16/弓坂絵空Ⅱ
/16
そこに待っていたのは、記憶に見たマンションの再現だった。ただその数が比較にならない。全校生徒の総数は千人に近い。新築で入居者の少なかったあのマンションと比べれば十倍近い差が生じる。
理性をなくした生徒の群集に囲まれて、弓坂はそこにいた。
「弓坂ッ!」
呼び掛けると、忌々し気に舌を打った弓坂はこちらを一瞥するとすぐにまた視線を前方に戻した。直後、猛然と降り下ろされる金属バット。紙一重で回避した弓坂の背後で教室の窓が割れる。弓坂は床を転がってバットを持った男子生徒の背に回り、関節を決めて動きを封じると、それを背中から蹴って突き飛ばした。
少女を囲む集団に隙間が出来る。弓坂はその僅かな空間が修復されてしまう前に身を捩じ込んで走り出した。
赤い視線がこちらを向き、
「ボサッとするなッ! 後ろ危ない!」
言われて後ろを確認すると、非常用の消火器を持ち上げる大柄な生徒の姿が目に写る。正気を欠いたそれは次の瞬間には手に持つ消火器を降り下ろしてこちらの頭蓋を砕くだろう。
咄嗟のことで回避が間に合わない。せめて頭への衝撃を避けようと腕を盾に持ち出すと、寸前に駆け抜ける体が視界を過る。靡くように流れる茶色い髪。閃光のように突き抜けた弓坂が消火器を持つ生徒に体当たりを決めた。
「ほら次来るわよ!」
倒れ込んだ状態の弓坂が叫ぶ。
二度目となれば今度は遅れることもない。振り返り様に振り上げた脚を回し蹴りの要領で後ろにいた生徒の腹にめり込ませる。痛覚はやはり残っているらしく、仰け反った体にもう一撃を加えて背中から倒す。
次の攻撃が来る前に、弓坂が俺の手を取った。まだ片膝の状態だがそれがクラウチングスタートを模し、瞬発的な加速を実現する。生徒の集団を突っ切って走る。向かう先は解らないので弓坂についていくことにした。
階段を駆け降りて廊下の角を曲がり、階段からある程度の距離を置いたところの教室に飛び込む。といってもドアをスライドさせた弓坂に無理矢理投げ込まれたという方が正確だが。
非難と苦情を述べようとして口を開き、久しぶりに呼吸をして、その異臭に気付いた。
「なんだよ……これ」
粘膜にまとわりついて吐き気を誘発する異臭。人間の血が教室に充満させた死の濃密な香り。薫製にされた、その、机に渡されるように横たわる数人の生徒。それらは全て、胸元から腰の位置までを袈裟に斬られた傷を負っていた。この傷で連想できる得物は、鋭利な鉄の刃、日本刀の類い。
傷に相応しい凶器が何かを考えたとき。
頭に浮かんだのは、ある一つの情景だった。
「酷いわね」
弓坂が、唇を噛んでその光景を遠めに見ていた。
ゆっくりと、血を流す体に近付いて行き首筋に触れる。
「……辛うじてだけど、まだ生きてる。重傷だけど応急処置をすれば放っておいても助かるわね」
「そっか、それはよかった」
「ええ、本当に。まだ助けられて、よかった」
そう言って、自分の手が血で汚れることも気にせず弓坂は大きな傷口に触れる。小声で何かを口に出すと、触れた掌に微かな光が灯り――僅かに生徒の体が痙攣して、机が音を立てて振動した。何をしたのかなんて問うほど空気が読めないつもりはない。治癒系の魔術とか、そんなだろう。
応急処置と称する治療を終えた弓坂は、他にも三人切り傷を負った状態の生徒に同じ処置を施した。そのまま休む硬く閉ざした表情で、低い声音で言う。
「他の教室もこんな状態だった。一応、ほとんど回って治療はしておいたけど……なんで、こんな」
後少しで弓坂らしくない弱音が零れそうになるが、それを呑み込んだ瞳が感情を取り戻す。強く睨み、こちらの肩をぐっ、と握った。その不意討ちに対応できないまま、俺は弓坂が預けてきた体重を支えきることが出来ない。
背中が窓にぶつかって軋む音を立てた。
「何で、来たのよ」
ぐ、と力を籠めて胸元のシャツを握られる。襟が締まって苦しい。
「もうわたしのことは忘れてって言ったじゃない。貴方はこれ以上傷付かなくていいのに」
「俺の体だろ。そんなもん、どう扱っても俺の勝手だ。おまえが一人で戦うなんて言っても、絶対にそんなことは認めない」
「バカ。あんたは、『法典』に関わった存在がどうなるか知らないから言えるのよ」
「……知ってるよ、俺も」
夢で、同じものを見たから。
それは、弓坂が見てきたもののほんの一部でしかないのだろうけど。それでも全く解らないわけじゃない。だから放っておけないと思った。こんな、自分と歳の変わらない少女が一人で背負うには、その光景はあまりに酷過ぎるものだったから。彼女が壊れてしまわないように、同じものを少しでも肩代わりしてやりたいと思った。
「夢を見るんだよ、おまえの。おまえが見てきた世界の。多分、俺には色がないから弓坂の魔術に共感して、記憶の一部を視てるんだと思う」
そして思ったことがあるんだ。
本当ならすぐに言ってやりたかったなのに、言えなかった。
夢の中の彼女は涙を流すばかりで、こちらの声は届くことは無い。でもここでなら言える。それが救いになるかは解らない。だとしても、無意味な言葉だとしてもそれを彼女に言ってやりたかった。
「おまえが謝る必要なんて、ないだろ。あれは別に――全部おまえが起こしてきた結果じゃないんだから」
そうだ。全部が全部、弓坂が現実に体感したものではない。少女の姿は変化していたが、その変化に伴う景色の変化が乱れ過ぎていた。時系列がばらばらだ。多分、俺はあれを夢に見ている弓坂を夢想していたんだろう。
どれが弓坂の記憶で、どれが『法典』の記録なのかなんて俺には解らない。だが、弓坂がその全てを背負う必要なんてあるはずがない。そんなこと、誰にだって解ることだ。
「あれは『法典』に内包された経過よ。今では協会があるから街一つ灰にする戦争なんて起きない」
「だったら、やっぱりおまえは何も悪くないじゃないか。おまえは、何も滅ぼしてなんかいないだろ」
弓坂は、力の限りを尽くしてこちらの体を壁に押し付けた。
赤い目が、感情を必死に押し殺しながら瞳の奥を抉ってくる。
「それでも――あなたを殺したのは、わたしなのよ」
そんな、ことを言った。
「『法典』に記録された破滅が、わたしの起こしたものでなくても、それは『法典』が齎した破滅なの。そして、弓坂絵空は『法典』そのもの」
唇を噛み、強く、拳を締めて。
「だったら、それに記された千年の滅びは、全部わたしが背負わなきゃならないじゃない……!」
肩を掴む握力が余計に力を籠める。
「それだけじゃない。あんただけじゃないのよ。もっとたくさん、マンションの人達も全員わたしの所為で死んだ。今回に限ったことじゃない。戦いに巻き込まれて犠牲が出るのはいつものことだった。その度わたしはなにも出来なくて――だから夢の中で、これまでに『法典』が犯してきた罪に、謝り続けてきたんじゃない!」
こつん、と。
力のない拳が胸を叩く。何を責めているのか、誰を責めているのか。
やり場のない感情をこうすることでしか外に出すことの出来ない。魔術師なんて異常者ではなく、今の弓坂はどこにでもいる少女。悲しいことがあれば泣くし、気に喰わなければ怒る。そんな、普通の。
魔術師なんて超越者でありながらもその実、彼女はどこにでもいるような少女に違いない。本来なら『法典』にも関わることなく普通に一生を終えるはずだった。それなのに、今はこうして必死に戦っている。健気に涙を堪えながら、同じ気持ちを言葉にして繰り返して。
彼女にとっては毎日がそんな戦いの日々。休まることもなく走り続ける、そんな途方もない――千年分の記録と向き合い続ける時間。けれどそんなのは間違っている。間違っているから、弓坂は必死に抗っていたのだ。
よかった、と、助けられてよかった、と心の底から安堵して言っていた。今も、あの夜も。
「わたしは、償い続けるしかないのよ! 魔術師になると決めた日から、その生き方を選んだ。それが、『法典』としてのわたしが罪の意識に潰されないで生きていく唯一の方法だったから!」
どす、と強い拳が入って、そのままずるずる弓坂は膝を曲げて倒れていった。走ってきた疲れとか、そんなのではなくてもっと別の理由で。
助けたいと願っていた。一人でも多く、『法典』に関わって犠牲になる人間を減らしたいと、それが彼女の祈り。だったからこそ、この校舎は誰よりも弓坂絵空にとって地獄だった。守りたいものが、ひたすらに壊し合い殺し合い、自らに向けられる殺意をそれでも断罪と受け止めて抵抗することもない。
……俺が、悪いのかもしれない。もしも弓坂が、学校の全生徒は手遅れなのだと思ったままなら、或いはあのマンションと同じ対処を取ったかもしれない。初めて会った夜、四肢を破裂させた男を火葬したように、自己を防衛できたかもしれない。なのに俺が、余計なことを知らせてしまったから。
だってそうだ。
まだ助かる可能性があるならこいつは、例え自分の身を滅ぼしてでも彼らを救おうとするに決まっている。
「わたしは……一人で十分だって言ってるじゃない。これ以上わたしのせいで人が死ぬのは嫌なのよ。人の死を、たくさん見てきた。『法典』が記録した千年の歴史と、統合戦争の結果をわたしは直に見せられた。もう十分なのよ、こんなこと。わたしは、もう誰にも、傷ついて欲しくないの!」
「同じだよ、俺だって」
なにが同じだと言うのか。幾ら、どれだけ同じものを見たとしても所詮は他人事。俺には真の意味で弓坂の苦しみは理解できない。彼女の誓いの重さも計り知れない。だけどそれはそうだ。しかたのないことなんだろう。だって、俺は弓坂じゃない。幾ら無色の存在でも、完全に同一の存在になんて成り得ないんだ。
だけど俺には、弓坂の見ていないものが見えている。俺にしか見られなかったものだって確かにそこにはあった。
「俺が見てきたのはさ、思い出してみれば『法典』が生み出した破滅じゃなくて、それを見てきた弓坂なんだよ。いつも、夢の中心には弓坂がいて世界を眺めてた。初めから、俺が見ていたものはそれだけだったんだ。だから――おまえが『法典』の夢を見て戦うと決めたなら、俺も同じだ。俺は、夢の中で泣いてた誰かの為に戦うって決めたんだよ」
破滅と崩壊に軋む絶望の中で、それでも綺麗だと思える存在があった。
俺にとってはその心が全てだから、決して失いたくないと願い続ける。それが偽物だとしても構わない。信じ続ければ、大切にしていればなんでもない石ころでも宝物に変わるように、この心をいつか本物と胸を張る為に戦う。
だからこそ俺は弓坂を一人にしたくなかった。
「バカじゃないの……。なにを言ったって、そんなのは結局偽物よ。あなたの心じゃ、ないんだから」
「それでも構わない。だって、俺にはそれしかないから」
「間違ってる、そんなの。それしかないなら、別のものを得る為にも生きなきゃいけないのに、自分から危険な道を選ぶなんて。そんなの、絶対に間違ってる」
「間違いでもいい。今間違っておかないと、俺は絶対に後悔するから」
「だけど、わたしは――」
「うるさい。いいから黙ってろ。俺はもういいってくらい何回もおまえに助けられてきた。だから今度は俺の番だ。おまえが『法典』だとかそんなことは知らない。俺は、弓坂を守りたいんだよ。その為に、おまえを一人でなんて戦わせない、絶対だ」
それが籠野静月が立てた独り善がりな誓い。誰を救うわけでもなく、自己満足にしか成り得ない可能性だってある。けれど少なくともその誓いを果たせる間は、弓坂は一人にならない。彼女が一人で涙しないように、傍にいてやれる。それはきっと誰にでもできることだけど、他の誰にも代わって欲しくなかった。
弓坂の隣にいることで、俺自身もまた、救われるから。
「…………知らないわよ。言っても聞かないなら、後悔するのはあんたなんだから」
「後悔なんてしない。おまえ一人を戦わせる方が、やっぽど後悔するよ」
「……勝手にしろ、このバカ」
どんな顔をして、弓坂がそれを言ったのかは解らなかった。顔が見えないようにそっぽを向いて、さらには座り込んだ姿勢まで作用している。
知らなかった。
こいつって、こんなに小さかったんだ。
どうでもいいことを思いながら、少しだけ休むことにした。薄い壁を一枚隔てた向こう側にあるのは死地。一歩踏み出せば逃げ場などない。だから今は少しだけ休もう。柄にもなく気持ちを吐き出したら随分と疲れてしまった。
ほんの僅かな幕間。
一瞬の休戦。
何も解決していない、むしろ絶望的な状況下でありながらも俺は――今が永遠であればいいと心のどこかで願っていた。