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5/鏡の幕間

 /5




 来旋は朝から機嫌が悪かった。それはもうとても。

「ほんとにもう! あのね、あのさあ!」

 こんな調子で眉を怒らせ、頭部からぷんぷん蒸気を昇らせている次第である。

「もう少し心配する側の気にもなって欲しいよね! なにこの怪我! どう考えても普通じゃないよね!」

「痛い痛い痛い! 突付くな押すな触るな指差すな!」

 つまり状況がどんなものかというと、いつものごとくいつもの調子でいつものやり方で、棺継来旋は今朝も律儀に休みなく籠野静月を起床させるというありがたいのかそうでないのか全く不明な任を遂行したわけで。言っても部屋を出ることなど絶対にしない来旋の前で更衣を済ませるしかない俺は、その結果三日前に負った傷を目撃されてしまったとかそんな場面の延長が現在だった。

 背中には打撲の痕や内出血、多くの痣などが盛り沢山であり、これが今日まで発見されなかったのは逆に奇跡の類いではないだろうかむしろ。しかし実際に言えば、気紛れで来旋が俺を起こしに来て、さらに気紛れ――というかこれは既に悪ノリの部類だ――によって着替え現場を観察したことに連結する必然なのだが。

 正体不明にして原因不明の傷に、来旋はたいそうご立腹の様子で実際憤慨していたのだった。

「なんなのそれは! どこで何をしたらそんな大怪我するのよ!」

 大怪我とは言うが、これでも驚愕の回復力なのが現実だ。

 三日前。あの夜の直後といえば、こんなものでは済まなかった。打撲や内出血を各所に患い、そんなものが三日で治ってしまうのだからそれこそまさに異常だといえるだろう。

 その理由には、少なからずとも心当たりがない。

 昔から怪我の治りが早かったなんてことはないし、それこそ、この状況は魔法のようで信じられない。信じられなくても、疑って答えが出る命題ではないので考えないことにしているのだが。

 それに、答えを知っている奴は、まだ姿を見せていない。

 本当に、あの夜は夢だったのではないかと思うくらいだ。この傷が完治したら、そうとしか絶対に考えられなくなる。魔法のような、一瞬の世界を忘れて。何事もなく日常に帰るだろう。

「だから、これは鏡岬の練習に付き合ってだな」

「嘘。絶対に嘘。嘘に決まってる!」

「……」

「もし仮にそれが本当だとしたら、そんな練習には付き合っちゃダメです。今すぐに縁を切りなさい」

「な……おまえそれは言い過ぎだろ。いいじゃねえかよ、おまえに迷惑は掛けないんだからさ」

「掛けてるよ!」

 拳を突き上げ、危うくそれが俺の顎にアッパーの角度で炸裂する寸前に停止。ピンと指を立てて鼻先に突き付けられる。

「心配するんだから、わたしは。お兄ちゃんがいなくなったら、嫌なんだもん」

 真顔で睨みながら、されども上目遣いに、欠片ほどの羞恥すら感じさせぬ声色がまるで自明の理を辞書から読み上げるみたいな口調で紡ぐ。となれば……俺に反論の余地はないのだった。

「もう。最近は物騒なんだから、妙な傷は作ってこないで。知らない訳じゃないでしょ? 郊外の集団失踪。マンション一つ消えちゃうような事件が起きてるって、そんな世の中なんだよ。本当に……気を付けてよね、お兄ちゃん」

 異なる色彩の眼光が真摯に訴える。微かに潤んだ瞳が少女の胸中に宿る本気を代弁していた。

 無言のまま、来旋は顔面に向けて突き立てていた人差し指を引っ込める。代わりに、今度はそれよりも細く短い小指を控え目に立てて、そのまま視線を外してしまった。

「約束……だから。あんまり心配掛けないで、危ないことは、しないで」

 さしもの棺継来旋とて、高校生たる己の身の上にしてその行為には多少ならず赤面ものの心情を抱かずにはいられないようだった。……つうか、他人事みたいに語りつつも冷静に考えればこんなもん笑い事でもなんでもない。何故なら、指切りに興じる当事者二名の内一人は俺なのだから。

 腹を決め、お互い後味の悪くないよう目を逸らし、

「解ったよ、約束する」

 そっと指を絡めたのでしたとさ。




 と、来旋にはそんな約束をしてしまったものの、今日も俺は鏡岬の背中を追って剣道場なんかに顔を出しているのだった。いやだって、断れないんだから仕方ない。これが危ないこと、に部類されるかどうかは個人の主観によるだろうが、俺にとっても鏡岬にとってもあくまで部活。

 約束を破ったことには、ならないだろう。

 鏡岬はまず、ウォーミングアップと称して素振りを始めたのだがそれは今から三十分ほど前のことである。本人は目標一万回を高らかに宣言し、今もその長き道のりの上にいるが、俺はとっくにリタイアして道場の隅。少女の叫び声が回数をカウントするのを聞いていた。

「まだ続けんのか、鏡岬」

「え? だってまだ十分の一しか振ってないよ」

「……千回もやりゃあ十分じゃないのか」

 五百回付近で腕が上がらなくなった俺と違い、その倍近くも竹刀を振っている鏡岬はまだまだ元気なご様子。放っておけば明け方まで延々と素振りを続けているだろうことが予想される。その場合、帰っていいのかな、俺。

「ほどほどにしないと、時間なくなるぞ」

「うーん……そうだね、それじゃあそろそろ打ち合いでもしよっか。籠野くんも暇そうだし」

「いや……俺はもうちょっと休んでてもいいんだけどさ」

 筋肉繊維が悲鳴染みた痺れを拡大させる。ほら、体も休みたいって言ってるよ。

 しかしこの体力無限無尽蔵少女は、一般人たる籠野静月を許しはしないのだった。にこやかにスキップみたいな足取りで――剣道場でだから場違いとか、モラルとかが気になる――腰を下ろす俺のもとにやってきては、傍らに投げ出した竹刀を無理矢理握らせる。

 後は、解るよね? みたいな笑顔で促して自分は早々に立ち去ってしまった。

 ……とんだ力技じゃないか、これ。俺に拒否権ないじゃん。

 なかなか立ち上がらない俺を急かすように、鏡岬は畳みの上で剣を振る。ここからでも風を切る音が聞こえてくるのだから、あれに今から立ち向かうには相当な勇気が要るわけだ。加えて、こっちはステータス万全でない。下手をすれば死ぬかも、だ。

 命の危険を感じながらも、赤点滅状態のヒットポイントで魔王に挑む勇者の心境を引き摺り畳を踏む。これが比喩と違うのはセーブポイントも回復薬もそれっぽい技が使える魔法使いもいないことだ。つまり、常に命の危険と隣りあわせなのである。

 ああそうか、よくよく考えるとこれって、普通にアブナイコトだわ。

「ということで帰る」

「どういうことで!?」

「悪いな鏡岬、愛する妹との約束があるんだよ」

「もー! 籠野くんの嘘吐き! 妹なんていないくせにー!」

「……いや、実は嘘なんてついてないんだぜ?」

 やれやれ。

 冗談も罷り通ればそれもよし、とは思ってみたがやはり戦乱の神はそれを許してくれなかったらしい。どうしても俺に死地に赴けと、これは天国(ヴァルハラ)への道標かなにかなのだろうかね。などと半ば自棄になりながら畳みを踏む。

 毎回思うことだが、道場の淵と畳みの上ではまるで別世界だ。

 脚の裏に伝わる感触が違うというのも然りだが、なにより雰囲気が違う。厳かな空気が想像以上の重圧を意識に掛け、さらにはそこに自分以外の人間がいるのだ。俺は鏡岬以外の相手と剣を交えたことがないから解らないが、おそらくこの感覚は相手が強大であるだけ比重を増すのだろう。

 互いの間に充満する戦場の赴きが、両者の力量を伝播する。

 故に勝敗は剣を交える前から決まっているといっていい。

 いつも、同じ瞬間を幻視する。

 鏡岬深紗希の剣が、この体を貫く瞬間を――

「どうかした?」

 中段に構える……いや、単に剣を持って立っているだけか……鏡岬がきょとんとして首を傾げる。こちらの胸中など露ほどにも知らず、こいつはきっと俺の感じている威圧感や緊張感など一片たりとも感じていないのだろう。

「……なんでも。つうか、鏡岬、おまえやっぱり凄いよ。ただ向かい合ってるだけなのに、なんつうか、息が出来なくなるみたいな、視線が合うだけで負ける気がするんだよ。その、殺気立ってるっていうか」

「そんなことないよー」

 あっけらかんと否定する。

 鏡岬はびっくりするくらいに軽い口調だった。

「ただね、嬉しいんだ。こうやって誰かと打ち合えるのがさ。うちの部ってみんなやる気ないから。誘ってもきてくれないし。声を掛けて来てくれるのは籠野くんだけだよ」

「俺、剣道部じゃないぞ」

「いいのいいの。一緒に練習してくれるなら肩書きなんてなんだって」

 不遇の天才。

 鏡岬深紗希は、こんな場所にいるべきではない。それは何度本人が言われたか解らない、称賛の言葉。彼女の才に与えられる賛美。そうでありながら、頑なに本人はそれを否定する。一年前、全国大会に駒を進めた彼女に部員全員がそういった日も。

 少女は決して、この場所を離れなかった。

 だから。

 みんな、いなくなった。

 元より、ここには彼女の居場所などなかったのかもしれない。目の上の瘤だったのかもしれない。だから、そこにいた彼ら彼女らは少女を迫害した。自分達の居場所を守る為に。けれどそこに少女は在り続け、彼ら彼女らは姿を消した――。

「ほらほらー! 始めるよ籠野くん! 面つけないと怪我するよー!」

 つけてても怪我するって、十分に。

 不精ながらに指示に従い、構える。自分に喝を入れるように、一度だけ深い息を吐いた。そして、それが最後。後はここを離れるまで満足な呼吸など出来ない。打ち合いを始めればその瞬間、この畳の上から酸素が消失するのだ。

 それよりもずっと濃密で重厚な、一人の少女が漂わせる殺気によって。

 呼吸さえ許されない。

 故に全力。こちらもまた、力の限り剣を振るう。

 死線を踵で踏みながら、許されぬ後退に足掻き前に進む。それは生と死の鬩ぎ合い。

 衝撃。一歩。その踏み込みで距離を詰め、勢いをそのままに剣を振り下ろす。予備動作のない脚捌きから繰り出される上段。対応できたのは極限に研ぎ澄ました防衛本能による反射。音を立てて重なり合う二つの剣。そこから感じ取る、彼女の声――

「…………あたしだって、本当はみんなとやりたいよ」

 ――垣間見る死の予感の先に感じる、剣に乗せた少女の想い(こえ)はいつも泣いていた。

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