25/最後の夢
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夜のマンションを静寂が満たすのは、ここが件のマンションで住人がいないことも然りであるが何よりも、既にこの場所が異界と化していることが決定的な要因といえるだろう。街中の術式を一斉に稼働させ、一点に集められた魔力は現実と夢、正常と異常を隔てる境界として成立していた。
それは明らかに、この中に術者が存在していることの証明となる。夜更けを前にした深夜過ぎ、二人の超越者の決着はその時を目前に待つ。終わりは朝陽と共に。どちらかが果てるか、それが決定する前に協会が到着するか。現状ではこの戦争が残り数時間で終結することだけが、確固として約束されていた。
つまりそれは。
この今はもう、この後の戦いにしかないということを意味している。弓坂絵空という魔術師と、俺がいられる残りの時間は本当に僅かしかない。だからこそ、変えられない結果ではなく、その過程を――せめてそれだけは、彼女が報われるように――弓坂が自身の導き出した答えに笑って胸を張れるように、絶対に勝つことだけを考えて――
「弓坂」
マンション前で、最後の確認をする。まだ定められた結末に納得が行っていないし、抗いたい気持ちもあった。だがそれを今口にすることは、彼女の決めた道を迷わせることに成り兼ねない。本当は話すことなんてなかった。だけど最後に、もう一度彼女の声が聞きたかったから。
「中に入ったら、わたしは直ぐに意識を回路に接続する。負担は大きいと思うけど、お願い」
俺は、なんと返事をすればいいだろう。
なんというのが正しいだろう。
……決まっている、そんなことは。
「大丈夫だよ。あいつに『法典』は渡さない。おまえは絶対、俺が守るから」
信頼して、命運を託してくれた少女に迷いのない意志を告げた。それが何の救いにも、気休めにならなくても構わない。口にしておきたかったのだ。心に決めた、たった一つを自分の言葉にして告げておきたかった。
――だからもう迷わない。幕を引く。『法典』が担う千年間の罪から、彼女を解放してやるためにも負けられない。折角、弓坂自身が見つけた答えを汚すようなことは絶対に。
自動のドアを潜って一階のロビーに入る。かつて少女が焼き払った空間は各所に黒い轍のような焦げ跡を残し、完全に外界から切り離された空間は異様な閉塞感を満たしていた。充満する、回路から滲み出す魔力が肌を焼く。一触即発の緊張感に息をすることさえも憚られ、俺は視界に、黒い魔術師を認めた。
「遅かったではないか『法典』。時間がないのはお互い様だと思っていたが。解っているのだろう? 協会に目をつけられた以上、既に魔術師としては致命的だ。故に、その意味では追い込まれているのは俺の方とも言えるな」
弓坂が一歩、前に進み出る。時間がないと口にした魔術師と、その現状を共有する魔術師はしかし、焦る様子の欠片も見せることをしない。
「気にすることはないわ。協会なんて関係ない貴方はどの道、ここで果てる」
啖呵を切る弓坂は、その一言を最後に目を閉じた。
これから先、彼女の意識は外界を受け入れない。世界の鼓動に心音を合わせた共鳴状態となる。ただ世界に己を呼応させる――それは、一つの回路。この瞬間。弓坂絵空という一人の魔術師は、全ての機能を放棄した『法典』としての回路だった。
「忘れたわけではあるまい。貴様は俺の世界では魔術が使えない。そのガラクタの脳髄で、なにを為すと言うつもりだ?」
黒い魔術師が腕を持ち上げる。
背後から、影のように現れ出る三本の針。
「神話再生」
――そして、ここからは俺の仕事だ。
弓坂の前に出る。針と正対する位置に立ち、黒い魔術師に意識を集中する。弓坂はしゃがみ込み、既に意識は結界の回路と完全な同調を完了させているだろう。この状態では攻撃を受ければ一堪りもない。俺がいるのはその為だ。
俺が守る。
弓坂絵空という一つの夢を。
「おまえの相手は俺だ。弓坂は、俺が守る」
「……なるほど、貴様か、人形。その様子では、結界に同調して回路の起点を探すつもりだろうが――」
感覚を研ぎ澄ませ。
二秒後の世界は最前線。
余計な思考は放棄し、光の針の軌道にだけ集中しろ。
「――そんなことを、許すと思うか?」
振り下ろされる指揮棒のような外套の黒い腕。
スタートの合図と共に飛び出す高速の針。
数は三本。魔術師の背後から飛来する。――回避することは難しくない。いくら速くても軌道が直線ならばその線上にいなければ当たらないのだから。この魔術師の強みは数と速度。来旋に消耗させられた今では、普段のような大量射撃は出来ない。故に目の前の三本が引くラインを避けさえすれば――
違う。
三本じゃ、ない。
寸前の判断で後方から向ってくる三本を回避した。しかし気を取られている内に正面からの一本が肩を掠める。痛覚が混乱を打ち払い、続け様に上方から落下してきた三本を横っ飛びで躱す。針の飛来はその九本で一度止まった。
こちらの読みを外した魔術師は愉快気に口元を歪めつつ、だがそれだけ完全に読み勝っておきながら標的を仕留められなかった不手際に疑問を抱いている。その思考が答えに連結するまでに時間はそれほど必要にならなかった。
「なるほど、心眼か。そしてその身のこなし。彼の神話の再生という訳か」
こちらのカラクリは、早くも看破されてしまった。
神話の再生。その魔術の本質は、伝承の幻想を形にすること。それは武器の類に質量を与えるだけでは決してない。神話それ自体を再現するのだ。無意識的にではあるが、終日の再生でそれに気付いた。だからこそ、この魔術師の攻撃を避けるために自身を媒体として心眼を再生したのだ。
隠すつもりはなかったとはいえ、出来れば手の内は知られていない方がいい。だが、そういってもそれがばれたところでこちらにはそれほど影響もないのだが。
「無様な戯曲だ。滑稽な人形劇とでも言っておこう。貴様の行いが、形を為すことなどない。――教えてやろう。人形が何をしたところで、その空白は何も生み出さないと」
針が煌く。
切っ先は視界の中に六本。
心眼、空間把握能力の異常化で感知した回路の数は他に十二。合計は十八。さっきの攻撃の倍。それらの切っ先から延長上の線を描き、死角を探す。奇妙なことに、俺の今いる場所こそ、針の降らない安全地帯だということが解った。
針の隊形に疑問を覚えるよりも早い。魔術師が指を鳴らす。一斉掃射される針の死角がこの場所。何らかの意図を察して回避に移ろうにも、これでは動きが縫われている。
一本。二本。三本。四本。五本。六本。七本。八本。九、十、十一――
「――ッ!」
――虚空を薙いで大理石の床を抉った十二本目の次、十三本目が脚を掠める。続く十四本目は腕。十五本目は肩。十六本目は脇腹。十七本目は額の軌道――それを直前で躱す――最後、十八本目は首へと向って跳ね上がってきた。
「ッ――――回路連動、重複再生!」
回避が間に合わない。なら、防ぐ為の神話を新たに再生する。
この緊急では杜撰な魔術行使しか出来ない。故に生み出した槍は、針との衝突と同時に光の塵に変わって砕ける。だが結果は、そのお陰で何とか存命できたという現状を作り出した。
……何が起きた。確かにここは安全だったはずだ。針の数も最初に見た数と同じ。なら考えられる可能性は、針が軌道を途中で変更したというものだけ。そして、それを魔術師が意図的に行ったということだ。
四つの針に付けられた傷が痛む。後になるほどより正確に。より深く体を抉っていった。直前まで俺にそれを悟らせない為に。嬲るように少しずつ致命傷に近づいている。……なら、これは警告だ。不本意にも俺はその警告のお陰で救われた。もしも一本目から急所への軌道で飛んでいたなら、その時は。
「なにを驚くことがある。俺の魔術は光の使役だと、貴様も気付いているはずであろう?」
今度こそ裏を斯く事に成功して、喜悦を含む声で黒い外套が言う。
「光は屈折もすれば反射もする――これが答えだ。貴様の再生した神話は完全ではない。そんなものは人形が奇跡の真似事をしているに過ぎない。そもそも魔術師ではない貴様に、その魔術が操れるはずがないのだ」
続いて浮かび上がる針の数は目に見えるだけで十二本。起動している回路の数は全部で三十を超える。次の攻撃は初めから反射や屈折を起こして変則的な動きを見せるだろう。奴の言う通り、こんな中途半端な神話の再生では回避など出来ない。
俺自身の性能では、奴に及ばない。この次の攻撃を躱せず、体は挽肉に変えられてしまう。
だからどうした。そんなことは百も承知だったはずじゃないか。魔術師ではない俺が、魔術でこの男に競り勝とうなどという思い上がりは初めから持ち合わせていない。器量で叶わないなら、魔術の質で打ち勝つ。
正面から戦っては叶わないなら――勝てる一点で勝負をすればいい。それだけのことだ。
「次だ。さあ――受けきれるか、人形」
指の鳴る音。
針は暴風雨の如く飛来し、切っ先の軌道上にあるものを容赦なく貫いていく。速度は物理法則の最速。軌道を読むことはもう不可能。俺の目で追うことなんて出来ない。故に攻撃を躱す為に、自動で針の飛来する位置を読み取って迎撃する神話を再生する。
回路接続。
幻想を形に変える、意識の果てと回路を結びつける。
作り出すものは戦乱の神が持つ最強の槍。
必中必殺の神話を再生して、全ての針を防ぎ切る。
一本目を閃いた右腕が――右腕を引く神槍が薙ぎ払う。さらに二本三本目と迎撃して――四本目が腕に突き刺さる。間に合わない。本来投擲して使用するこの槍を手に持ってしまっては敵わないのだ。そもそも完全でない神話。用途を間違えただけで完全に奴に劣る。
だったら。
さらにもう一本左手にも槍を再生する。
足りない部分は数で補う。速度で、性能で敵わないなら同じ物を二つ作ってカバーするだけだ。
槍が二本になり、防御に余裕が生まれる。このまま一方的に受けに回るよりも、この隙に敵の懐に飛び込むのは十分に有効な策といえるだろう。迷うことなどなかった。針を弾きながら直進して魔術師に迫る。針の残りは十五。全て破壊した後に、敵をこの手で穿つ。
槍を振りかざす。飛び込んでくる三本を同時に切り裂き、バウンドするように反射して跳ね上がった針を旋回して薙ぎ払う。その時点で残りは八本。躱し切れない数じゃない。魔術師との距離は残り十数歩。三秒もあれば、決着は着く。
一本。二本。三本。死角から飛来する二本と、屈折して落下してくる二本。それら全てを両手の槍で迎撃する。最後の一本と、左手の槍が同時に砕けた。無理も無い。これほどの神話を同時に二つも再生することなど出来ない。
だが綻びが内包されていた片方が砕けたとしても、まだ一本、右手に残っている。
「……行くぞ、シリア=ロッドレイル!」
全力で、右手の槍を外套の魔術師に打ち込む――!
だが、防がれた。
目前で投擲した槍は、手元を離れて数歩先の敵を穿つはずだった。それが実現されなかったのは、突然出現した光の膜に進路を阻まれたから。周囲の光を掻き集めて発生した膜に、勢いを殺され、槍は硝子細工みたいに砕け散った。
「言ったはずだ。俺の魔術は光の使役。針の形を模しているのはあくまで、それが攻撃に適しているからだ。必要ならば、こうして盾としても使用できる。俺の周囲の光が危機を感知し、全自動で防御する。即ち――貴様の魔術が、この身に届くことはない」
高らかに宣言して、未だ残る膜が形式を変える。円形に浮かぶ光が触手のように先端を伸ばし、三本の棘と成った光に体を打ち抜かれる。咄嗟にまだ再生を続けていた心眼で後ろに飛び、致命傷は避けられたが、それでも、思わず膝を屈してしまうだけのダメージは与えられていた。
全自動防御。
操るものが光なら、この空間で奴は無敵。
こちらの攻撃は全て防がれ、奴は無限の弾幕をいかなる場合にも用意できる。
……だとしても、だ。
奴の魔術が光を盾にしたとしても、そんなことに意味はないはずだ。再生した神話は必中の神槍。防御があったとしても貫いて目標を穿つ。それが行われなかった。つまり、俺の神話再生は完全ではなかったということ。奴の言う通り、何も、為し得ていない。悔しくても、それが現実だった。
「興が醒めたな。よく解った人形。これ以上貴様と戯れたところで無為だ。速やかに果てるがいい」
周囲が急激に光度を上げる。
針の数は視界の中だけでは数え切れない。回路の数を測ると、それは実に百を越えていた。それだけの数の針が、ロビーの中にびっしりと浮かんでいる。円形状に浮遊する数百の針。その全てが飛来したならば、今の俺には防ぎきれないだけではなく――
「『法典』を守ると言ったな。なら教えてやろう。これが現実だ。――人形の貴様には、何も救えない」
そうだ、このままだと弓坂まで針に撃たれる。当然ながら今の弓坂にそれを防ぐ手立てはない。
俺が、守る。
そう言ったはずだ。
約束したはずなのに。
俺には何も守れないのか。本当に。奴の言う通り、人形だから何も為し得ないのか。……大切なものの一つも守れず、無意味に切り刻まれて死んでいくだけなのか。だったらなんの為に、まだここにいるんだよ。色を無くして、それでも存在し続けるこの命に意味があるなら、この瞬間、少女を守る為じゃないのか。
だったら、その役割を果たせ。
無理でも何でもいい。再現しろ。再生するんだ。不可能なことなんてない。絶対に叶う。まだこの意識が世界に届いていないだけ。全てを放棄しろ。全力で偽装する。今度こそ確実に必中を謳う神の槍を再生して凌ぎ切るんだ。
「終わりだ、人形。絶望の光に溺れて果てるがいい」
光が吼える。
唸る針が四方八方。周囲全てから降り注ぐ、それは垣根無しの掛け値無し。回避不能の完全死角なしの弾幕。空が落ちてくるようなものだ。故事に違うのは、落ちてくるそれは確実に質量を持ち、地上の全てを破壊するということ。
……集中しろ。
まだ時間はある。
世界の刹那を自身の永遠で凌駕し――意識は、体は回路としてのみ機能を果たす。
作り出せ、神話を再生しろ。
全てを賭して、守り抜け――己の存在する、その意味を。
「神話再生!」
回路に魔力を流す。幻想が形を帯びるよりも先に手にとる神話を投擲。続いて二つ目。同じことを回路が尽きるまで繰り返す。数で質を補い、質で数を補う。必中の神話は死の雨とぶつかり合い、確実に相殺していく。その度に頭が焼き切れそうな熱を帯び、激痛を伴うが今はそれどころではない。手を休めれば全てが終わる。今は、一瞬も気が抜けない状況だ。
投擲を繰り返し、弓坂の元に馳せる。解っていた。最初から弾幕の全てを防ぎ切ることが叶わないことぐらい予想は出来ていたんだ。だから消しきれなかった分は、取り零しはこの身を以て防ぐ。弓坂の前に戻ったのはその為だ。
幸いにも、残った針の数は初めの十分の一にも満たなかった。だがそれでも針は十分な殺傷能力を持つ。飛来する針を背中で受け止めて、致命傷を避けられたのは幸運だろう。
とはいえ状況は最悪だった。内側からは魔術行使に耐えられず悲鳴を上げる脳髄が、外側には針の刺傷による全身が、意識を飛ばすほどの激痛を訴えている。知らず、膝を曲げていた。既に立ち上がる力も気力も残っていない。目を閉じれば、もう何もかも終わってしまうんじゃないかと、そんな気さえしていた。
「静月……大丈夫」
それだけの状態でまだ倒れていないのは、彼女が、体を支えていてくれたからだった。
「……見つけたわ、回路の起点を」
よかった。なら、時間稼ぎには成功した訳だ。せめてそれだけの目的は果たせた。
だけど、ここまでかもしれない。
もう魔術は愚か、指一本動かすことさえ出来る気がしない。全身からの出血は運動機能を停止させるほどにまで達していた。放っておけば、このまま血が足りなくて死ぬんじゃないか。今はそれも冗談ではない。目を閉じれば、全てを放棄してしまえば、それで終りだ。妥協すれば起き上がる気力は尽きる。そしてもう、瞼を支える意識も持ちそうにない。完全に……終りだ。
「……静月、ねえ、静月!」
誰だよ。
何で、叫んでるんだ。少し静かにしてくれ。あんまり騒がれたら眠れない。そんな顔で――
「まだ終わってないのよ! 今寝たりしたら許さないんだから――しゃきっとしろバカ! 起きないと殺すわよ……!」
――泣かれたら、眠ってられないじゃないか。
……俺は、何をしているのだろう。まだ何も終わっていない。勝手に一人で終わらせていい状況なんかじゃないはずだろ。まだ俺は誓いを果たしてもいない――弓坂絵空を救うという誓いはまだ――
折れ掛かっていた心を奮い起たせる。こんなところで果てるには、俺はまだ何も為し得ていない。弓坂を守ることも、あの赤い夢からの解放も何もかも、俺は何一つ形にしていないじゃないか。こんなままで、終われない。終わらせやしない。
守るんだ。
彼女を責める全てから、この手で。『法典』の内包する千年間の罪も全て破棄する。
必要ならこの世界だって滅ぼそう。
脚に力を籠める。立つと決めたら、それは思ったよりもずっと簡単なことだった。体はまだ十全に動くし、回路だって擦りきれてなくなった訳じゃない。まだ使える部分がいくらでも残っている。それはつまり戦えるということ――弓坂を守れる可能性が残っているということだ。
立ち上がる直前、最後にまた赤い夢を見る。……思えば、そもそもここが『法典』の世界だった。この場所が弓坂絵空の世界。彼女の感情が空となり色を満たす固有の心象風景。ここが彼女の世界なら、この場所は彼女の色で満ちている。
それはなんだ。掴み取れ。同調するんだ、その意志に。
答えなんて簡単。肌で感じる、存在全てが呼応する。少女の感情に、共感する。見つけ出すと、世界はすんなりとこちらの存在を受け入れた。――自身の回路が、世界が互いに響き合う。法典回路――魔法使いの遺産に共鳴する。
「ああ……やっと解ったよ。これがおまえなんだな、弓坂」
支えは必要ない。
もう一人で十分だ。
「ありがとう。弓坂、やっと見付かったよ、おまえが」
それだけ言って後は敵対する黒い外套に向き直った。恐らくこの後の刹那が決着に繋がっている。そしてその幕を引く役目は、こちらが担おう。時間がない。夜が明ける前に全てを終わらせるんだ。
「……しぶといな、人形。不愉快だ。魔術師でもない貴様が『法典』への道を阻むことが何よりも気に入らん。問おう。何がおまえを動かす。何が為に命を賭けて守ろうとする、その罪悪の塊を」
何が、この意志を震わせる。何がこの身を駆動させるのか、答えなんて簡単だ。だってそれはずっと近くにあったことなんだから。俺が弓坂に感化されているなら、内に満たす感情は同一のもの。だったら同調するなんて容易い。
「何の為になんてない。俺はただ、守りたいと思うから戦うんだ。大切なものを守りたいから、戦うことを誓ったんだ。そもそも『法典』なんてものにも興味はない」
赤い夢に少女が願い続けた想い。彼女が泣いていた理由。
マンションで、公園で、学校で――いつも弓坂が願っていたことは一つだけだった。そう――彼女は守りたいと、視界に映る全てを守りたいと願い続けていたんだ。その気持ちに強く共鳴する。
やがて、『法典』を回路とした魔術が起動する。虚空を切り裂いて切っ先を浮かび上がらせた巨大な黄金の姿。これが正真正銘。最強の伝承。戦乱の神、破滅の神と語られる存在の愛槍。
「そうだ。おまえの言う通り、俺は魔術師なんかじゃない。だから『法典』なんかにも興味はない。それが彼女を責める存在ならば、この手で破棄しよう」
槍の全容が具現化する。
黄金の煌きは世界を震わせる。
唯一度だけの投擲で戦争を終結させる神の槍。必殺、必中を謳う最強の伝説。――それは、この戦いを終わらせる為の再生。千年の月日が鎖となり、彼女を締め付ける罪と成るなら破壊する。これはその為の力だ。
神話の名は神槍。
神々の中で最強に座する戦神の槍。
この力で終わらせる。
赤い夢も、千年の罪も――彼女を苦しめる全てを終わらせてやる。
神槍が世界の脈動を思わせるように、ゆっくりと旋回を始める。終局は目の前。最後の激突を前に世界に呼応する槍の波動を全身で感じ、目を閉じる。枯渇した回路は『法典』と繋がり、十全に起動していた。
この光景こそが神話。
そして、決着の時だ。
「――――受けきれるか、魔術師。この一撃は千年の罪を穿つ」
黄金の絢爛が虚空を裂いて浮かび出る。
全ての幕を引く一投は、人々の夢で紡がれる伝承。幻想に形は要らず、夢想するのは無限を内包する最強。泡沫に散る一閃に全神経を傾け――決着の刻に口火を切り落とす。
「……傲りが過ぎるぞ、人形。いいだろう。その神話が幻想のハリボテであることを、身を以て教えてやろう」
黒い魔術師が手を上げる。再び空間を満たす光の針、それら全ての切っ先は神槍に向けられ、隠すつもりもない殺意を惜し気もなく放っていた。
始まりは音もなく。
二つの回路が鼓動を同時に打ち鳴らす。その瞬間が重なったのはある種の奇跡だったのかもしれない。
幕の開いた先にある決着へ向けて――無数の針と神槍が最後に閃く。
終局は、今この瞬間の攻防の先に。ここに、激突の幕が切って落とされた。
†
数千の針が神槍と衝突し、火花を散らす。
神槍は巨大な投身に針の刺突を受けつつ、魔術師に届く直前の光の幕で直進を阻まれていた。それは、シリア=ロッドレイルの魔術と俺の魔術が拮抗しているという構図。最強の槍を再生したとはいえ、どう足掻いても急拵えの俺の魔術では、魔術師としての年季がある奴のそれには敵わない。だが状況はこれだ。均衡なら十分な成果と言える。
魔術師の注意をグングニルに向けさせ、俺自身はその背後に回る。これが作戦。神槍はあくまでも陽動の役割でしかない。奴の意識を完全に一部に集めるには、半端な神話では駄目だった。迎撃に耐えつつ、防御を突破し得る神話の再生。それこそが、不完全な再生でありながらも幾度と奴の魔術を防いできた神槍だったのだ。
元より、これで倒せるとは思っていない。仮に神槍が針を全て弾き、膜を突破したとしても――結界の起点は貫けず、風穴を開けた膜もそれこそ光速で修復される。
俺がしなければならないことは道を作ることだ。弓坂の魔術が必殺の一点を射抜く為の準備を行うこと。それこそが籠野静月に与えられた役目。
そしてそれを可能とする神話は唯一つ。
終日の再生。
あの神話をもう一度再現することだった。
世界を焼き尽くす彼の一振りは、即ち万象の根源となる回路を断絶する力だ。俺が斬るのは光が膜を作り出す為に使用する回路の破壊。そうする為には余計な邪魔は排除し、確実に隙を衝かなくてはならない。その為の陽動が神槍。全てはこの神話再生の為に打った布石だ。
――だが可能か。
法典回路に意識を接続している今、さらに他の神話を再現するなど――
考えるまでもない。そもそもそれしか手はないのだから、迷っている暇なんてなかった。世界の終日そのものの再生は不可能でも、その中から一場面、終末を齎す英雄の一刀だけを再生することはきっと可能だ。
魔術師はまだこちらに気付いていない。これが最大の勝機――逃すことはしない、失敗も許されない。この一度で、確実に仕留めて見せる。
「神話、再生」
魔法の枝。スルトの一振りで終日の一部にして最大の一瞬をここに再現する。感覚はない。己自身が魔術の一部になり神話を再現するこの瞬間、俺の意思とは無関係に体は駆動していた。天から降るような一振りは巨大な剣を大地に放つ。――剣の切っ先が、光の幕と激突した。
「……ほお、神槍は陽動か。本命はそっちの神話。どうやら心得ているようだな。貴様が勝つ為の唯一つの勝機が何なのかを。だが浅はかだ」
黒い姿が半身を捩る。右手の掌を突き出して光の膜へ指令を下す。突如、形体を変える光。ドーム状の膜はそこから槍のような柱を突き出し、防御と共に迎撃をも担う壁へと役割を変えた。その数本が体を串刺す。
痛みは勿論ある。だがこれは幸いか。いくら痛みを感じようと、どれだけ体が破壊されても関係はない。既に体は神話は再生の触媒となり、それを果たすまでは例えこの身が砕けても消えることはないのだ。だから肉体の損傷など問題にはならない。戦うべきは物理的な外界の敵ではなかった。
大きな力を使えば必ず見えてくる、例の赤い夢。こいつが視界に張り付いて、頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回してくる。いくらなんでも、それで回路との接続を絶ってしまえば一貫の終り。俺は光の雨に打たれて肉片に分解される。
「ッ……しつこいぞ人形。とうにその体も精神も限界を超えている。何故まだ動く。何故まだ戦える。何故、そうまでして貴様は『法典』を守ろうとするのだ!」
怒号そして数を増やした棘が関節を抉る。
赤い視界。いつもの終わった光景の中、少女が泣いている夢。これが見たくないから、こんなものが許せないからこそ戦うことを決めたんじゃないか。彼女を責め続けて苛むこの千年の赤い罪を終わらせると。世界の終日なんて大それたものじゃなくていい。ほんのたったそれだけだ。この馬鹿げた悪夢を消してしまいたいだけ。
世界が平和であって欲しい。そんなのは誰もが心のどこかで願う夢だ。少女はそんな大きなものではなく、せめて自分に救えるだけの、目に見えている世界だけは守りたいと願った。
同じことを思ったはずだ、俺も。
「……なんだ」
自分の目の前で傷付き、それでも自身を貫こうとする姿が綺麗だった。
千年の罪に苛まれながらも強く輝いていた、少女の存在が本当に綺麗だったから、この心は最初から感化されていた。きっと、色を無くして空っぽになってしまう前から、彼女に当てられていたんだ。
だったらこそ、守らないといけない。
無色になった自我に残留するそれが唯一の自己ならば貫き通せ――大切だと思うたった一つを全力で守り抜け――!
媒体となって機能するだけの腕に意思を通わせる。生み出す神話に自身を連動させた。
止まらない。
これで体が果てても構わない。何故ならこの心は、彼女を守りたいと願う気持ちは本物なのだから。
「本物……だったんだ……!」
赤い世界から流れ込む絶望の叫び。
無念の断末魔も、怨嗟の嘆きも、救済を求める糾弾も、全ての悲しみを振り切って叫ぶ。こんな世界は間違いだと、夢に縛られた少女に居場所を教える為に。
大きな悲しみ。
絶望の記憶。
赤い世界はもう必要ない。これからは俺が、弓坂の居場所になる。
誓ったのだから。
生涯を擲ってでも、彼女を守るのだと、それは、それだけは――
「……この心だけは、本物のだったんだ――――!」
神槍が正面から壁を突き破り、しかし再度出現した二枚目の膜と相殺される。
一つの回路を放棄したことにより、残り一つに全てを注ぎ込むことが出来るようになり――終日の一振りは、天空から大地までの世界の全てを断絶して落とされた。
「な――んだ、と……! 貴様……己れ人形……ッ!」
炎が光を飲み込む。完全に光を焼き切った終末の炎は一瞬の内に回路を焼失させる。全ては一瞬のこと。回路を焼かれては魔術師が気付かない訳がない。だが今はまだ何の手も打てない。
つまり、今のこいつには、
「――――弓坂アアアアアアアアアアアッ!」
背後から胸の中心を貫く、その紅蓮の一閃を躱す手段などあるはずがなかった。
†
神槍が削った大理石の上を、その亀裂よりも細い弓の軌道が黒く焦げ跡を残していた。無数に散らばり浮遊していた光が、魔術回路の束縛から解放され霧散する。残ったのは刹那前までの鉄の音が乱れ飛ぶ喧騒とは打って変わった静謐だった。
やがて胸を穿たれた魔術師が小さく呟く。
戦意も殺意も失せた声で。
己の破滅を射抜いた赤い魔術師を振り返り、しかし何も言わずに視線を交わすだけで体を戻す。
魔術師の体は影のように、吹いてもいない風に流される砂となって消え始めていた。その口から一筋、流血が零れだす。黒い長身の姿は感情もない無色の視線でこちらを見下ろした。
「おまえの空白は、我が死を内包するか。道理で、千年の罪をも、許容するのも納得がいく」
最後に、恐らく嘲笑ではない笑いを浮かべて、何かを為し得たように満足げな顔で、
「努忘れるな、それは、いずれ世界を滅ぼす。終日の因だ」
弓坂は、最後の魔術で既に立っていることも困難な状態であるはずの少女は、尚も凛とした眼差しで強く消えていく黒色を見据えていた。二人の魔術師の視線が交錯し、終わりの時は静かに訪れるのだった。
「だがそれさえ許容するならば人形。貴様の色は、本物かもな」
興味も根拠もなさ気に、それが黒い魔術師の最後の言葉となる。
回路の焼き切られた、一つの結界として成立したその色はここに、呆気なく消失した。