夢に誓う。
この少女を守ろう、と。それが、誰にしたわけでもない。一人だけの、約束だった。
だってのに。
「じゃあ、差し当たって、今後の方針については明日の昼休みにね。来なかったら、殺すから」
こんな物騒な一面を見せるから、こっちの幻想は簡単に壊れて台無しになるのでした。