23/綺麗な世界
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…
目が覚めて初めに見たのは、月を中心に廻る夜の空だった。
体が冷たい。
冷えた風が感覚を研ぎ澄ましていく。それはまるで電源が入って少しずつ機能していく機械のようで、その例えだと籠野静月はこの瞬間、誰かの手によって再起動されたということになる。そして実際、その通りなのだった。
背後には校舎の壁。場所は、おそらく中庭。意識を失うまでの記憶は残っている。自分の体がどんな状態なのかも忘れていない。だからこそそれを根拠に断定できる。自分一人の力でこんなところにくることはできなかったはずだ。故に運んでくれた誰かがいる。
その誰かを割り出すのは簡単だった。
隣で同じ様に校舎に凭れ掛かり、月を見上げる白い少女がそこにいたから。
「目が覚めましたか」
「まあな……おまえが、助けてくれたのか?」
来旋が大きな瞳で流し目を送ってくる。
その動作が肯定の意味を表すと、自分なりに受け取った。
双色の瞳に敵意はなく、妹と偽っていた時の来旋と同じ、柔らかな眼光が夜に灯る。全て終わった。そんな風に思う。……或いは、手遅れとでも言い換えられるのか。気絶する前の記憶はあっても、流石に気絶している間の記憶はない。
自分が寝ている間に、全部終わってしまったのかもしれない。
「心配しなくても、弓坂絵空は逃げ遂せましたよ。貴方のお陰でね」
こちらの危惧を読み取って、来旋が言った。続けて、
「シリア=ロッドレイルも同様に。貴方の所為でね」
そんなことまで、教えてくれた。
「……ちょっと、なにをしているんですか。その傷で」
校舎を支えに立ち上がる。まだ色んな所が痛むが、それでも動けないというほどではないらしい。なら大丈夫だ。やることが見付かった。あの魔術師がまだ生きているなら、何も終わっていない。止めないと、同じことを繰り返す。
「えいっ」
――と、両脚の膝を思いっきり叩かれた。
人体の構造上、ここを叩かれると抵抗できない。一瞬で脱力して、壁伝いに尻餅をつく。ついでに落下した衝撃で体が小さくバウンドし、後頭部をコンクリートに衝突させるというおまけつきだった。何だこれ、地味に痛い。
慌てて患部を摩る――瘤になってやがる――今更のはずなのに、これが変に痛くて嫌になる。涙目になってる俺がいた。なんだよ、なんなんだよこの初歩的な攻撃は。
来旋は、けらけら笑っていやがった。
「なにしやがる!」
オッドアイの悪魔にがなる。
「だって放っといたら勝手に行っちゃうでしょ、わたし、まだ話したいことがあるのです」
「……」
なんか、怒ってるみたいです。
むぅ、と頬を膨らませている様子に毒気を抜かれる。逆らえばどうなるか解らないので、取り合えず黙って話を聞くことにした。こんなことをしている場合ではないと思いつつも、来旋のその態度は、危機感を奪い去っていくほど穏和だったから。
「さて、と。これはまず業務的な報告、と貴方に落ち着いて話を聞いて貰う為の前置きです。シリア=ロッドレイルはまだ動いていません。貴方が意識を失ってから七時間。彼も深手を負ってますから、直ぐに行動することは出来ないでしょうからね。加えて、弓坂絵空も。……なんにしろ、今晩中には決着が着くでしょうね。彼と彼女がそれを望むように――協会も既に、ここに向ってますから」
貴方が悪いんですよ、と少しだけ睨みを利かせた目をして、
「生徒の記憶を改竄するだけなら、わたし一人で事足ります。でもここまで大事になると、協会が動かないわけには行かない。……校舎は吹き抜けになってるし、体育館は全焼してるし。千人近い人間に暗示を掛けても、そんなの隠し通せるわけないです。反省してください」
「……いや、あの…………ごめんなさい」
謝ってしまった。
……いや、だってさ、確かに体育館燃やしたのは俺だし。
よろしい、と悪戯をした子供を許すように来旋が言う。
「それじゃあ、一つだけ。わたしの質問に答えてください」
夜の冷たい空気を吸い込んで。
焦らすように目を閉じた来旋が次に見開いたとき、表情は驚くほどに真剣な眼差しに彩られていた。その白い少女が、双色の螺旋が問う。
「貴方はどうして、そこまで『法典』を庇うのですか?」
月が雲に隠れる。
夜の空。黒い壁面を飾る星が照明。
「自分でも、それが偽物だって理解しているはずじゃないですか。なのに、自己を破綻させてまで彼女を庇う理由が解りません。共界魔術に感化されたからにしても、それを是と出来る信念はあるはずです」
弓坂絵空を庇う理由。
戦争の火種を肯定する訳。
――決まっている。考えたことなんて無い。ただそれはいつも自分の中にあって、何度も繰り返し見てきたもの。夢に垣間見る、少女の赤い世界。それだけで十分だと思っていた。だけど、そうじゃない。ちゃんと見付かったんだ。その心を形にする、言葉が。
いつも。
同じ場所で。
彼女は泣いていた。
その姿があまりに――
「……弓坂は、びっくりするくらい一人なんだ。それはさ、自分が『法典』だってことを受け入れてるからで、だからあいつは誰も自分に近づけなかったんだと思う。誰よりも他者の幸せを祈ってたんだ。弓坂が許せなかったのは自分自身だから、誰も、あいつを認めてやる奴はいなかった」
そうして一人になった少女は。
自分の身の上を嘆くのではなく、戦う道を選んだ。
魔術師であること。『法典』であること。それらを肯定して向き合う為に、自らが弓坂絵空という少女であることを放棄した。或いは忘れていたのかもしれない。そんなことだからずっと一人で、傍には誰もいなくて。
吐き出せるのは、泣いていられるのは夢の中だけだった。
そんな風に走り続けた少女の姿を綺麗だと思った。泣きながら、謝りながら強く在り続けた少女の生涯が何よりも――魔術なんかよりもずっと、この心に干渉してきたから。
彼女の存在を美しいと思う気持ちを否定したくない。
守ると決めた。同じ誓いを、同じ夢の中に残してきたつもりだ。
「あいつの傍には誰かが必要なんだよ。自分で自分が許せないなら、誰かが許してやるしかないだろ。――世界がそれを否定するんなら、世界から外れた存在の俺にしかそれは出来ない。弓坂の隣にいてやれるのは、俺だけなんだ」
いいや、そんなのは詭弁だ。
だって本当は。
「弓坂が好きだから、俺が、その誰かになりたいんだよ」
ずっと、それだけだったじゃないか。
全て聞き終えて、来旋は何も言わない。ただぼんやりと月を見上げている。話を聞いているのかどうかも怪しいくらいの横顔。白い頬が金色に照らされて――どうしてか、一瞬、少女の顔が綻んだように見えた。
来旋が立ち上がる。手を後ろで組んだ、見かけに似つかわしい無垢な動作。
踊るように弾むように、軽い足取りが月光のスポットライトを独占して進む。
くるりくるり、風車みたいに回って、振り返った満面の笑顔。
その笑顔に、今度は俺が訊いた。
「俺も、一つ教えてくれ」
「なに?」
「なんでおまえ、俺を助けたんだ? あの夜も、今日も。協会の人間が俺みたいな何でもない人間を助ける意味なんてないだろ」
ご機嫌が少し斜めに傾いたか、頬が少し膨らむ。
そんな質問は心外だ、と拗ねる瞳。
「協会は関係ないよ。わたしは棺継来旋だもん。行動原理はいつだって自分本位だよ」
「……そうかい」
そうです、と言ってそっぽを向く。
本当の理由は訊き出せないのかもしれない。そんな風に思って呆れた時、独り言のようにぽつりと、来旋が零した。ともすれば聞き逃していたかもしれない声は、どこか泣いているように濡れていた。
「似てたんだよ」
世界を支配する少女。
統一者、双色の螺旋。
それは創征の魔眼と呼ばれた協会の第三位が初めて見せた、弱さだったのかもしれない。
「色を無くして空っぽになった、そんな破綻した姿がわたしの大切な人に」
だから放っておけなかった。
最後に付け加えた一言は、きっと嘘ではないのだろう。それが、棺継来旋という少女だった。自らが口にした通り、行動原理は自分本位。気紛れで人を救ったり、殺したりしているのかもしれない。だけど少女の心にも一つ、決して忘れない大切な原風景がある。
それが解っただけで、十分。
「ねえ、どうして世界はこんなにも綺麗なんだと思う?」
「なんだよ、それ」
「昔から、ずっと考えてたこと。わたしは答えが見付かったから、この質問は貴方に上げる」
少女は言う。別れの言葉のように。
……否、それは本当に別れの句として紡がれたのだ。
少なくとも来旋はそのつもりで言ったのだと思う。――瞬間。世界が震撼して、空に亀裂が走った。
覚えのある感覚。頭痛を伴う違和感。空気が濁って、足元が揺れているような不快感はいつかの夜と同じ。あの、街全体を結界が覆った日と同じ感覚だった。
慌てて立ち上がる。何が起こったのかは来旋が知っているはずだ。問わずとも、少女はそれを教えてくれる。やけに落ち着いた、この展開は初めから予想できていたというような態度。
「結界の維持に使っていた回路を収束し始めたようね。とうとう本気を出したみたいですよ。炙り出しって奴かな?」
「それって……」
「今、この街は昼間のこの学校と同じです、ってことです」
「そんな……だったら、また、あんな――」
思考が結論に至る。
同じだ。全く同じ手口じゃないか。住人達が狂気に侵されて暴れだすようなことがあれば、弓坂が放っておくわけが無い。これだけ大きな力を使えば、起点がどこかなど俺にだって割り出せる。……追い込まれた魔術師の、これが最後の足掻きとでもいうのか。
「さて、と。この状況? 貴方はどうするのかな、籠野静月さん」
「……俺は」
決まっている。
考えている時間なんて微塵も無い。さっき確認したばかりだ。
――弓坂がそこに向うと解っていて、一人で行かせるなんてことを出来るはずがない。さあ、随分長い間眠っていたようだし、体も十全に動く。そろそろ走り出さないと。この夜の果てが、少女の夢。朝日が昇る前に、長い長い悪夢から醒めてもらおう。
「来旋」
走り出す最後、振り向かない少女に言う。
「ありがとな」
一度だけでも、言っておきたかった。それはまだ言っていなかったことだから。
ありがとう、来旋――助けてくれて、本当にありがとう。
解ってはいたが、来旋は振り返らない。伸びをして、準備体操のように腕の関節を解している。これ以上自分が語る言葉はない、そんな風に小さな後姿が告げていた。なら、俺も無言で別れの言葉を返す。行き先を決めて、後はもう振り返らなかった。
最後。
風に乗った少女の声を聞く。
「それじゃー、健闘を祈ってるから――頑張ってね、お兄ちゃん」




