20/断罪の焔
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保健室に鏡岬を運んでから、体育館に向う。裏側に回ると、そこで野草の観察でもしているような体勢の弓坂を発見した。なにをしているのかを問う前に、こちらに気付いた弓坂がジェスチャーで話し掛けるな、と示す。その指示に従うこと一分弱。絶えず動かしていた口を閉ざして弓坂が立ち上がった。
「彼女は? 無事だったの」
ここでいう彼女とは鏡岬深紗希のことで間違いない。
剣道場で繰り広げたいつもより少しハードな練習の後、蟠っていたいざこざは恐らく解消されたのだろうがそれとは別に、鏡岬の体には巨大な傷跡が残された。勿論物理的な意味である。他の生徒にしたような魔術治療だけでは傷が深すぎ、通常の治療を施す為に保健室に運んだ次第だった。
一連の治療は弓坂が行い――男子禁制は当然――処置が終わってから交代で俺が室内に入り、弓坂はそのまま体育館に向った。一時間ほどは様態が急変しかねない、とかなんとか、多分気を遣ってくれたのだろう。鏡岬が目を覚ますことは無かったのだが。
学校を覆う結界の起点、式の場所が体育館に在ることは直ぐに解った。約束の時間は午後八時。指定したのは弓坂で、敵の了承は得ていない。必要も無いだろう。その間の空白を俺は自己の療養も含め保健室で過ごした。
そして今が午後の八時。
正直、戦闘に向けて準備が必要だと言った弓坂の言葉は嘘で、一人で勝手に戦っているのではないかとの懸念がなかったわけではない。その不安が払拭されたのが今で、酷く安堵した。
「式は完成したわ。……思ったより時間が掛かったけどね」
「早く終わったら、やっぱり一人で戦うつもりだったのか?」
弓坂は答えない。
入念に最終チェックとばかり、体育館の壁にぺたぺたと触り続けるだけだった。
「ねえ、静月。止めたって無駄だって、解ってるから一つだけ約束して」
入り口に回る途中、弓坂がそんなことを呟いた。視線は遠い夜空の星に。
天に語り掛ける言葉は俺へのものではなく、まるで星に願う祈りのように思えた。
「この後の戦闘で、わたしが勝てる保証はないわ。だから、危なくなったら貴方だけは逃げて。最悪、相討ちってことも考えてる。そうなれば貴方を巻き込みかねないから……そんなことだけは、絶対に避けて」
空の月が、雲に半身を隠す。その光が境界のような隔たりを二人の間に作り出し、弓坂は、光の当たるこちら側を既に戻ることの出来ない遠い場所のように見詰めながら懇願した。強い視線で、強がりな、その瞳で。赤い瞳が僅かに垣間見せた、それは少女の本音で不安。
真摯な目が訴える。
知っている。彼女はいつもそうだった。
何より他者の命を優先して、戦ってきた。なのに、誰も傷付いて欲しくないと御伽噺のような願いを掲げる彼女の思いを、何度も裏切ったのは俺の方。知っていたはずなのに。少女が辿ってきた絶望の記録を。
だけど、だからこそなのかもしれない。
他者を優先する少女の生き方は、自らが戦争の火種であることに負い目を感じ、人類全ての最低地点に自分を置いた彼女の生涯を。
俺はただ、悲しいと思ったから。
自分の為に、彼女を蔑ろにすることはしたくない。そうしなければ報われないから。ずっと一人で戦ってきた孤独な魔術師にも、いつか平穏な日常で笑っていられる日々が来ることを教えてやりたいと思った。
「大丈夫だよ。負けないさ、俺達は」
戦うのは、一人じゃない。
だから他に言葉は要らず、あくまでも一人で戦うと口にする、その一言だけを否定した。
俺の返事は初めから予想できたいたというように呆れた溜息を吐く弓坂。苦笑する表情がぎこちなく、緊張感の再来にはその顔だけで十分だった。
だというのに、目の前の最終決戦よりも他のことが気になっている自分に気付く。それは突然に、弓坂が体育館の鉄扉に手を掛けたその時。扉を開いて死地に望もうとする少女の背中に思った。思ってしまった。
この戦いが終われば。
弓坂はここから、いなくなってしまうのだろうか。
漠然とした不安を、一度起こってしまうと取り除くことが出来ない。まるで目の前にいるはずの少女がいきなり遥か遠くに行ってしまったみたいに思えて。
「……弓坂」
だから気付いてしまった。この気持ちに。
本当は、俺は弓坂に同情していっしょにいたいと思っていた訳じゃない。彼女の生き方が、あまりに歪で寂しい生涯が、それでもそんな人生の中で強く在った彼女を美しいと感じた。綺麗だと、思った。――だから、手放したくないんだ、俺は。
籠野静月は、弓坂絵空を失いたくないと、そう思っていた。
「おまえ……この戦いが終わったらいなくなるんだよな。それって、もう決めたことなのか?」
「そうよ。この地に『法典』なんて異物は必要ない。わたしがいても無駄な危険が増えるだけよ。……そうね、いつものことなの。あっちの日溜まりが暖かそうだったから立ち寄っただけ。その結果わたしは、自分が美しいと思ったものを破滅させてきた」
「でもそれは、おまえのしてきたことじゃないだろ。全部『法典』の記録で……」
「籠野くん」
続きを、彼女の罪を否定する言葉を口に出来ない。それを言ってしまえば、彼女が自ら塞いでいる逃げ道に背中を押してしまう気がしたから。赤い瞳が、何もかもを理解した上で出した結論なのだと、思い至ってしまったからこそ。
俺が言おうとしたことは――
「わたしは、『法典』なのよ」
――少女の生きてきた生涯の意味を、全て否定するものだった。
「犠牲なら十分なくらい出したわ。あのマンションの住人も、この学校の生徒も、貴方が知らないだけで他にもたくさん。それにね、わたしは貴方を殺したのよ」
自嘲的に一度だけ、くすりと笑った顔がどうしても儚くて、無邪気な頃の子供みたいに汚れのない表情がそれを垣根なしの本音だと、証明していた。
「わたしは謂わばパンドラの箱。開けてしまえば在るのは破滅と絶望。ほら、そんな奴は」
泣いてしまいそうなくらい、純粋に、
「さっさといなくなった方が世界の為でしょ」
笑って、答えを告げた。
「前にも言ったけど、貴方がわたしに感傷してるのは全部、わたしの魔術の性質のせいだから、勘違いはしないで。籠野静月は、別に弓坂絵空が好きな訳じゃ、ないんだから」
話はそれで終わりだと、有無も言わせない言葉で閉じた弓坂が、最後の扉を開く。これが最後だと、この先には終わりしかないと知っていても無感動に。そうすることが彼女の義務だからこそ、何の感情もなく終わらせることができる。弓坂にとってはこの街も、この街であった全ての出来事も、今この場での戦いを終わらせるために在ったのだから。
それを悲しいと思うこともなく、思っていたとしてもおくびにもそんな感情は表に出さず、魔術師の少女は決戦の始まりを告げる扉を押し開けた。
先にある絶望を、赤い瞳で静かに見据えて。
軋みを上げて開かれる鉄の扉。城門のような二枚のそれが少しずつ開かれ、明らかになる体育館の内部。照明に照らされた館内。本来こんな時間に人を受け入れることのない場所。
「俺の用意した嗜好を満喫するのは構わんが、その礼がこの遅延だというのは頂けないな」
舞台の上に立ち、こちらの到着を確認した黒い外套の魔術師、シリア=ロッドレイルは別段特殊な感情を見せることもなくそう言った。
「人形と戯れるにしろ、少し長過ぎるな。しかし中々に滑稽な見せ物でもあった。楽しませて貰ったぞ道化――実に愉快な人形劇であった」
魔術師の目は俺を向いている。人形劇と、鏡岬とのあれを、こいつは滑稽だと笑う。そのことで頭に血が上る。こいつは、この魔術師は人の感情を弄んでおきながら、それを戯れ事程度の嗜好としか捉えていない。まるで他者の意思など介しない、自分本意の塊だ。
拳に力が入っていることに気付く。爪が皮膚に食い込んでいた。それに頭痛もする。――即ち、臨戦態勢。体はいつでも戦える状態にある。
今すぐにでも飛び出したい衝動を抑え込む俺に、弓坂は片手で制止を掛けた。こちらの憤慨が目に見えていた訳ではなく、冷静に敵の挑発を聞き流した対応を取っているのだろう。弓坂はこちらを見ていない。
人の行動を制しておきながら、その実、一番殺意を明らかにしているのは弓坂絵空だった。
「あんたの悪趣味な戯れ合いに付き合って上げる気はないのよ。いいから、早くこの結界を解きなさい。今からなら、泣いて土下座するなら火傷程度で済ませて上げるわ」
挑発が効きすぎているのは、むしろ弓坂の方だ。今にも飛び出して噛み付きそうな剣幕が吼える。冷静さを欠いているのは一目瞭然。剥き出しの殺意と敵意を魔術師に向けて、爛と灯る赤の瞳。
学校を舞台に選んだ敵の考えは、確かに正解と言えた。ここなら弓坂は敵の根城であれ脚を踏み入れざるを得ず、理由となる生徒はそのまま挑発の材料となる。『法典』の起こしてきた滅びの再現で、弓坂を狂わせることが目的なら、その精神攻撃の首尾は上々だった。
「威勢がいいのは結構なことだが、その口の利き方は気に障るな。『法典』とは最高の神秘の名ではあるが……所詮は魔術師の到達点。何者かに所有されなければ意味をなさぬものだ。それ単体に意味はない。慎め、小娘。貴様は俺に式を差し出せばいいだけだ」
かちり、と何かが填まったみたいな音が聞こえた、……そんな、気がした。否、それは聴覚に訴える音というよりも別の、頭の中で痛覚に訴える刺激のようなそんな感覚。
そして、その音が錯覚でないことを示すように弓坂の表情が変わる。彼女にもそれが聞こえたなら、おそらくは福音だったのだろう。憤怒の感情を湛えていた表情が一変、涼しい微笑みを浮かべた顔に変わる。
「……最後に、一つだけ教えて上げるわ。この件に関して、協会が動いてる。何にしろ、これだけ派手なことをやらかした以上、貴方はただでは済まないでしょうね」
「ほお。で、何が言いたい」
「ここで尻尾巻いて逃げたって、あんたはもう終わりだってことよ。勿論――」
ゆらりと上がる右手が、五指を開いて床に向けられる。鍵盤を叩くみたいに、細い指が短い旋律を虚空に刻み、
「――逃がしたりは、しないけどね」
弓坂の掌が、黒い魔術師に向かって閉じられる。
それが式の起動を指示する旋律だったとは、誰が知り得ただろう。この場を支配していた結界の色が、今の瞬間に塗り替えられた。元から在った色の上から、他の色を重ねて塗り潰したみたいな圧倒的な制圧。
目に見える変化は直ぐに現れた。
舞台の上で無防備に直立する魔術師に向かって、体育館の八隅から生じた赤い光が線を伸ばす。反応するも間に合わず、太い光の触手は八方から黒い魔術師を捕捉、束縛した。その驚愕はこの場で唯一弓坂を除いて共通のもの。一秒の間に、今この場所を支配する人間が入れ替わった。
不敵に口許を吊り上げた弓坂が嬉々とした声で、壇上で身動きを封じられた魔術師に言う。
「言ったじゃない。のこのこ敵の根城に乗り込むなんてしないって。あんたに有利な空間で戦うんだから、相応の準備は整えておくわよ。こんな風に、この限定空間に式を作っておくようなことくらいはね」
さっきまでと打って代わり、冷静さを取り戻した弓坂。……いや、違う。弓坂はこの式を察知されないように煽られた振りをしていた。そうすることで全ては自分の手の上だと奴に思わせる為に。
状況は完全に決まっていた。この場を支配しているのは弓坂で、身動きを束縛されたロッドレイルは後の展開を受け入れる他にない。――弓坂の用意した、もう一つの術式を無効化することは、決して叶わないのだ。
既に式の一つが浮き彫りになった結界の中では、他の異常を察知することは容易い。弓坂の組んだ術式はこれだけではなく、もう一つ。隠す気など微塵にもなく、禍々しく鼓動する殲滅の術式。弓坂絵空の行う、炎葬の断罪が声を上げる。
「……俺の結界の上から、別の式を書き足したということか。なるほど。『法典』を介することで他者の魔術に関与するとは、流石は共界魔術のエキスパートと呼ばれる魔術師だ」
「……」
圧倒的なほど、勝敗は既に決定しているにも関わらず焦りを見せないロッドレイルの様子に、弓坂が表情を曇らせる。己の式が完全なのは、状況を見れば確実だ。ならば先に待つ結末は想像通りのはず。――だというのに敵のこの余裕はなんだというのか。何故、逃れることの出来ない縛鎖の中で笑みさえ浮かべているのか。
「……共界」
――全ての疑問を振り払うように、赤い瞳の魔術師は式に呟きかける。
瞬間、体育館の床に浮かび上がる六つの魔法陣。三つは舞台の上、黒い外套の魔術師を囲うように響き合い呼応しながら旋回を始める。三つは赤い魔術師を囲い、主の指示を待つように周囲を廻る。
「断罪の焔は加速せよ。循環する炎熱は我に従え――我は獄炎を統べる者。汝、その色をここに示せ――」
足踏み。
詠唱に応じて加速する魔法陣。赤い輝きを放つ六つの円がそれぞれの中心に立つ人物の元に集い、重なる。巨大な一つの光の柱を形成し、より強い光となって世界を灼く術式。
胴造り。弓構え。整えた気力に呼吸を安定させる。そして打起こしから引き分けへと、弓坂が構えを変える。会――丁度弓道に於いて弦を絞る無限の区間。彼女の集中がいかなものか、炎は咆哮し激しく火花を散らす。弓を構えるその姿に空間を満たす魔力が集合する。共鳴し合い、共により強く輝きを増す光がやがて灼熱の火炎へと姿を変え、
「共界完了、術式成立。――覚悟はいいかしら? 断罪の火葬の中で、己が罪状を噛み締めなさい――!」
それは、巨大な炎の弓だった。
射るのは火炎を迸らせる業火の矢。近くにいるだけでこちらまで焼かれてしまいそうな灼熱を従えて、弓坂は更なる詠唱を重ねて炎を肥大させていく。場の崩壊は、恐らく免れない。ならばその惨事の果てにあの魔術師が生存している可能性は限りなく皆無といえた。
離れ。
連結する神経が体の各部を繋ぎ、全身の細部にまで感覚を促す。呼応する全身の神経を指先に集める。的を射抜く瞬間の無我の境地。少女は赤色を細くして決着の時を絞る。
「じゃあね、魔術師、シリア=ロッドレイル――その身は私が責任を持って灰に変えるわ」
残心。
射法八節を終えた少女の姿が蜃気楼に揺れる。ここは灼熱に焼かれる獄炎の密室。
その中で。
世界を焼き焦がす業火の矢が、赤い魔術師の指先を放れた。
†
――世界を焼き焦がす業火の矢が、赤い魔術師の指先を放れる。
瞬間。
ぱちん、と音がした。
先刻聞こえた術式の填る音ではない。そんなものではなくてもっと物理的な、この超常の場においてある種異端とさえ思える小さな音。何の魔術的神秘もない。なぜならそれは、八方からの光に身体を拘束された魔術師が、指を鳴らした音でしかないのだから。
業火の矢が魔術師を射抜く寸前。
切っ先が黒い外套を貫く直前。
たった一つの音を合図に――空間を焼き焦がした炎が一瞬で消滅した。まるで魔法のように。世界を赤く染め上げた超常の火炎が跡形もなく、霧散したのだ。ただ一つの火の粉さえも残さず。水面に消える泡沫のごとく、静かな大気の振動が余韻を残して。
「…………なによ、これ」
突如として消失した自らの魔術に、弓坂が驚愕の表情を作る。
それを嘲笑う、壇上の魔術師。
舞台の上。
四肢を拘束された黒衣。
否。
今、この場において、彼を縛るものは何一つとして存在していなかった。
「驚くことはない。なに、貴様も先刻口にしていたではないか。ここは俺の城だ。まさか、本気でこのような小細工を許すとでも思っていたのか?」
さも当然のように語る、黒い姿。
「蒙昧だ。俺の結界は貴様の使う魔術と同じ、共界の回路を起源とする。ならば、その上層から重ねられた式に関与することなど容易い。残念だったな、『法典』。貴様のしたことは我が結界を強化したに過ぎない。いかなる高等な式を組もうとも、ここが俺の世界である限り全て呑み込む」
舌打ち。弓坂の体が弾ける。駆け出した初速をぐんぐん加速させ、舞台の上に飛び乗り、掌をロッドレイルに向けて構える。
「共界!」
声を高らかに世界との共鳴を宣言するのは普段通り、違うことがあったらそれは――彼女の詠唱が何の神秘も呼び起こすことのない叫びに終わったことだった。それが二度目の驚愕。放たれた後で消滅した魔術に対して今度は、その発動から既に不発。
一度目の驚愕が弓坂の冷静さを奪い取り、正面から飛び掛からせると、続く二度目の驚愕が一瞬の判断を鈍らせ遅らせた。その刹那を衝いて展開される魔術。光の壁が二人の魔術師に隔たりを作り、閃光の炸裂と共に破裂して弓坂の体を弾き飛ばした。
壇上から木の葉のように舞った弓坂の体は、数メートル程を浮遊した後、着地してからさらに受け身も取れずに転がる。だが両手と膝をついて起き上がった弓坂の表情は体が受けたダメージよりもむしろ、この奇妙な現状に戸惑っていた。
「……なんで、魔術が使えない、なんて……どうして」
愕然とした声だった。絶望の底から沸き出るその疑問を噛み殺すように口にした弓坂を、舞台上のロッドレイルが嘲りを含んだ声音で諭す。
「言っているだろ、ここは俺の城。俺の作り上げた世界だ。故に世界との共感を原則とする魔術の使用は即ち、俺の世界に意識を介入させることを意味する。何度も言わせるな、そんなことを許すわけなどない」
高笑い。耳障りな哄笑は封鎖された館内に反響して響き渡る。弓坂は敵意を表しながらも悔し気に唇を噛み、魔術師の姿を見上げている。形成が決まっている以上、ここで動いても勝ち目はなかった。
一連の出来事に取り残されていた俺はここでようやく、一度離れてしまった弓坂の元に駆けつける。駆けつける……つもりだった。――その為に踏み出した右足の前に突き刺さる、一本の光の針。見たことのあるロッドレイルの魔術。
魔術師の目が告げる。
動くな、と。意思にではなく体に語り掛けて動きを封じるような、そんな圧迫感。逆らうことが出来ず、念を押すように打たれた光の針――杭といった方が正しい――を見送る。
「なかなか出来のいい術式だったぞ『法典』。発動まで俺にその存在を悟らせず、且つ確実に動きを拘束する。――これほどのものを献上した貴様に、これは褒美と受け取れ」
再度、指を鳴らす。
――それは、まるで再生。或いは逆行。さっきまでロッドレイルを拘束していた光の縛鎖が、消失したはずのそれが、再び姿を現す。そして、あろうことか光を束ねた鎖は対象を弓坂に変更し、少女の四肢を縛り拘束していた。
これがシリア=ロッドレイルの絶対性。結界内部を支配する魔術師の制圧とは、仇為す者の魔術を封じ、組まれた術式の全てをコントロールすること。この結界を城と称するならば間違いなく、この男は王と呼ばれるに相応しい権力を持っていた。
魔術師の手が掲げられる。同時に、体育館の天井を満たして出現する幾本の針。眩く発光する切っ先は全て、弓坂絵空に向けられ、その全てが今、王の指示を待って待機している。まるで軍隊。確実に指令を遂行し、敵を殲滅する軍勢の刃。
「俺が欲しいのは『法典』に繋がる回路のみ――それさえ手に入るならば、女、貴様の生死は問わん。いや、自我はむしろ邪魔になる。それ故」
悪寒が総身を震わせる。頭上に群がる全ての針が弓坂を目掛けて飛来したならば――考えるまでもない。少女の体は引き裂かれ、碎け散り、断片さえも残さぬ血溜まりに変わるだろう。
「故に、亡骸となって『法典』を差し出せ」
殲滅の号令が下ろされる。光速の針は一斉に降り注ぎ、少女を肉片の残骸はおろか血飛沫にさえ変えてしまう。それがもはや刹那さえも追い付かない一瞬の先。滅びの結果は回避不可能。世界との繋がりを絶たれて魔術を奪われ、あまつさえ身動きをも封じられた弓坂にこの死の雨を防ぐ手立てはない。
間違いなく、詰み。結果は何一つ変えることが叶わない。
……だったら、俺がここにいる意味はどうなる。
何の為に俺はここに来たのか。何の為に戦うと誓ったのか。
敵を倒す為? ――そんな筈はない。俺にとって戦いの勝ち負けなんてどうでもいいことだ。元より、勝利の為に戦っているのではなく、この身が果たす目的はただ一つ。弓坂絵空を、守りたいという願いだけが全てじゃないのか。
それならこんなところで立ち尽くしている訳にはいかない。そんなことなら生きている意味さえないと思え。守るんだ、目の前の少女を。
体が動かなかったのは、敵に圧倒されていたから。そこには何の魔術効果もない。ならばこそ断ち切る。意識が邪魔をするならそれさえ振り落としてしまって構わない。今はただ走ることしか考えるな。
余計な感情は世界に還す。そしてそれが回路を起動する為のスイッチ。内心に全てを預け、意思を己が内なる回路に流し込む。
光の雨が落下を始める。凄まじい速度。弾丸のそれに等しいほどの、もはや光で在りながら影と視認される針はそれでも視覚をスロー再生しているものだ。時間が止まったわけでも速度を落としたわけでもない。自らの内と外との誤差を生み出しているに過ぎなく、この感覚で間に合わないなら待っている結末は結局変わらない。即ち、これは運命を変えるようなもの。不可能を前提とした現実への反駁。
間に合うか。
間に合わない。
光の針は雨となり、彼女の体を細切れに断絶した後、血の塵と変えてしまう。
……否、間に合うかではない。
無理でも間に合わせろ。
それが、俺がここにいる意味なのだから!
「神話再生」
視認できる針は軽く百を超える。光速を以て降る全てを撃ち落とすならば、それを為し得る神話は一つしかない。これが二度目になる。あの戦神の槍をここに再生する。そうすることが唯一、状況を打開する方法。
失敗は許されず、行程の一つでも過てばあれは再現できない。
回路を繋ぎ、意識を世界に溶け込ませ――思い描く、魂に刻まれた伝承で理を塗り潰す。
眼前には確実な死を与える光の雨。
それら全てに向けて、再生した神話の槍を投擲する。全てを一瞬で。一本足りとも残さず確実に破壊する。それがその槍に与えられた伝説。必中にして必殺の槍。
だが雨は止まらない。
神話通りの結果は、再生されなかった。
こんなときに暴れだす記憶の奔流。神話をここに再現している脳が砕けるほどの痛みに悲鳴を上げている。血が蒸発するぐらいに熱い。魔力という異物に体が過剰な防衛反応を起こしているらしい。……問題はそんなことではなく。
視界を点滅する記憶の残滓。それが、あまりにも苦痛だった。
いつかのマンション。住人全員が助けを求めて懇願している。熱い。こんなのは嫌だ。こんな風に死ぬのは嫌なのに、と。魔術の色として世界に共感したときの、本来は持ち得ない筈の記憶。住人達の嘆きがリアルに再生される。
……止めろ。こんなもの、見せるな。
――或いは、黒い空と赤い世界。壊滅した街で苦しむ人々の姿。瓦礫の下、炎の中。なにかを求めて争う者たち。時には剣が宙を舞い、無関係な者を突き刺した。……止めろ。時には乱射された銃弾の一発が運悪く泣き叫ぶ者の脳天を貫いた。
……止めてくれ。
時には、条理を覆す神秘の炎に焼かれて絶える、誰かがいた。
記憶が、『法典』の記録が次々と流れ込んでくる。全ては内側から脳を切り裂く刃。一瞬毎に確実に、それらは体を蝕み切り刻んでいった。
これほど、自らを呪ったことはない。
頭痛に耐えきれず、ぷつり、と音を立てて呆気なく世界との繋がりが切れた。――まだ終わっていないのに。光の豪雨はまだ、止んでいないというのに。
思考が追い付かない。
全ては瞬き未満の出来事。結果は何一つ変えられない。できることはせめてこの体で少女を庇うこと。
そうして光速の時が過ぎた。
喉を上がってくる血を吐き出し、腕で体を起こそうとするも失敗。代償には大量の血が傷口から支払われ、他にも何か、生きていくために必要なものが溢れていった気がする。
「弓…………坂……」
名前を呼んだ少女は、光の拘束から解放されて伏している。……不安なことは、彼女の周りに血溜まりが出来ているということ。だけど最悪の結果にはならなかった。それに不覚にも安堵してしまう。まだ、原形を留めていてくれたことが一先ず安心だった。
「……妙だな。魔術は使用不可としているはずだが。まあ、いい。辛うじて二つとも潰れてはいないようだな。形を残したことは褒めてやろう。だが、命は要らんな」
血溜まりを踏んで、魔術師が歩く。直ぐ足元の俺には一瞥さえ寄越さず、足取りは一直線に弓坂へ。その距離は歩数にしてたったの五歩程度かそれにも及ばぬ程。だがその五歩をこいつに許せば、取り返しが付かない気がした。
「……止め、ろ」
足首を掴むと、思い出したように魔術師は殺意の視線を足元に向けた。
「貴様の出る幕はない。人形劇は見飽きたわ」
言って、針を一本投げ落とす。それが、魔術師の脚を掴む手に突き刺さった。
「ぁ――――がッ」
激痛が言葉にならない。声を出せば、叫んでしまえば吸い込んだ空気が肺を八つ裂きにしそうな気がしたから。
それでも、手を離さない俺に魔術師はさらに針を降らせる。肩に一本。背中に一本。脚は左右それぞれに一本。既に痛覚さえも遠い。そうして魔術師はようやく、痛みによる蹂躙が意味を持たないことを理解したのか、ぼろ雑巾のようになった俺の体を蹴り上げた。
無惨に舞う体。
どれほどの距離を飛ばされただろう。目に写る魔術師二人までの距離はさっきの倍近く広がっていた。
「……解せないな。魔術師でない貴様がそこまで『法典』に執着する理由はなんだ。これは貴様のような者にはただの災害でしかない。見たはずではないか、あのマンションのことも、この学校のことも」
「俺……、……は……」
関節に力が入らない。起き上がるにはかなりの痛みが伴いそうだ。しかも血油で滑って、この手は上手く体を支えられない。痛い思いをして起き上がったのに、また倒れる。そんな繰り返しを、馬鹿みたいに続けた。
「まだ解らんか。貴様が他者を許容できるのは自己があまりに希薄だからだ。己の空白に他者を当てているに過ぎない。その女を救うだと? それは貴様の感情ではない」
そうだ、こんなのは、空っぽの心に弓坂の魔術が流れ込んだだけ。立派な偽物だ。
けれど。
「それでも……俺には、それしかないから。……簡単に諦めるなんて、出来ないだろ。偽物でも、その心は確かに、ここにあるんだから」
ここにあるもの。
唯一、籠野静月を埋めるもの。それを守りたいと、ただそれだけ。
頭を捕まれて、半身を起こされる。脱力しているのに体が痛い。無理な体勢でもないのに苦しいのは、満足な呼吸もできていなければ、全身傷だらけで今もまだ出血が続いているからだろう。魔術師はそんな俺を数秒観察した後で、興味をなくして投げ捨てた。手が上がる。
「了解した。ならばこれは慈悲だ。先に逝け、人形」
もう上を見る気力もないけれど、急激に増した光度で解る。数はさっきより少ないが、こんな死に損ない一人を潰すには十分だろう。
「ではな、人形。ここで果てろ」
既に恐怖さえもなくなって、このままただ、自分は死んでしまうんだなと、まるで他人事のように感じている中で掠れる泣き声を聞く。それが安堵。弓坂絵空は、まだ、生きているのだとそれだけを確認してその瞬間を覚悟した。




