19/彼女の笑う世界
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終局は剰りに呆気なく、ついさっきまでの打ち合いが白昼夢に思えるくらい静かに訪れる。鏡岬の剣は硝子細工のように柄まで砕け落ち、今はもう跡形も残していない。そしてこちらの魔術にも限界がきていたらしい。夢が覚めるのと同じく、元からそこには何もなかったというように剣は実体をなくして光の砂に変わっていく。代替に利用した竹刀は、その色を完全に奪われて消失した。
これが結末。
互いの魔術が消滅し、爪痕は鏡岬の体に大きな袈裟斬りの傷として残されていた。一刀両断。彼女の剣を切り裂いた神話はそのまま少女の体を袈裟に斬っていた。丁度、他の剣道部員が斬られたのと同じように。だが決定的にこちらの方が深く。少なくとも、立ち上がって直ぐに再戦というわけにはいかないだろう。
鏡岬深紗希と魔術を競った、その結果だった。
「っ――……さすがに、ちょっとやばいな」
頭が痛い。それに他の、全身あちこちの箇所が痛い。それも当然か。あれだけの攻撃を受けてなんともない方が可笑しな話だ。
畳の上に腕を投げ出して倒れると、弓坂が駆け寄ってくるのが見えた。声を出して無事を伝えるのも辛い。表情を少しだけ綻ばせて、心配はいらないと伝える。
「本当に、信じられないわよあんた。魔術師でもないのに、神話の再生なんて。どうなってんのよ」
「……あの魔術師は、俺はただの人形だって、言ってた。……だから、そういうことなんだろ」
「もうっ……意味解んない」
弓坂は苦笑に唇を尖らせて、ついでに顔を明後日の方に向けて逸らした。その状態で手を差し出してくる。立ち上がるのに力を貸してくれるということなんだろうな、と判断してその手を握った。もう自分には力なんて残ってないはずなのに、不思議と簡単に立ち上がれる。知らなかった。手を握る。なんてたったそれだけのことが、こんなにも頼りになるなんて。
「ちょっと、誰が肩まで貸すなんて言ったのよ。凭れ掛かってこないでよ」
「そう言われてもな……俺もこうしないと立ってられないんだよ」
無理し過ぎたかもしれない。魔術の使用だけならともかく、今回は物理的な損傷もあって体は深刻なダメージを受けていた。少し休まないと本気で危ないかもしれない。
少し、休む。
……けれど、どうやらそれはまだ、あいつが許してくれないらしい。
「え? ちょっと何してるのよ静月」
「すまん弓坂、もう少し待っててくれ。どうもまだ、満足してないらしい」
肩口の大きな傷から血を滴らせて、指先まで流血で濡らす鏡岬が畳の上に立つ。本来なら意識はとっくに途切れているはずなのに、ふらつく足元で必死に立って。少女はひたすらに真っ直ぐ、こっちを見ていた。
それが、鏡岬深紗希という少女。彼女はいつもこうして待ち続けていた。自分を認めてくれる誰かを。一人ぼっちのこの場所で。それを悲しいと思い、その姿を美しいと思う心があった。だから俺は――そんな孤独の中で笑っている彼女に、一度でいいから本気で笑って欲しい。こんな薄暗い悲しみの中でじゃなく、もっと暖かい、陽の当たる場所で。
その為には、あいつが立つなら俺も同じ場所に立たなくてはならない。
考えてみれば、約束はまだ、終わっていなかったのだ。俺は一秒だって、鏡岬と打ち合ってなどいない。なら――これから果たせばいい。果たさないといけない。
少女にとっての居場所であるこの畳の上で、彼女が孤立してしまわぬように。
手近な竹刀を二本拾って、片方を鏡岬に投げ渡す。
「こいよ、鏡岬。今日はとことん付き合ってやる」
約束があった。
鏡岬深紗希をこの場所で一人にしないという約束が。それを今から果たそう。誰一人として理解してやらなかった彼女の実力を、この身で体感しよう。そうすることが唯一、本当の意味で俺が彼女を理解する方法だと思うから。
震える指先が竹刀に伸びる。彼女は気付いていないのか。腕を滴る血液に。それとも何か、激痛さえも抑え込む彼女の想いが、強制停止を指令する脳を凌駕しているのか。
本来なら動くことも出来ないような状態の癖に。
無理をしている癖にその表情は――
「ずっと……待ってたんだよ、籠野くん」
正眼。
ぴたりと、震えが止まる。虚ろだった瞳に力が戻る。鏡岬本人が普段から持ち得る覇気が全身から立ち上がっていた。剣の柄を握ることでスイッチが入り、後はもう、その体は剣を振る為だけに使役されるのみ。
深く刻まれた傷も、魔術行使による反動も今の彼女にはきっと関係ない。それが鏡岬の辿り着いた場所だから。一人でいる孤独を打ち消す為に剣を握った彼女は――その行動で感情を殺す。痛みは少女を止める要因に為り得ない。彼女を止めようとするならばその方法はたった一つ。
この場所で、同じ戦いに身を投じて勝利するのみ。
鏡岬の構えに応えてこちらも正眼。しかし俺の方はそんなに綺麗な形にならない。剣を持とうとも、こちらは自己を変格する術を持ち合わせていない。体が限界を越えているのは確かなのだ。
「……あたしはね、ただ」
ここにきて初めて聞いた、形を伴った鏡岬の声。
綻、と音がして。
瞬間移動も宛らに、鏡岬の姿が目の前に現れた。
「誰かと、打ち合いたかっただけなんだよ」
右から来る面。腕を上げる体勢は鏡岬の傷を刺激する。本来なら動くことも出来ない体。いくら強靭な意志であれ、物理的に不可能な動きを肉体に強制することはできない。その為もあって本来の速度を伴わない攻撃に、こちらの回避が間に合った。
重なる竹刀。響き渡る鋭く心地のよい音。
伝わってきた剣の重さは今日のどの一撃にも勝る。
「ずっとずっとずっと、寂しかった、怖かった、辛かった、苦しかった」
言葉の度に振り下ろされる剣は代償行為のようだった。
剣は一撃毎に重みを増していく。鏡岬自身の思いを吸って、加速するように。
「だけど誰も解ってくれなかった。あたしは寂しかったのに……なのに、誰も……!」
――正直、先輩とは剣道できません。
いつか廊下で聞いた声。
今日もまたどこかで孤立する少女。
痛々しいまでに笑っていた彼女。
内に秘めてきた想いが爆発して、その反動が腕を稼動させる。既に朽ちた四肢で動く少女は、自らの心を代償にして無理矢理に体を機能させていた。
「強さなんて要らない! あたしはただ、みんなで剣道がしたかっただけなのに!」
――先輩一人でやっててくださいよ、ずっと。
誰も少女を見なかった。その願いを、聞き入れることが無かった。
後悔すればきりが無い。もしも、誰か一人でも彼女の心に気付けていたのなら、こんなことにはならなかったのかもしれないのに。その誰かに自分がなり得たのだと思うだけで、悔恨に潰されそうになる。
剣を奮う、その度に飛び散る鮮血。
彼女の頬を濡らすのは果たして誰の血か。
ただ一つだけ確実なことは、少女の頬を洗い流すそれが彼女の涙だということ。
「でも、籠野くんがいてくれるからいいと思った。寂しくても耐えていけると思ったのに――!」
俺は、その思いに応えてやれなかった。
そうだ。知っていたはずなんだ。彼女の気持ちを。それでも逃げた。関わろうとしなかったのは自分を守る為。誰かを傷つける行為は自己をも損傷させる。だから目を背けていたんだ。それが自分を守ることだったから。
少女を理解できなかった他の人間の気持ちだって、解らないでもない。越えられない壁があることを知ってしまえば、自分の限界を知ってしまえば破綻するから。それ故に超越者は孤立する。
けれど、鏡岬も同じ様に。目を逸らして、誰かを傷つけない為に笑っていた。
ずっと、叫びたい衝動に駆られていた心を内側に溜め込んで。
――何度目かの衝撃に手が痺れる。これほど重い振りが出来るような体ではないのに、既に魔術など絶えた体だというのにどうしてこんなにも重いのか。
右から、左から。感情に飽かせた斬撃は出鱈目に、普段の流麗な太刀筋など見る影もない。だけどそれでも、どんな時よりも彼女らしい太刀筋。少女が見ていた原初の夢。時と共に儚く諦めては消えて行った憧憬が、感情のその色が剣を奮わせる。
そうして叫びの代償は続く。
「解ってよ! あたしはただ、誰かに理解して欲しいだけなんだよ!」
――おまえ、もっと別のところでやった方がいいんじゃないのか。
そんな無責任な言葉で俺は、彼女の小さな願いを踏みにじってしまった。
そうだ。鏡岬はここで、この場所で剣道がしたいと言っていたんだ。だからずっと一人で待ち続けた。来るはずもない他の部員をずっとここで――
「あたしはこの場所で、いつも一人だったから――!」
痛烈な一振り。
視界が割れる衝撃に脳天が砕ける。
叫びと共に繰り出される剣は、紛れもなく鏡岬の本音。声は心の叫び。
それを誰が否定できただろう。一人になりたくない。自分を解って欲しい。その感情は誰もが抱き、そうして知らない間に満たされている欲求だ。そんな当たり前の幸福が、彼女には無かっただけ。だから求めた。狂ってしまうくらいに眩しいそれに瞳を焼かれ、ただひたすらに追い求め走り続けてきた。
なら。
「だったら――」
こっちも、本気で答えないと。
隠すことなく、本気で感情をぶつけてくれた友人に応える為に。
「――俺がいてやる。おまえの練習にも付き合ってやるし、他の奴等が戻ってくるように手伝ってやる! 一人で背負い込むなよ、無理に笑うなよ! そんなの――辛過ぎるだろ、絶対、許せないだろ!」
打ち付けられる一方から切り返す。押されるだけでは敵わない。
一歩下がって踏ん張りを作る。アキレス腱が悲鳴を上げて、脹脛が筋を違える。限界を超えた駆動を中止させるために、機能をシャットアウトさせるストライキ。構わない。後に脚が潰れても、今この時が動けるならば問題ない。
今の鏡岬には怪我のハンデがあるのだから、それでも力は拮抗するはずだ。
それ程の優位がなければ勝てないとはいえ、それでも勝たないといけない。
臆面もなく与えられたハンデに縋って、少女の弱みに付け込んで。
そうまでしても絶対に、退くわけにはいかなかった。そうしなければ、彼女は間違えたままだから。誰もいない場所へ、一人でずっと走り続けてしまうと知っていたから。
「悲しいなら我慢しなくていいんだよ! 出来ない訳じゃないだろ、だって、おまえ――」
押しきる。
こちらの面は当然のように彼女に受け止められた。反発し合う刀身。反り返る体勢。その、当然の摂理に従った体運動を黙らせる。背筋と腹筋を限界まで使って体を前方に折り曲げる。鏡岬の竹刀に、自分の竹刀を重ね続ける。
腕力でなら劣っていない。
ただ竹刀に力を預ける技術は鏡岬の方が上。
故に拮抗。
痙攣する腕を一瞬でも許せば勝敗は決する。
競り合いになって再度、確認することの出来た彼女の表情はやはり。
「今だって、泣いてるだろ!」
涙を流しながら、極上の幸せを噛み締めるように笑っていた。
……嗚呼、良かった。と安堵する。だって、こんなことで彼女が笑えるなら、これまでは無駄ではなかったのだから。こんなことで、少女が心を表してくれるなら手遅れではないのだから。またいつもの日常に戻れる。何もかもが破綻してしまう前に、助けられる。
そこには偽りの笑顔などなく。
一人で孤立していた少女が、友と心から笑い合える世界になるはずなんだ――。
鏡岬の動きが鈍る。
「何でなにも言わないんだよ! なんで、自分一人で全部受け止めてんだよ! 無理に笑ってんじゃねえ、泣きたいくらい悲しいなら笑うんじゃなくて泣き叫べ!」
「勝手な、こと……言わないで」
「強がりなんて要らないから、泣きたいときに泣いて、笑うのはその後でいいんだよ!」
「だから、そんなの……あなたに、なにが解るの……! あたしは……一人なのに……!」
首を振る、その代わりに剣を振り抜いて叫んだ。
「おまえの隣には、俺達がいるだろ――――!」
競り合いを交わし、互いの立ち位置が入れ替わる。
引き千切れそうな足首の激痛を無視して、半回転。彼女の構えを確認。正眼。
迷いだらけで放たれる鏡岬の面を躱す。それが生んだ致命的な隙。勝敗を分ける決定的な瞬間。これを見過ごす訳にはいかない。
だが油断はするな。
敵は魔術を身に宿す夢想の剣士。この一撃を、人外の力で防がれれば、次に死ぬのは自分自身。
駆け巡るこれまでの日々。短い間の、少ない回数でしかないけれど。俺は彼女と剣を交えた。
短い息を吐き出して、肺の中を空にする。
余計な警告を促す意識を遮断。必要なのは剣を振る為の運動神経。それと、少女を瞳に映す感覚神経のみ。一瞬目を閉じて、すぐに開ける。弛緩した筋肉を緊張させ、腰の位置より少し上に竹刀を構える。
二人の始まりの合図。
視線が重なり、呼吸が交じり合った地点が始まりの場所。
――何度も打ち合ってきた。ならば恐れることはない。
ここにいるのは化物なんかじゃなく――籠野静月の大切な友人だから。
これが最後になる叫びと同時に、渾身の胴を叩き込む。
剥き出しの感情を竹刀に乗せて。
この声が少女の世界に響き、固く閉ざした強がりの殻を突き破ることが出来たとしたら――
「――――おまえの世界は、こんな一人ぼっちの場所だけじゃないだろ……ッ!」
今日のこの日は、決して無駄にはならないから。
踏み込んだ一歩。
崩れそうになる体を決死の覚悟で支え切り、握力で指の骨が砕けるほどに強く握った柄に確か感触を覚える。倒れる一瞬。先に伏した少女の姿が目に入った。胴有り一本。果たして、そんな風に判定が下されるかは定かでない。
だけど、そんなことはどうでもよかった。
最後に見えた、少女のその顔が、見たことがないくらいに幸福そうだったから。
それ以上に他を望むなんて、出来そうにない。