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3/赤い邂逅

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 鏡岬の自主練に付き合ってから帰宅する場合、通常の下校時間よりも約二時間ほど遅い時間帯での帰宅を余儀なくされる。普段より熱の入った本日の鏡岬は下校時間までを全て剣を振り回すことに費やし、片付けに入ったのは既に下校時刻を回った頃。教師に見付からないよう下校するのはなかなかに精神を磨り減らす行動だった。

 我が校の剣道部はその実力を全国クラスとして名高い。……というのも、ある一人の天才が一年次から全国大会に駒を進めたことからそんな風に知られているからである。もっとも、全国級なのはその天才少女一人だけで、他は顧問も設備も部員も凡庸以下なのだが。今日のような自主練は酷い月は週に一回ほど設けられる。

 自主練とされた日には一人の部員を除いて、他の部員はおろか顧問まで顔を出さないというほどの徹底振りだから部外者の俺でさえ呆れるほどだ。これまで両手の指の数以上は練習に付き合ってきたが、一度だって顧問を見たことがない。最初の頃は見付かって注意されるんじゃないかと危惧していたが、今では仮に竹刀を握る様子を目撃されても黙認されるんじゃないかと思っている。

 この段階で例の天才少女が誰であるかは既に語るべくもないだろうが、それでもあえて名前を出すならばそれは、今俺の隣でコーヒー牛乳をストローから吸い上げているか鏡岬深紗希(みさき)である。

「いやー、やっぱり籠野くんと打ち合うと練習になるよ。ほんと、いつかの全国大会を思い出しちゃった。ねえねえ、この際だから剣道部正式に入部しちゃいなよ」

「冗談言うなよ。毎日こんなのに付き合ってたら俺がもたねえ。おまえ、先週よりまた剣が重くなってたぞ」

「へへへ、人間は努力を欠かさないことが大切なのです。毎日素振り五千回してるもんねー」

「……そいつはお見逸れした」

 こっそりとまだ痛む掌を見下ろす。今でこそ若干の痺れしか感じないが、練習中は焼け付くような痛みに何度も握力を失いかけたほどだ。女子の振り下ろす竹刀にこれほどの重みがあるというのは本当に信じられない。細身で小柄な鏡岬のことだと尚更。自重の倍は剣に乗っているんじゃないだろうか。

「おまえ、もっと別のところでやった方がいいんじゃないのか。うちだと設備も何もかも不遇だろ。……ていうか学校側ももう少し援助していいのにな、他はあれでも一人は全国区なんだからさ」

「……それ、ちょっと傷付くな。いいよあたしは。剣道ならどこでも出来るし。それに今年は一回戦で負けちゃったしね。『市坂の蒼い槍』って異名を持つ子にやられちゃったんだよ」

「らしいな」

「ほんと凄いんだよ! なんだっけ、ぐにぐにるーだっけ、ほら、神話の槍」

 グングニルだと思う。

 確か北欧神話の、必中必殺の槍だっけ。

 ……それってさ、槍じゃん。こいつがしてるのって剣道だろ。

「……無理もねえよ。そいつって今年の全国覇者だろ? なら気にすることない」

「あはは、ありがとう」

 照れ笑いも謙遜。

 不遇の天才は今日もこんな風に笑っている。

 夜の街灯が一度二度点滅。灯りを失った空間に闇が一瞬満ちる。その闇が、深遠が、昨晩はこの街を満たしていたという。一瞬でさえも冷え込むような暗闇にヒトの本能が反射的な震えを催すというのに、これが長時間となると正直堪える。

 終わらない夜に絶望を孕ませて。

 世界が廻る終焉の旅路。

 理から隔離された閉鎖空間が充満した暗黒を果てまで曇らせて、混沌と渦巻く夜の街――――その中に灯る、切り裂くような紅蓮の灯火。輝きは天に昇る柱となって世界を焼き、あらゆる現象を灰塵へと変える。赤い円陣の中に佇む少女の瞳と、螺旋に舞い上がる炎が――――

 ……なんだ。

 瞬きを五回。その後たっぷりと十秒を忘我で過ごし、ようやく平常に帰還した。目を開けたまま、意識を保ったまま夢を見たような奇妙な感覚から開放されると、その事情を知ってから知らずか鏡岬が言った。

「そういえばさ、学校では言わなかったけど昨日って停電以外にも火事があったんだよ」

 この様子だと、俺が妙な意識の錯乱を起こしていたことは気付かれていないようだ。

「火事……?」

「うん。あたし、お風呂入りながらだったけど外が一瞬すっごく明るくなってさ。気になって窓開けてみたらね、街中真っ暗なのに一箇所だけ真っ赤に光ってる場所があったんだ。街全部停電だから、あれはきっと火事だよ」

「それ、どこが燃えたんだ?」

「んっとね……方角だと郊外の、マンション辺りじゃないかな。でもさ、詳しいことは新聞にも載ってないしニュースにもならないし。お父さんとお母さんも知らないってさ。籠野くんも……知らないよね?」

「知ら――」

 ――舞い上がる条理を超えた世界の果てより吹き込む熱風。

    紅に照らされた少女の儚い笑顔。

    風に靡く髪が火の粉を散らす。それがまるで、刹那に煌く花火のようで――

「――ない。……知らない」

「だよね。……ってあれ、どうかした?」

「いや、なんでもない、と思う」

 多分、こんなのは意識の混乱でしかない。昔見た夢が脳裏を過ぎって、それがあまりに昔の曖昧な記憶だったことから現実と摩擦して気が滅入ってるだけだ。

「そっか。それならいいけどね。あっ、あたし次の角曲がるからね」

「大丈夫かよ、なんなら送ってくけど」

「だーいじょうぶです。今日は練習にも付き合わせちゃったし、疲れてるだろうから。それに今日は竹刀も持ってるしね。ふふん。蒼い槍にでも襲われないと、あたしは負けないよ」

 二つに分かれたアスファルトの三叉路。躍り出るように鏡岬は駆け出す。

 たたた、と夜に響く靴の音。とても剣道具を担いだ練習後の少女がする動きとは思えない。

 丁度二又の分かれ道まで走っていった鏡岬はそこで一度振り返り、背走しながら夜に漂う微かな光の全てを収束して灯る笑顔が月と対を成す太陽みたいに輝きを増す。距離なんて十メートルも離れていないのに、大袈裟に手を振り回す無邪気な姿が疲れを忘れさせた。

「ばいばい籠野くん! また明日ねっ」

 朝から晩まで慌しい少女は、その二秒後に翳りなき笑顔のまま背中から転倒するというベタなオチをつけて、それでも消えない笑みを満面に去っていくのだった。



 †



 夜は、空の果てまで続いていた。

 冴えない意識と疲労した体を引き摺るようにして家を目指す。その足取りが数分前よりも重くなっているように感じ始めた頃には、自覚してしまってそれは紛れも無い事実へと変容していた。鏡岬と解れてから脚に鉛でも繋がれているような気分だ。

 気付けば呼吸すら落ち着いていない。肌寒さに身を震わせると、背中をびっしょりと濡らす汗が体温を奪っていることを自覚した。だというのに、寒さを感じているはずの体は内部で異常なまでの熱を発している。人間の命が心臓とは別の何かとして存在しているなら、その何かが強烈な熱に浮かされているみたいだ。

 意識は溶けるように、鉄が過熱されて形状を変える様に似て流れ出す。

 心中の空白にどろどろと流れ込む泥のような熱が、意識の支配権を剥奪する。

 そして、この世界の中で脚が震え、立っていることさえ出来なくなっている自分がいた。

 視界が反転する。原色が瞬き点滅し、脳が転がるように揺れる。胃の腑が本来ありえない異物を飲み込んでしまったときのように、防衛反応を起こすみたいに中身の全てを吐き出そうとしている。

 寒さと熱さ。矛盾する二つの感覚が体を蹂躙し、

 世界の軋轢の中で消えていく意識が断末魔の激痛を走らせた。

 ぐらり、と背骨が消失した気分を味わう。

 脱力の極致に達した体が、一切の抵抗を許さず地に伏した。

「…………ねえ、ねえちょっと」

 声が聞こえた。

 瞬間、それまでが嘘のように生命機関が正常に循環を開始する。エラーを起こしたシステムがエンターキー一つで再起動するみたいな、それは本当に魔法のような一瞬。繋ぎ止めた意識は確かにここにあり、世界は普段通りの平静をしてここにあった。

「ねえってば。大丈夫なの? こんなところで座り込んでたら風邪引くわよ。ねえ……聞こえてる? もしかして寝てるの?」

 苛立ちと憂慮を含んだ声が、頭の上から降ってくる。

 先刻の冷汗とは別の冷たさを背中に感じて、自分が今座り込んで路上のブロック塀に凭れていることに気がつく。乾いた衣類から、もしかしたら自分が意識を失っていたのだと自覚した。それも短時間ではなく、濡れた服が乾燥するくらい。

「……あ、えっと…………大丈夫、だ」

 顔を上げる。閉ざされていた視界が開かれて、そこにいる人物を、声の主を瞳に認めた。

 そして、おそらくその姿を生涯永遠に忘れることはないだろう、と再起した意識が漠然と理解する。夜の世界に立つ少女の姿を、ただ美しいと感じた。微睡から醒めた意識がまだ不安定だったからだろうか、その姿に心を揺らされる。金色を纏うような、月を背にした姿が綺麗だったから、瞬間呼吸すらも忘れて言葉を無くした。

 少女の髪が風に流れる。虚空に翻る明るい色の髪。黒とは異なるその色は、自称通り天然のものなのではないかと、疑う余地をこちらから奪い取る。流麗な髪に引きを取らず、少女の風貌もまた端麗を極めていた。

 凛とした顔立ちはしかし、それでもまだあどけなさを残す目元や輪郭をして、その歳の少女に最高峰の美麗を与えている。気の強い眼差し、長い睫、引き結んだ形のいい桃色の唇と――そして異彩を放つ赤い大きな瞳。

 宝石のような輝きの瞳は、後天的に色付けされたようには見えず、髪と同様に生来備え持ったことを主張する透き通った色を帯びている。深く深く、真紅の瞳が放つ赤い月光染みた眼差し。美しくも苛烈であり、そして雅な輝きのそれが何よりも異端であり、少女を世界から隔離するかのようだった。

「そっか、よかった」

 そう言って、本当に心から――弓坂絵空は月の下で微笑んだ。

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