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4/火の弓

 /4




 しかし安堵の表情を浮かべていた弓坂は次の瞬間に深紅の瞳を見開き驚嘆に言葉を失った。有り得ないものを見ているように、まるで柳の下に幽霊でも見付けたみたいな顔をして愕然としている。今にも沈黙が叫び声に変わりそうな、そんな状況だった。だが弓坂が次に発した声は酷く落ち着いた――無理矢理に落ち着けた――およそ叫び声とは掛け離れたトーンで夜に落ちた。あろうことかその視線を眼下の俺へと向けて、少女は言う。

「……なんで――」

 質の悪い、うっかり正夢になってしまった悪夢を呪うように、

「なんで、あんたが、こんなところにいるのよ」

 再度確認するも、やはりこの場には俺と弓坂の他に誰もいない。ならば疑いようもなく先の言葉は弓坂から籠野静月(しずきに向けられたものであり、とはいえ俺にはそのようなことを問われる覚えも言われもない。弓坂と正面切って向き合うことさえ初めてのことだし、顔を覚えられたり、避けられたりする理由には心当たりが皆無である。

 驚愕は弓坂一人が独占し、俺は世界から取り残された感覚を味わう。目を一杯に開けた弓坂に掛ける言葉など到底見つかることもなく、とりあえずいつまでも呆け面で腰をついていても仕方ないので立ち上がった。気を失う前に比べて体がかなり軽い。全身に鉄の錘を巻き付けたみたいなさっきまでとはかなりの違いだ。

 全快した体を起こして、まだ唖然としている弓坂に声を掛けるためにボキャブラリーに検索を掛けた瞬間だった。

 何の予兆もなく――あるいはそんなものがあったなら、それは気絶前のあれだったのだろう――脳漿を干上がらせ、脳を焼き切る激痛が頭の中に沸き上がった。

 脚の指先から徐々に上ってくる痙攣。希薄になっていく意識と気力。さっきほどではないにしろ、強烈な立ち眩みと嘔吐感は加速度的に神経を蹂躙していた。点滅する視界――否、点滅ではなく瞬時に光が落とされてブラックアウト。深遠が世界を満たす。だがそれはどうやら体の不調とは関係を為さないらしく、落ちたのは視界ではなく電灯から注いでいた明かりの方であるようだった。

 道の端から端まで。並んだ幾つかの街灯は全て機能を失っている。その頭を垂れる姿が一様に不気味さを醸し出していた。

「……っ。よりによって、こんなときに」

 舌打ちした弓坂が忘我の果てから回帰して苛立たし気に首を回す。眼差しの先には道の彼方があるだけで、夜の暗闇以外の何物さえも存在していない。それでも弓坂は目を細めてとうとう表情を不快の色に染め上げ、見えない何かから逃避するように一目散に駆け出した。

 何故か、俺の手を取って。

「いっしょに来なさい。話があるから、ちょっと付き合って」

 拒否を許さぬ物言いと、是非を聞くまでもない迅速過ぎる行動。こちらには手首の拘束を解くことは愚か、苦情の一つも許されない。即座にトップスピードに乗った少女の疾駆。風を凪いで駆ける勢いが髪を虚空に靡かせる。

 不思議と、手を握られたその瞬間から、俺の不調は夢が覚めるように消失していた。



 *



 辿り着いたのは周囲に民家のない、既に廃れた公園だった。

 弓坂は長方形の敷地に入ると、走ってきた勢いと胴体の回転から生み出す遠心力を利用して俺の体を放り出した。出来うる抵抗は体に操作権が戻ってから受身を取って転がる程度であり、全力疾走したことで息の上がった俺はさらに頭の中が真っ白で何が起こったのか理解できない。

 唖然とするまま、黒い制服のスカートと長髪を翻して背中を見せた弓坂を見、

「おまえ……、いきなりなにするんだよ!」

「ここから離れて」

 走り出す前に比べて、体力自体は間違いなく疲弊しているにも関わらず、確実に復調を遂げている。自分の威勢の良さに驚いたくらいだ。だがさらに驚いたのは弓坂の態度の方で、問答無用で強制連行してきた見知らぬ公園から今度はいきなり出て行けとの発言。

 意味が解らないことだらけだが、それでも弓坂は今、俺が何と言っても耳を貸さないのだろうな、ということだけは漠然と理解させられた。その背中が、毅然として立つ少女の醸し出す空気がそれを突きつけている。

「とりあえず、ここは待ち合わせ場所だから。一時間後に集合。絶対、来なさいよね」

 肩越しに、右の瞳をこちらに向けて、

「――それまでは、絶対にここには近づかないで。折角、生きてたんだから」

 剣の切っ先みたいな言葉が、拒否を許さぬ絶対令を発した。

 未だ状況が飲み込めない。何が起きたのか、ではなくて、今何が起きているのか。その現在進行形で展開される現象に理解する余地が一切見当たらなかった。突然見舞われた気を失うほどの頭痛。意識を取り戻した視界に現れた弓坂絵空。鏡岬と別れてから今に至るまでの全てに理解が及ばない。

 自分がまだ尻餅をついた体勢でいることを知ったのは、弓坂の姿が異様に大きく見えたことが原因か。俺が腰を上げたその次の瞬間――――世界の色が反転し、静止した空間を静謐と深遠が包み込んだ。

 ぽつり、と佇む街灯が、

 唯一の光源が暗闇に溶ける。

「なにしてんのよ! 早く行きなさい!」

 怒号一喝。

 状況は解らずとも、従うことは出来よう。そんな威嚇染みた弓坂の一声をスタートの合図にして、納得の行かぬまま走り出す。今入ってきた公園の入り口を抜けて外へ――

「バカッ! そっちじゃないってば!」

 そこで、信じられないものを見た気分を味わった。

 初めて訪れた為に、俺はまだこの公園がどのような立地条件の下に存在しているのかを知らなかった。それを知ったのは今この瞬間、敷地の外に出て初めてここが他よりも高位にあることを眼前の光景に思い知る。

 小高い、その程度でしかなくとも街をある程度見下ろすことは出来た。

 だから、この。

 一切の光を欠いた異様な光景を、目の当たりにすることが出来たのだ。

 思い出す御道と鏡岬の話。普段は統合することのない意気が見事に波長を合わせた今朝。二人が揃って口にしたキーワード。停電。失われた光とそして夜に沈む死んだ街。俺の記憶にないそれが、いまここに堂々とその姿を晒していた。

「…………ッ」

 心臓が大きく跳ね上がる。過度に酸素を吸い込み、肺が痙攣を起こす。頭痛。不意に頭を抑えて膝をついてしまう。同じだ。さっきと同じ、この理不尽な痛み。動転する意識。焼き切れそうな脳。けれど今回のそれは直ぐに引いていき、後には何も残らなかった。

 ひたり。――足音を聞く。

 音の方向に顔を向けるとそこにスーツ姿の男が現れる。くたびれた様子の、仕事帰りのサラリーマンのような風貌。それは何の気配も感じさせず、どころか距離にして三メートルほどの位置に到るまで足音さえ気付かせなかった。

 そこに立っていたのは遠目にも解る、人の形をした『異常』だった。

 若干顎を上向け、虚ろな目が地平線の先を向いている。

 その、およそ生者とは思えない立ち姿の男は徐に片手を振り上げ――

「バカッ! 何ぼさっとしてんのよ、早く逃げなさいッ!」

 ――無情な拳が、人体構造を無視した速度と重みを持って俺の頭部に振り下ろされた。

 断末魔を上げることも出来ず、正面から放たれた不意討ちを何の予備動作もなく受け入れる。その一撃が頭蓋を打ち、耳に聞こえた何かの砕ける音。まだ俺に意識があるということは、それは男の拳が破砕した音だろう。地に脚がついていない状態でそれを思い知り、場違いな安堵と共に落下する。落ちたのが公園の中でよかった。アスファルトに体を打ち付けるよりは衝撃は和らぐ。

 驚くべきは本来脳が無意識に掛けている力のセーブを振り払い、出せる道理のない純粋な全力を発揮したことと、なにより反動を省みないその精神。

 否、ソレはただ、恐れという感情を失くしていただけなのだろう。

「■■、■■■■■■――――!」

 苦悶に似た悲鳴。恐怖はなくても、痛覚はあるらしい。

 獣染みた咆哮。鮮血を滴らせる拳を構うことなく、それは腕をだらりと下げて走り出した。

 一直線に、仕留め損ねた獲物へ向けて。右が砕けようとも左が残っている。ソレに取っては己の体さえ、所詮は消耗品でしかない。顎が外れたように大口を開けて、叫びが喉を切り裂くことにも構わず――

 疾走と呼ぶにはあまりに無様な暴走。だがその速度だけは、常軌を逸した快速を記録していた。

 あまりの出来事に回避が間に合わない。そもそも、さっき受けた衝撃のせいで体が上手く機能していないのだ。立ち上がって躱すなど、この圧倒的な速さの前では叶わぬ望み。俺はただソレの動きを黙視し、死を受け入れるしか出来ない。

 必殺の左拳が夜空に突き上げられる。

 凶器となった硬いそれが、再び落とされる直前に――

「――――共界(アクセス)!」

 凛然とした声が静寂と愚鈍な叫びを切り裂いた。

 途端。

 夜を照らし出す火炎の煌き。

 炎は壁となり、俺と、ソレの間に沸き立った。咄嗟の防衛本能からソレが身を捩った姿が視界に残る、だが次の瞬間に眼前を覆いつくしたのは鮮烈な赤。その異常なまでの発火は一瞬で酸素を使い果たし、瞬間的に最高温に達した後焼失する。残ったのは、全身を焼け爛れさせたヒトガタだった。

「……今の、弓坂、おまえか?」

 人間語を十年振りに思い出した、そんな気分。自分の発言が正しく通じたのかも判然としない。

 目の前で起きた数コマ程度の事象が未だに呑み込めない。思考が及ばない。

 背後に立っているはずの弓坂を求めて、強張った首の筋肉を無理矢理駆動させる。振り向けば、やはりそこには弓坂がいて、掌をこちらに向けていた。

 つかつか、と、まだ緊張感の残る顔は弛緩の気配を感じさない。その足取りは例えようもなく峻険だった。こちらに向っているのは間違いなく、この後きっと張り手の一つでもあるんだろうな、と俺はそれを当然のように理解して受けれる。

 だったのだが。

 とすんと音がした気さえする。それほどに呆気なく、弓坂の体は膝から折れた。

「弓坂!」

 自分の目の前で膝を曲げた少女に呼びかける。

 そして何よりも予想外だったのは、その時。

 柔らかな抱擁に、俺は言葉を失った。

「……頭、大丈夫。痛い?」

 ぽつりと零した言葉。首の後ろに片方の腕を回して、そしてさらにもう片方の腕で患部を撫でている。……正直、物凄く痛い。それどころではない状況が忘れさせていた激痛を、今を持って実感する。弓坂は労わっているつもりだろうが、俺には嬲られているようにしか思えない。

 だから、苦情は呑み込んで。

 もう少しだけこうしているのも、悪くないのではないかと馬鹿げたことを考えてしまった。

 痛くないかと問われて頷く。

 弓坂は満足気に、

「そっか……よかった」

 助けられたのはどっちだったのか。当事者である俺でさえ、それを疑わずにはいられないくらいに穏やかな声。互いに触れ合って感じる体温はこの時の平穏を象徴しているかの様。

 その静かな夜に――

「■■■■■■、■、■、■■■■――――!」

 ――終わりを告げたのは、死刑宣告を思わせる獣の雄叫びだった。

 弓坂が顔を上げるのも遅すぎる。腰の捻りで作った回転だけで放った腕の振り子は、最高速度に達した時点で弓坂と俺の体を吹き飛ばした。信じられないくらい簡単に宙を舞う人体。子供に飽きられた玩具が投げ捨てられるみたいに、制御の利かない浮遊はおそらく五メートルほどの飛距離をして収まった。

 二度目の衝撃には痛みさえ感じない。耐性が出来たのではなく、そんな些細なダメージに体が反応しなくなったのだ。まともに喰らえばあっさり骨が折れていただろう一撃を受けて、俺がまだ存命しているのはインパクトの瞬間に弓坂が庇ってくれたからだった。

「……ッ……弓坂!」

 痛みを無視してその姿を探す。

 俺よりも強烈な打撃を受けた少女の体は、しかし四肢を震わせてまだ稼動していた。咳き込みながらも体を起こそうとする姿に、だが俺は一目に絶望を覚える。異形の屍が覚束ない亡者の足取りで弓坂に近づいていく。死を与える拳を無情に揺らしながら。

「こ、の……やろう……!」

 走り出すと同時に転ぶ。体が限界を超えている。運動神経を伝達する脳が度重なる衝撃で麻痺しているのだ。生命活動を優先するなら、他の運動に神経を割くだけの余裕なんてとっくに失われている。

 だとしても、構わない。

 ここで倒れたままでいるなら、例え二度と動けなくなってもいい。

 だからこの一瞬だけ、動いて欲しいと願った。

 自分を庇って傷付いた少女が、無惨に引き裂かれる様子を見るくらいなら、この目はいらない。その悲鳴を聞いてしまうなら、この耳も削ぎ落としてしまいたい。何よりも――彼女を守れないならこんな体など朽ち果ててしまえばいいとさえ思った。

「……冗談じゃ、ねえ」

 脚だけではなく、腰も、腕さえも悲鳴を上げて骨は軋み出す。その全てを意識の外へと追いやる。

 限界を越えた踏み切りを一歩、そこからは逆に止まらなかった。

 策など持ち合わせない身でありながら、それでも直進する。

 何でもいい。ソレを止めなくてはならない。頭にあるのはただそれだけ。

 心臓の鼓動は警告を超えた信号に変わり全身に激痛を奔らせる。一歩ごとに細胞が焼き切れる。痛みに意識が飛びそうになっては、新たな痛みにそれを引き戻された。

 ソレが腕を持ち上げる。目が壊れてしまったのか、その腕が何十倍にも膨れ上がったように見え――事実、膨張した筋肉が血管を破裂させながら巨大化している。子供の背丈ほどにまで肥大した腕が、鉄槌のように振り下ろされる。

 思い知る、己の無力。

 目に映る世界と、本能が告げていた。

 ――叶うべくもない。

 其はおまえでは手の届かない域にあるモノ。

 その少女も、本来ならばその因果に介入することさえ許されない。

 故にただ絶望して悲嘆せよ。

 彼女を救うなどと、思い上がりも甚だしい――

「ふざけんな……このやろう――――!」

 駆け出す脚が一歩ごとに致命的に壊れていく。それを自覚しながら走る。

 鉄槌となった腕が振り落とされる一瞬――少女とソレの間に身を捻じ込む。

 そうすることで、己が身を少女の盾として差し出した。

「そ、んな……なんでよ。なに……なにをしてるのよ!」

 誰かがそう罵倒した。

 叩き付けられる人外の腕。それで体が折れた。腹から地面にぶつかって、その衝撃に反発して一度だけ断末魔のように跳ねるのを感じる。まだ生きているのが不思議なくらい。それはどうしようもないほどの止めとなる――そのはずが、幸運なのか不幸なのか、まだ、どうやら起き上がれるらしい。

 なら、立たないと。

 よかった、と。そう言ってくれた少女を失わない為に。

 この命が続く限り、何度でも立ち上がる。

「■■■■■■■、■■■■■…………ッ!」

 派手な攻撃の代償は、より深刻なフィードバックをソレにも齎していた。動きを止めて苦痛に咆哮する。ソレの肥大した腕が破裂し、切っ先を尖らせ肉片を付着させた白い骨が姿を現す。それは歪な形をした剣のようにも見えた。

「■■――――■■■■■ッ■■■■……!」

 叫びと共に振るわれる白い骨剣。咆哮はいつから叫び声に変わったのか、ソレの声はこの一撃に関して言うならどこか泣いているようにも聞こえた。機能性をなくして破裂した腕を、果てて尚行使する地獄の激痛。喘ぐ声が太刀筋を乱す。でたらめな一刀を躱すと、すぐに視界の外から第二撃、降り下ろした白骨をそのまま振り上げただけの凡庸な一振りを本能で避けた。

 その次も。

 またその次も。

 夜に流れる白い一閃を悉く躱し続ける。

 限界を超えているのはどちらか。既に死んでいるのはどちらか。とうに満身創痍などという言葉では生温いほどに体は朽ち果て、激痛が意識を強制シャットダウンさせようと襲ってくる。おそらく、それは互いに同じだろう。

 敵にも痛覚はある。だが、それは止まらない。その脳はブレーキを壊された暴走機関。

「っ……こいつ……!」

 また攻撃を避ける。しかしそこには焦りしかなかった。これだときりがない。

 持久力比べでは勝ち目がないと判断して――ならばどうするのか――当然の帰結として至る疑問。そして予め用意されていたようにコンマを置かず導き出される解答。止まらないならば止めるしかない。敵が剣を持つならば、こちらもまた剣を執って打倒する。

 出来ないはずなどなかった。こんなものは恐れるに値しない。ソレの敗因は、剣を執ってしまったこと。その土俵に上ってしまえば、人智を越えた怪力も、条理を無視した永久稼働も意味を為さない。ヒトの戦場においてはその刃の前に、獣の牙はガラクタも同然。

 だから問題はその土俵に、どうやってこちらが上るかだった。

 剣が欲しい。いいや、剣でなくても構わない。それに比類する何かがあればこの亡霊を打ち負かすことが出来る。

 満身創痍の体、色をなくした視界。既に籠野静月は限界を迎えていた。呼吸は内側から自らを焼き尽くす炎熱となり、筋肉の動きは神経系をぶつ切りにする鋭利な刃物。そんな果てる寸前の命が一つ、不意にそれを捉える。

 それは、季節外れの蛍のようだった。色彩の失せた視界に一つだけ色を持った小さな光。幽かに揺れるそれは理を穿った幻想の鍵穴。――その先にある何か。それに手招きされるように手を伸ばした。過呼吸に肺と心臓を燃やしながら、腕の駆動に体を殺しながら――

 蛍は、手にした途端に光量と形状を変えた。剣のようにも、槍のようにも、或いは弓のようにも見える。だが形などどうだっていい、これが眼前の敵を妥当しうるものならばその名は問わない。

 果てる寸前の――否、果てた後の体で光を奮った。

「あ――――、がぁ……あ……!」

 最後、交差した二つの砕ける様子と、自分自身の終わりを見た。今まで自分を動かしていた糸が完全に切れる音を聞いた。

 何が起きたのかを理解することは許されない。呑み込めるのはこの目に映る今この時の現のみ。片腕を失った異形の獣の体が遠くに弾けとんだのを確認して、そこで全身から力が抜ける。元々立っていることなど出来なかった体が当然の結末に辿り着く。

 支えを失った体が崩れていく寸前、それを支えた少女の矮躯。弓坂絵空が立ち上がって、俺に肩を貸してくれたんだと、判然としない意識で悟る。決して長身とも大柄とも言えない、少女の基準に照らし合わせても標準程度の体格が今はこの上なく頼もしく思えた。

「あんた……今のなによ」

「知るか…………俺だって訳がわからないんだよ」

 全ては流されるまま行ったようなことに過ぎない。俺自身にとってはさっき何が起きたのかさえも明らかではないのだ。鏡岬の練習に付き合ったお陰で、剣を模した骨を躱すことは容易だった。確かにそこまでは明瞭なのだが、問題はその後。あれと対峙できるだけの何が必要だと思いそして、その次には――

 知っていたのは体ではなく、心の方。本能とは違う、なにか別の己が世界に刻まれ根付く万象の理に体が呼応したような、そんな感覚だった。

「……そう。解った、じゃあ訊いても無駄ね。おっけ、今はその話はなしで。そもそも、そんな余裕もないからね」

 顔を背ける。見据える先には片腕なき亡者の屍。死に体がまたしても立ち上がり天に吼えていた。

 横顔。灯る眼光に強い意思を通わせて、

「ありがとう。貴方のお陰で色々解ったから――随分助けられちゃったけど、あれは私が処理する」

 少女は笑う。赤い瞳を自信に満ちた輝きに煌めかせ。

「処理するって……どうするんだよ、あれ、腕がなくなっても平然と……じゃないけど動きに支障はないみたいだぞ。心臓を燃やしたって多分」

「意味ないでしょうね。そもそもあれは心臓なんて必要にしてないもの。あれを動かしてるのは別の魔術(モノ)よ。だから決して止まらない。あれに人の死の概念は当てはまらない。生きた死体(リビングデッド)とかの類いじゃないわね。敢えて言うなら人形。あれを止めるにはね――」

 ゆらり、と虚空に手を翳す。

「――全部、焼き払ってしまうしかない」

「……出来るのかよ、そんなこと。さっきは火傷くらいにしかならなかっただろ」

「さっきはね。でも大丈夫、あれは『悲鳴』を上げてたから。つまりは、あれにも『感情』は残ってるんでしょ」

 吼えた屍の怪物が走り出す。都合五十メートル近いその距離を、あの化物は一息に駆け抜けるだろう。代償は踏み出すごとに脚から飛び散る鮮血の飛沫と苦悶の絶叫。残った腕の肉が溶け落ち、剥き出しになる白骨の剣。先刻と同じように、今度は骨を膨らせて大剣を造り出す。

 そんな死神の疾駆を前にしても弓坂は口元に笑みを浮かべていた。

「だったらそれを貰う。――どうせもう感情なんてあっても苦しいだけだろうから」

 瞳を閉じ、

「私が、世界に還してやるのよ――!」

 人外の獣と隔てる距離は数十メートル。その間合いは二秒後には零となる、安全圏とは到底言えはしない短距離。むしろ、獲物を狩る獣にしてみれば限りなく必死の間合いとさえ呼べる。

 絶対的な死の接近を前にして、弓坂はしかし目を閉じていた。

 彼女にとっての敵は外界にいるものではなく、内側に存在しているかのように。固く目を閉じ、精神を統一する姿は内側の何かと戦っている様。――遠い遠い自身(セカイ)の果て。弓坂絵空という現象の始まりよりもさらなる深層の絶対意思に――求める先は世界の果て。何もかもが存在し飽和した無色の空間。万象の中心。なにもかもの原初を遡る世界との共鳴。

 少女は告げる。

 世界に呼び掛ける。

「“応えよ”」

 人外との距離は隔てて十五メートル。猶予は既に一秒未満。

 だがそれは。

 弓坂絵空にとって永遠にも等しい無限の刹那。

「“我は汝と共に在る者――汝、その意を司る容を我に捧げよ――――”」

 条理を覆す、三千世界の果てより吹き荒ぶ理の風。少女の髪を巻き上げ、光のない夜に幽かに灯る紅の煌めき。

 閉じた目を開く。

 翳した手を、目前数センチの亡骸に突き付ける。一瞬、その手が焼けた皮膚に触れ、猛獣の突進はあっさりと往なされた。翻る体、浮かび上がる赤い紋章、泣き叫ぶように悲鳴を上げる最果ての旋風。

 最後、弓坂絵空が詠唱を紡いだ。

「共界回路、接続完了(アクセス)

 それは彼女自身に掛ける呪いの暗示。世界と自己を繋ぐ鍵となる言葉。

 轟、と響く風の音が最後。旋回しながら拡大した赤い円の魔法陣が光の粒子へと拡散する。それはまるで夏の夜空に拡散する花火のようで、散っていく光は舞い落ちるようにひらめきながら消えていく。

 終始虚空を捉えて固定されていた腕が射程を絞る。

「……これで」

 どくん、と心臓が脈を打った。

 弓坂の手に集まる超常の炎。それは渦を巻き、加速し、号令が下る瞬間を待っていた。

「終わりよ――!」

 振り絞られた紅蓮の眼光。眼差しが定めた一点にその焦点が重なり、放たれる火炎の柱。槍のような切っ先が旋回し、大気を焦がしながら直進する弾丸染みた速度。躱せる道理もない。――業火の切っ先が亡骸の胸を穿つ。突き刺し射抜き、貫通した紅蓮の煌めきは彗星のように線を引き空へと昇った。

 それが終わりの瞬間。

 胸の真中を穿たれた廃人は、自らを操る糸の切れた人形のように二度と動くことはなかった。



 †



 胸に開いた穴は、徐々にその大きさを拡げてそれを飲み込んでゆく。やがて体の半分ほどを砂塵へと変えた異形の屍は、まるで初めからそこに存在していなかったように欠片ほども痕跡を残さず風に吹かれて消える。 公園に訪れた静寂が、大気と土の焦げる臭いの中で蟠っていた。

「弓坂、おまえ今のって……」

「ごめん。この話はまた明日でいいかしら?」

 背中を向けて公園の外に出る弓坂。慌てて追いかけると、見下ろした街にはぽつりぽつりと光が灯り始める。夜が明けていくように、光の粒が各所で生まれ、日常が再起していく。弓坂は口を引き結んでその様子を眺めていた。

「お互いに、ここで追求し合うのは上手くないでしょう? それに、訊きたいことがあるのも。だからここは一度休戦。……そうね、明日にでもこっちから出向くわ」

 そこまで言ってようやく振り返る。弓坂の赤い目はどこか胡乱で、澄んでいるのに底が見透かせないような深い色を帯びていた。自身がそう宣言した通り、その身はとうに疲労困憊に達していたのだろう。所々の破れた制服の隙間から覗く傷付いた肌。砂埃に汚れた姿。それが、自分を庇った結果なのだと思い知る。今の俺に四肢があるのは、弓坂がここにいてくれたからだった。

 そのことを自覚して一言でも礼が言いたくなって口を開くと、同時に激しい目眩が意識を襲った。立ち眩みが脳を揺さぶる。俺は誤解していたし、弓坂は間違っていた。満身創痍だとか、限界寸前どころの話ではない。とっくの昔に、この体はそれ自体が存在を保てないくらいに、いつ朽ち果て崩れてもおかしくないほど、限界なんてとっくの昔に越えていたのだ。

 立っていることも出来ずに崩れ落ちる。膝立ちの状態で弓坂を見上げ、霞む視界に赤い瞳を映し出した。弓坂はただ黙ったまま、空前の灯火のような意識で足掻く俺を見据えながら言う。

 俺は、

「ほらね。……まあ、今は休んでなさい。大丈夫よ。きっと――だっては貴方は昨日も――」

 最後の声を、聞き逃す。

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