24/赤い夢Ⅱ
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校門の外で全く予想していなかった人物と出くわした。
赤色の瞳にブラウンの髪。夜に立つ、弓坂絵空という魔術師。闇の中から姿を現した彼女に、俺は思わず何も言えずに立ち止まる。夢を見ているような気分だった。だって、弓坂がここにいるはずがない。
「おまえ……なんで。逃げたんじゃなかったのか?」
やっと口に出せたのはそんなこと。
本当は他に何と切り出せばいいのか解らなかっただけだが、それを疑問に思ったのも事実だった。
弓坂は組んでいた腕を腰に移動させ、盛大に溜息を吐く。そんな緊張感のない動作が、弓坂のマイペースさを表していた気がする。誰よりもこの状況に焦燥しているのはこいつのはずなのに。落ち着いているのは、その緊張が伝播しない為にだろうか。
「あのさ、人のことなんだと思ってるのか知らないけど、この傷で逃げられるわけないじゃない。ずっといたわよ、この中に。来旋は気づいてたはずよ。あいつ、何を考えてるのか知らないけど、わたしのことなんてお構いなしだった」
来旋はこのことを知っていた。……だったら俺に言ったことは嘘だったということになる。
「……全部聞かせて貰ったから。勝手に人のこと語らないでよ」
知っていたなら。
俺にあんな質問をしたのは、その答えを弓坂に聞かせる為――でも、どうして。
意味を考えることは無駄かもしれない。来旋の行動原理は結局全て自分の気紛れなのだから。俺が考えて解ることではないのだろう。一つだけ確かなのは、そのお陰で、またこうして弓坂と会えたということ。なら、来旋には感謝しないと。
弓坂が大股で歩いて来る、何をするでもなく、赤い目で睨む。心底機嫌が悪そうだ。
「止めても無駄だって解ってる。だから敢えて言うわ」
その言葉を、俺は弓坂から聞くとは思わなかった。
「――協力しなさい。あんたの力が必要なの」
――それは、初めて、弓坂が助けを求めてきた瞬間だったと思う。いつも戦いから他者を遠ざけようとしていた彼女が、誰かに頼るのは恐らく、俺と出会うより以前から変わらないことだ。独りで戦ってきた魔術師はようやく、自らの隣に誰かを許した。
それが自分だということが誇らしく、どこか嬉しくも思う。彼女の世界に、こうしてやっと踏み込むことが出来たのだと、そう思うから。――そして何より。
弓坂が他者を許容したという、ただそれだけの事実が嬉しかった。純粋に。彼女がそれを望むならばいつの日にか、同じ場所に行けるのではないかと、信じられたから。彼女が初めて頼った誰かが、自分でよかった。
「当たり前だ」
だって俺は、その為にいるんだ。
断る理由なんてどこにもない。それは自己を否定するのに同じこと。
決めていた。
弓坂を守る、その唯一が自分と信じて貫き通すのだと。
俺がそんな風に答えることなど初めから解っていただろう。弓坂は不敵に口許を吊り上げて小さく笑みを作る。だがその表情はどこか緊張感のない、戦いの前だというのに安堵したような雰囲気を持っていた。憑き物の落ちた、そんな晴れやかな顔をして。
「先に言っておくわ。さっき来旋のお陰で解ったけど、結界の中でなら多分、奴は死なないわ。……予想だけど、あれは結界と同化する魔術なんだと思う。何にしろ、一度回路にそれが記録された以上、次回からは同じ力が使えると考えた方がいい」
「……だったらどうするんだよ。それじゃあ、勝ち目なんてないってことだろ」
「いいえ。それなら結界の起点となる回路の根幹を破壊すればいい。魔術そのものと一体化してるなら、それは術者の体のどこかにあるはずね。――作戦は、わたしがそれを見つけて破壊する。貴方はその時間を稼いで」
「了解……って待てよ。時間を稼ぐのはいいけど、回路を壊すのは何で俺じゃないんだ? 弓坂は魔術が使えないんだろ」
「回路の起点は口頭で伝えられるものじゃないし、あれだけの術式の破棄は『法典』にしか出来ないわ。それに、わたしだってまるで魔術が使えない訳じゃない。法典と繋がってる以上、完全に世界と繋がりを絶たれることはないからね」
ただし、と難点を最後に付け加える弓坂。
「本来よりもリスクが大きいのは確かね。下手をすれば色を全部持っていかれる。使えて一回。失敗は許されないわ」
一度限りの魔術。
俺がしなければならないのは、その一度を確実に成功させる為のお膳立て。弓坂が術式に集中出来るように、一切の攻撃から守り抜くことと、そして確実に攻撃を決められるだけの隙を作り出すことだ。
正直、出来る自信はない。俺はこれまでに一度もあの魔術師に肉薄したことがないのだ。だが答えは決まっていた。俺はただ黙って頷くだけ。それが、自分を信頼してくれた彼女へ返す、紛れもない本音。自信がなくても、事実がなくても構わない。結果はまだないのだから、それが嘘にならないようにすればいいだけなのだから。
「よし、それじゃあ行くわよ。やられた分、しっかりやりかえしてやらなくっちゃ」
髪を翻して歩き出す弓坂。少女の背中に迷いはない。どこか嬉々としたような足取り。それは夜の散歩を楽しんでいるようにも、少しだけ強がりにも見えた。
「なあ、弓坂」
ぴたりと、弓坂の足が止まる。
「この戦いが終わったら、どうするんだ。また、同じようなことを続けるつもりなのか?」
「わたしは『法典』だからね。それが運命なのよ」
「……止めろよ、そんなの」
酷く憤りを感じるのは何故かと考えた。体育館で見つけた答え。俺は、自分を蔑ろにする弓坂に頭がきたのではなく、そうさせる世界が気に食わなかった。そうだろ。自分の為に生きられないなんて、そんなことは酷過ぎる。
「もういいだろ。自分の為に生きても。おまえは、弓坂絵空なんだ。『法典』の罪なんて背負う必要はない」
こんなことを言えば怒られるかもしれない。それは承知の上だった。俺は何を言ってもやはり他人でしかないから、弓坂の心境なんて解るはずがないのだから。それでも今、それを言っておかないと後悔する気がしていた。一生、弓坂がその苦しみを背負い続けることが目に見えていたから、我慢できなかったんだ。
それが、彼女を苛む呪いになるかもしれないと。気付いていたのに。
「……貴方の言う通りよ。わたしはね、自分で自分が許せない」
星に唄うように、空に語るように。振り返らない少女は天を仰いで月に話し掛ける。
「『法典』の罪悪も、魔術師としての宿命も関係ない。わたしは弓坂絵空が許せなかった。たくさんの人を巻き込んで、多くの生涯を破綻させて、何千も何万も何億もの人を不幸にしてきた、なのに」
途切れた間は、きっと、声にならない心情吐露。
「生きて、いたいのよ。わたしは死ぬのが怖いから」
嘲る風に、少女は言った。
泣いているような口調が少しずつ熱を帯びて、夜空に放つ言葉はいつからか自らへの糾弾へと変わった。
「だって仕方ないじゃない。何億の死を、破滅を知ってるからこそ怖い。怖いのよ。だってまだ死にたくない。生きて、いたい。まだ見たいものもあるし、聞きたいこともある。したいことだってたくさんあるのに――独りで死ぬなんて、そんなの怖いじゃない。寂し過ぎるじゃない……!」
だから、と繋ぐ。
それは一人の少女が出した結論。自らが破綻しないように導き出した前向きの逃避みたいな、強がりで強い絶望の回答。
「だからわたしは魔術師であることを、『法典』であることを受け入れたのよ。それが、運命だから」
泣いている声で、
「……だけど大丈夫。言ってくれたじゃない。わたしは弓坂絵空なんだって。そう言ってくれる誰かがいて、わたしを認めてくれるなら見失わない――ありがとう静月」
夜の空の下。
髪を揺らし、首だけを回して振り向いた少女は泣いていた。片方の頬を透明の滴が伝い――彼女の表情は、なにがそんなにもそうさせるのかと問いたくなるほど幸せそうに笑っていた。
「そのことを、誰かに言って欲しかった。わたしは、わたしなんだって」
「……弓坂」
愚問だった。
彼女の人生に、答えはとっくに彼女が出している。俺が口を挟むことなんて出来やしなかったんだ。……その答えがどんなものでも、俺は、弓坂絵空の出した答えを綺麗だとずっと思っていたのだから。
綺麗なものが汚れてしまわないように。だけどせめて。隣にいて、彼女を一人にしないように――彼女が彼女であることを思い出せるように、俺は。
せめてこの戦いが終わるまでは、隣にいようと思う。
「貴方には感謝してる。だから……静月、『法典』を使って」
「……使って、て。どういうことだよ。法典ってのは形のない概念なんだろ」
「簡単よ。魔術っていうのは世界との共感。世界の感情に呼応して色を合わせることよ。それと同じ。貴方は『法典』、つまりわたしに共感すればいい」
それこそ、まさに、
「どうやって?」
弓坂に共感するなんて、出来るのか、俺に。
あの赤い絶望を、俺は一片ほどにも理解できているとは思えない。
「そうね……解った、それじゃこうしましょ」
体ごと振り返って弓坂が寄ってくる。接近に気付けないくらいに自然な足取りで、最後の最後まで意図を悟らせず正面から迷いなく。あまりに真っ直ぐな行動に、俺は全てが終わるまで何が起きたのかを把握することが出来なかった。
気付けば直ぐに目の前に赤い瞳があって。次の瞬間にはそれが瞼に隠れたかと思うと、その瞬間に、弓坂の唇が俺のそれに音もなく重なった。
時間が止まったのか。
世界が音をなくして静止した一瞬。何もかもを忘れて立ち尽くす。
弓坂は直ぐに離れていって距離を取ると、瞳同様の色を淡く浮かべた頬を綻ばせて言った。
「えへへ、勝てるようにオマジナイ」
俺が、絶叫する二秒前に、弓坂がやっと弓坂らしい強い口調で――ただしこちらの反応に今更羞恥心が出てきたのか、明後日の方向に目を逸らして――言うのだった。
「ここまでさせたんだから、絶対に勝ちなさいよね!」
俺に出来る返事は、言葉にならない感情の混沌。その叫びだった。