26/世界の色、彼女のイロ
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朝焼けが近い。夜更けを過ぎた地平線は既に黄金を滲ませ、夜の終わりを告げていた。
少女は屋上の縁に立ち、街を見下ろしている。自分の守ったもの、守れなかったものがそこにはあって、きっと今、その清算を彼女なりに行っているのだろう。その小さくも尊大な後ろ姿を、俺は言葉もなく見守った。
空が見たいと弓坂が言った。だから最後の時間をこの場所で過ごすことにし、今に至る。けれど交わす言葉は一向に見付からず、気付けば夜明けの色を眺めるだけで時間は過ぎていた。やがて冷たい風が吹き抜け、屋上に音を生み出す。弓坂は、
「終わったわね。もう直ぐ協会が来る。それまでに、全部終わらせることができてよかったわ」
別段話すこともなく、弓坂自身も、その言葉はこの沈黙に気まずさを感じて口にしたのかもしれない。
「そうか」
なのに、こんな言葉しか返せない自分が少し憂鬱だった。本当はもっと言いたいことがあったのに、それが言えないのは、思いを口に出してしまえば未練が残る気がしたから。……こんな時にまで、まだ先にある別れを惜しむ自分を律する。今はもう、答えを出したのだから、未練なんて持ってはいけない。
そうすることが、少しの間とはいえ共に戦った彼女への感謝と労りだと信じている。
「こんなことで『法典』の罪は消えないけど、この街を守れてよかった。……でも一つだけ、謝らないと」
黄金を背にして振り返る。風に流される髪は透き通り、朝日を受けて輝いていた。その姿があまりに綺麗だったから、気を抜いて彼女の言葉を聞き逃しそうになる。
「ごめんなさい。わたしは、あなたを殺した。守りたいと、思ったのに。あなたは、わたしを守ってくれたのに」
その言葉に、苛立ちを覚えた。自分が殺されたとか、そんなことなんてどうでもいい。――謝らないで。俺にそう言って、そんなルールを取り決めたのは弓坂自身だ。だからこんなものは彼女の言葉ではなく、弓坂絵空という少女がここにいない気がして、それが嫌だった。
もしかしたらそんな心境が顔に出ていたのかもしれない。弓坂はくすりと笑うと、晴れやかで満ち足りた風に笑顔を見せ、
「なんて――わたしらしくないか」
いつもの、彼女らしい態度で悪びれずに笑うのだった。
その様子に安堵する。戦いが終わって、ここにいる少女はやはり籠野静月が好きだと感じた弓坂絵空で、あの夜から何も変わっていない。いつでも自分本意で、勝手で、そして何よりも甘く、自分を放り出して他人の心配をするようなお人好し。
よかった。と言って、抱き締められた記憶が今も消えない。思えばあの瞬間から、俺は彼女を守りたいと願っていたのかもしれない。いや、もっと前から――全ての始まりの、このマンションでの災害から、ずっと。
「おまえらしいよ、その方が」
嬉しかった。
いつも通りの彼女がそこにいて。
自分が今どんな表情で少女と向き合っているのかは少しだけ予想ができた。思わず緩んだ空気に、口元が微笑んでいる気がする。だって、弓坂がそんな風に笑っていたから、きっと俺も同じだろう。この心は、彼女に感化されているのだから。
「はあ――疲れた。ねえ、籠野くん。ほら見てよ、空、すっごく綺麗だよ」
心からそう思っているのだろう。脈絡もなければ、口調もどこか無垢で幼い。幼少期の思い出に語るような口調もしかし、言っていることは確かにその通りだった。本当に綺麗な空。
ふと思う。
――どうして、世界はこんなにも綺麗なのだろう。
それは、ある白い少女から貰った疑問。彼女は答えを見つけたと言った。どうやら、俺も答えに行き着くことが出来たらしい。今この瞬間にそれを自覚した。
「弓坂、おまえはさ、何で世界はこんなに綺麗なんだと思う?」
「なにそれ?」
「なんでも。ただ思っただけだよ」
ふうん、と興味も無さそうに言う弓坂。
夜の終わりが近い。空は次第に夜を排除し、完全に朝へと移り変わろうとしていた。こうして話していられるのも、後僅か。そう思った時、
「やっぱり、わたしはわたしが許せない」
弓坂が言った。
「何度考えてもそう。それは決して変わらない。わたしがわたしで在る限り、ずっと、許すことなんて出来ないと思う。それが、わたしの答え」
「……弓坂。だけど、それじゃあおまえはいつになったら報われるんだよ。おまえは十分、色んなものを守ったのに」
「でも、滅ぼした数には及ばない。それに今度のことは何から何まで、あなたに助けられちゃったしね。本当、ダメダメよ」
弓坂が手摺に掛けた指を離す。こちらに向かって歩いてくるのは、もうこれ以上話している時間がないと言うことだろう。屋上の出口に向かって歩く、その脚を最後に一度だけ停止させた。
「だけどもしも、もしもいつかわたしが、わたし自身を許せる日が来たら――」
濁りのない、純粋な微笑みが黄金を背にして唄うように言う。その一言が全ての救い。戦いの結果得られた、ただ一つの答えにして報いだった。
「――その時は、静月を好きになりに、また戻ってくるね」
だから忘れないでと、彼女は言った。今はまだ自身が許せないから、誰かを好きになるなんて出来ない。報われてはいけない。だけどもし、自分が罪を許せるだけの自分に出会えたなら、その時はまた――
それが、弓坂絵空の手にした答えだった。
長く自らを蔑ろにしていた少女はこうしてやっと、自分と向き合い、その始発点に立つ。運命と、『法典』、魔術師としての宿命と諦めていた生涯を己の手で切り開く為の旅路に今就いた。
参ったな。……これだと、いっしょにいたいなんて言えない。彼女にそれを自覚させたのは、俺なのだから。止めることなんてしてはならない。折角彼女が出会えた弓坂絵空を、無駄にしたくはなかったから。僅かに残った未練を立ち切った。言ってやる。始まりを祝す約束の言葉を胸を張って朝焼けに。
「約束だ。忘れないよ、俺は絶対」
振り返れば夢みたいなこの日々も全部。思い出はいつまでも綺麗なままで、ここに留まって失われる筈はないのだから。もしなくしてしまいそうなら思い出す。弓坂が好きだった俺自身を。この心はもう、無色なんかじゃないんだと信じたいから。
「大丈夫。心配しないで。わたしはもう、大丈夫だから――ありがとう、静月」
踊るような足取り。弾むような体。ふわりと舞った髪の匂い。瞬きの間に、少女と間近で目が合う。
「じゃあね。最後だから言うけど、わたし、あなたのこと嫌いじゃないわよ」
言い残したことはそれで最後。泡沫の逡巡も纏まる前に、赤い目をした魔術師の少女は夢みたいに消えていった。今度会えるのがいつになるかも解らないのに、そんな、呆気ない別れ。でもだからこそ知らず笑い声が出ていた。剰りにも彼女らしい、その猫のような去り際に。
「まあ……いいか。気長に待つさ」
さしあたり今は、こうして空を見ていよう。いつまでも、せめてこの黄金が青に変わるまではここでこうして。これまでを思い出にするのは、それからでも遅くはないだろう。空が青くなったら一先ず眠って、夢を見る。いつかの赤い夢は、また見られるのだろうか。
くだらない思考。纏まらない意識にとりとめもないことばかりを考える。……そうだ、最後に一つ、答えを見直しておこう。折角見付かったのだから、忘れないように。
世界はどうしてこんなにも綺麗なのか。
決まっている。
――――ここに、彼女がいたからだ。