1/白い覚醒
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――――赤い夢の中で、少女は孤立する。
世界は赤い光に灼かれ、空を渡る黒煙は月の光を遮った。
断末魔はまるで糾弾。――少女の耳を割く剣。
視界は火の海。
果てなど無い地獄の中で断罪を待つ。
けれどそれはいつまでも訪れず、彼女を理解するものは一人としてなし。
そうして幾度も紡がれる、煉獄の夢。
獄炎に灼かれた世界の中で、この夢もまた少女は孤立する。
それを、悲しいと思わなくなったのはいつからだろう。
繰り返す謝罪の声は此度も、遙遠に霞む陽炎に飲まれて焼失した。
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微睡みの中で、夢ともつかない何かを見ていた。
――きて、いたい?
声は優しく問い掛けてくる。けれど、その声が何を訊いているのかはどうしても解らなかった。声はノイズが掛かったように聞き取り辛い。それが幼い少女のものであることだけは曖昧な世界の中でも、唯一つだけ確かなことだった。
声は質問を繰り返す。……否、繰り返されているのは質問ではなくてその瞬間。何度も何度も、曖昧な一瞬が再生されていた。だとしたらこれは記憶なのだろう。はっきりと思い出せないいつかの日を、脳が必死に想起しようとしているのだ。意識は唯、それを眺めているだけ。この夢想に似た遠い光の中で、意味もなく再生され続ける映像に干渉するのみ。
やがて、声は明確な形を描く。
――生きていたい?
尋ねる幼い声。それに、なんと答えたのかは覚えていない。
少しだけ、ほんの少しだけ世界が明確になった気がした。まだ視認できるほどに明らかな形を持ってきたわけではないが、古ぼけた写真の埃を払って色褪せたそれを見ているような、そんな気分。
金色の、大きな月が空に昇っていた。深淵な空の果てには星さえなく、あったとしてもそれはきっと眩しすぎる月の影に隠れているのだろう。
――ねえ、だったらさ。
静謐な金色を背に従えて、白い少女が微笑む。小さな、背丈はまだ齢一桁を思わせる彼女を何故か見上げていた。
――わたしが、助けて上げよっか? お兄ちゃん。
言葉を皮切りに弾ける世界。巨大化した月が世界を飲み込み、闇の存在さえ照らし焼き払う月光が許容量を越えて溢れ出す。そうしていつも、この夢はいつもここで途切れる。白に包まれた意識が微睡みの中にあってさらに深い底へと落ちる。
白い夢の果て、その終わり。
今度もまた、そこにいた誰かを思い出せない。
…
「――い――ちゃん――――兄ちゃん」
うっすらと靄が掛かった視界。反響したような声は細切れで、言語として脳が解析するにはまだ少しだけ時間を必要とするだろうとぼんやり予想した。耳に心地のよい声が、何度も同じ言葉を繰り返す。その度揺れる体は揺り籠に入っているかのような錯覚を強制するも、反して意識は着実に覚醒していくのだった。
「起きろコラあ! いつまで寝てるのバカお兄ちゃん!」
はいはい今目を開けますよ、と扉の外で呼び鈴を連打する客にするみたいな対応の文句を心中に呟きながら――次の瞬間には、そのモノローグを叩き割る衝撃が側頭部に見舞われた。鉄槌。上方から降り下ろされたと見える一撃はどれほどの位置エネルギーと運動エネルギーを衝撃に変換したのか計り知れない。俺に言えることは一つで、こんなもんを喰らったのでは状況は睡眠から永眠に移行してしまうではないか、といった苦情なのだった。
痛みに悶絶しつつ、目を開ける。寝起き一発目の視界に思った通り、踵落としを放った後の体勢で髪を宙に浮かせる少女の姿を発見。まだ黒髪が降りきっていない。衝撃に遅れて痛みがやってくるまでのこの瞬間が、とてつもなく長く感じられて、時間の流れが普段の十分の一くらいのスローペースになったんじゃないかと錯覚した。
無論、錯覚でしかないので俺は一秒未満の後に自らの鼓膜を引き裂かんばかりの大音声を上げてしまうのだが……。
頭を押さえてベッドの上を転げ回る。痛い……痛えなこの野郎――!
「なにをしやがる!?」
視界の潤みは溜まった涙の壁を意味しているのか。片方は拳を固めて、片方は患部を撫でるように保護して叫ぶ。と、相手はそんなこちらの姿をけらけらと指差し大爆笑。ヒトの形をした悪魔を涙の先に俺は見た。
「だってお兄ちゃんが起きないからだよ。当然の処置ですっ。で、ともあれ気を取り直して――おはよう、お兄ちゃん」
にこり、という擬音が素晴らしくマッチする、元々微笑んでいるような雰囲気の愛想のいい端麗な相貌が笑顔を形成する。朝一番には十分すぎる愛らしさに息を飲んで……いやいや今更何を変に意識しているんだ俺は……当たり前の挨拶を口にする。
そのつもりだったのだが、しかしながら、
「おはよう……えーと、あれ……お前、誰だっけ?」
「うわぁ……それちょっと酷いよ。まあね、いきなり蹴ったのは悪いと思うけど、だからってそんな意地悪しないでよ。……本気でへこんじゃうよ」
しゅんとして笑顔を曇らせる。俯き加減の表情は心からこちらの発言を嘆いているとしか思えず、演技ならばかなり達人級だ。と、そんなことは実際どうでもいい。問題は事実、俺がこの少女の名前を思い出せないことであって――
「ね、ホントに忘れちゃったの?」
――あ。
じっ、と目があって思考が稲妻めいた閃光をショートさせる。目が覚めた心地で俺は、閃くままにその名を呼んだ。
「……来旋。……お、おはよう来旋」
満足して、再び舞い戻る少女の笑み。当たりだったらしい。というか、一時的なド忘れによる記憶の不具合が起きていたのか、ぽっかり抜けていた空白は実際にその名前を口にすることで驚くほど見事に塞がった。何かの拍子にパズルのピースがぽろりと落ちてしまったみたいに、抜けていたそれをぱちりと埋めた瞬間に現れる元の形。
棺継来旋。
俺の妹であるのだった。
「よかった。頭蹴った時に記憶喪失にでもなったのかと思ったよ」
「そう思うなら次からはあんなことはするな」
「はーい」
童女のように手を挙げて宣誓する、軽すぎる来旋。本当に心得たのだろうか。明日また同じことが起きそうで怖いのだが。
白い少女。その出で立ちは漆黒のブレザーを身に纏い、そしてその闇色よりも深い純黒のロングヘアを背中へと垂らす――全身を黒く染めた姿。全容を包む色はブレザーからスカートまで黒。唯一の彩りはアクセントのような真っ赤なネクタイ。そしてもう一つ。黒で着飾った彼女を、それでもしかし『白』足らしめているのは、あるいは白いヘアバンドかもしれない。まあ、流石にそこまでは言い過ぎなのだが。雪のように白い肌や、そのどこか儚い様子もまた少女を揺らぎの色である白として確立しているのかもしれない。
ちなみに来旋は右と左で瞳の色が異なる。それは生まれた時からそうなので理由ははっきり言って解らない。……俺が知らないだけとも言い換え可能だ。
右が群青、左が灰――双色の瞳を持つ白い少女。その儚くも虚ろな存在は、けれど絶対的に揺るぎのない何かを持っているようで霞はない。ここにいることの明確な一つの現象と、そのカタチ。
「よし。それじゃあ今日もはりきって一日頑張りましょう! ほら早く着替えて、学校行こうよ、お兄ちゃんっ!」
腕をぐいぐい引かれて布団から引きずり出される。待て待て妹よこの時期の大気は朝方非常に冷え込んでいてだな温もりの残る布団を去るにはそれなりの決意と決断が必要なのであってしかも寝起きの男の子は例え相手が妹でもちょっと間の悪い事情があったりなかったり――あー、畜生面倒臭い。
無限に生産される数々の不満の中から厳選して、俺は自己を埋め尽くす苦情の弾幕を取り払うようにしてそれを言った。
「……とりあえず飯、喰わせてくれ」
その時の自分の声が信じられないくらいに憮然としていて驚かされたりと、総じて予感したことを端的に述べるならば――
――今日も今日とて平穏に、何かしらぶっ壊れた不穏な出来事でも発生するんじゃないか。ということなのだった。