13/法典Ⅱ
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「どうだ人形、思い出したか? いや、思い出せなくとも思い知ることは出来るであろう」
「黙れよ、おまえ……!」
凄んでも意味が無いことぐらい理解していたが、それでも本能的に語調を強める。気迫など皆無の叫びはまるで断末魔。棒切れみたいな腕で黒い袖に包まれた魔術師の腕を払い退ける。思いの外、魔術師はそれだけで簡単にこちらの体を開放した。
支えをなくしてよろめく体。
自分の体重に膝が折れそうになりながらも、何とか持ち堪えて黒い影との距離を取る。五メートルほどの間を置いて立ち止まり、片膝で体を支えながら黒い魔術師を睨む。
相変わらず癪に障る嗤い。
魔術師は正に哄笑を堪えている最中だった。
「弓坂の共界魔術は世界と強い共鳴を起こす。現象を使役する為には世界に等価の心を支払わなければならない。あの女は自らの身を守る為に、この結界の中で支配の薄かった貴様のイロを利用したのだ」
……嘘だ。そんなことは、きっと偽りだ。
「どうやら貴様は『法典』に執着しているようだが、それは貴様自身の感情ではない。イロを無くして空になった貴様は何にだって染まる。共界魔術――世界に共鳴する魔術を扱う魔術師に感化されるのも無理はない。ましてやモノは『法典』だ。尚のこと、強く意識を支配されるだろうな」
嘘だ。
そう否定するこの心こそが。
男の言葉よりもずっと、偽物だったから。
「弁えたか人形。元より俺は交渉に来たのではない。貴様が魔術師であるのなら殺して『法典』を奪い取るまでだったが、そうでないのなら必要もないこと。人形は所有されるものだ。なにかを所有することなど許されぬ。俺が自ら壊す意味などない」
魔術師の一歩が世界を揺らす。
本物の、絶対的な存在感に、偽物の、空白ばかりの存在が潰されそうになってここにある。
心は偽物でも、体は本物だから生きようとする。その矛盾が余計に頭痛を強くした。
「立ち去るがいい人形。『法典』は貴様が関わっていいものではない。あれは神代の遺産。最高の叡智を極めた魔術師にのみ、所有することが許されるのだ」
痛みで意識が擦り切れそうになる。
魔術師の言葉は偽物の心を削り、どころか肉体までも引き裂いていく。
偽物と、空っぽの人形だと罵られて、それを認めている自分がここにいて――
それでも、どうしても、引き下がる気にはなれなかった。
……そうだ、本当に、俺はこいつの言う通り人形なのかもしれない。
だってずっと、そうだった。俺には守るべき自己がなかったから。あの夜も今も、自分のことなんてどうでもいい。それはきっとこの心が空っぽだからだろう。本来そこに在って、他の何よりも優先されるべきモノが俺にはない。自己の抜けた穴にはぽっかりと空白が生まれていた。
だけど、だからこそ、別の何かを守りたいと思ったんだ。空っぽの心を満たしてくれた誰かが、自分の色を持たない俺にとっての全てになったから、本当は初めから自分のことなんてどうでもよかった。
何故ならずっと、このカラクリの心は一つだけを叫んでいたのだから。
「……断る。おまえが失せろ、魔術師」
――ずっと、弓坂を渡したくないと叫んでいたから。
満身の力を振り絞って立ち上がる。頭痛でとっくに焼き切れた意識は、逆に万全の体に叱咤されて再起動した。まだどこも傷付いていない。偽物なのは心で、体は死んでいなかった。だったら偽物でもなんでも構わない、体が動くのなら動力となる心は全力で廻す。
最初から決まっていた。
籠野静月に逃走の選択肢など無い。
弓坂絵空がこの身の全てならば、それを守り抜くために死力を尽くそう。
幸いにも、まだ体は動くのだから。
休んでるわけにはいかないだろう。元より、俺は弓坂の為にここに来たのだから。
「……共、界」
見様見真似で詠唱する。世界への呼び掛けに応える色を探す。
世界に在る何もかもが回路の延長にある現象。同じように人間もそうなのだから、遡って世界の中心に辿り着けない道理はない。ならばその過程に在る別の回路に通じる道も、見付けられる。
徒に自らの内側を循迷う。自身の果て、世界の始まりへと意識を延ばし、別の現象に心を繋ぐ。それが魔術を使役するということ。魔術師ではないこの身であっても、理屈の上では魔術が使えるはずだ。
「……正気か、人形。俺と争うつもりならば止めておけ。類い希な奇跡に依って生かされるその身を滅ぼすのはこちらも気が引ける」
――同じだ。
あの時と同じようにイメージしろ。
目の前の敵を打倒し得る純粋な力をここに再生する。
「なるほど。どうやら本気らしいな。ならば、奇跡を体現する貴様の在り方に敬意を払い――容赦なく潰してやろう」
魔術師が手を上げた。ゆらりと上がったそれは指揮棒の様。振り上げ、五指の先端は低い天井を指している。さながら軍隊を背に負う統率者だ。黒い立ち姿の背後に、眩いばかりの光が幾つもの集合を作る。綺羅星の如く列挙したそれは、全て切っ先をこちらに向けて待機する針。空間に密集する幾億の針は鬩ぎ合い、巨大な壁となっていた。
即ち、死角なしの絶対圧殺。
魔術師が腕を振り下ろせばその瞬間が最後、籠野静月は四肢を断裂され、砕けた肉片は直後落下する間もなく塵と血の霧に変えられるだろう。
「終りだ。果てろ、人形」
空間に満ちる光を全て集束させた針の一本一本が輝きを増す。
威嚇するように輝く禍々しい針を従えて、軍隊を統帥する魔術師の手が今、殲滅を指令した。
「……っ、この、畜生……!」
迫り来る光の針。秒速三十万キロメートルを誇る光速が一斉に放たれる。刹那の時さえも必要にならない。敗北はここに必定。瞬きの後に待つのは抗えぬ死。
だがそれは外界の話。
自身の内に働き掛ける魔術に於いて一瞬とは永遠にも為り得る。
故に遅れることはなかった。
光速で飛来する針がこの身を討ち滅ぼす寸前に、ようやく繋がる。
こちらに使える魔術はその一つ。だが十分。再生するのは必中を謳う神の槍。単一の武器であってもその誇りとなる英談は遂行される。
無数の光の針を、一撃で以て撃ち落とす――!
「……が、ぁ……はぁ…………!」
全身の血が沸き上がるようだった。神話の再現に体がキャパシティオーバーを起こしている。指先から徐々に痙攣が進行し、光に閉ざされた視界が二つに割れる。
それでも止めるわけにはいかない。止めてしまえばその時点で敗けが決まるのだ。後に滅びが待っていても、今はまだ抗えるならそうすることを選ぶしかない。
穿つ。
視界を覆う光の壁に微かな穴が生じた。
一つ。二つ。三つ四つ――数を追って点は徐々に大きな穴へと姿を変える。加速して増加するその数は瞬く間に累乗を重ねる。百、千、万、無数。そうしてできた巨大な穴は、ここに超常の衝突が共に消失したことを静かに物語っていた。
形を失った光が霧散して、世界が元の姿を取り戻す。
一瞬の攻防の後に残された空虚な風景は、コンマ数刹那前に同じ人気の失せたマンションの廊下。
日常を装う結界の中で、再び黒い外套の魔術師と対峙した。
「貴様……あれを、凌いだだと……」
驚愕は秒を待たずして憤慨に換わる。人形と罵る相手に自らの魔術を相殺されたことへの怒りが、先刻までの嘲りを苦笑を通り越した憤怒の形相へと歪ませる。
「なにをしたかは知らんが、同じ偶然が二度続くと思うなよ。唯一本物である貴様のその肉体は、一片たりとも残しはしない」
乱雑に腕を振り上げる。今度は前方だけではない。周囲三百六十度全方位を囲む光の針。術者の感情が現れる神秘の具現は、隠すことなく憤激に振動していた。互いに質量を持った光同士がぶつかり合い擦れ合うことで音を立てる。耳障りな、まるで超音波だ。
それが、意識を見出す要因になったのは、術者である魔術師にとっても想定外の結果だったことだろう。
「――――――ぁ」
うっかり、導線を別の場所に繋げてしまっただけ。例えるならばそれだけのミスでしかないのに、それこそが致命的な失態となった。
フィードバックする頭痛に、流れる幻視。
――少女がいる。赤い目をした茶髪の少女が。
彼女は衣服を所々解れさせ、破られ、そこから除く肌は血の滲む傷で赤く染まっている。そんな状況だけでも十分残酷だというのに、状況はさらに最悪だった。
精気のない胡乱な目をした大人子供男女を問わない人間達が少女を囲んでいる。おそらくその者達は少女を殴打し、引き裂き、容赦も躊躇もなく圧し潰すつもりだろう。絶望的に少女は追い込まれていた。四方は感情の殺された有象無象に閉ざされ、逃げることもできない。だというのに彼女は走る。肉塊の壁に体当たりして隙間に体を捩じ込んだ。そんなことをすれば同時に攻撃を受けることは解っているだろうのに。
苦肉の策は身を裂く覚悟で。
彼女の傷はこれを繰り返して作られたのだろう。
長い廊下を走っていく。エレベーターから他の階の住人が溢れ出すのを見て階段に逃げる。だが辿り着いた階段からもまた多数のそれが群れを作って姿を見せる。死角なしの安全地帯なし。それでも少女は走った。ただ必死に。
廊下を全力で駆け抜けて角を折れる。彼女が彼とぶつかったのはその時だ。
少女は一人の少年とぶつかって、表情を安堵に綻ばせた。それはどこか、この空間にあってまだ完全な洗脳を受けていない住人に出会えたことを喜んでいるようにも見えて――
“ごめんなさい、わたしのせいで”
――緩んだ表情が直ぐに血相を変える。
背後に迫る亡者の群れを振り返って少女は少年に――世界に呼び掛けて手を伸ばした。
“応えよ”
心を掴むその声に、少年は消え掛ける自己を差し出した。
「が……ぉあ…………ああああああ……!」
暴走する記憶の逆流が脳を切り裂く。じりじりと頭蓋を炙る記憶の奔走が訴える激痛は、これまでの比ではない。圧倒的に死を予感させる、自我が崩壊しかねないほどの激痛に叫び声を上げる。
俺が本物の心を持っていたならきっと耐えられていない。自己の崩壊は決定的だった。これは、それぐらいの痛みだ。
堪らず蹲る俺の姿に魔術師は満悦したようで、顔を伏せているのに割れんばかりの哄笑がそれを如実に伝えてきた。腹立たしくも、こうなる原因になった光の針が擦れ合う鉄の音は今も続く。術者の、今度は愉悦に共鳴しているのだろう。
「なんだ、人形! 本当に今の一度だけで限界だったのか! 実に滑稽ではないか。だがそうなっても、偽物でありながら俺に挑んだその断罪は行う。変わらず宣言しよう。その身は塵とて世界に残さん」
形勢を完全に我が物にした魔術師の声に一層空間が揺れる。
雨のような哄笑が一旦止み、光の針が立てる騒音も停止した。そして。
「――ではな。来世は平穏であることを願いながら、速やかに逝くがいい」
破滅の号令はあっさりと下された。
†
「共界――――!」
決着の瞬間、その声は凛として夜のマンションに響き渡った。
聞き覚えのある声。何度目かになるその詠唱。誰がこの場に現れたのかは自明。
顔を上げる。視界は暗闇から解き放たれ、虹彩は入り込む光の量を調節できず視界を霞ませた。その中で、俺は確かにその赤い瞳を捉える。光の針が殲滅の令を遂行しようとするこの一瞬、弓坂の魔術が生と死の境界を隔てた。
立ち上る紅蓮の壁。円柱型の内部を切り取ったその業火が、死角無しの一斉射撃を防御する。魔術として世界の現象を超常に昇華させた炎は、少女のイロに共鳴して質量を帯びていた。無数の針とぶつかり合う音が閉ざされた円の中に響いてくる。
超常の炎が、超常の光を焼き払う。
その激突は瞬き二回ほどの間をして終結を迎えた。炎は炎としての特性から、起爆剤となる酸素を吸い尽くして消失する。開かれた世界には再び先刻の平凡なマンションの姿。
変わっていたのは俺の周辺が円形に焼け焦げていたこと。
壁も天井も黒純み、窓は高熱に耐え切れず融解していた。
そして何よりも、決定的にさっきまでと違っていたことがある。それは偏に、この場にもう一人の魔術師が現れたという、ただそれだけにして絶対的な変化だった。
「弓……坂…………」
上手く話せない。
痛みで走ってくる弓坂の姿は分裂して見えるし、気を抜けば像を結べなくなりそうだ。
こんな状況になって気付く。この体は既に、一度の魔術行使だけで限界を迎えていたのだと。だって、救援がやってきたことに安堵した体は指一本動かない。さっきまで自分を動かしていた信念さえも萎えてしまっている。
守りたいと思っていたのに。
今度もまた、俺は弓坂に救われた。
「この、バカ……! なにやってんのよこんなところで!」
怒声が鼓膜を打つ。止めてくれ、今大声を出されると直接脳は聴覚を痛覚に変換しやがる。
駆け寄ってきた弓坂はしかし、直ぐに助け起こしてくれるようなことはしてくれない。俺の横に立つと、視線すらも外して身構えた。別の何かを見ているように。別の、魔術師と対峙するかのように。
「久しいな、弓坂絵空。この地で対面するのは一度目だ」
魔術師の、声が告げる。
弓坂は強張らせた表情をして、赤い瞳から放つ眼光には殺意を孕ませていた。
それが、魔術師としての弓坂絵空――このマンションの住人を一晩で火葬した、炎熱の魔術師。
「……シリア、ロッドレイル」
忌々し気に口にしたその名はおそらく、黒い魔術師の名。
「お互い会いたくはなかったと思うけどね、まさか、あんたの方から動くとは思ってなかったわ」
「それは違う。この邂逅は貴様によって実現されたことだ。それに俺はずっと貴様に会いたかった。嗚呼、直ぐにでも顔を合わせたいと思っていたくらいだ」
魔術師、シリア=ロッドレイルが外套の襟に手を掛ける。すると徐に、自らの胸元を大きく開いた。そして曝される、胸に残された凄惨な火傷の後。まるで超高温の熱を帯びた鉄で貫かれたような、そんな傷跡だった。
「イギリスでは世話になったからな。お陰で、色々と苦労させられた。もしも結界の外なら死んでいた。その礼をしなくてはなるまい。心配するな、手荒く扱うつもりはない何せその体は――」
弓坂が拳を握るのが、視界の隅に映った。
「――法典というパンドラの箱。扱いを間違えればどのような災厄が溢れ出すか解らんからな」
……こいつ、また。
萎れていた闘争心が再び活気を取り戻す。今なら隙もある。奴が俺はもう動けないと高をくくっているなら、付け入る隙は残されているはずだ。もう一度さっきの魔術を使えば、一撃で奴を八つ裂きにできる。
チャンスは今しかない。油断していて薄くなった魔術師の注意は全て弓坂に向いている。詠唱も一言呟くくらいなら奴の耳には届くまい。
もう一度だ。
この場にもう一度、神話の奇跡を再生する。
「籠野くん」
「…………」
突然、それまで俺のことなど一切意に介していなかった弓坂に呼ばれる。
頭痛に身を削る集中はそれだけで簡単に途切れた。
「妙なことは考えないで。あれの相手はわたしがする貴方はさっさと逃げなさい」
「何言ってやがる……後から来といて、今から逃げろなんて――」
「次に魔術を使えば、貴方本当に壊れるわよ。貴方に掛けられてるのは強力な暗示なの。貴方の魔術はその暗示に強い摩擦を起こす。ただでさえ、神話の再生なんて滅茶苦茶な魔術なんだから、使い過ぎれば簡単に潰れるわ」
弓坂もまた、俺の状態を知っているような口振りをしていた。だが考えてみれば当たり前か。
俺が空っぽになった原因は弓坂にあるのだから。
貴様を殺した女――魔術師の言ったことが本当だと、完膚なく証明されてしまったならその後で、それでも俺は変わらず弓坂を認めていられるだろうか。少なくとも今、九分九厘最悪の仮定が肯定されつつある今はまだ、彼女を恨むことはできないが。
「早計だな『法典』。今宵の俺が用を持ってきたのはそこの人形であって貴様ではない。――炎葬の魔術師よ、貴様とは相応しい決着の舞台を用意してある」
「へえ……それはまた、親切にどうも」
「礼には及ばん。準備期間をくれたのはおまえだ。――見返りとしては、そうだな、おまえが一週間近くを費やして解こうとしていたこの結界を放棄しよう」
弓坂が舌を打つ。憎々し気なその音が、短く廊下に落ちた。
「決戦は明日だ。場所は指定するまでもないだろう」
「あんたの指定した根城に、わざわざ行ってやると思ってるの?」
「無論だ。貴様は来なくてはならない。これ以上この戦いに犠牲は出したくないのだろう」
「……卑怯者。今ここで、灰にしてやってもいいのよ」
「好きにすればいい。だがいくら貴様とて、その人形を庇って俺に敵うとは、まさか思っていまい。これは慈悲だぞ、魔術師、弓坂絵空」
主導権は完全にシリア=ロッドレイルの手にあった。気に食わないのは弓坂の脚を引っ張っているのが俺だと言うことだが、これは否定のしようもない。意識はまだ敵対心をなくしていなくても、体は抗う力をなくしている。事実として、俺は路傍の石に同じ。厄介なことに、きっと弓坂はそんな俺さえも救おうとしてくれるだろう。
それは、俺だからではなくて。
そうするのが、弓坂絵空だから。
誰も巻き込みたくない。そう言った彼女の心は本物だったはずだから、自惚れや陶酔ではなく弓坂は俺を守るだろうと予想できる。
「……解ったわ。それで構わない」
「いい判断だ。では、今宵は退散するとしよう。いいや、なかなかに愉快な夜であったぞ人形。素晴らしく無様な喜劇だ」
捨て台詞と嘲笑を残して、黒い魔術師の背中は廊下の先に消えていく。不意を衝くならば間違いなく今だったが、弓坂は奥歯を噛んでそれを見送るだけに留まっていた。
その心意は、きっと『法典』として生きた彼女の生涯に由来するものだったのだろう。
誰も、殺したくない。
――ごめんなさい、わたしの所為で。
二つの思いと声が、不意に、泣き出しそうな顔で唇を噛んだ少女の姿を思い出させた。