14/譲れぬ決意
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シリア=ロッドレイルの去った後に残ったのは気の抜けた静寂だけだった。こうなって実感することは、いかにあの魔術師が垂れ流していた殺意が強大だったかということである。こんなにも呼吸が楽な行動だなんて正直ずっと忘れていた。
立ち上がることのできない俺は、生まれたての馬みたいにぎこちない動きで体を立てようとする。そうしていると、見兼ねたのか弓坂が無言で手を貸してくれた。
起き上がり様に赤い瞳と視線が重なる。すぐに逸らすか迷ったところで弓坂が訊いてきた。
「なんでここに来たのか、なんてことは訊かない。ねえ籠野くん、貴方、あいつにどこまで聞いたの?」
隠すことも、誤魔化すこともできそうにないくらい真っ直ぐな目をして問われる。そんな目をされたら、正直に答えるしかないじゃないか。
「多分、全部。おまえが、『法典』だってことと、俺が……」
死んだ、というのには流石に抵抗があって、
「……その、空っぽだってこと」
「そう。解ったわ。ならいいわ――全部、本当だから」
心のどこかで待っていた否定は行われず、その心が偽物であると、先の魔術師の言葉が真実だと言うことがここに明言された。
弓坂は淡々と続ける。
「言わなかったことは悪かったと思ってる。わたしが『法典』だってことも、貴方を殺していたことも、自分に都合の悪いことを黙っていたのは本当に――」
「いいよ、もう」
いつまでも支えられているのは悪いから、壁に体重を預けて立つ。この体勢ならまだなんとかなりそうだ。こうしておけばその内動けるようにもなるだろう。肉体に損傷がないなら後は心の問題だ。
けれどその心は欠陥品で、なかには何もない空虚な伽藍洞。
「謝らなくてもいい。そういうルールにしたのはおまえだろ。それよりも明日の話だ」
「……あんた、もしかして自分も戦うなんて言うつもりじゃないでしょうね」
「当たり前だろ。弓坂一人に戦わせられるか。何となくコツは解ったんだ。明日まで万全の調子に整えておけば、次はきっと上手くいく」
「バカじゃないの」
結構自信があっていったのだが、それは弓坂の一言に一蹴された。
「魔術が使えるかどうかなんてどうでもいい。だいたい、使ったら貴方またぼろぼろになるじゃない。いい? 籠野くんの魔術は特別なの。世界じゃなく、自身に働き掛けてる。そんな特異な魔術なんて滅多にないわ。代償の大きさだって解ってるんだから、大人しくしてなさい」
「いや、でも」
でも、なんだと言うのだろう。そうだ、弓坂の言うことは正しい。そんな意味で言っているのではないのだろうが、魔術が使えたとしてもその後は反動でこの様だ。ならば戦いの場で俺は確実に邪魔になるだろう。前段階の魔術行使自体が成功率を低くくするというのに、その反動は確約されている。こんな厄介なことは他にない。
それが解った上でもまだ、素直に弓坂に従う気にはなれなかった。ここで頷いてしまったら、弓坂は一人で死地に赴くことになる。それは、どうしても目を瞑って見過ごすなんて出来ない。あまつさえ、俺は彼女の窮地を見てしまったのだから。弓坂絵空は魔術師でも、それ以前に一人の少女だ。簡単に傷付くし壊れる。その可能性が目に見えてるのを黙殺するなんてことは、できない。
「……言っても聞かないか。貴方、やっぱり強情よね。心、無くしたくせに」
弓坂が離れていく。ゆっくりとした歩調で空けた間隔はちょうどさっきまで黒い魔術師との間にあった距離と同じ。手を後ろに回して腰の位置に結んだその後ろ姿が、この場にあまりにも相応しくなかった。
天を仰ぐ大袈裟なリアクションで、組んだ手をほどいて左右に広げると、
「ね、籠野くんはさ」
首だけを振り向けて、赤い瞳の片方を覗かせた彼女が言った。
「籠野くんは、わたしのこと、好き?」
正気を疑う質問に、面と向かってそんなことを訊かれては当然ながら狼狽してしまう。なんの罰ゲームなのかと神に問いたい今この一瞬に、発狂してしまいそうなくらい混乱する精神を無理矢理落ち着けて冷静に思考する。
籠野静月は、弓坂絵空が好きなのだろうか。
もし仮にここでそうだと答えても、俺はその返事に絶対の自信を持つことなんて出来ない。この心は偽物だ。何にでも染まる空虚な無色の心。それが、弓坂の魔術に感化されただけ。そう思うと、簡単には肯えない。
けれどだったらそうでないのかと言えば、その答えもまた違うのだ。偽物にしろ何にしろ、真実その心は弓坂を思っているということに変わりはないのだから。つまり問題はそれがどこから来て、今どこに在るのか。俺自身の中から来てまだそこにある本物なのか、それだけだった。
「俺、は」
――それは、存在するだけで周囲に災厄を齎す。
戦争の、火種だ。
俺は、その『法典』に殺された。このマンションの住人も、きっともっと多くの人も何処かで。魔術師の勝手な闘争が原因で。『法典』なんてものの為に――。
「直ぐに答えられないなら、それは偽物だよ」
長髪が翻る。
振り返った少女はとても、儚く笑っていた。
「貴方はわたしの魔術に共鳴していただけ。それだけの、間違いだから。安心して、それがまともなのよ。わたしを好きになる人間なんて、いないんだから」
「なんで、そんなこと」
解ってる。こいつがなにを言いたいのか何てそんなことは解っている。自分は『法典』だからと、戦争の火種だとか、災厄の根源だとか、あの魔術師が言ったことを繰り返すつもりなんだろう。
違うんだ、そんなんじゃない。だってこいつは『法典』なんてものである以前に弓坂絵空という少女なのだ。誰かに好きになられることは、許されているはずなんだ。
――嘘ダ。
……どうして、また。
「わたしは、これ以上自分のせいで誰かが犠牲になるのは嫌。だって耐えられないもん、そんなの苦しすぎる。貴方に気を使ってるんじゃない。自分を守るために言ってるの。――お願いだから、二回も殺されないで。『法典』の起こす戦争の犠牲になんて、もうならないで」
懇願されると、余計に引き下がれない。そんな切実な願いを踏みにじってまでも、それでも守りたいものがあると思えた。それだけで十分だ。偽物であってもそれしかないから抱き締める。弓坂一人を戦わせたくないという気持ちはどうなっても変わらない。
その筈なのに何故、俺は、彼女が『法典』であると知った途端にそれを許容できなくなったのだろう。好きだと、そう信じたい思いさえも偽者に思えてきて。目の前の少女が、災厄の根源であることが許せなかった。
答えあぐねる葛藤に沈黙する。
弓坂は、痺れを切らしたのか赤の瞳を閉じて、苛立たし気に言った。
「……そう。解った。言っても聞かないならしかたないわね」
「なにしてんだ、弓坂……?」
見覚えのある構えだった。
肘を伸ばして地面と平行にしたその先の掌をこちらに向けて、ゆっくりと息を吐くその姿。見たことがある。夜の公園で、死者の体を貫いて灰に変えた魔術を打ち出す前の構えだ。
それはつまり弓坂が、俺を敵と認識したということ。ないしは魔術を使っていい相手だと判断したのか。つまるところこいつは中々言うことを聞かない俺が面倒になって力に訴える気になったのだろう。確かにその方が手っ取り早いし、俺も自分に嘘を吐かないで済む。
「――約束して、もうわたしには関わらないって。そうすれば手荒な真似はしない」
「もし……断ったら?」
「全部終わるまで、寝てて貰う」
ぴたりと、空間が停止した瞬間に鼓動が高く鳴り響く。これから発動する魔術に呼応しているのか、それとも恐れから高鳴っているのか。前者だろうな。後者のようなことが有り得るほど、俺の心は上等じゃない。
状況は完全に決していた。断れば炎に飲まれて、死にはしないだろうがことの顛末が過ぎるまでを寝て過ごすことになる。弓坂に応じればそれこそ本末転倒。どっちにしたって変わらない。俺は今を以て弓坂と決別するしかないのだ。
次の一言で決まる。行き着く先にある結果はどちらも同じ。だが違っているのはその過程。自分に嘘を吐くのか、正直になるのか、その二者択一。そして、導かれる先に待っているモノが同じならば――考えるまでもない。俺が取るべき選択は決まっていた。
「断る。俺は絶対におまえを一人で戦わせない。おまえが起こした戦争も全部始末を付けてやる。だから一人で戦うなんて、そんなことは認めない」
赤い円が弓坂の周囲を囲んで旋回を始める。
風など吹いていないのに舞い上がる髪が、超常の神秘の具現を報せていた。
「だったら、わたしは貴方を貫いてわたしを通す。わたしは、一人で戦うわ。誰一人、『法典』の隣に誰かは要らない。わたしは一人で戦って、一人で――」
集束を始める光の粒子。世界から供給される神秘の回路。魔術師としての弓坂絵空が瞳に殺意を灯した。
もうそれだけで気が遠くなる。共界魔術に反応する記憶が相変わらず酷い痛みで脳を軋ませる。この上で更にまだ弓坂の魔術まで喰らうなら、ことが終わるまでなんて言わず、二度と目が覚めないかもしれない。
「ばいばい、籠野くん。目が覚めたら、早くわたしのことは忘れてね」
それこそ、出来るはずがない。
けれど否定する言葉を口にするよりも早く。
世界は赤く反転し、籠野静月の意識は彼方の紅蓮に飲まれて消失した。